このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
雑記帳表紙へ
メルマガの登録、解除はこちらから
わだらんの鉄道自由研究表紙へ
09年 12月
*********
786. 12/31 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 単に新幹線が通るだけでは話題にならない地の利
785. 12/30 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 儲からないと新車も入らない
784. 12/28 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 時刻表の駅名欄に電報扱いマークがあった時代
783. 12/26 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ サンタさんへのお願いするプレゼントは何がいいだろう
782. 12/23 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 東京のランドマーク東京電波塔と高さがほぼ同じ
781. 12/21 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 寒波と一緒に列車の削減暴風がやってきた
780. 12/20 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 白いわたぼうしをかぶった雪国からの使者
779. 12/17 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 一般的な移動目的か、列車に乗ること自体が目的か
778. 12/15 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 10年ひとむかし、20年ならむかし昔あるところに、の世界
777. 12/12 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ いつも使う、友だちや家族の関係のような
776. 12/10 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 錆びないから錆び防止材不要、当然安くつくわな
775. 12/8 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 兵站という軍事用語ごご存じだろうか
774. 12/6 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ デッキの扉が楽園への入り口であった
773. 12/3 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 善を施すには無理があるが、偽善なら誰でもできるだろうと
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 単に新幹線が通るだけでは話題にならない地の利
12/31
よく関ヶ原が交通の隘路、主要交通路が集中する場所として紹介される。
確かに新幹線と名神高速、あるいは旧中山道と昔から今のものまで揃っているし、
雪が積もれば東京大阪間の足に直接問題が出る。
でもその組み合わせなら野洲だって全く同じ条件ではないか、と思う。
新幹線、東海道線と国道8号、中仙道が野洲駅からまっすぐわずか1kmもない間に集中していて、
野洲市だけの地図を見ると、なぜこの場所に集中するのか、もっと広いところがあるだろうに、と思ってしまう。
ところが、これが前後のつながりをみるとどうしてもこの野洲市内の特定の場所に集中しなければならない様子がよくわかる。
ちなみに名神高速もわずかながら野洲市をかすめていて、これも実は新幹線などとそう離れていないのである。
そんな交通の要衝なのだからか、かつての弾丸列車計画では野洲で在来線と交差する計画だったそうだ。
残念ながら弾丸列車はできなかったが、それでも野洲に新幹線が通ることになったのは歴史の必然なのかもしれない。
ちなみに野洲に新幹線の駅を設ける話もあったと最近ある行政の方から聞いた。
なかなか面白い話なのだが、これを書くと今日の話がまとまらないので、新駅の話は日を改めることにしよう。
そんな新幹線が市内の中心部、しかも野洲市内のもっとも人口密度の高いところを走っているのである。
実は野洲駅ホームからも新幹線の走行姿を見ることができるのだが、
米原以外で新幹線が見える在来線の滋賀県内の駅は野洲だけ(のはず)である。
そんな人口密集地、市役所や小学校、あるいは地域拠点病院のそばを新幹線が走るので、
野洲の子どもたちはどうやら新幹線の姿を見てもあまり感動しないそうである。
おそらく新幹線線路に一番近い図書館あろう野洲図書館で電車の絵本を見ている子どもは
目の前を新幹線が通過しても見向きもしない。
わだらんは新幹線が目の前を通過すればとりあえず見てしまうのだが、それでも特別なものでない限り、
声を上げたり感動したりすることはない。
結局ヲタ的には4系列7種が走っていても、結局新幹線としてひとくくりにされてしまうのだろうか。
先日もお召しの時に線路際で通過を見ていたが、わだらんはそれがお召しと知っているから特別に思えただけで、
何も知らなければ単に新幹線の通過としか思えない。
ましてや330km運転の列車など、知っていても外見が何ら変わらないのでは、なかなか感動がないのである。
でもそんないわば見飽きた新幹線の通過のなかで、さすがにドクターイエローだけは別格である。
しかもそのドクターイエロー通過という言葉をヲタやましてや子どもからではなく、病院の看護士さんや、保健センターの保母さんから聞くのである。
もちろん相手はわだらんが鉄ヲタであることなど知らず、あくまで一般人に対しての会話なのだが、
でも新幹線がよく見えるという会話のネタ振りに対してドクターイエローがすぐ出てくるあたり、やはり野洲の特殊性なのだろうと思う。
新幹線を見ることに対するレベルが高い、普通の新幹線なら300系だろうとN700系だろうと皆一緒、でも黄色の新幹線は特別、ということなのだ。
黄色の新幹線を見るといいことがある、と思われているそうだ。
それなら保線屋さんはみんな幸せなのだろうか、通信屋は、電気屋はなどと御託を並べてみるが、それはわだらんのヲタ的発想である。
新幹線の種類はわからなくてもドクターイエローは知っている、それが野洲の常識なのかな、とちょっと自慢できそうに思う。
富山ライトレ−ルは赤い車で縁結びなどと女子高生が話題にしているそうだ。
みなさんは何かこれを見るといいことがあると思えるものはあるだろうか?
わだらん的にはいまや湘南色8両の草津線電車あたりだろうか。
もっともこれはつい最近まで当たり前で、確かに現状では極めて珍しいけれども、昔のことを考えるとご利益などがあまりないのかもしれない。
みなさまには何か福やご縁に繋がる縁起の良いものがあるだろうか?
きっとみなさまがよい年越しと新たなすばらしい新年が迎えられますように。
今年一年もおつきあいありがとうございました。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 儲からないと新車も入らない
12/30
来年春のダイヤ改正の発表の中でやはりと思わせるのが特急北陸・急行能登の廃止の知らせである。
もともと首都圏対北陸は上越新幹線開業でほとんど日中移動に移ってしまい、夜行列車の需要が拡大する状況ではなかったので、
2往復も残っていること自体奇跡的だったのだが、今回一気に両方とも廃止になる。
もちろん夜行での移動に需要がないわけでなく、固定客も波動客もあるのだが、
それでも列車を常時仕立てておく程の量ではないということだ。
もともと地元路線バス会社の高速バスもあるし、さらにははやりのツアーバスが
テーマパーク中心に動いているので、どうしてもという客にしてもなんらかの移動手段はある。
寝台列車の廃止は残念だが、でもある意味自然というか仕方ないものなのかもしれない。
しかし気になるのは乗客減という他に車両の老朽化が謳われていることである。
確かに特急北陸に使われている寝台車は1975年前後の車で、おおよそ40年近くになる。
国鉄末期に夜行列車全廃論が出るくらいに寝台車の増備はほとんどその頃以降行われず、
北斗星もトワイライトエクスプレスも改造車をあてがっていて、新車として出てきたのは
サンライズ瀬戸出雲とカシオペアだけなのだ。そう考えるとそれ以外の列車は
老朽化による廃止があってもなんらおかしくないのである。
一方能登に使われている特急車も同世代で、この場合は683系のような代替車による運転も可能なのだが、
でも高価な新車をわざわざ乗車率が低く、運用的にも無駄のある東京往復に使う理由もない。
国鉄の赤字が深刻化し、車両取替の名目で急行がどんどん特急に置き換わり、
新車といえば通勤電車と特急電車しかなかった一時期に大量に作られた485系一族がどんどん減っていくのである。
時代の流れであってしかたないのだが、でも当時の新車の頃を知っているわだらんからすれば、何となく寂しくなるものである。
ちなみに来年春の改正で485系雷鳥はついに6両になるのだが、75年3月の新幹線博多開業と
大阪発北陸特急の湖西線移行のダイヤ改正で登場した特急加越は
食堂車のない7両の短く特急らしからぬ編成だとずいぶん言われたものである。
いまやグリーン車がないのは珍しくなく、2両編成の特急も当たり前の時代であるが、
そう考えると75年3月改正で投入された特急車、電車も寝台車も、
この頃の車が昔の特急の風格を保てた最後の車両ということになるのだろうか。
能登に使われている489系はもともと碓氷峠通過用の特殊車で、原則的に特急白山と雷鳥、
つまり金沢と中心とする運用にずっとついていた車である。
しかし489系の使用目的であった碓氷峠はなくなって既に10年、月日のたつのは早いものである。
いつもの帰省ラッシュが始まった。
特急北陸や急行能登は帰省客で埋まるのだろうか?
元旦前後は天気が荒れ模様らしいのだが、運転取りやめにはならないで済むだろうかなどとどうでもいい心配事。
おそらくもう乗ることはないであろう夜行列車の旅を西村繁雄さんの絵本
「やこうれっしゃ」のページをめくりながら想像してみる。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 時刻表の駅名欄に電報扱いマークがあった時代
12/28
昔、新幹線がまだなく、東海道線に特急急行が絶え間なく走っていた頃は東京大阪の同じく運転区間であっても、列車名をわざわざ分けていた。
いまなら違う運転区間でも同じ名前を付ける場合が多いのだが、昔は多くがある列車名に対し一往復の列車しかなかった。
客車時代のつばめ・はとは運転時間が違うだけで今の世の中なら当然同じ名前であるはずであった。
でも昔は今と違って無線を使う通信がずっと少なかった。
設備も端末もとても高価だったのだろう。
なので、電報という通信手段がごく当たり前にあったし、列車に乗っている人に対しての通信手段というと電報を打つことだった。
そんなわけで、その理由がすべてではないと思うのだが、電報やその他連絡方法として列車名を分けていたそうなのだ。
一日に一本しかなければ、列車の特定が極めて容易だからである。
新幹線がオペレーターによる電話取り次ぎを行い始めてからは急速に列車名を特定することがなくなってしまった。
そもそも今となっては列車内の電話の取り次ぎすら知らない人間が増えてしまったのではなかろうかと思う。
そういえば新幹線車内の電話呼び出しが会社名の連呼で広告まがいだ、と会社名での呼び出しをやめた、などという話もあったなぁ。
そんな電話取り次ぎのことを思い出したのは、先日とある会話を盗み見してしまったからである。
いつものように帰宅の新快速に大阪から乗ったのだが、着席できずに適当に通路内に入って着席している中年男性の横に立った。
何となく京都で降りそうな気がしたからである。
ところがその中年男性、しきりにメールを携帯から送っている。
これがまた立っているわだらんに実によく見える角度で携帯を使っているので、よくないことと承知しながらもついつい見てしまう。
またその内容がなんとも滑稽なのだ。
メールの相手は恋人なのだろうか、ひょっとすると不倫なのだろうか、かなり若そうな絵文字つきメールを送ってくる。
大阪駅をこの時間に出た長浜行き、と男性が繰り返しメールを飛ばしているのだが、返信は野洲行きが来たとか姫路行きとか、
どうみても方向音痴なお嬢さんが京都駅でその男性の乗る電車を待っている様子なのである。
あとどれくらい?という女性のメールに男性が向日町通過中にあと5分くらい、と正確な返信をしている。
もちろん乗車位置も指定し、少なくともわだらんが友人と待ち合わせるには充分な情報を的確に送っている。
ところが、京都に着いてもその女性は乗ってこない。
あわてて男性が座席から電話をかけるが、どうやら待ち合わせの相手は少なくとも当該列車の編成内特定場所近くにはいない、
ひょっとすると2番のりばにすらいないのだろうか、結局停車時間内には相手は現れず、電車は京都を発車した。
男性は「もうドアが閉まってもうた」などとかなり怒りの口調で電話をかけていたが、動き出してしまったのであきらめたのか電話を切った。
その後次の長浜行き電車に乗れなどとメールを飛ばしたものの、結局男性はを山科で降りた。
わだらんとしては山科で着席できたからよかったのだが、でもこの相手が無事に現れるのかどうか、ちょっと気になった。
もちろん盗み見から出た話なので、意図的に追いかけたりするのはよくないことだが。
ヲタなら列車番号を指定すればなんら難しい話でなく、むしろもともと多数の列車を区別し
簡単に特定するために列車番号が各列車に振られているのである。
時刻表にたいていの列車の列車番号は掲載されているし、そもそも運用ヲタには列車番号のない世界などありえないのである。
もちろん地下鉄各線のようにあまり列車番号の概念のない路線も確かにあるのだが、
でも環状線ヲタのように同じような電車が繰り返しやってくるような路線では、
特定の車両を追いかけるためには列車番号(または運行番号)で列車を特定するしかないのである。
新快速は運転区間も長く、時間4本のパターンダイヤなので列車番号で判別するのはとても有益なのだが、
でも一般人には理解できない概念だろうと思う。
この二人、列車番号と編成内号車指定が理解できていたらいとも簡単に会えたのだろうけれども、
携帯でリアルタイムに通信しながらですら逢えないのなら、昔のように列車に電報を打つ、
あるいは途中の主要駅で電報を打つ時代なら、どうなっていたのだろう、とちょっと想像して笑ってしまった。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ サンタさんへのお願いするプレゼントは何がいいだろう
12/26
大阪駅の新11番線が20日から供用開始になった。
これで原則として新快速と特急の分離が計られた。いいことである。
なにより特急がホームの後ろ寄り、階段から全く見えないわかりにくい位置に停まる状況はなくなったわけで、乗客にとってはいいことであろうと思う。
何しろ通勤客がホーム一杯に広がる夜、特急に乗るためにホームを移動するのはたいへんなのである。
やはり特急は雑踏の中より落ち着いた場所から出なければ、風格も風情もあったものでない、と思うのだ。
そんなわけで、9番線の新快速の8両編成乗車位置が1両分後ろにずれた。
いつもの御堂筋口エスカレータを駆け上がるとびっくり、いつものところに人がいない。
階段の位置が変わったわけでないので、停車目標とその乗車位置がずれたことは容易に想像できる。
実際ホームの発車案内板も従来の△2〜9が△3〜10に変更になっている。
しかし案内放送や告知はなく、みんなよく気が付いたものだな、と思っていた。
従来の位置と違ってくると乗車タイミングも変わってくる。
いままでは8両編成では先頭扉が最も車内に入りやすい状態であったのだが、こんどはその先頭位置が階段(エスカレータ)のすぐ前にくる。
下車客から見れば最適な降車扉位置であり、いままでとの違いが車内へ乗り込めるタイミングにどう影響するのか、少し見極めをしなければならない。
しばらく観察、また座るコツを見つける面倒な日々が続くのである。
そんなあるクリスマスイブの日、いつものように先頭扉位置に並んで新快速を待っていた。
先頭から2人目の位置なのだが、どうも過去2日間の例では座りにくい状況である。
今日はどうだろうか、とあれこれ考えながら列車の到着を待っていた。
そんななか、かつての乗車位置、つまりエスカレータの裏側、ホーム上り方の、ホーム幅方向中央付近に人が立っているのを見つけた。
白い杖を持っている。
おそらく以前ここに書いた白い杖を持っていた方であろうと思われる。
なるほど、先日一緒になったときはどうして一人で並んでいるのだろうかと疑問に思ったのだが、
おそらくその方はエスカレータを降りてホーム反対上り方に歩いて、エスカレータの壁際にそって進むというような歩き方をしていたのではなかろうか、
盲目の方が歩く歩数で距離を測るというのを聞いたことがあるので、その方もおそらくホームをどれだけ歩けば電車に乗れるか、
毎日数えながらの乗車であったのだろう。
だから先日も一人で上手に乗車列になかに入っていたのだろうと。
しかし問題はいま現在その位置では電車に乗れないのである。
もちろん周囲に人はおらず、おそらくその方も人の気配が感じられずに戸惑っているのではなかろうか。
しばらく様子を見ていたが、誰も状況に気が付かないのか、その方はホーム中央付近に立ったままである。
これは駆け寄って教えてやらねばならないのだが、時既に遅く、新快速接近の案内放送が流れているのである。
今ここで列を離れると列車の到着に間に合わないがな、と葛藤していたその時、エレベータで上がってこられたのだろうか、ご婦人が声をかけた。
白い杖の方も一緒に20m歩いてこられた。
ちょうどその方が列位置に近づいた時に列車が到着し、ドアが開いた。
きっとその方も無事に車内に入ることができたのであろう。
全く見ず知らずのご婦人に、盲目の方に縁もゆかりもないわだらんが感謝をしてしまう。
体の不自由な方のためにエレベータがついたり、目の見えない方のために点字誘導ブロックがついたり、
あるいは耳の聞こえない方のために接近案内や次駅文字案内がついたり、と様々な施設設備が揃ってきて、
きっと以前よりハンディのある方も移動の障壁はずっと減ったのだろうと思う。
でも乗車位置が変わったといういわば些細なことであってもそれを設備や装置で万人に周知するのは難しいことだな、と思う。
結局ハードウエアだけでは血が通わないものなのだろう。
なかなか装置設備ではサンタさんのような万人に最適なプレゼントはできないものだな、と先ほどのご婦人のことを考えながらの帰宅になった。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 東京のランドマーク東京電波塔と高さがほぼ同じ
12/23
地元の寄り合い集団の忘年会があって、地元で宴会をしてきた。
わだらんの自宅から歩いて5分ほどのところにある割烹で、
大枚叩いた甲斐あって酒を飲んで小さく騒いでと楽しいひとときであった。
この地元宴会ではいつも野洲の旧市民と新市民の感覚の違いを感じる場である。
わだらんのような新住民にとっては、地元古豪が「かつての郡庁舎」などと演説を聞かされてもぴんとこない。
もちろん郡庁舎がどこにあったかは今なら知っているのだが、
それはあくまでわだらんがそういう地元のつきあいがあるからこその話であって、
野洲駅前のマンションや賃貸アパートに住んでいる方々はほぼ全員が「郡庁舎」などと聞いても知らないであろう。
ちなみに野洲郡の郡庁舎は野洲駅からすぐの場所にあって、かつては郡の中心であったわけである。
中仙道の宿場は竜王町鏡の次が守山宿で、野洲市内は街道に沿う街村だけ、
ではなぜ郡庁舎が守山でなかったのか、わだらんにはわからない。
宿場が距離的に野洲を選ばなかったのか、現野洲市域のほうが現守山市域より豊かだったのか、
そんな理由ではなかろうか、と勝手に解釈している。
郡庁舎のおかげか、経済力があったからか、東海道線が開通して2年後に野洲駅が開業したのだが、
守山駅は開業までそののち20年もかかるのである。
そんな旧野洲郡の中心地であった野洲駅前の開発整備をどうするか、行政がいろいろとプランを練っている。
駅前が賑やかで味わいのある風景となれば地元民としてはうれしいのだが、
でもあまり都会と変わらないような姿でもわだらん的には面白くない。
いろいろな場でわだらん持論を展開しているが、あくまで適度な田舎であってほしいと願うものなのである。
その駅前開発に絡んで、都市景観条例を制定しようという話がある。
狙いは駅前にあまりに高い高層マンションを建てないように、というものだが、
これも旧住民と新住民の感覚の違いがあるのではないかと思う。
新住民的に見れば駅前が便利になって人が増えるのはいいことで、
そのために大きなマンションが建つのはいいことだと思っている人間も多いだろうとわだらんは勝手に推測している。
まぁ現時点で野洲に草津のような30階にもなる高層マンションが建つとも思われないので、
あまりこだわらなくてもいいのではなかろうかとわだらんは思っている。
ちなみに景観条例制定の狙い(という言い方が正しいかどうか)には三上山がどこからでも見える必要があるそうだ。
必要があるかどうか別にして、三上山が見えることが野洲市民のよりどころであることは確かだと思う。
終戦で外地から姫路に帰ってきた人が、遠くから姫路城を見えたとたんに感極まった、帰ってきたと思った、という話を何かで読んだ。
確かにランドマークというのはその地域のシンボルであって、こころのよりどころであろうと思う。
三上山も当然ランドマークであり、遠くからでもすぐに判別できる山の姿はランドマークとして滋賀県内で一二を争う立派なものだろうと思う。
ただ残念なのは下り新幹線からはほぼ正面を通過するまで見ることができないことだろうか。
ちなみに東海道線下りなら、安土のあたりからも三上山は見えるのだが、これは知っている人間でないとちょっと難しいかもしれない。
三上山の標高は432mで、もともと地盤がほぼ100mあるので、実質的な高さは330mほど。
西南側には田んぼ(と最近は市街地)しかないので実に目立つのだが、東北側は鏡山や金勝山などに隠れてしまい、
下り車窓から判別しにくいのは残念だ。
その点大阪へ通勤するわだらんとしては、帰宅時に大津膳所間で三上山が見えるのがうれしいのである。
あの山の麓まで帰るのだな、と山の姿が見えるといつもそう思えるのである。
やはり自然物のランドマークというのは何かほっとする。
そう考えると草津の目印は駅前の高層ビルか?
遠くからでも判別できるものをランドマークとすれば最近はどうしても高層マンションや湖岸のホテルになってしまう。
確かに何か比較的新しい人工的なものは目印にはなるとおもうが、心のよりどころになるかどうか。
野洲駅から三上山が見える必要性があるかどうかわだらんにはよくわからない。
でもこれからハイキングに出かける野洲へやってきた京阪神からの人たちが、駅に降りて三上山をみることができるのなら
その方がやはりよいのだろうな、と地元近江牛会席を売りに駅プランでコースも持っている割烹でかにすきを食べながら考える。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 寒波と一緒に列車の削減暴風がやってきた
12/21
日曜日の午後から近江大橋近くの某ショッピングセンターに出かけたのだが、捜し物は結局なく、
二酸化炭素を振りまいただけの徒労に終わってしまった。
気分転換にはなったのでまぁ良しとしよう。
しかし日が暮れてからの南草津や草津の駅前あたりに建つ高層マンションの明かりは
湖岸近くの田んぼの中から見るととてもきれいである。
手前になんにもない、暗闇の先にまるで島のように明かりが見えている。
いまやすっかり県南部のランドマークになった高層マンション群だが、逆にまだマンションのない、
一昔前の時代ならさぞ寒々とした風景だったのだろう。
もっとも一昔前は夜日が暮れてからごそごそ動くようなことは少なかったし、
第一買い物など近場でするものであって、遠くまで買い物に行くのは日中の行事であった。
夜が長くなって活動的になるのは経済にはよいのだろうけれども、でも確かに地球環境と
人間の体内時計にはよくないことなのかもしれない。
とはいえ、今やコンビニは24時間営業が標準だし、スーパーの中にも深夜営業や24時間営業があるくらいで、
日中買い物に行けない独身者などいまやそんな夜型店舗がなければ生活できないスタイルになってしまったのであって、
温暖化防止という大義名分があったとしておなかなか生活スタイルを変えるのは難しいように思う。
一方で昔長距離の移動といえば夜行列車がその主役であった。
日中に時間を割いて移動できるのはよほどの贅沢か、あるいは時間がある学生か、あるいは小さな子ども連れが主なもので、
ビジネスマンにとっては夜間に列車で移動して日中は仕事する、あるいは仕事を終わって夜行で帰る、
というパターンがごくごく当たり前であった。
東京大阪間も新幹線開業前は多数の夜行列車が設定されていたし、普通列車でも夜行になるものがいくつかあった。
例えば昭和36年10月の時刻表を見ると野洲に停まる夜行普通列車が東京発着・新潟発着の各2往復あって、
深夜1:29東京ゆきや2:55東京発という時間に発着している。
移動に時間外間よりはるかにかかる時代、旅行が特別な状況で、
日々の生活リズムと全く異なる次元のものだったのだろうか、と思う。
もちろん今でも夜行バスで移動する例が若者中心に多く、テーマパークでゆっくり時間をとりたいという要求はあるにせよ、
新幹線でなくバスを選択する理由は運賃が安いからだろうと思われるのだ。
昔は列車移動しか主な選択肢がなく、列車の有効時間帯に合わせて移動をしたものだが、
今は手段が多く、もともとの移動に使える時間帯で選べる方法を採るわけだ。
そんな状況では夜行列車の選択肢は限られるし、ますます夜行列車離れは進むのだろうと悲しくなる。
しかし通勤手段としての列車移動はそんな悠長なことは言っていられない。
毎日いかに楽に早くそして自由に列車が選べるかが重要である。
南草津や草津・栗東の駅前にそびえるマンション群はそんな通勤移動に便利な琵琶湖線であるからこそ急成長したのだろう。
もちろん区画整理などまとまった開発ができたからこそ大きなマンション群が建ったのだろうけれども、
でも琵琶湖線の便利さを認めた新住民が住んでこそのマンション群ができてよかったわけだし、
実際住民が増えているのは結構なことだと思う。
ところが、そんな利便性をいわば否定する来年春のダイヤ改正告知が出てきた。
これによると現在の最終電車に当たる京都野洲間の普通電車が廃止され、終電が繰り上がるそうだ。
文面からは詳しいことは読みとれないが、少なくとも大阪発では現在の野洲までの最終が0:25であるのに対し、
来春からは0時ちょうどになりそうだ。
一気に25分も終電が繰り上がるのはまたずいぶんな話に思えるのだが。
しかしこのところ毎年春のダイヤ改正で夜行列車が縮小されてきた。
実に悲しいのではあるが、それ以上に来年春はJR西日本の各線区で編成両数の削減や、列車の一部廃止が多数行われるそうだ。
折角少しずつ便利になってきた琵琶湖線でまさか一気に25分も終電が早くなるとは思いつかなかった。
夜行列車の削減よりむしろより一層時代の流れを感じてしまう、寂しい改正になるようだ。
終電が早くなって駅の照明をつける時間が短くなると地球にやさしいのかもしれないが。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 白いわたぼうしをかぶった雪国からの使者
12/20
土日と本格的な寒さになって、北陸は大雪だそうである。
野洲のあたりはまだ雪にならない、逆に雲の切れたいい天気になったのだが、
湖西湖北の方は白い低い雲が覆って山も見えず、さぞ寒い週末だったのだろう。
もともと冬なのだから雪が降るのは当たり前ではあるが、ここしばらく暖かい日が続いていたので、急激な冷え込みは身に堪える。
それでも雪に負けずに電車は動いているのだし、雪国で生活している人も多数おられるわけで、その苦労はさぞ大変だろう。
よく昔から上野駅に入ってくる屋根に雪をたくさん積んでやってくる夜行列車の写真が雑誌を飾ることがあった。
まさに季節を伝える風物詩だったのだが、今となっては東北からの列車はほとんどが新幹線になってしまい、夜行列車はごくわずか。
おまけに缶詰防止で最近は大雪が予想されるとすぐ運転取りやめになってしまい、
雪を列車が積んでくるようなことはほとんどなくなってしまった。
というか、最近の車両は高速化や車体形状の変化で雪を積んだまま走る状態が難しく、積んだとしても途中でどんどん落ちてしまう。
線路に落ちる雪もまたいろいろ問題を起こす厄介者なので、結局雪などないほうがよい、で片づいてしまう。
確かに雪で分岐器が不具合を起こしたり、ブレーキの利きが悪くなったりといいことはないわけで、
雪国を思い起こさせる雪を積んだ車両などというのは単なる感傷ものだ、と割り切らなくてはならない。
出勤の朝、関ヶ原を越えて雪を積んできたコンテナを見るとちょっとうれしくなったりするのだが。
223系も雪国での走行を想定しての仕様になっているそうだ。
昔国鉄時代の電車は雪国仕様なるもの、つまり耐寒耐雪構造というものがあって、ドアが半自動扱いできる、台車のバネ部分に覆いがある、
あるいはドアレールヒーターとかモーター冷却風の雪切り室などの装備でそれらを必要としない主に雪の降らない方面を走る車両と区別していた。
湖西草津線の113系はこの耐寒耐雪仕様で本線車とは区別されていたのだが、JR化以降に出てきた221系や223系は
もともと耐寒耐雪なので、以前のような雪国仕様という特別な区別がなくなってしまった。
いまや223系は塩津や敦賀まで出向くわけだから、少しの寒さや雪でばててしまっては困るのだが。
そんな寒い土曜の朝、上空は雲のほとんどない快晴で、出かけなければもったいない、と言わんばかりである。
そんなわけでちょっと電車に乗るか、と野洲駅へ向かう。
下りの新快速は遅れ気味。雪で視界が悪く徐行中なのだろうか、あるいは塩津からの編成が前後列車の関係で遅れているのだろうか。
でも9:34の749Tは定時でやってきた。
ところが、車体には一杯の雪、屋根もクーラー後方にはまだ塊の状態で雪が載っている。
あれまぁ、ずいぶん派手に降っているものだ、と気になって運用メモを見ると、749Tは米原9:00発の217運用なのだが、
前日深夜に米原に着いて夜を過ごし、翌朝一番の出庫で749Tに入るもの。
つまり米原で夜間雪が屋根に積もって、その雪を積んだままの本日初仕事というわけだ。
雪を積んで走っているのは雪国からの夜行列車とかわらないなぁ、でも夜通し走っているものはないわな、などとひとりでぶつぶつ。
そう、米原駅構内はしっかり雪が積もっていますよ、という伝えものを持ってきた使者なのか。
やはり米原は寒い雪の国なのだな。
広い構内を一面の雪で覆われる景色はまたそれでとてもきれいだと思うのだ。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 一般的な移動目的か、列車に乗ること自体が目的か
12/17
「さよなら夢の寝台特急」なる番組を某公共放送が放映するとある掲示板に書き込んでくれた人がいた。
ありがたい情報である。
なるほどそんな番組があるのか、年末でもあるし、この春の九州特急廃止の話でもするのかな、と期待していた。
いつも某公共放送局は鉄道ネタはまじめな番組を作ってくれるので楽しみにしていたのである。
ところがびっくり、話は欧州、オリエント急行の廃止ネタであった。
番組を見ていて、欧州にもホームで笛を吹かれる、つまり列車運転に支障が出かねないような
葬式鉄がいるものだとおもわず笑ってしまったりしたのだ。
確かに無くなるというとあわてて走り出す輩はおそらく洋の東西を問わないだろう。
ところでこのオリエントエクスプレスという列車、確かに由緒ある列車であるのだが、
いわゆる観光列車としてのオリエント急行でなく、定期列車で走っているものがなくなるという話なのである。
このあたり、観光列車(ベニスシンプロンオリエントエクスプレス、VSOEと呼ぶものなど)と
定期列車の区別がつく人間は日本では少ないと思う。
わだらんも昔もう20年近く前に、定期列車に乗ったことはあるが、
その時もザルツブルグからミュンヘンまでの日中の区間利用、もちろん座席車であった。
つまりそんな利用ができる列車になってしまっていたということであるが、列車名で選んだわけでもなく、
偶然旅程の都合上その列車になったわけである。
ちなみにこの時はハンガリー国鉄の食堂車があって、
パプリカ煮込みのハンガリアンシチューを食べてずいぶん感激した記憶がある。
そんなわだらんがふらっと利用できるほど、一般化してしまっていた、
国際列車のうちの単なる一本になってしまっていた、ということである。
もともと高級な列車として走っていたオリエントエクスプレスは第二次世界大戦後の東西冷戦化と
その後の鉄道離れでごくごく一般的な列車になってしまって、過去の栄光を偲ばせるものは
新たに観光列車としてのみ生き残った形なのである。
そんなわけで、今回ダイヤ改正で廃止になった定期列車の方は豪華な食堂車があるわけでもなく、
もちろん執事が乗っているわけでもなく、単なる夜行列車であった。
そもそもイスタンブール直通が切られてパリウィーン間の夜行列車になってしまった時点で
もうオリエントエクスプレスと呼ぶのはどうかと思われる状態であったのだが、
さらに06年末にTGV東線開業でストラスブルグからと短縮されてしまったのだから、
過去の栄光など微塵もなかったのである。
この話、もっとも欧州の地理に詳しくない方はさっぱりであろう。
で、日本でたとえ話を作るとこうなる。
過去に豪華寝台特急として名を馳せた北斗星は乗客の減少その他の理由で食堂車も外され、
編成はずいぶん身軽になってしまった。
そこで豪華な旅行は日を限って運転されるカシオペアにまかせてしまった。
しかも新幹線ができて運転区間も八戸札幌に短縮されてしまった。
そして廃止されてしまった。
となる。
もちろん今のはたとえ話であるが、でもそのたとえ話がほぼぴったりオリエントエクスプレスの状況に合致し、
そして何よりたとえ話が現実身のある話であるところがちょっと恐いのである。
ネット上の情報によると18日に神戸市兵庫区の川崎重工工場から北斗星など寝台特急列車牽引用に
新たに新製されたJR東日本向けEF510電気機関車が出場するそうである。
これでしばらくは北へ向かう寝台特急は残りそうであるが、それでもこのEF510、
いつかはJR貨物に移籍できるらしく、少なくとも新幹線が青函トンネルをくぐる時点で何かしら変化はあるのだろうと思う。
欧州は線路のインフラと列車運行が原則分離され、列車運行会社というものが存在する。
日本にももし長距離観光列車運転会社なるものがあれば、東京発長崎行きの豪華夜行列車が可能かもしれない。
もしそんな列車があったらどうだろう、例えば九州各県と旅行代理店が出資した
車両保有会社を作ってJR貨物に列車牽引を委託したらどうだろう。
とはいえ、このご時世、そんな列車に客がつかないか。
それより某オレンジ会社が認めないか、などと現実と妄想が区別できないような夢物語。
でも野洲を九州へ向かう寝台列車が通らなくなってしまったのはとても残念なことだ、
と今年の春を思い出して一抹の寂しさを覚える寒い夜である。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 10年ひとむかし、20年ならむかし昔あるところに、の世界
12/15
10年ひとむかし、とよく言うが実際10年前が昔であったかどうかは人による感じ方がずいぶん違うだろうと思う。
どうしてもわだらんは昔というと国鉄時代となってしまうのだが、ひょっとするともっと昔の人は
新幹線がなかった時代のことを思い出すのかもしれない。
わだらんは東北新幹線の開業前が記憶にあるので、半日潰すか夜行かの選択だった
東京盛岡がわずか3時間になってしまったのがあまりにびっくりであった。
のちに長野までの新幹線や九州新幹線部分開業を見るわけだが、新幹線の時間短縮への驚きは未だに東北新幹線を越えることがない。
もう2年ほどさきには大阪鹿児島間が新幹線で4時間を切る時代が来るわけだが、既に在来線での直通列車がない状態では、
時間短縮の差がよくわからないだろうし実感も湧かないだろうな、と思う。
もちろん一般の方にすれば新幹線でそのまま乗換せずに鹿児島まで行けることはきっと凄いことなのだろうけれども。
今の新幹線、特に東海区間は何か華やかさに欠けるように思う。
あくまでわだらんの個人的な感想であるが、でもビジネス客をもてなす最大の要因は
均一で常時同じサービスを提供することだろうと考えると、今の華やかさがないのは致し方ないだろうかと納得してしまう。
時間の一定しない出張者にとっては、一日中早朝から深夜まで同じような間隔で同じ車両が走っていることが大事なのだろうと。
でもそれは通勤電車や地下鉄と同じわけで、本来あるべき長距離列車の特別な雰囲気などあってはよくないのだろう。
微妙に仕様の違う500系の東京引退も仕方ないのだろうとあきらめてはいるが、でも何かスター選手不在はやはり寂しい気がする。
東京乗り入れ約10年、新幹線500系の花道がもうそこまで来ているのだ。
先日近江八幡の某アルプラザでHOPカード5倍開催日に「プラレール50周年記念151系こだま」を買ってきた。
以前から発売元のHPで記念商品があるうことは知っていたが、地元野洲のおもちゃ売場にも周囲の店にもなく、気になっていた。
が先日偶然立ち寄った近江八幡のアルプラザで見つけたのだ。そんなわけで5倍日の週末に買いに行ったところ、
以前見つけたときは2つあったのに、一つ売れていた。わだらんが買って売り切れ。
別にプラレールのコレクターではないのだが、買えてよかったとちょっと自己満足。
実際商品自体も子どものおもちゃとしては破格のこだわりで、銀文字国鉄書体の車番がきちんと車体に書き込まれていたり、
高速試験のチャンピオンプレートがついていたり(そのためちゃんとクハの車番は3、4になっている)と
どう見ても子どものおもちゃの類ではない。
といおうか、そもそもいまの子どもたちは「こだま」の存在自体を見たことがないわけで、
こんな車を商品化するあたり、どうみても大人狙いとしか思えない。
おじいちゃんが孫に買うには格好の商品であろうけれども。
そんな151系こだまは実質活躍できたのは6年である。
そういえばC62も誕生から東海道線引退まで約8年、スハ44によるつばめ・はとの客車編成も10年と、短期間で交代してきた。
東京大阪間、日本で最も忙しい都市間列車の移り変わりは激しいものだ。
500系の引退も時期的にしかたないか。
10年をまだまだと見るか、もう充分と見るか、これも世代で感じ方が違うのだろう。
次の10年後、プラレール60周年記念は「夢の超特急ひかり号」だろうか?
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ いつも使う、友だちや家族の関係のような
12/12
人によくわだらんの好きな車は何か、と聞かれる。
相手によってある程度内容を変えるので、一般的な答えとヲタ的な答えがあるのだが、
通常は新幹線100系とJR九州787系、そしてオランダ鉄道IRMと答えることが多い。
新幹線100系は今山陽新幹線で走っている短編成でなく、16両で東京に乗り入れていた頃の姿、
つまり今はない二階建て食堂車やグリーン車が好きだったからだ。
同様にJR九州787系も今はないビュッフェが気に入っていたので、現在走っている車両ではないのだ。
ただ、この両者ともわだらんとしては列車に乗る楽しみを比較的簡単に手に入れられるところが
ヲタ的要素抜きで間単に説明できるのである。
トワイライトEXPには食堂車は今でもあるわけで、供食設備だけなら別に100系新幹線でなくてもいいのだが、
トワイライトEXPはあまりに乗るのが非日常なのである。
その点、100系新幹線や787系つばめはまだ乗るのに苦労しないで済む、そのあたりが気に入っていたし、
今になってもこの車を越えるような楽しみあふれる車が出てこないのは残念だ。
しかし、好きな車となぜか安心する車があるように思う。
毎日223系に乗っていて飽きないかと聞かれるが、だからといって他の車両を選べる選択の余地もあまりないし、
所詮通勤利用では贅沢は言えないのだ。
でも223系は気に入っている。
考えてみれば毎日時速130kmで走る電車に乗れるのはありがたいことなのかもしれない。
日常利用する列車車両というのはどうしても好き嫌いや好みを言えるものでなく、
ましてや好きという見方をすることは少ないのだろう。
でも本当は日常使う列車や車両であるからこそいろいろな見方ができて、好き嫌いがはっきりするのだろうと思う。
まぁ某ちゃんねるの湖西草津線スレでは地元ヲタが自虐的に113系を取り上げていたりするが、
でもこれも案外好きだからこそ話せる内容ではないのかな。
もちろん他に選択肢がないからこそなのかもしれないが、日常の車両だからこその自虐ネタなのだろう、と思う。
意外とみんな113系が好きなのかもしれない。
少なくとも最近もはや末期状態にある湖西草津線の113系を追いかけるヲタもいるし、
単になくなるから追いかけるのだけではなさそうだ。
ところで人に誘われて、甲西図書館で開かれている写真展を見てきた。
草津線の写真というとどうしても113系を中心とする走行車両の写真ばかりが取り上げられるし、
今の車両たちではどうしてもその車両を取り上げてしまうのだろうと思うが、
今日見せていただいた写真は車両よりむしろ草津線の雰囲気を大事にした、車両は後方支援であるものばかりであった。
とても新鮮な視線で、ずいぶん驚いてしまった。
いかにも地元の方が足繁く通ったと思える、とてもやさしい写真が並んでいる。
車両だけでなく、草津線そのものを日常として見ることができるのはすばらしいことだな、
113系もやっぱりかわいがってもらっているのだよな、と何かうれしくなった。
20日に写真を撮られた方の講演があるそうだ。
また甲西図書館へ出かけてみようかと思っている。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 錆びないから錆び防止材不要、当然安くつくわな
12/10
広島地区の車両を一色塗りに変更します、とJR西日本のプレスリリースが出て、あれこれ話題になっている。
塗装変更は鉄道会社イメージチェンジに時折必要なもののようで、過去に空港ができた時の南海電車とか、
中之島線開業で京阪電車とかと過去からいくつも例は見られるし、
昔スキーバスが事故を起こしたあとに貸切バスのみ塗色変更した某大手バス会社もある。
新旧塗装に個人の好き嫌いはあるにせよ一般的には悲観的に語られることはないはずなのだが、
今回の塗装変更がどうみても経費削減から来るものと思われるところが騒がれる原因のようである。
ちなみに最近養老鉄道も経費削減で一色塗りにしているし、これまたいくつか例はあると思うのだが、
今回の場合地方私鉄でなく、JR西が全車対象に行う方針なので、なおさら「そこまで深刻か」と騒がれているように思う。
もちろんその見方の多くが高速道路の割引による減収から来るものであろう。
実際高速道路1000円施策で減収しているので本来イメージチェンジで語られるはずの塗装変更が
悪い意味のチェンジに取られてしまっている。
安上がりな、チープなというのは確かにいい意味には取りにくいしなぁ。
最近はステンレス車体が大流行である。
採用の理由はもちろん腐食しにくいことだろうが、その結果塗装不要である点も当然考慮されているわけで、
塗装は面倒です、手間と経費がかかります、と実証しているわけだ。
名鉄の飛び地である瀬戸線は車庫移転に際して塗装不要と言う理由でステンレス車を入れたのだが、
確かに塗装設備は昨今の環境対策とかで余計にややこしそうだ。
車両の塗装が嫌われるというのは悲しいことに思う。
大阪駅で電車を眺めていても、塗装車両は今やほとんどが環状線の車ばかりで、
本線は時折221系が来るだけになってしまった。
福知山線快速も223系に置き換えられたのでより一層塗装車に合う確率が低くなってしまった。
利用する側で言えば塗装車だろうがステンレス車体だろうがあまり関係ないのだろうけれども、
でもやっぱりわだらん的にはステンレス車体ばかりはちょっと寂しいものがある。
もともと国電が汚れの目立たない茶色ばかりであったころ、新性能電車101系は
明るいオレンジ塗りで一躍人気者になったそうである。
実際その後線区別に電車の色は分けられて誤乗防止に役だったのだが、
今や車体の帯の色だけがわずかに自己主張しているようだ。
だいたい電車の色が同じだったら、新宿西口駅の前、某カメラ店のCMソングは生まれなかっただろう、と。
色いろとりどりの明るい電車が駅に発着するのは楽しいはずだと思う。
子どもたちの夢はステンレスの無塗装でどう写るのだろうか?
いや、ステンレス車体の方が新型のイメージか?
JR西の広島を中心とする車両のほとんどが国鉄継承の鋼製車体塗装つきであることがよかったのだろうか、どうなのか。
昔開設すぐの豊田電車区で撮られた101・103・301系を並べた写真、
中央線オレンジ・総武線カナリアイエロー・山手線ウグイス・京浜東北線スカイブルーに地下鉄アルミ色の
5つを並べた晴れがましい姿が書籍に登場していたのを覚えておられる方はおられるだろうか?
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 兵站という軍事用語ごご存じだろうか
12/8
日本に複々線区間はいくつもあるが、複々線で2kmにもなる山岳トンネルを持っているのは大津京都間だけでないかと思う。
地下鉄で二路線並列とか、中央線四谷とかに複々線にトンネルは存在するのだが、
本格的なものはこの逢坂山と東山だけだと思う(わだらんの思い込みなので、どなたかご教示いただければ)。
しかもこの区間は方向別複々線なので、時折列車が並んで同時にトンネルに入っていくのは面白いものだ。
新逢坂山上りは大津側で複線断面になっているのだが、複線トンネルで二線が同一方向というのはおそらく日本でここだけだろう。
そもそも峠越えというと人も物も流れが途切れるのが普通で、大津京都間の輸送量が異常なのだろうと思う。
もちろん府県境の通過だけなら例えば大阪尼崎間とか、あるいは品川川崎間など
ここよりはるかに流動の多い区間もたくさんあるのだが、山を挟んでもこれだけたくさん行き来があるのは不思議である。
もっとも今の線路は大正10年に付け替えによって誕生したもので、もし旧線のままでその後電化や複々線化されていたら、
また今とは相当違った状況だったのだろうと思うのだが。
しかし10‰の勾配上にある長いトンネルというのは蒸気機関車にとっては苦痛だったのだろう。
もちろん現在の線路は付け替えで誕生した新線で、以前の25‰に較べればずいぶん楽になったのだが、
その分列車単位は大きくなって重くなり、乗務員のみなさんはさぞご苦労されたのだろうと思う。
同じ10‰上りの大垣関ヶ原間新線は長いトンネルがなく、まだ楽だろうと思う。
標高差なら大垣関ヶ原の方が大きくきついのだが。
複々線といっても最初からではなく、戦争激化で鮮満へ、支那へと東海道山陽線の輸送力増強を計ることを
大命題にされた鉄道側があわてて三線化し、そして万博開幕前に4本になったのが今の新逢坂山と東山トンネルである。
日本の歴史を映す鏡のようにも見える。
その過去のインフラ整備のおかげで、朝夕ラッシュ時にもダイヤの自由度が高く、
今の滋賀県南部地域の発展を支えたと行っても過言ではなかろう。
よく掲示板などで、草津京都の複々線は過剰だと騒ぐものがいる。
確かに日中だけみればそう見ることができるのかもしれないが、でも線路容量というのは
一番列車の多い時間帯に列車を捌けるかどうかであって、列車の少ない時間帯を見ても正解にはならない。
ちなみに時刻表上ではわからないが、早朝の時間帯も、711Mは1053列車、
713Mは2093列車(いずれも貨物列車である)、さらに715Mはびわこエクスプレスと並んでトンネルをくぐる。
もしトンネルが4本なければずいぶんとダイヤは窮屈になるだろうし、
石山で朝新快速と普通電車が並んで着発する光景もできなかったのではなかろうか、と思う。
帰宅時、なんとなく804Tに乗ってみた。大阪17:38の快速でヲタから地雷と称される6連の短い編成である。
それでも一旦茨木〜長岡京で乗客の大半が入れ替わるので着席はできる。
進行左側窓側へ座席を取って、京都から青森行き日本海と並んで山登り。
引き出し性能が電車より悪い客車特急はあっさりと抜かれてしまってちょっとかわいそう。
もっとも寝台の乗客はそんなわずかな速さ遅さなど関係なくのんびりである。
とはいえ、そんな当たり前な光景が、暗く悲しい戦争の落とし子から来ているというのはちょっと悲しかったりする。
もちろん戦争がなくても早晩線路増設はあっただろうけれども、
でもそのきっかけが戦争であることは疑いなく、なんともしんみりしてしまうのである。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ デッキの扉が楽園への入り口であった
12/6
昔、普通列車が客車の時代には、長距離列車と近郊電車の区別があったと思う。
普通列車といえども長距離を走る列車は摂津富田や山崎のような小さな電車駅には停まらないのが当たり前で、
その長距離列車を使う客の中にはいわゆる通勤利用というのはほとんどなかったのだろう、と思う。
当然野洲はその昔の分類でいけば長距離列車の範疇に入るところで、大阪まで出かけるのは何かの特別な用事であったのだろう。
もちろん通勤需要が全くなかったわけではなく、かつて蒸気機関車の時代、昭和29年の時刻表を見ると
通勤対応と思われる野洲発京都行き列車が一日一往復存在していたので、それなりの人の流れはあったのだろうけれども。
その長距離列車と近郊電車の区別が曖昧になってきたのはやはり昭和31年の湖東線区間電化完成からであろう。
このときに京都神戸間の急行電車(急行料金を取らない急行電車であった)が、米原に延長運転されたのだ。
やがて京都大阪間無停車だった急行電車は快速電車と呼び名を変えて高槻に止まるようになり、
一方で名古屋直通や姫路播州赤穂まで運転区間が延びて、長距離列車と近郊電車が同居するようになった。
とはいえ、万博が終わるあたりまで純然たる長距離普通列車である大阪発着北陸線直通の客車列車は残っていたので、
湖東線区間の普通列車がすべてが電車になったのではないが、野洲や網干に電車区ができ、草津から複々線が完成し、
113系電車が幅を利かすようになった万博前後を境に、湖東線ローカル列車は通勤通学目的の日常の電車になったといってよいかと思う。
ちなみに草津線には京都直通の客車列車が残っていたのだが、これも通勤対応の50系客車が新製されるやいなや、
早い時期に置き換えられたので、客車列車とはいえ、哀愁のただようものではなくなったのだ。
(もちろん今となっては50系客車も充分哀愁を感じることができるが)
そんなわけで、70年代末期には琵琶湖の周辺の列車はすべて自動ドアを持った車になり、
一方で列車の利用が特別な用事のためである雰囲気はなくなってしまった。
ちなみにわだらんがまだ若い頃には113系でも湖東区間(草津まで?京都まで?)の普通電車車内で
弁当の車販があったのを知っているのだが。
長距離列車はドアっと客室の間に扉があり、出入り台、いわゆるデッキと客室内は区別されている。
車内の静寂を保ったり、あるいは冷暖房の効果を高めるに最適な構造で、昔寒い外から列車に乗り込んで、
デッキの扉を開けたとたんとても暖かい、ほっとした記憶が幾たびとある。
まさに別世界に思えたのだ。
しかし一方でデッキのついた二扉車は通勤通学など混雑には向かないという問題がある。
いまの三扉の新快速でさえ、通路に入らない客が多いのに、デッキ付き二扉ではとても客を捌けるものではなさそうだ。
このご時世、本来なら省エネのためにデッキ付きのほうがよさそうな気がするが、でも移動が特別でない、
日常の利用では現在の状況でとても耐えられるものでない。
デッキ付き車両での通勤など、いまやかなわぬ夢である。
12月になって野洲駅でもドアの半自動扱いが始まった。
まだ寒さが本格的でないためか、野洲で新快速の到着を待ち合わせをしている普通電車はほとんどのドアが開いたままである。
どうしても期間で区切り、気温で臨機応変に対応できないのは仕方ないが、
やたら半自動の案内がホームにやかましく響くのはどうしたものか、と思う。
デッキ付き車両ならいちいち半自動扱いとか不要なのだろうなぁ、と雪国北陸の475系を思い出して考える。
あ、そういえば475系もデッキ扉を省略して半自動扱いだったか。
*********
○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 善を施すには無理があるが、偽善なら誰でもできるだろうと
12/3
帰宅時、大阪駅の9番ホーム先頭位置でいつものように新快速を待っていた。
ホームに上がった時間が列車到着直前で、乗車の長い列ができている。
後方に並んでは見たものの、当然座れる位置ではなく、まぁ最後に列がバラけてから車内に入ればいいや、
などとのんびりムード、いわゆる厭戦気分である。
どうせ京都まで座れないし、などと一人でぶつぶつ言っている。
そんな中、電車が入ってきた。乗車列は扉に向かって進み出し、両側に裂けていく。
よく大阪人は整列乗車が下手だなどとよそ者が言うのだが、この通勤時間帯の新快速を見る限り、そんなことはないと思えるのだ。
もちろん休日などは結構お構いなしの客も多いのだが。
ところが、列前部が扉の方に寄っていったのに、途中から列が進まない。
というより列が動かないままなのだ。誰だ、まじめに整列乗車しようとしないのは、
どうせゲームでもしているのだろうとちょっと開いて止まっている先頭を見た。
するとびっくり、立ったままの人は白い杖を持っていたのだ。
なぜきちんと列の中に並べていたのかわだらんは知る由もないのだが、とにかく連れは居そうになく、一人で立っているのだ。
あわてて駆け寄り、袖を掴んで「前に進みますよ」と声を掛ける。
まだ二十歳台くらいだろうか、その青年は「はい」と答え、わだらんについて前へ進む。
黄色の線を越えるところで声を掛け、さらに車体の扉開口部に手を伸ばして触らせて「ここから車内です」というと、
小さな礼をしてちょうど運転台背面に立った。
そこまで来ればわだらんの役目も終わりだろうと、そのまま通路中へとはいる。
盲目の方を誘導したおかげでいわば順番抜かしをして、ずいぶん簡単に車内に入ってしまったのだ。
しかし不思議なのは、わだらんが列で並んだ位置と、その盲目の方の間に数人が並んでいたのだが、だれも声を掛けなかったのだ。
少なくとも白い杖はすぐに目に入りはずで、じっとその人が前へ進むのを待っているのでは
いつまでたっても電車に乗れないではないかと思うのだが。
確かにこういったハンディを持った方の誘導というのは経験をしたことがあるかないかでずいぶん違うのだろうけれども、
まずはそんな人を見かけたら声を掛ける、それが当たり前ではないか、と思うのだが。
よくヲタの会話で車椅子やベビーカーが迷惑であるというような話がでる。
もちろん一部にそういう迷惑な場面があるのも事実だが、でも一般的にはまずそういうハンディを持った方は
周囲にずいぶん遠慮して気を使っているはずなのだ。
ちょっと声を掛けて手を貸してあげれば、迷惑なことも軽減されるだろうし、何よりスムーズな乗車や降車ができると思うのだが。
偽善のおかげか、高槻で座れたわだらんはすっかり盲目の方のことなど忘れて熟睡し、
石山で目が覚めたときにはもうその方はいなかった。
無事降りられたのだろうか、だれか扉まで誘導してあげたのだろうか、ちょっと気になった。
*********
雑記帳表紙へ
メルマガの登録、解除はこちらから
わだらんの鉄道自由研究表紙へ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |