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10年 1月

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798.  1/30 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  人に伝える手段が人を使うことであった時代

797.  1/26 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  大阪から見ると京都の先に野洲がある

796.  1/24 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  線路がいっぱい、のどかな休日

795.  1/21 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  春照という地名が読める方はおられるだろうか

794.  1/19 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  私立高校通学も新聞も中部地方に近い滋賀県の一部

793.  1/17 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  列車が走れないほどの自然の猛威が少ない年でありますように

792.  1/16 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  自家用車移動を優先して考える鉄道ルートの弱さ

791.  1/13 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  SLには雪が似合うはずというわだらんの先入観

790.  1/11 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  たかが子どものおもちゃ、されど大人のおもちゃでもある

789.  1/8  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  かつての柳ケ瀬駅も列車扱いで賑やかであったそうな

788.  1/5  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  新駅が合併による新たな街づくりの起爆剤

787.  1/3  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  平和で楽しい一年でありますように

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  人に伝える手段が人を使うことであった時代

 

1/30

以前にも一度書いたことがあるのだが、時代は昭和31年の話。

東京発大阪行きの特急つばめの車内で急病人がいることを専務車掌が確認し、三河三谷でメモを落とし、

臨時停車となった次の蒲郡で手配されていたタクシーで急病人を病院へ搬送したという話があった。

当時は移動体の連絡手段などほとんどないに等しく、固定電話が最も確実な連絡手段であった(はずだ)。

この話、まず車掌が車内を巡回していて、また異常をメモにし、通過駅でホームに落とすという機転を利かし、

また通過駅ではホームで列車を駅員が確認し、そして出発信号は駅扱い、と今ではまずできない手段ばかりである。

 

もっとも今ならこんな面倒なことをしなくても列車無線で運転指令を呼び出せばいいのだし、

車内を車掌が巡回しなくても、車内のSOSボタンで周囲の乗客が通報してくれる。

運転指令は駅に救護手配をかけ、当該列車の要救護者を駅員に引き渡しすれば無事に救護完了となる。

とはいえ、昔と違って今は無線など連絡方法は充実しているものの、駅員など列車の運転に関係する人間が

昔に較べてずいぶん少なくなったので、手順を書き出せば簡単なものの、実際に人が段取りよく立ち回れるかどうかと言うとある。

琵琶湖線内でホームに駅員が立っているのは米原と草津石山、山科しかいない。

ましてや例えば昔の野洲は駅本屋がホームと同一平面でホームを駅事務所や改札から見渡せたのに、

今は橋上駅舎になってしまって、ホームの様子を改札窓口から直接見ることはできない。

メモを落とすという原始的な方法もホームで通過列車を見送る駅員がいるからからこそできる芸当で、

仮に今しなのが野洲通過中にメモを落としたとしても、誰も気づかないのではなかろうか。

もちろん野洲の改札にはホームの監視カメラ画像を映すモニターもちゃんとあるのだが、

決して野洲の駅員が怠慢という意味でなく、モニター画面を常時、あるいは列車通過時にじっと見ていることは

今の陣容ではとてもできないと思われる。

ただでさえ障害を持つ方の乗降など乗客の世話があると出札改札窓口がすぐに手薄になるような状態が充分と思えないのであるが、

それに加えてホーム監視を現在の陣容でするのは難しいのだろうな、と思う。

確かに国鉄の赤字は人件費からくるところが多かったのだから、人を減らした効率的な列車の運転・鉄道の経営を

しなければならないのは充分理解できるのだが、でも現場に人がいないのはやはりどうなのだろう、と思ってしまう。

 

わだらんはこのところ幸いにも大きなダイヤの乱れに遭遇してはいないのだが、

木曜日は南草津での急病人発生から本線系ダイヤが崩壊してしまったそうだ。

たかが急病人、でも命にかかわることかもしれないし、もし鉄道側の手配処置がまずくて

乗客の容態が悪化するようではまた叩かれそうだ。

とはいえ、急病人一人でダイヤが乱れるのは困りもの。

でもダイヤの乱れは急病人の処置よりその後の運転整理が悪いからだろう、と容易に想像がつく。

運転整理のダイヤ収拾能力が落ちたのも間違いなく効率化による人員削減だろうし、難しいものだ。

昔のように人海戦術に頼ることが今の世の中でいいことかどうか、評価は難しい。

でもこの冬のかに繁忙期に特急はまかぜが香住浜坂間の区間運休というのはやはりいただけない。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  大阪から見ると京都の先に野洲がある

 

1/26

そろそろ街はバレンタイン商戦でにぎやかになる頃である。

わだらんにはあまり縁のない行事であって、おそらく世間の男の半分近くまではあまりうれしい話ではないだろうと思う。

おそらくは広く多数からチョコレートをもらえる人間は一部に限られているのではないか、と思うのだが、それはわだらんのやっかみだろうか。

まぁ最近はチョコレートといえばひこにゃんがいつもの話題ネタであって、おそらく今年も大量にチョコレートが届くのだろう。

そんなひこひゃんへのプレゼント、みんなどうやって送っているのだろうか。

ひこにゃんの住所は彦根市金亀町1-1で、彦根市役所の公式HPなどにも載っている。

でもおそらくはそこまで正確でなくても彦根市ひこにゃんで届くのだろう。

市役所に届く大量の郵便物に混じってひこにゃん宛の小荷物やら封筒やらが届く場面を想像するとちょっと笑えるのだが。

 

そう考えると住所というのはどこまで正確さが必要なのだろうか。

もちろん電子メールの場合は文字一つ違っただけで届かなくなるのだが、ひこにゃん宛なら極端な話ひこにゃんだけでも届きそうな気がする。

住所の正確さはそう考えると結構幅が広く、京都市内の碁盤目のなかのようにものすごい長い住所が正確にあっても、あたま半分程度でほぼ特定できるものもあるし、

でもマンションなどではきちんと部屋番号が特定できないと届きそうにない。

まぁ有名になればなるほど、あるいは周知されているほど

いい加減で済むわけで、NHKのように〒150-8001だけで届くような例もある。

そういえば首相官邸とか住所はどうなっているのだろう?

 

アメダスの観測地点表記で、今年1月から長浜市になった余呉町柳ケ瀬の表記を長浜市から余呉町に戻すそうだ。

正確には長浜市柳ケ瀬から長浜市余呉町柳ケ瀬にするそうなのだが、なんでも柳ケ瀬の積雪量を見て、市内が大雪だと思われるのを防ぐためなのだそうだ。

確かに長浜市内で1mも積もると大騒ぎだろうけれども、柳ケ瀬で1mならそんなに大ごとでもあるまい。

とはいってもこれはあくまでわだらんが現地を知っているから思うだけで、一般の方は柳ケ瀬も長浜駅前もあまり変わらないととるのだろう。

もともと大合併で大きくなった市町の観測地点表記は難しいものがあると思う。

旧蒲生町桜川にアメダスがあるが、これは昔蒲生で今東近江の表記。

まぁ蒲生なら東近江でくくってもそうおかしくないだろうが、甲賀市をまとめてでは少し抵抗があるのか、信楽は信楽のままである。

信楽と土山ではずいぶん天候に違いがあるようにも思えるし。

 

3512M、12両の「京都方面野洲ゆき新快速」で帰宅する。

野洲だけでは場所の特定がしにくいためだろうし、知名度があってもそれがどこにあるかを知っているのとはまた違うのだろう。

でも一般向けに場所の特定をするのは難しいだろう。

鉄ヲタの多くは地図が読め、場所のつながりを知っている。

もちろん線路に沿ってのことだろうけれども、でもヲタだからこその特典ではないかと思う。

地図が読め、場所に詳しいのはもう少し自慢してもいいのではなかろうか。

もっともそれが女性にもてる材料になるかどうかは疑問だし、野洲市わだらん宛でチョコレートが届くようになることはこの先、未来永劫ないであろう。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  線路がいっぱい、のどかな休日

 

1/24

あまりの天気の良さに思い立って梅小路蒸気機関車館へ行ってきた。

出かけたのが午後からだったので、ちょうど最終のスチーム号のあと、転車台回しと給炭給水を見ることができ、

楽しい一日になった。

とにかく雲一つない青空で、もちろん寒い日ではあったのだが、穏やかな日ざしのなか、

機関車たちもなんとなくのんびりゆったりしているように見える。

観客も冬だというのに結構多く、しかも小さい子ども連れの家族が多く、若いお母さん方も多かった。

子どもがいなければ街のきれいなおねえさんと寸分違わない女性が機関車の前をうろうろするのはちょっと面白かったり。

弁天町の交通科学博物館も若いお母さんが多数いるのだが、

梅小路の方が屋外中心なので、なんとなく目立って見える気がする。

もちろんわだらんは別に若いお母さんが多数いるのを見たくて出かけたわけではないのだが。

 

しかし蒸気機関車というのは手間のかかるものだ。

仕業が終わっても給炭給水灰落としと作業が残る。

電車ならパンタ下ろせばそれで済むし、朝もパンタを上げて補助電源と圧縮空気機が回れば基本的には準備完了である。

蒸気の場合、火を落とさず翌朝に備える場合は深夜もわずかながら投炭が必要だし、

なにより石炭と水を補給する作業は不可欠である。

その点電車は架線に電気が供給されていれば問題ないわけで、運転以外の保守点検なども簡単ですむ。

蒸気機関車が威勢良く煙蒸気を吐きながら走る姿には見とれるが、

実際に営業列車としてはこれほど手間のかかるものではとても合わないだろうと思う。

逆に鉄道会社に厳しい時代ではあるが、梅小路はいつまでも永らえてほしいものだ、と思う。

 

しかし梅小路のいただけないところは、これだけ線路に近い、線路がいっぱいあるところなのに、駅から遠いことである。

丹波口から10分は最低かかるし、道も細く歩道もなく、ベビーカーが安心して歩けるところではない。

かといって市バス205系統は常々混雑する、しかも間隔不定であまり便利とも言えない。

この春大糸線キハ52が引退するので、是非京都駅からキハ52で梅小路機関車館館内まで連れてきてほしいなぁ、

そんなお迎え列車があればいいなぁ、と思う。

キハ52なら蒸気機関車と並んでもなんら不自然さはないと思うし、キハ52自体が昭和の雰囲気、

蒸気機関車がいた時代のローカル線そのもので、機関車館へのいい案内役になると思うのだが。

京都駅嵯峨野線のりばの先端、昔出雲牽引のDD51が昼寝していたところへ

単行分のちょっとしたホームをつけるだけで充分なのだが、どうだろう。

 

そんな思いを巡らせながら8630の牽くSLスチーム号で、大宮陸橋のすぐ横までやってきた。

いつもは東海道線ですっと通り過ぎる京都駅西方の複雑な信号群を横目にし、あるいは上を走る新幹線の音を聞きながらのわずかの旅行気分。

電車で見る景色と違う角度はずいぶん新鮮である。

そういえば今年は浄土宗・浄土真宗の50年に一度の遠忌にあたる年だそうだ。

50年前は梅小路に臨時駅を開いたそうで、さぞ賑わったことだろう。

そう考えると梅小路公園前に嵯峨野線の駅があってもおかしくはないような。

確かに駅間は近いが、ちょうど複線部分と京都駅場内の境にもなる。

とはいってもあまり今なら常時の乗客は期待できないか。

数年後、新しい鉄道博物館ができることには何らかの新しいものができているだろうか、とちょっと楽しみにしよう。

そういえば梅小路公園で開かれた緑化フェアに合わせて開設された梅小路臨時駅というのもあったなぁ。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  春照という地名が読める方はおられるだろうか

 

