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わだらんの鉄道自由研究表紙へ
09年 8月
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736. 8/26 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 停車駅が増えれば乗り降り便利な車体でないと
735. 8/23 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 行けるところまで行くか、目的地へ行くのが来るまで待つか
734. 8/19 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 子どもが電車の移動・旅行を好きになってくれればいいが
733. 8/17 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 代替ルートがだいたい使えないものでは困るのだが
732. 8/10 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 平穏な盆休みでありますように
731. 8/7 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 細切れも時には便利かもしれない
730. 8/3 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 最近は老人ホームとか風車の地図記号もあったり
729. 8/2 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 食堂車ビュッフェで大ビール185円@1969年
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 停車駅が増えれば乗り降り便利な車体でないと
8/26
新快速で昔車内販売があったなどというと、今の混んだ列車しか知らないヲタ連中はにわかに信じられないかもしれないが、
でも確かに昔の新快速は空いていたのである。
というより、京阪神間の移動には国鉄利用を選択する人間が少なかったわけで、そもそも客がいなかったのである。
もともと国鉄は長距離輸送がメインであって、短距離、京阪神間の移動にはあまり向いているものではなかった。
今でも長老の中には国鉄を汽車、私鉄あるいは市電を電車と呼んで区別する人がいる(と思う)が、
一般的に短距離の輸送に国鉄が向いていなかったし、またそんな利用が少なかったのも事実である。
それでも関西では戦前から私鉄に対抗しようと蒸気機関車の時代から短編成の快速列車や急行電車を運転していたわけで、
関西人の心意気みたいなものか、と思う。
そんな競合路線のおかげで今の新快速があるわけだが、昔は新快速が空いていた分、阪急の特急は混んでいたのである。
1972年の新快速の本格運転時、当時急行型を利用した快速電車はいわば破格のサービスであったのだが、
でも既に阪急には2800系という落ち着いた雰囲気の特急が既に走っていたためであって、
もし阪急の特急車が非凡なものであったら、ひょっとしたら今の新快速に至る流れも違っていたのかもしれない。
ましてやその後6300系なる特急車が現れたおかげで、これまた当時としては破格のサービスである117系電車が出てきたわけで、
東京ならほぼ同じ電車(185系)が特急料金を必要とするのであったのに、117系が特別料金不要であったのは
そんな阪急の特急車(京阪テレビカーもであるが)の存在が大きかったであろうから、である。
今や新快速は京阪神間はもとより京阪神の東西へ延びて輸送の要となり、しかも運転時間は早朝から深夜まで拡大して通勤客が多数利用する時代。
一方阪急は京阪間無停車では客がつかず、特急がとんどん停車駅を増やしている状態。
これではなかなか落ち着いた空間を演出するのは難しい。
十三から大宮まで無停車の時代ははるか遠く、茨木市高槻市と次々停まっている状態では、扉が車体端に寄った6300系はさぞ使いにくかろう。
そんな新快速での帰宅時、この数日間、車窓から見える阪急正雀工場で6300系の解体作業を行っている。
側面が無惨にはぎ取られた車体を見ているとなんともいたたまれない気持ちになるが、
それでもその影で9300系新車が次々入籍しているのであるから、致し方あるまい。
ただ、昔の阪急の華であった6300系が消えていくのはやはり一つの時代が終わったようでちょっと残念である。
しかしこの阪急6300といい、名鉄7000といい、2扉の車両が急速に減っているのは、何かみんなの心に余裕がなくなっているのかな、と少し嘆いてみたりする。
そうだ、3扉の521系増備が始まる前にもっと475系に乗っておかねば、とまた北陸へ行きたくなった。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 行けるところまで行くか、目的地へ行くのが来るまで待つか
8/23
時刻表で空想旅行するというのは昔からある話だが、最近は活字に頼らない鉄ヲタも多く、
果たして若いヲタが時刻表をめくりながら空想旅行などしているのかどうか疑問である。
もちろん時刻表なるもの、本来出発地から目的地までの行動計画が立てられればいいわけで、何も大げさに考えることはないだろう。
とはいえ時刻表がすぐに引けるのは便利なのだろうし、ヲタの楽しみであったりする。
逆に時刻表の引けない駅員を見ると実にいらいらしたりするのだが。
2年前欧州へ行った際にドイツ鉄道で寝台料金を調べてもらおうと思い鉄道案内所を覗いたところ、
先客が乗り継ぎの時刻確認をしているのだが、応対のおやじさん(もちろんDB職員と思われるが)は時刻表でなく、
ネットのDBサイトで回答している。
世の中全ての鉄道利用客が時刻表を見ることもネットを引くこともできないだろうから、
当然そんな問い合わせはあってしかるべきなのだろうけれども、でもその回答がそのままDBサイトの検索ではあまりに味がない、
と思うのはわだらんの勝手か。
時刻表をさっと二つ折りにしてぱっと指を離すとほぼ目的の線区が出る、そんな技などもう誰も伝承しないだろうし、必要もない時代なのかもしれない。
とはいえ、時刻表が読めるのは何かと便利である。
特に関西の鉄道は微妙な時間での乗換ができるように設定されている場合が多く、これを読めるのと読めないのでは大きな違いが出る。
朝ラッシュが終わると野洲止まりの上り新快速は野洲終点でその先米原までの普通電車に接続している。
これは琵琶湖線内、特に篠原以東の乗客には当たり前の話なのだが、遠方の人間にはそんなことはわからない。
数年前から大判時刻表では野洲駅が発着表示になっていて、よく見るとちゃんと乗換できるようになっているのだが、
でもその乗換先の列車が数欄前に載っているのでは、知らない限り接続があるとは思えない。
まぁ時刻表の楽しみとはそんなよく読まないとわからないことを発見できるからかな、とは思うのだが。
土曜日、相模原在住の知り合い、とてもお世話になっている方が野洲を通るというので、京都から野洲まで新快速で同行していた。
延々徳島から高松岡山経由で横浜線内まで18切符利用の普通電車移動というかなりのもの好き、
でもそんな列車移動を苦にしない方でも、野洲止まり新快速で乗換ができて後続の長浜行きより米原先着というのに気がついていないのである。
もちろん地元でないので当たり前の話ではあるが、でもふと思ったのは、関西人はとりあえず途中であってもその列車の終点まで進み、
一方東京あたりの人間は目的地に行かない列車がきたら後続を乗車駅で待つのではないか、という仮説である。
つまり御堂筋線江坂に行く難波乗車客は新大阪行きが来たらとりあえず新大阪まで乗る、
環状線で大阪から鶴橋へ行く人間の目の前に京橋止めが来ればとりあえず京橋まで行く、という案配。
一方東京の人間は新宿品川間利用者で大崎止めが来たら次を待つ、四谷中野坂上間利用者で新宿行きなら乗らずに次を待つ、という仮説である。
あくまでわだらんの思い込みであるが、もし機会があれば観察してみたいと思う土曜の昼下がりであった。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 子どもが電車の移動・旅行を好きになってくれればいいが
8/19
夏休みである。
いや、別に夏休みが珍しいわけではないし、今日から始まったわけでもないが、でも夏休みだなぁ、と思わずにはいられない。
何しろ帰宅時、夕方の新快速に子どもが多いのである。
新快速に子どもが乗ってはいけないはずもなく、立派な乗客なのだが、でもこの季節、やはり子どもが多い。
おかあさんが子どもを連れて、あるいは祖父母といっしょに。
微笑ましい光景ではあるが、でもこいつら絶対すぐには降りないわな、と着席の大敵なのである。
大阪駅時点で座っている出張者らしき人間は新大阪で降りるケースが多いし、姫路城観光と思われる欧米系外国人はほぼ間違いなく京都で降りるのだが、
この子連れは本当にどこで降りるのかわからない。
ましてやお母さんも電車慣れしていないのか、いかにもすぐ降りますみたいな固い姿勢の方もおられるし、
一方で子ども共々すっかりくつろいでいて、とてもすぐ降りる気配に見えないのにじつは高槻で降りていくケースもあって、とにかく横に立つべきかどうか非常に迷う。
もちろん他に立ち位置のある選択できる車内ならなにも子連れの横に立つ必要はないのだが、
どうしても通路の奥まで入れなかったりすると仕方なく子連れの横に立つこともあってなかなかつらい。
しかし今年の盆休みは自家用車での帰省が多かったのか、滋賀県内での高速道路の渋滞回数は昨年の三倍であったそうである。
確かに上限千円はずいぶん魅力的であって、家族総出の帰省ともなれば鉄道に較べてのその費用差は相当なものであろうと思う。
幸か不幸かわだらんの帰省は高速千円の恩恵をほとんど受けないのだが、
それでも鉄道利用の大人片道運賃とガソリン代がほぼ同額の状態では、家族で動けば鉄道利用より当然安くなる。
このご時世なんでも安いものに流れる世の中、自家用車での帰省が多くて当然かと思う。
そう考えると、こうやって子連れで移動するおかあさんがたをもっと大切にしなければならないのかもしれないが。
とはいえ、そんな子連れが多い米原以遠行き新快速である。
3498Mのような野洲行きを選べば大きな問題にならないのだが、種々事情で時間に余裕がない、
3496M敦賀行きや3500M長浜行きなどに乗ると困りもの。
野洲を越えてまだ先へと乗っていくおかあさんが子供と一緒に熟睡する姿など珍しくないものだ。
さぞお疲れなのだろうか。
眠ることもできる、酒を飲むこともできる、そしてなにより子どもと遊んでいられるという大きなメリットのあるはずの電車の移動が、
価格差だけで車移動に流れてしまうのは残念である。
とはいえ、着席狙いにはなんとも居心地の悪いこの季節である。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 代替ルートがだいたい使えないものでは困るのだが
8/17
平穏にと思っていたお盆の期間もいろいろと大騒ぎなことが多かった。
智頭急行が屋台骨を揺るがすような大規模な運休に追い込まれているのに、世間では東名高速の復旧ばかりが話題になっていてちょっと寂しかったりする。
まぁ1000円で車を利用して帰省する家族が急増したのだから仕方のないことであろうけれども、なかなか地方の話題というのは上がってこないものだ。
そもそも鳥取の某農林水産大臣が落選してしまうと、ひょっとするとこのままサンライズ接続のいなば91・92号はそのまま運転中止かとも思われるような
(あくまで噂であるが、出雲の廃止時に、この某農林水産大臣が「東京への深夜の移動手段を確保しろ」と迫ったそうで、
その結果智頭急行経由上郡乗換の鳥取対東京の夜行移動手段が作られたらしい、あくまで噂だが)
状況なのだが、そもそも東京の鉄ヲタにすらこの一大事が理解されていなかったりする。
まぁ鳥取というところ自体、移動のパイが極めて小さいのだから、取り上げが小さい扱いであったとしても仕方のないことなのかもしれないが。
しかし車の場合、迂回路が容易に取れるのは便利なものだ。
もちろんその迂回路の機能性などいろいろと問題はあるにしても、とりあえず連続して移動できるのは便利なものだ。
東名が使えなくてもとりあえず中央道は使えるし、東海関西対北関東なら中央道から関越道という手もある。
東海道線が不通になったときに中央線を迂回できる貨物列車はごくわずかだろうし、例えば関ヶ原〜米原が豪雪の時に
車なら東名阪から新名神にいとも簡単に迂回できるが、貨物列車が関西線から草津線には回れない。
本来緊急時の代替輸送ルートを確保すべきなのだろうが、今の世の中、鉄道に金が回らない現状では、代替確保はなかなか厳しい。
もちろん貨物列車だけでなく、例えば琵琶湖線には代替ルートがほとんどなく、事故があった時にはいつも乗客が駅で右往左往することになるのである。
彦根から近江八幡まで近江鉄道で移動するより、琵琶湖線の開通を待ったほうが早いなどという笑えない話もある。
バスが駅同士を結んでいるわけでもないし、大津市内なら京阪石山坂本線も使えるが、でもわずか石山までであって、大票田の草津まですら届かないのが現実。
それこそ少し前まで浜大津から草津駅まで近江大橋経由のバスがあったのだが、いまや風前の灯火。
とても代替ルートには使えそうにない。困ったものだ、と思う。
朝いつものように713Mで大阪駅に着こうとしている間際、車掌氏が「阪和線は車両故障で運転見合わせ中」と繰り返し案内している。
関西空港へなら、はるかや関空快速が使えなくても梅田からバスに乗ればいいし、和歌山市内なら南海電車で動くことができる。
でも阪和線の駅全てが南海や泉北高速で向かえるわけでもないし、振替輸送といっても地理に明るくなくては困るだろうな、と思う。
もっとも琵琶湖線の場合、地理に明るくても代替ルートなどないわけだから、まだ阪和線のほうが恵まれているか。
とはいえ休み明けの月曜日から車両故障ではさぞ大変だろう、と定刻着の713Mで降りたわだらんの頭の上で響く振替輸送案内である。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 平穏な盆休みでありますように
8/10
先日、NHKで関西の鉄道を特集した番組を放映していた。
スタジオの面々による会話には一部納得できないところもあるが、流れていた映像はとても興味を引くよくできた番組であった。
そもそも東海道線を走るC62はわだらんにとって全く未知の世界であり、かつてから偉大な先人に撮られた写真をみるたびに、一度実際に走っている姿を見てみたいと思っていたものである。
山崎の療養所で特急はとに手を振る映像は話のみ知っていたわだらんにはとても新鮮なものであった。
東海道線が電化完成して特急こだまが走り出してからしばらくまでの間、大阪駅は10番線までしかなかった。
正確には11番線まであったのだが、11番線はいわゆる機回し線で、ホームが造られたのは昭和36年頃(正確なことがわからないので、ご存じの方はお知らせ下さい)なのだ。
従って当時一番端にあった10番線の列車をホームから撮ると、駅北側には何も写っていないのである。
もともと駅の表裏は昔ははっきりしていたものだが、大阪駅も例外ではなく北側はまさに裏側、梅田貨物駅が広がるだけのおよそ人の流れと関係ない地域であった。
時代はおよそ半世紀、大阪駅北側は人の流れを呼び寄せる目玉となる場所になっている。
いつの間にか北側駅ビルは鉄骨が大きく上がり、見上げる姿になってしまった。
しばらく見ていないとまるで浦島太郎のようである。車両の変化は目に見えてなかなか進まないものだが、風景の移り変わりというのは急激に進むものだ、と思う。
今週は勤務先が年休消化もあって一週間休みである。
なので三重県に帰省することにした。
草津線は昔懐かしい、しかも数少なくなった113系のオリジナルのボックスシートであった。
ここだけ見るとまだ草津線が電化された当時、1980年の頃とまったく変わらないように見える。
それでも柘植の駅はずいぶん閑散としてしまっているし、関西線は車体の小さいキハ120が昔よりずいぶん軽快に走っているし、それなりに変化はあるようである。
とはいってもこのあたりならそう簡単に浦島太郎にはならないようだが。
一週間大阪を離れている間に大阪駅は大きく変わるのだろうか、楽しみのような、おっかなびっくりのような。
暑い季節ゆえ、どうかみなさんご自愛を。
しかし佐用の豪雨や静岡の地震とか、鉄道の稼ぎ時にこう自然災害が多いのはどうしたものだろうか。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 細切れも時には便利かもしれない
8/7
5日深夜、神戸駅近くで深夜に火事があったそうだ。
線路高架下の店舗の火事だったそうで、JR神戸線がしばらく運転抑止になってしまった。
確かに線路の下が燃えているような状態ならとても電車を走らすわけにはいかない。
それでも幸いなことに軌道や通信施設には影響がなかったようで、鎮火後電車の運転がすぐ再開できたのはよかったことだ。
沿線火事が列車に燃え移ったという話は聞いたことがないが、制御系などの火事で電車が止まるという話はちょくちょくある。
国鉄末期の記憶が豊富な方なら国電同時多発ゲリラ事件を思い起こせる方もいるだろう。
信号ケーブルを切断するという前代未聞の列車妨害である。自転車を放り込んだり石を投げたりならまだその場だけなんとか収まるが、
信号ケーブルが切られては影響は広範囲に広がるし、復旧は容易でないし、と大騒ぎである。
結局このゲリラ事件の日は夕方まで国電の運転ができなかったのだが、でもむしろ当日中に運転再開できたのが実は凄いことなのかもしれない。
今仮に同じような事件が起きても、当時ほど人海戦術が効かないだろうから、どうなることやら。
この日の神戸の火事は幸いにも鉄道施設に影響がなかったのでまぁよかったものであるが、
3544Mはおよそ1時間半足止めされたようで、車内のみなさんはさぞ大変だったであろう。
深夜の事故は接続など昼間とまた別の問題を抱えているのだが、
結局この日は本線は遅くまで乱れたものの、各線接続は早々に終わってしまったようである。
まぁ実際神戸を跨いで姫路明石方面から湖西線への客がどれだけいるのかはわからないし、
草津線ももともと3544Mからは接続していないので、まぁよし、ということになるのだろうか。
もっとも3544Mは野洲で米原最終の846Tに接続しているのだが、846Tは3544Mを待っていたようには思えないなぁ。
ところで、3544Mは大阪23:20の新快速で、野洲までやってくるありがたい列車なのだが、
この春の改正で従来の野洲行き最終、大阪0:27の快速が新快速になった上で京都で切られてしまった。
京都から野洲までは別に電車があるので、野洲に帰って来るにはなんら問題はないのだが、ただ京都で一旦乗り換える、という手間が出る。
大阪からの大津や石山までの通勤客なら乗り越しの心配がなくなっていいサービスかもしれないが、
野洲の駅構内で客引きをする京都のタクシー屋からすればちょっと客数が減っているのでは、と思う。
実際のところはわだらんがこの最終に乗るときは酔った状態ですぐ寝てしまうので、あまり車内の周囲の雰囲気がわかっていないのであるが。
しかしこんな深夜の異常時は、むしろコマ切れもいいのかもしれない。
少なくとも京都野洲間は最終列車がその手前の遅れに影響されずに出せるわけで、もしこれが従来の直通であれば、
遅れをそのまま引きずってしまうわけで、遅い時間に遅れの列車を待つのは結構つらいものがある。
今のダイヤなら京都では最終0:58はとりあえずその時間に発車できるわけで、
もちろん前後の乱れの関係でそう簡単に定刻では発車できないにしても、電車がいないとか乗務員がいないということにはならない。
もちろんこの日も最終922Mがどうなったかはよく知らないが、それでもそこそこ順調に走っていたのだろうと思う。
大阪を0:25頃に出る接続列車があったかどうかよくわからないのだけれど。
そんな深夜の乱れに関係なく、翌朝はいつもの表情で電車が出てくる。
713Mも定刻に221系8連で駅にやってきた。野洲で乗る人間のほとんどはそのまま大阪まで行くのがいつもの習わし。
姫路市川の増水騒ぎではるか離れた滋賀県内の電車が遅れるのは困りものだが、でもわだらんも含めてみんな少なくとも
野洲大阪間は直通してくれないと困るわな、と大阪駅で野洲から乗ってくるいつものおねえさんの姿を見ながら考える。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 最近は老人ホームとか風車の地図記号もあったり
8/3
女性蔑視をするつもりは毛頭ないのだが、世の中一般的に地図を読める女性は少ないそうである。
いや逆に方向音痴の男性ははずかしいというべきか。わだらんも基本的に正確な地図があれば道に迷うことはないし、おおよその方向なら勘で掴むことができる。
困るのはいい加減な地図しか手に入らないときで、以前スロバキアのブラチスラバにいったとき観光案内所でもらった地図はイラストの模式的なもので、
しかもそれ以外は買え、といわれて仕方なくその地図をもって歩いたのだが、何しろ距離は適当、中心市街地以外の方角はめちゃくちゃで、案の定帰りに駅までの道で間違えてしまった。
昔は地図が軍事機密であった時代もあるのだが、今や宇宙からの画像を自分の机で見ることのできる時代、いろいろな地図を見るのは楽しいものだ。
学生時代地図と磁石だけで山の中を歩き回っていた人間がわだらんの知り合いにいるが、何を好きこのんでわざわざ藪や林のなかを走り回るのかい、と。
でもこれとて地図が読めなくてはできない趣味で、地形図を見ながらあれこれ話をするのは楽しい。
ちなみにその知人、丹波篠山の山の上に住んでいるのだが、この丹波篠山のあたりはかつて谷が水の取り合いをしたり、断層がそのまま谷になって国道が通っていたりと
地形図を見ているにはなかなか興味深いところであったりする。
そんなことを考えたのは、久しぶりに野洲図書館で「ぼくらの地図旅行」という絵本を見つけて借りてきたからだ。
以前から何度となく読んでいる絵本で、小学生二人が二万五千分の一地形図を頼りに駅を降りて岬の灯台まで歩くというもの。
話としては単純な物語なのだが、「やこうれっしゃ」の作者である西村繁雄さんがとにかく細かく絵を描いておられて、たかが絵本(というと失礼だが)と一言で片づけられない細かい描写になんとも驚く。
鉄ヲタ的にも最初の場面で電車や駅が出てくるのがこれまた楽しめるところで、タキ5450型にある石灰箱なんぞもちゃんと書いてある。
このタキ5450は液体塩素を運ぶための車で、輸送中の事故に備えて中和剤の石灰を車体に積んでいるのだが、そもそもまずタキ5450と一目で判別できる絵というのがなんとも凄いところだ。
ちなみに115系の車内のクロスシートの並び方がちょっと違うのだが、まぁご愛敬。
とにかくその鉄ヲタ部分やその他本文中の絵も文章も、いまから20年ほど前、ちょうど国鉄がJRになった頃の雰囲気そのままでとても楽しめる。
田舎の秋の風景が懐かしく思えるのだ。
みなさんも是非一度見ていただきたい絵本である。
きっと開くとみなさんも「ここがわだらんの笑いのつぼだな」とすぐにわかるのではないかと思う。
そういえばこの本に出てくる踏切をつい最近まで京都にいた117系が走っているのだな、と向日町で休む車を見ながら思いだしてみる。
ところで、この「ぼくらの地図旅行」を作った那須正幹さんと西村繁雄さんがこののちに作られたのが「絵で読む広島の原爆」という絵本である。
絵本でありながら内容があまりに重く、とてもわだらんのようなものがあれこれ述べる話ではないのだが、この時期、やはり意図せずに命を落とされた多くの方、
もちろん電車乗車中に一瞬にして命を奪われた方のことを思わずにはいられない。
みんなが自分も他人も全ての命を大切にする平和な世の中であり続けますように。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 食堂車ビュッフェで大ビール185円@1969年
8/2
東海道線全通120周年「大鉄道展」が開催されていたので、京都の伊勢丹へ行って来た。
正直内容がわだらん的にはいま一歩、700円の価値があるものかどうか悩むところだ。
目新しいものがなかったのと、何か展示が総花的で、何を主眼に置いているのかよくわからない。なにか写真と模型の羅列だけ、といった気もする。
時期的小さい子ども連れなども多く、単に列車を見るだけならまぁ楽しめそうだが、でもそれなら700円まで出す価値があるのかどうか。
むしろ子どもに解説できるように親向けにもう少し説明資料があってもいいのでは。
つばめガールやはとガールといっても当時の世相や列車の役割など一般向けにもう少し説明があったほうがよかったのに、と思う。
あるいは東海道線全通120年なら、もう少し東海道線の列車について解説があるべきではなかったか。
模型による列車編成の展示があり、模型自体はとてもすばらしいものではあるが、でもこれも作者の作例展示になってしまっている。
東海道線120年記念というなら、例えば全盛期の153系急行とか、あるいはまだ蒸気機関車牽引時代の東海道線ローカル列車を並べてみるとか、
深夜の寝台列車群など、今の若い父母には縁のない列車を取り上げてもよかったのに、と思う。
少なくとも万博の頃までは東京大阪間は夜行移動が当たり前だったのだから。
昔まだ急行比叡が4往復残っていた頃、ビュッフェの営業をしていたそうだ。
大阪名古屋間で、しかも既に新幹線が開業している時代、どの程度ビュッフェの利用客がいたのだろうか。
少なくとも比叡自体さらに本数削減が進んでいたので利用客自体が減っていたことは間違いないのだろうけれども、
でもとにかく新幹線が開業したのちもしばらくの間、新幹線と平行する東海道線で供食設備があったのはなかなかいい時代だったのか。
もちろん北陸線系統の特急急行列車には食堂車もついていたし、あるいは九州行き夜行には当然食堂車はついていたから、
食堂車が珍しいものではなかったのだろうけれども。
そんな食堂車の想い出話なんぞが展覧会にはなかったのが残念に思う。
昔、彦根や近江八幡と大阪といえば、急行を利用するのが珍しいことでなかった。
新幹線ができてからの急行比叡が残ったのはそんな湖東対大阪や、岐阜京都といった中距離移動に便利であったから、であろう。
JRになっても遅くまで残った急行「たかやま」でも近江八幡の乗り降りがそれなりにあったようだ。
急行券を払う必要はあるが、さして混んでいない静かな車内は、弁当を広げるにはいい空間であったはずである。
ましてやビュッフェがあった時代、ビールでも飲みながらの移動はずいぶん優雅だった、とわだらんが間に合わなかった時代の夢を見てしまう。
ビュッフェの広い窓から瀬田川や比良の山並みを見ているのはきっと楽しかっただろう、と。
さて、展覧会を見終わって野洲へ帰ろうと思ったが、ちょうど昼時でもあったのでホームのうどん屋で昼食とする。
まぁ立ち食いでわずか2分程度の昼食だが、まだそれでもホームで昼食にありつけるのはありがたい。
ところが、あわててうどんを掻き込んだ横に入ってきた普通電車は思った以上に空いている。
ざっと座席が一人ずつ埋まった野洲行き8両の先頭車は山科でなぜか大量に下車客があって、
座席を転換して4人席にしてもまださらに前後左右も独占できる贅沢な空間になった。
これならそれこそ弁当を広げても問題ないだろうに、とは思ったが、でも考えてみると京都2/3番ホーム上には弁当がない。
弁当を車内で食べるには事前に乗換通路などで弁当を確保しておかねばならないのだ。
もちろんローカル電車ホームで弁当を扱っても売れる見込みがないのは充分理解できるのだが、
そう考えるとかつて急行利用であった中距離移動も、いまや身近な通勤通学移動と同じレベルか、と思う。
新快速の増発で、中距離移動はずいぶん楽になったのは事実で、だからこそわだらんも毎日こうやって電車で京都大阪へ簡単に移動しているのだが、
大阪高槻の通勤客と名古屋や福井へ向かう旅行客が同居する車内とは昔にはない不思議な空間なのか、と思う。
もっとも混んだ車内でお菓子を広げる旅行者にはちょっと場を考えろと文句も言いたくなったりするが。
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