1/21

繰り返しになるが、先日滋賀県内の駅で新幹線がホームから見えるのは野洲だけだろう、

と書いたところ柏原からも見えますとお小言をいただいた。

そこで言い訳弁明しながら近江長岡からも見えるかもしれないと書いたところ、

今度はさっそく「見えます」とお知らせをいただいた。

いやいやありがたいことである。

よく考えると新幹線の車中から大阪セメント専用線に繋がる近江長岡駅構内の側線がよく見えていたのだから、

近江長岡駅ホームから新幹線が見えて当然なのだ。

とはいえ、わざわざお知らせいただくことに感謝である。

昔の東海道線は北国往還に沿って関ヶ原から伊吹山の麓を登って近江国藤川へと入り、

そのまま長浜へと抜けていた。

線路は配線となり敷地は国道365号線に転用されているのだが、現在の米原市、

旧山東町の藤川から大野木の間で峠を越えていた。

明治22年の湖東線区間開業による東海道線全通時には近江長岡から大野木の峠に向けて線路をひいた。

その線路跡地も道路になって残っているが、ほぼ一直線で坂を上る道は周囲が開けていて、

ちょうど長岡の駅から新幹線が見える位置になるのだ。

ところでこの峠、標高240mあたりになるのだが、25‰のきつい勾配であった。

そこでのちに現在の柏原経由に変更されて、現在の東海道線になっている。

このあたりの線路の経緯は地理的感覚があれば、あるいは現地に行けば容易に理解できると思う。

 

さて、そこで重大なことに気づかなくてはいけない。

米原市藤川という集落は峠の東側にある。

ということはここに降った雨は関ヶ原を通って揖斐川へと流れ、伊勢湾に注ぐのである。

東海道旧線跡地を何度も通っているにもかかわらず、藤川を流れる藤古川が

淀川水系でないことをすっかり忘れていて、実はこれもご指摘を受けたのである。

ちなみに高島市内には若狭湾へ注ぐ地域もあるそうで、これはわだらんは全く知らず、ご指摘に深く感謝する次第。

ほぼ県境が琵琶湖側とその反対側との境の連続と思いこんでいたわだらんにとって、

改めて地形の奥の深さを知ることになったのである。

 

関ヶ原から柏原経由の新線になって、東海道線の最高地点はおよそ標高170Mになった。

琵琶湖の水面が平均86mなので、およそ80mほどさらに上るのである。

琵琶湖の西側は大津付近107mが最高地点で、これも京都からは70mほど登っているのだ。

一旦石山で90mほどまで下ったあとは多少の上り下りをしながらほぼ平坦な湖東平野を走り、

列車は再び醒ヶ井を越え緩やかな上り坂になる。

一方下り列車はほとんど標高0Mに近い大垣から先に書いた今須付近の170mあたりまで一気に登らねばならず、

垂井から関ヶ原へは25‰が続き、迂回線の存在なくして語れまい。

地形図とにらめっこしながらの列車旅もまた楽しいものだろうと思う。

 

今日もいつものように帰宅の上り電車に乗る。

京都から大津まで立ち客であふれた重たい車体ではあるが、電車は軽々と進んでいく。

ほとんどの客、ましてやヲタであってもここが10‰の登り勾配であることを意識する人間は少なかろう。

でも実は琵琶湖の周囲の鉄道路線、東海道線や北陸線は琵琶湖へ向かって坂を上らねばならず、

勾配克服のための線路変遷の歴史を持っているのである。

ちなみに表題の春照は「すいじょう」と読むのだが、最初に東海道線が長浜から大垣に伸びたときの路線上にあった駅なのである。

今でも集落名や小学校名に残っているのだが、なかなか読める方は少なかろう。

鉄道史に興味のある方はご存じかもしれないな。

 

ところでわだらんのこの雑記帳はみなさまからのお小言、ご批判、ご忠告によって支えられています。

お気づきの点やわだらんの不勉強などあれば、どうぞお知らせくださいませ。

いつもおつきあいありがとうございます。

これからもどうぞよろしくお願いします。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  私立高校通学も新聞も中部地方に近い滋賀県の一部

 

以前にも書いたのだが、滋賀県の県域は基本的に琵琶湖に水が流れ込むかどうかと言うことになる。

もちろん細かく言えば京都市内でも琵琶湖に流れ込む集落はあるし、信楽に降った雨は琵琶湖に流れ込まずに直接瀬田川に流れるのだが、

まぁとにかく基本的に滋賀県に降った雨はまず琵琶湖に入り、そして瀬田川を通って大阪湾に注ぐと考えていいだろうと思う。

鈴鹿の東側に降れば伊勢湾へ、柳ケ瀬越えの北側は敦賀湾へ、そして伊賀と甲賀の違いは宇治川か木津川かの違いである。

同じ海なし県でも岐阜県は伊勢湾と富山湾へ、長野県は木曽川天竜川に信濃川姫川と別れてしまう。

山梨県も甲府盆地は富士川水系だが、相模湾へも流れるので、滋賀県のように全てが大阪湾一つに流れ込むというのはなかなか面白いものだ。

もっとも琵琶湖淀川水系などといってもあまり一般には気にしないのだろう。

琵琶湖博物館の床下に広がる航空写真の範囲がなぜこの範囲なのかすぐにわかる方は少ないように思われる。

 

ところでなぜ滋賀県と琵琶湖淀川水系についてあれこれ書いているのは実はわだらんの言い訳である。

というのも先日「滋賀県の在来線ホームから新幹線が見えるのは野洲のみ」と書いたところ、「柏原から新幹線が見えるぞ!」とお叱りを頂いたのだ。

いやまったく恥ずかしい話なのだが、実はその話を書いていたときに、醒ヶ井以東のことをすっかり忘れていたのである。

確かに柏原からは水田の向こうに新幹線線路が見えるし、あるいは近江長岡のホーム上り方先端からも新幹線が見えるかもしれない。

何しろすっかり東海区間など頭にないのである。

もちろん柏原も滋賀県であって、雨水は天野川を流れて琵琶湖に注ぐのだ。

でも、米原で列車が分断されていると、どうしても滋賀県であるという感覚が希薄になる。

もちろんそれはわだらんが列車を中心に考えてしまうからなのだが。

 

意外と列車の運転区間と県境は一致しないものだ。

例えば東海道線の二川は豊橋市内だが、微妙に静岡県のように思えるし、北陸線の富山新潟県境は糸魚川のようである。

確かに上郡三石間や重岡宗太郎間のように峠を挟んで列車が変わる例も少なくないが、

でも概して考えると険しい峠ではない県境の方が列車の境と県境が一致しないように思える。

ちなみにわだらんは小学生の時には福山を岡山県と信じていたのである。

下手に列車立てに詳しいと大きな間違いを起こすようだ。

 

そんなわけで、滋賀県内の各駅へ大津からの直通列車としての面目だろうか、残り少ない大垣行き806Tで帰宅する。

12両のうち、米原から先へ進むのは4両だけだが、でも今や貴重な直通列車。

過去のように米原を境にした東西どちらも列車が少ないのなら直通はありがたいのだが、今のように東西とも列車が時間2本は確保されている状況では

無理に直通しなくてもいいように思えるが、でもかつて旧山東郡から彦根への通勤通学列車であった名残はまだ健在。

そういえば県庁所在地である大津から大津京も含んで滋賀県内の各JR駅へは全て直通列車があるのだが、これも意外と珍しいことかもしれない。

お隣三重県では津から伊賀上野や長島へ乗換なしで行くことはできないし、兵庫だって神戸市内から姫新線や播但線非特急停車駅、

加古川線へは乗換が必要。金沢富山や高松は全て行くことができそうだ。

追いかけてみると案外面白いかもしれない。

ちなみに東羽衣へは大阪市内からはやはり乗換が必要なのだ。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  列車が走れないほどの自然の猛威が少ない年でありますように

 

1/17

わだらんは直接震災を経験したわけではないので大きなことは言えないのだが、

とにかく多くの人を一度に亡くす災害というのは恐ろしいものだ。

大切な人を亡くした悲しみも、あるいは心や体に大きな傷を持たれた方の苦しみなど、実際に体験した、

あるいはご自身でなければ、理解するのは難しいのかもしれない。

もちろん震災が一度に数多くの方の命を奪ったからであるが、どんな理由であれ人の命が奪われることは悲しいことだ。

その意味でも過去の尊い命を亡くした事故の教訓は後世にきちんと受け継がれて行かなくてはならないものだと思う。

 

その15年前の地震前日は北陸・上信越で大雪であった。

正確な記憶でないのだが、確か地震前日までの3連休中、ずっと山は雪が降っていたはずである。

阪神高速の橋脚倒壊現場近くで落ちそうになったバスの天井に大量の雪があったのをご記憶の方も多いかもしれない。

そんなことを天が知ってか知らずか、この数日間、新潟県内中越地方の大雪はなかなか状況が好転しない。

長岡で1mも積もればやはり大雪だろう。

ここまで積もると除雪した雪の逃げ場がなく、使える線路は限られて、列車の本数は当然限られる。

生活列車優先となれば、どうしても夜行列車は後回しになる。

廃止の決まった北陸能登の各列車がずっと運休なのは意地悪く考えれば葬式厨へのいやがらせだろうか。

もちろん本来の夜行列車利用者からは運休など迷惑千万であるが、でも廃止になるような列車だからこそ

運休が続いても大きな騒ぎにならないのかもしれない。

夜行列車の地位低下を象徴するような話だが、なんとも残念である。

 

ところで、絵本の新刊に「すすめ!じょせつきかんしゃ」(福音館書店、こどものとも年中版2月号)という本がある。

上越線がモデルだろうか、長岡機関区に取材したラッセル車とロータリー車の活躍の物語である。

ただ、新刊といっても初版が1988年で、その再販であるから、今と状況はかなり変わっていると思う。

というか、まず除雪にかかれる作業者も手間もずいぶん減っているだろうし、今はすぐに列車を停めるので、

絵本が書かれたときのような状況から現在は幾分のんびりした状態になっているのかもしれない。

とはいえ、大雪に挑む現場関係者の苦労は相当なものだろうし、感謝を忘れてはいけない。

 

結局金沢と上野を結ぶ夜行列車は4日間運休している。

それでも運休することによって事故を未然に防いでいるのであれば、しかたないと思わなければいけない。

かつてこの夜行列車が走る地親不知で、旅客列車がなだれに巻き込まれて、90名の方が亡くなる事故も起きている。

今はトンネルによる線路改良が行われたところで、過去の事故がその後の安全対策に生かされているわけだ。

鉄道事故を防ぐための各種行動がより一層注目されるご時世、少なくとも除雪中に列車に作業者の方々が

接触するような事故が起こらないようにと豪雪に埋まる列車の写真を見ながら願わずにはいられない。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  自家用車移動を優先して考える鉄道ルートの弱さ

 

1/16

身内が近日入院することになり、事前検査などもあって金曜日に病院へでかけてきた。

これが地元の野洲病院なら何ら心配事はないのだが、入院する先が愛知県、名古屋市と豊明市の境にある

割と有名な大病院で、行ってみてこんなにでかい病院があるものか、と驚いてしまった。

滋賀医大付属病院や岐阜県立岐阜医療センターなんかも相当大きいと思っていたが、

そのはるか上を行く大きさに驚いてしまった。

当然人の出入りは多く、玄関先や会計など人の流れが絶えない。

これだけ病院の中に人がいるのも驚きだが、そうなれば当然病院を支えるスタッフも数多いわけで、

一体昼間の人口はどれくらいだろうと考え込んでしまう。

あまり地の利がいいとは言えず、当然車での来訪客が多いわけで、大きな駐車場はほとんど埋まっている。

駐車場からの人の流れも当然多く、早朝から深夜まで見たわけでないから大きなことは言えないが、

野洲駅の改札通過人数よりよほど人の流れは多いように思える。

もちろん車で来ることのできない人のために駅からのバスもあって、名鉄バスと市バスがそれぞれ路線を持ってやってくる。

病人やお年寄り、ベビーカーの方が多いのだろうか、市バスも名鉄バスもノンステップ車が多く、

しかもどのバスにもそこそこ乗客がいて、バス路線としてはおいしい路線なのだろうと思う。

これ以降も乗客が減るとは考えにくいし、現金客も多いだろうから、バス経営に寄与するのだろうかと。

 

とはいえ、これだけの施設が駅から近いとまたそれは便利でいいことだろうと思う。

病院へ向かう道に「桜通線の豊明延伸を」を掲げた看板(しかも地下鉄6000系がやたら上手に描かれている)を見つけたのだが、

確かに地下鉄が延伸してくれば区画整理などで新規の宅地開発は進むだろうし、便利になるだけでなく、諸々の経済効果もあろう。

とは言っても、鉄道路線の延伸には何かと初期投資がかかり、本当に回収できるかどうかわけの見極めは難しいけれども。

地下鉄駅がこの病院前にできれば、きっと便利になるだろう。

もっとも、バス会社にとっては痛手であろうが。

 

こういった外来者の多い施設が駅前にあれば、地理不案内な遠方からの来訪者などには何よりわかりやすいだろう。

どうも駅からバスというのは面倒くさいとかわかりにくいそうだし、結局自家用車に頼ってしまいそうだ。

まぁ確実な需要の見込める大病院は公共交通にとっておいしいネタだろう。

もっとも新線開業や新駅開業で便利になるのが病人中心というのはちょっといただけないなぁ。

 

とかいうわだらんが実は自家用車利用で動いているのはもっといただけないか。

でも野洲から新名神経由で約2時間でいとも簡単に着いてしまう。

これがもし名神しかなければ地道を走る距離が長く、朝の混雑など所要時間などの状況が変わっているだろうとけれども、

新名神から伊勢湾岸道へと流れると、朝の渋滞に巻き込まれることもない快適なルートで走れるのであろ。

そうなると野洲からだと米原・名古屋と乗換の多い鉄道利用になかなか踏み切れないのが何とも残念。

名古屋港を一気に跨ぐ橋を渡りながら、もしこの隣に線路があったら、草津線とつなげて貨物列車を東海道線から逃がすこともできそうだし、

旅客もそこそこいるのではないだろうか、何か直通列車は可能だろうかと、最近の高速道路に較べて

鉄道の代替ルートの少なさ貧弱さを嘆くわだらんである。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  SLには雪が似合うはずというわだらんの先入観

 

1/13

寒い一日であった。長崎でも鹿児島でも積雪があったそうで、雪に慣れていない方はさぞ大変だろうと思う。

もっとも最近は野洲でもあまり雪が降らず、おそらく降れば鹿児島と同じような状況になりそうな気がする。

感覚的に見ると野洲の人間でスタッドレスを履いているのは半分あるかないかではないか、と思う。

もちろん八日市方面へ向かうマイカー通勤者などは当然スタッドレスなのだろうけれども、

大体において雪の日に渋滞の原因になるのはほんの一握りの車が滑ることに依るものだろうと思う。

誰だって雪の日に坂道の途中で停まりたくはないから、どうしても橋や跨線橋の前後で異常に車の流れが悪くなるものだ。

雪が積もったら車に乗らないのが一番の得策なのだろう。

 

そういえば国鉄時代末期まで、大垣と米原にラッセル車、キ550が常備されていたのをご記憶の方はおられるだろうか。

大垣はホームから見える駅北側の樽見線や美濃赤坂線貨車の留置線のあたりにいて、米原は駅構内北側にいつも停まっていた。

どちらも本線列車からよく見える位置で、黒い異様な車体はとても目立っていたものだ。

残念ながらわだらんは直接そのラッセル車が走っている姿を見たことがないのだが、実際に雪を掻いている姿はきっと頼もしい姿だったのだろうと思う。

とは言っても自走できないラッセル車は今となってはいろいろと面倒であって、自走できるモーターラッセル車に取って代わられるのは致し方なかろう。

機関車があちこちにいて、いつでもラッセル車を押せるような状態ならなんとかなるかもしれないが、最近は機関車がそもそもいないのである。

ただ、モーターラッセル車は保線機械の部類で、なかなか趣味的に取り上げられないのが残念である。

そもそも保守機械類を追いかけるヲタなどごく限られているだろうなぁ。

まぁラッセル車が今にあったら追いかける人間はそれなりにいるだろうけれども。

 

夜野洲駅に大垣行き806Tで戻ってくると、ちょうど向かいに3519M、播州赤穂行きが停まっている。

前8両は米原での増結車なのだが、後ろ4両は敦賀からやってきた車。

車体上まわりではわからないが、床下は後ろ4両だけ雪がついている。

大阪15:15の3478Mが敦賀まで行って帰ってくるのであるが、そのわずかの往復で雪をつけて帰ってきているわけだ。

しかも今日は湖西の積雪はないようなので、塩津あたりの短い距離で床下にたくさんの雪をつけてきたようである。

まだモーターラッセルを走らせるまでではないようで、列車も定刻で走っているのだが、現場の方はさぞ大変なのだろうと思う。

雪と戦う鉄道というと勇ましくて強そうなのだが、今となっては現場の人数が少ない状態で、昔のように人海戦術ができないだろうから、ダイヤが乱れない程度に適度に雪が降ってくれるのが理想かな。

できることなら、高月木ノ本あたりで31日の日曜日に雪が降るなり、あるいは残ってくれていれば、SL北びわこ号が冬の景色によりいっそう映えるだろうなぁ。

もっとも、雪景色のSLを撮るために夏タイヤでやってくる輩がいるようでも困るしなぁ。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  たかが子どものおもちゃ、されど大人のおもちゃでもある

 

1/11

ただ券をもらったので、大阪南港で開催されたイベントに出かけてきた。

プラレール博という、名前の通りプラレールでATCホールを埋めたイベントである。

もちろんこども相手で、大きなジオラマの他に子どもを乗せる遊具やプラレールあみだくじなど、

多くの子どもとその親を集めて盛況であった。

日本列島に見立てて各地の列車を走らせる大きなレイアウトは、確かに楽しい。

もっともプラレールの場合、電車は電池で自走するので、発車停車などは外部から制御することができない。

そんなわけで、レイアウトは基本的に全て円で一つの円には一列車だけである。

これが列車交換だの閉塞だのとなると完全に大人のおもちゃになってしまうのだが、

その一歩手前であるところが見ていて楽しいのだ。

そんな円ばかりのレイアウトが無数にあって、各地の様々な

(といってもプラレールで商品化されているもののみだが)車両が走り回っている。

あまりに列車数が多く、子供と一緒に見ている母親(もちろん父親もだろうけれども)が

走っている列車の種類をどれだけ正確に理解しているかはちょっと気になる。

もっとも幼稚園高年齢(たぶん)にもなれば、列車の種類にかなり詳しい子もいるようで、

親が子供に教えてもらっているような光景を見たりする。

ちなみに図鑑の世界では最近やたらこだわりを持った図鑑が出てきているので、

それらを読んでいる子どもならば親より知識を持っていてもなんら不思議はないのだが。

 

しかしプラレールというのはなかなか不思議なおもちゃである。

構造は極めて単純だし、レールの組立も解体も極めて容易。

レール自体は単純な組み合わせなので、考え方でいかようにも線路を組むことができる。

鉄道模型、例えばNゲージの場合だと、組立解体が楽な線路ユニットも確かにあるのだが、

そもそも精密であるが故にレールの高低差も厳しく、レールの配置もある程度考えなくてはならない。

その点プラレールは線路の拡張性と簡易性がよいので、座敷でも縁側でもどこでも簡単に遊ぶことができる。

ちなみに曲線の半径はちゃぶ台を考慮したそうだ。なるほど。

子どもの玩具でいうと木製のレールと車両も北欧製など日本にも入っているが、これがまた価格が高く、

しかも車両は単純なものばかり、レールも種類が少なく、ある程度で飽きてしまう。

その点プラレールはその年齢ごとに遊びもできて、かつ車両の変化もあって

、50年に渡って続いてきたのだろうと思う。

もっとも最近の車両の中にはどう見ても親、ヲタを狙ったと思われる製品もあって、

適度に大人の購買意欲をそそるものもまた続いている理由なのだろうかと思う。

 

50年近く前、新幹線が走り出した頃はひかり号が子どもの最大の憧れであった。

少なくともわだらんもまだ幼少の頃はひかり号が世の中で一番優れた最高の車両であると信じていた。

もちろん優れた車両であることに間違いはないのだが、逆にひかり号しかヒーローになり得る車両がなかったのである。

今は新幹線の車両形式、種類が増えてしまったし、電車に関する関心が

子どもの世代からずいぶん幅広くなっていて、プラレールの車両もずいぶん賑やか。

通勤電車が子どもの夢の対象かどうか疑問ではあるが、でも通勤電車も日本の鉄道に不可欠なもの。

身近なものと思えば子どもも喜ぶだろうか。

そう考えると、人気の高い、よく売れる車両が何なのか、公式に発表してもらいたいなどと思う。

そうなると四国の2000系とか北海道のキハ183系のような車は全国的な知名度で不利なのだろうか、

などといらぬ心配をしてみる。

 

そんなことを考えながら会場をあとにし、ニュートラムに乗り込む。

小さな車体は会場での土産品を買った家族連れで一杯である。

何を買ってもらったのだろうか、あるいは大人が何を買ったのだろうか、ロゴマークのついた大きな袋が車内を埋めている。

ベビーカーに乗っている小さな子どもたちは会場を楽しめたのだろうか、そして大きくなっても鉄道好きでいてくれるのだろうか。

仕事から鉄道に詳しくなる大人は少なくないだろうけれども、おじさんヲタの多くは子どもの頃からずっと電車好きである。

この子どもたちが大人になる頃には鉄道を含めた公共交通が社会を支える血管であると

もっと社会全体で認識してくれているように、と思わずにはいられない。

 

ちなみにわだらんは株式会社タカラトミーの株主でも関係者でもありませんので、あしからず。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  かつての柳ケ瀬駅も列車扱いで賑やかであったそうな

 

1/8

7日の朝のことである。

いつものように野洲6:14発の713Mに乗ろうと駅へ向かっていると、711Mが駅に入っていく姿を発見する。

周囲はまだ暗く、状況はよくわからないのだが、221系8連貫通編成でかつこの時間に

野洲発でなければ一本前の711Mと見るのが順当である。

およそ4分の遅れ.711Mのダイヤは少し余裕があり、4分遅れなど大阪であっさり戻ってしまうものであるが、

それでもいつも見ることのない電車を見るとちょっとびっくりする。

遅れの理由はどうやら東海区間、関ヶ原から米原にかけての降雪のようで、

713Mを待たせて通過していった遅れの貨物列車(1053列車だろうか?)が最大でもわずか1時間程度しかいないはずの

積雪区間であるはずなのに、台車にぎっしり雪を巻き込んで走り去っていた姿で容易に想像がつく。

となると米原で夜を過ごした711Mが雪を積んでいたかどうかの確認がとれなかったのは残念だが、

人づてに聞いた話では米原から長浜へ朝出向く719Mが雪を積んで大阪へ下ってきていたそうなので、

米原で雪をかぶった電車がいてもなんら不思議はないかと思う。

 

電車は車と違って、冬用タイヤなるものはないし、本来米原あたりで降る量の雪であれば、

積もっていてもそんなに列車運行に支障があるわけではないが、それでも雪で視界が悪ければ信号が確認できるまで徐行しなければならないし、

雪で走行抵抗が増えれば貨物列車などは走りにくくなるし、積雪や溶けた水のついたレールの上ではブレーキの利きが悪くなるので

電車の停車動作には余計に時間がかかる。

ある程度までは遅れをダイヤ上の余裕で吸収できるのだが、それでも雪が降ると遅れやすいことに間違いはない。

都会の人間からすれば雪が積もるのは面白く楽しいことなのだろうけれども、鉄道にとって厄介者であることは間違いなさそうだ。

もちろんヲタ的には雪と格闘する鉄道の姿は格好の被写体ネタなのだが、あまり除雪列車などが走り回る状況は鉄道会社にとっていいことではあるまい。

まぁ雪が降って自家用車から列車に乗り換える人間が多ければそれはまた雪に感謝しなければならないが。

 

滋賀県のアメダスデータでは県内でもっとも雪が深いのが柳ケ瀬ということになっている。もとの余呉町柳ケ瀬、

今は長浜市になっているのだが、年輩の方や北陸線史に詳しい方はすぐにわかるだろうか。

北陸自動車道の賤ヶ岳SAの先のトンネル、というと車に乗る方にもわかるかもしれない。

福井県との境、琵琶湖淀川水系の北の端である。

さぞ北陸線が柳ケ瀬を通っていた時代は大変だったのだろうと思うのだ。

今の北陸線は県境を5.1kmの長い深坂トンネルで一気に抜けてしまうので、以前ほど苦労はしないでも済むのではないかと思う。

もちろん新疋田や近江塩津が多雪地帯であることは疑いない事実であるが。

東海道新幹線も雪にそんなに弱いのなら、トンネルにしてしまえ、という話があったそうだ。

費用多大で実施はされなかったが、上越新幹線の越後湯沢前後にはトンネル以外もトンネルにした区間があるわけで、

数々の関ヶ原付近の降雪対策がいろいろ生かされているのは間違いない。

そういえば降雪対策で有名なのはスプリンクラーであるが、それが野洲市内まで続いているのはあまり知られていないように思う。

今年はまだ野洲で積雪を見ていないのだが、時折南に抜ける雪雲が野洲川に沿って雪を降らせる。

線路近くにいると、スプリンクラーの車両に当たる音は結構大きいので、知らない人はびっくりするかもしれない。

まぁせっかくの設備なので、たまには野洲でスプリンクラーが回るのは面白いだろう、などと野次馬の発想。

 

しかし市町村合併が進むとやっかいなのはそんなアメダスなどの地名がおおざっぱになってしまうこと。

某公共放送の滋賀県内天気予報は合併前旧町名と新市名とが混在して、どういう基準かちょっと悩む。

確かに信楽を甲賀とすると天気予報の精度が疑われるかもしれないし、一方虎姫を長浜といってもそんなに天気に差が出るとは思えない。

もっとも逆に長浜の天気は市街地部分と山間部、それこそ柳ケ瀬のようなところとはずいぶん違うのだが。

元旦は岐阜市内でも積雪があったそうだ。

市内の繁華街である(あった?)柳ケ瀬にも雪が降ったのだろうけれども、岐阜市内の柳ケ瀬と

長浜市の柳ケ瀬が何かつながる糸があるのだろうか、旧岐阜市民のわだらんはちょっと気になるところである。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  新駅が合併による新たな街づくりの起爆剤

 

1/5

新長浜市が元旦に誕生して、北陸線滋賀県内はほぼ長浜市内となった。

余呉や塩津まで長浜市というのもなんとなくぴんとこないが、いわゆる湖北が長浜市になったと思いこんでしまえばいいわけだ。

とはいってもあまりに市域が広くなると、なかなかまとまりとか効率化が難しいようにも思えるが。

 

ところで、野洲市の広報1月号に、篠原野洲間新駅設置の可能性の検討を始めるとあった。

仮称祇王新駅は昔からもぐさのようにくすぶり続けているのだが、昔がいつかと調べてみると、

野洲町が祇王村と合併した昭和30年代始めに新駅計画がある、と野洲町史に出てくる。

その頃東海道線の電化完成で電車が走り出すようになり、駅間距離が多少短くても問題がなくなったわけで、町史にも電車新駅と出てくる。

蒸気機関車の時代は発車停車があまり得意でなかったので、どうしても4km程度の駅間距離がないと、列車がまともに進めなかったのだ。

その時になぜ新駅ができなかったのかわだらんはよく知らないが、おそらくは充分な需要が見込めないと判断されたのではないかと思っている。

 

その後電車が短い駅間を走るのが当たり前になってくると、今度はいわゆる未開発地に街づくりの拠点として先に駅を作る例が出てきた。

今でこそ周囲に大きなスーパーやあるいはアパートの建ち並ぶ南彦根も開業当時はまだまだ水田ばかりであったし、

栗東や南草津に至ってはよくもこれだけ周囲に人が住むようになったと驚くばかりである。

もちろんそれは昔を知っているからそう思えるのであって、駅開業後にできたマンションの新住民のみなさん方は

住居が立て込んだ姿が当たり前のことなのだろうけれども。

祇王新駅が計画通りできていたら、周囲はもっと都市化していただろうけれども、でもおそらく計画が時代より早すぎたのではないかと思う。

新駅の価値が充分理解できていなかったのではないかと思うのだ。

 

実は同じように、新幹線野洲駅の計画もあったと聞く。

もちろん記録に何か残っているわけではなく、当時を知る関係者からの伝聞なので、実際検証しろというと難しい話なのであるが、

国鉄側から打診があったそうだ。

野洲の電車基地が開業したのち、つまり新幹線の保守機械導入の頃に保守基地とセットで考えられていたのではないか、

とわだらんが想像するのだ。

新幹線の保守基地は在来線と接続ができ、かつそこそこの用地を必要とする。

それなら野洲の電車基地横あたりに作れば在来線からちょっと引き込み線を作れば問題ないし、

東海道線野洲駅に近いところに新駅を作れば何かと便利だろうと国鉄側が考えたのではないか、と想像するのだ。

これもどうやら時の行政側が野洲に新幹線の駅はいらないだろう、と国鉄側の打診にあまりいい顔をしなかったようだ。

結果的に栗東の草津線交差部分に保守基地ができたのだ。

もしこの時に新幹線新駅を野洲に作っていれば、野洲の駅前は在来線側・新幹線側双方とも今は大都会になっているだろうし、

またその頃ならまだ地震対策などあまり問題になっていなかっただろうから、盛り土構造を高架橋方式に変えることもなく、

安価に新駅ができていただろうと思うのだ。

ちなみに栗東に保守基地ができたときに新駅の話があったかどうかわだらんは知らないのだが、

少なくとも栗東の新幹線新駅計画がつぶれた最大の理由は知事の意向ではなく、単に栗東が単独市制を敷いたためだ、

とわだらんは思いこんでいるのだが。

 

祇王新駅ができるかどうかは今後の景気動向に左右されるだろう。

野洲市として景気がよくなり、税収が増えなければいくら計画がバラ色でも動けないのだ。

ただ、わだらんとしては新中心地を作ることとセットの東海道線祇王新駅の可能性よりもむしろ

新幹線野洲新駅の可能性を探るべきではないかと思うのだ。

現在の野洲駅と市役所の周囲をより高度利用することで、野洲の地域性を高めるべきでは、と思うのだ。

ちなみに栗東の旧計画地より野洲市小篠原地先の方が周囲からのアクセスなどもずっと利便性が高いと思うのだ。

もっともこんなことを考えるのはわだらんが野洲にマンションを買えたといういわば地の利も少しは影響しているわけで、

もし新幹線駅が野洲に既にあったら、わだらんが住めるような場所が野洲にあったかどうか疑問でもある。

便利さがあまり周知されない方が土地評価額が高くならないのだ。

まぁ、新幹線駅がないおかげで野洲に住んでいるわけであるが、駅ができなかった話については

また行政を知るお方に話を聞いてみようと思う。

郷土史研究家わだらん、ちょっと無理があるな。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽  平和で楽しい一年でありますように

 

1/3

長かったような短かったような正月三が日が終わった。

幸いにも今年は新年早々の人身事故はなかったようで、なによりの出足である。

やはりめでたい期間ぐらいは平穏であってほしいと思うのだ。

それでも元旦は荒れ模様のところも多かったらしく、折角のぞみ29号で最後の500系を堪能しようと意気込んだみなさんは

雪でダイヤが乱れて500系が入らずがっかりしたようだし、大晦日夜の夜行列車は運休だらけのようで、

ヲタにはあまりやさしくなかったのかもしれない。

ヲタの愚痴は仕方ないとしても、年末年始の鉄道利用は好調だったのだろうか。

もちろんあす4日に帰省先から戻る方もまだおられるだろうからまだ全て終わったわけではないが、

やはり高速道路割引で利用者が自家用車に流れているのだろうか、気になるところである。

もっとも高速道路の渋滞は例年よりずいぶん長いようなので、渋滞を避ける鉄道利用者が多いことを祈りたいものだ。

もちろん渋滞に巻き込まれたにしても、安さでは対抗できないのだが。

そんなわけで、年の初めは鉄道にとっていい年ではなさそうである。

景気減速や高速道路割引での需要減からダイヤ改正で減量される線区が琵琶湖線も含め多数出てくるようで、特に地方はたいへんである。

せめて地方の公共交通に対する幅広い支援が深まればうれしいな、年末新規開業の富山市内路面電車環状線が

そんな地方交通支援への導火線になればと思う。

 

そんなことを考えていながらわだらんが全く三が日に鉄道に乗っていないのもよろしくなかろうと、3日に琵琶湖を一周してきた。

もっとも近郊区間大回り制度の中での話なので、草津→野洲の190円でぐるっと回る、あまり自慢できる話でもない。

まぁ鉄道会社に貢献したわけではないが、なかなか一周3時間、楽しめるものである。

ちなみに日中ならちょうど3時間で内回り外回りとも一周できる(実際にはどこかで一旦改札を出る必要があるので、一本前の電車が出だしになるが)し、

それが1時間おきにあるというありがたい話で、敦賀直流化による琵琶湖環状線構想の賜物である。

そんなわけで湖西線を近江塩津へ、そして北陸線で米原へと向かう。

永原から高月あたりは一面の銀世界で、大阪あたりの人々にはさぞ珍しいのだろう、シャッター音が車内あちこちで響いている。

半自動扱いのドアを閉めて降りていくのが地元民、降りるときに開けたままなのはよその人、とはっきり別れたりする。

確かに地下鉄が半自動扱いだとまたびっくりするから、半自動に慣れていなくても仕方ないのだけれど。

 

そんな周囲の観察を楽しんだ琵琶湖一周であったが、一番うれしかったのは偶然にも今日の通称堅田シャトル、

日中の京都堅田間の折り返し運用が湘南色ばかりの8両であったこと。

年末に湘南色8両を見られたらラッキーか、と書いたのお願い事がかなったか。

もちろん運用をきちんと追いかけていれば、何ら驚く話ではないのが、なかなか運用を追いかけてまで見に行こうとも思わない、怠惰なわだらんである。

でもそんなわだらんに湘南色8両を逢わせてくれたのは何かの縁か。

今度のダイヤ改正で消える堅田シャトルであるが、いつか復活してもらいたいものだ。

湖西線も草津線もまた元気を取り戻して、電車が増発できるような世の中に戻ってもらいたい、

と世相の好転を単に列車増発だけの理由で期待するわだらんである。

 

 

そんなわだらんの独り言ぶつぶつもおかげさまで丸5年がたちました。

これも皆様方におつきあいしていただいているおかげです。

どうもありがとうございます。

どうぞみなさまがよい一年を過ごされますように。

 

そして遅れましたが、明けましておめでとうございます。

本年もどうぞおつきあいのほど、よろしくお願い申し上げます。

 

わだらん

 

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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください