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わだらんの鉄道自由研究表紙へ
10年 5月
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845. 5/31 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ グリーン券を持たざる客は立入禁止
844. 5/30 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車の姿が見えない電車のホーム
843. 5/27 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 公共の場のマナーは誰がどこで教えるのだろうか
842. 5/25 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ あとの電車もご利用ください
841. 5/22 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 食べ放題という甘い言葉
840. 5/19 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 養父の真相は藪のなか
839. 5/18 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ラッシュの体験も思い出になるだろうか
838. 5/15 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 売り残りの繰り越しができないからスーパーの生鮮食品と同じ
837. 5/13 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ファースト・ビジネス・エコノミー?いや上流・中流・庶民かな?
836. 5/10 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 川の流れも線路もまっすぐの方が気持ちいいよなぁ
835. 5/8 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 標準化汎用性と車両の個性は両立するだろうか
834. 5/6 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 通告なしで別の線路に入るのが難しいご時世
833. 5/5 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 風が吹くと儲かるのは桶屋、快速が遅れると困るのは新快速
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ グリーン券を持たざる客は立入禁止
5/31
ドイツ連邦鉄道の103型電気機関車をご存じの方はおられるだろうか?
車両自体はずいぶん昔の車で、すでに現役を引退しているのだが、1970年代から90年代にかけて、
西ドイツ国内で特急列車を牽引して最高時速200kmで走り回っていた機関車である。
その実力に似合わない丸く優美な車体は上半身クリームに腰回り赤のスマートな塗装と共に日本でも有名で、わだらんも絵本でずいぶん姿を見てきた。
なので、実際に欧州へ出かけ、103型機関車とそれに連なる特急客車編成を目で見て乗ってとにかく興奮状態であった。
特に北ドイツ平原をハンブルクに向け走る列車はまさに平原を滑っていく感じで、なんとも言い難い至福のひとときというか、
こんなに列車に乗るのが楽しくていいのだろうかとまるで夢心地であった。
もちろんそれは欧州の列車に対する憧れも大きく作用しているので、冷静になれば感じ方ももう少し違っていたのかもしれないが。
ところで、欧州の特急列車、もちろんこの103型機関車の牽く編成もそうであったが、比較的長い10〜14両編成で、
ことDBの特急客車編成で言うと、先頭より2〜3両が一等車、次に食堂車、そして後位に二等車を5〜8両程度つなげていた。
もちろん編成逆向きも当然あるので、二等車が前くることもある。
いずれにせよ、一等車は編成のどちらか一端で、中間に一等車がくることはなかった。
そして一等と二等の間には食堂車が挟まっていて、二等客が一等車を通ることはまずないようになっていた。
この姿は多少違ってはいるが、今のICE編成もほぼそれを踏襲していて、一等車が編成の一端についている。
が、この形はかつての日本の特急列車でも同じだった。
むしろ展望車の関係で、編成後ろよりに高位の車が来ていたが、編成の中では等級で車両の位置が揃っていた。
ところが、国鉄が特急急行を増発して行くにあたり、車両増備の中心となった特急型485系電車や、
165系・455/475系の急行電車、キハ58系気動車などは二等車、のちのグリーン車が編成中間に入るようになった。
おそらくはホームの端まで二等客を歩かせるのは不親切だ、との判断だったのだろう。
実際東海道山陽新幹線の場合、各駅のほとんどのホームへの階段は編成中央位置にあって、1号車や16号車は階段から遠いのである。
ところがなぜか、在来線ではJRになったとたんに再び特急のグリーン車はみな先頭車になった。
大阪から西では、しなのも含めてほとんどが先頭グリーン車。
もちろんしおかぜとかやくもとか、かもめとかの九州四国の列車も含めて言えることである。
数少ない例外はスーパーはくとだが、これはあとからグリーン席を編成に加えたのでちょっと特殊事情。
つまり中部以西の在来線で編成中間のグリーン車はもう貴重な存在なのである。
そんなことを考えたのは、通勤の新快速から見える吹田工場に停まっているサロ489を見たからである。
急行能登の廃止で定期運用はなくなったので、廃車前提で吹田に来たものと思われる。
経年を考えると廃車は仕方ないことだと思う。
が、このサロ489の廃車で、485系からサロが消えてしまったのである。
貫通路の曇りガラス、絨毯引きの床、肱置きにかけられた白い布、そんなに何度もグリーン車に乗ったことがあるわけではないが、
今でもその姿をすぐに思い起こすことができる。
どことなく重厚な作りは、JRになって出てきた特急車のグリーン席とはまた違う貫禄を持っていたのだが。
サロ489が消えると、中間グリーン車はきたぐにのサロ581ともはや風前の灯火のはまかぜキロ180のみになった。
中間車のグリーン席が特別何か凄いものでは決してないが、でも何となく小窓の中間グリーン車は編成内でちょっと特別なことを主張するに充分である。
そんな寂しそうに見えるサロ489を見るに付け、やはり早いうちにはまかぜキロ180に乗っておくべきだろうか、とちょっとそわそわしているわだらんである。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車の姿が見えない電車のホーム
5/30
土曜日の朝起きてみるとあまりに天気がいいので、半日ふらっと出かけようと駅へ向かった。
取り立てて目的が決まっているのではないが、こんないい天気なので、六地蔵へ行ってみようと思ったのだ。
京都の地下鉄東西線は山科から市内向きは何度となく乗ったことがあるが、南向けは乗ったことがない。
走っているところはおおよそ想像はつくのだが、どうも外環東野とか石田団地入口とか桃山南口とか、
車で走って気持ちよく走れた記憶がなく、縁遠いと勝手に思いこんでいる。
そんなわけで、地下鉄ですら六地蔵に来ることはなかったのだ。
もちろん醍醐地域の住民コミバスとか、醍醐駅ビルとか、この地域で気になるところはいくつかあるのだが。
そんな気になることのうち、地下鉄六地蔵駅は京阪六地蔵駅と安易に乗換ができるのだろうか、とずっと気になっていたのだ。
JR六地蔵駅から京阪駅はよく見えない。ならば乗換が簡単には思えないのである。
さて、六地蔵駅に着いてみると、改札に京阪の駅への道順が貼ってある。
やはり地上を歩くわけだ。
実際には山科川の堤防に出て、堤防を歩いて道路を渡って京阪駅へ、と。
標識によると310mだそうだ。
不動産広告は1分80mで計算するので、それに従うと乗換所要時間は4分となる。
確かに堤防上は車も通らず、一度通れば覚えるにたやすい道ではあるが、でも雨除け日よけは全くなく、風雨強いときでは結構大変だろうと思う。
おまけに京阪は10分おき、地下鉄は15分に2本とサイクルは合わず、地下鉄駅のホームへの上下距離も合わすと実質の乗換時間は4分どころではすまないと思われる。
運賃を考えると京阪六地蔵から淀屋橋まで390円とずいぶん安く、たとえば椥辻からなら、JR山科に出るより、
六地蔵で京阪に乗り換える方が大阪市内へは安くなるだろうけれども、乗換が面倒なようでは、なかなか一般的なルートにはなりにくそうだ。
結局京阪宇治線の利用者が減ったのは、JR奈良線の強化によるものというのが定説ではあるが、案外地下鉄東西線の開通延伸もその理由なのかもしれない。
京阪六地蔵から地下鉄があるにもかかわらず、山科駅や三条京阪への京阪バスが比較的便利な方法で残っているのも、地下鉄に乗るならJRに流れてしまうので、
せめてバスから京阪六地蔵に来てもらおうという狙いなのだろうかと思ってしまった。
ところでこの地下鉄東西線、大きなホームドアで、車両がなかなかホームから見えない。
おまけに車庫も地下にあって、車両全景を見るのはまず不可能である。
電車が来たというわくわく感は大きなホームドアで囲われた中では得るのは難しい。
とはいえ、これならまずホームからの転落はないだろうし、安全第一ならばやむを得まい。
ましてやこのところ自殺騒ぎが多く、ホームから線路に降りることができなくなるのは利用する乗客側からすれば
輸送支障の要因が一つ減るわけで歓迎されることがらではあるが。
北新地駅にホームドアを付けるそうである。
ありがたいことに全面的なホームドアでなく、新幹線駅にあるような腰から下のドアのようで、電車を見ることができるというヲタ的観点で言えばありがたい話だと思う。
何しろ京都の東西線に乗っていると、確かに駅間を走っていれば地下鉄であるが、でもホームにいるとエレベータに乗るのと変わらない。
ニュートラムもポートライナーも何かエレベータに毛が生えたような(失礼な!)ものだし、
京都地下鉄東西線でももともと外が見えない上にハコに乗っているようでどうもつまらない。
それならまだバスの方が乗り物らしいかな。
でもここ六地蔵のあたり、外環状線などの道路状況好転しない状況では、どちらにせよわだらんにとって縁遠い地域であることは間違いなさそうだ。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 公共の場のマナーは誰がどこで教えるのだろうか
5/27
9番ホームに上がると、ちょうど寝台特急日本海の乗車案内を放送していた。今日は10両だそうだ。
いつもより長い、ちょっと気になる編成である。
今の日本海下りは機関車の次位に電源車がつき、その後ろが12号車のA寝台、11号車のB寝台と続き、最後尾が1号車。
なので機関車なども含めるとフルで14両の長い編成である。
が残念なことに実際には通常10号車から7号車の4両が欠車になっていて、乗客の乗る部分、つまり寝台車は8両繋がった状態がいまの編成。
昔の長い寝台特急のイメージからするとちょっと若干もの足らないが、まぁ走っているだけでも良しとしよう。
そんな日本海が今日は7・8号車が復活した10両。
ホームを進んでいくと、10番の中程に高校生の団体がいる。
青森県の修学旅行生のよう(聞いたわけではないので、わだらんの憶測である)で、楽しい旅行が終わって帰路に着くところのようだ。
修学旅行の夜といえば昔は枕投げと決まっていたものだが、最近はどうなのだろう。
もっとも寝台車のなかでは枕投げなどできないが、その分どこかの区画に集まって夜中まで騒ぐのだろうか。
編成増結ならば、おそらく車両貸切状態だろうから、迷惑を周囲にかけない程度の楽しい夜行列車の旅であってほしいと思う。
何しろ今のこの日本海の運転は修学旅行を含む団体利用で維持されているようなもので、
もし団体利用がなければ即座に廃止されてしまってもなんら不思議でない。
実際大阪でも京都でも、日本海の到着を待つ客は高齢者か団体ばかり目に付くのだから。
昔は定期列車の輸送力が一杯いっぱいで、修学旅行のような大集団の団体は特別に列車を仕立てることが多かった。
それ故修学旅行専用車両などが存在したのである。
今は車両の貸切状態はあるにせよ、団体列車が減ってしまって面白みがないのが残念である。
もっとも修学旅行自体が少子化や海外旅行など昔に較べて人員自体少なくなってしまったのだろうけれども。
列車の利用は駅や車内での公共マナーを学ぶに大事な経験のはず。
もっとも貸切状態の車内ではマナーも何もあったものではないが。
出かける用事があって、その帰路近鉄電車で京都に向かっていた。
珍しく3200の地上の急行運用だ、などと丹波橋で入線をみて喜んでいたのだが、車内に入ってびっくり。
もともと混雑激しい上に、一部の集団が大声でしゃべるだの歌うだの、ととても分別ある中学生の集団とは思えない。
わだらんの乗った位置の反対側、つまり進行右側の扉付近に10名くらいだろうか、
車内が混んでいるのでよくわからないが、とにかく車内に十二分に届く声で話しているのだ。
名札を見てみると、どうも修学旅行でやってきた中学生、東京23区のすぐ隣の市の中学生のようだ。
よく子供の仕草をみて「親の顔が見たい」というが、まさにその心境、中学生たるものが、マナー知らずか、とがっかりである。
確かにその中学校のある市はつい最近、つくばエクスプレスの開業まで市域に鉄道がなかったが、
まさか中学生になるまで電車に乗ったことがないとも思えないのだけれど。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ あとの電車もご利用ください
5/25
野洲に広がる水田はもう田植えも終わって、伸び始めた稲が風にそよぐ気持ちいい季候になった。
そろそろ梅雨の頃、いつ雨が降ってもおかしくないが、災害になるような雨は勘弁してもらいたいものだ。
月曜朝、播磨は大雨になって大騒ぎである。
市川の水位が上がって、山陽線は運転見合わせになった。
そうなると新快速も快速もぐだぐだである。
あとから地元の人が撮った市川橋梁の写真を見たのだが、広いグランドは完全に水没して、山陽線の橋桁近くまで水が流れている。
確かにこれでは運転見合わせもやむを得まい。
もし何か大きなものが流れてきて、橋に損傷でも与えて線路が曲がったら、と思うと恐ろしいものだ。
そんな状況なので、帰りはどんな無ダイヤ状態なのか気になるのである。
そもそも電車がまともに走っているかどうかわからない。
まずは駅へ行こうと、残った仕事を全部明日回しにしてとっとと帰宅準備、大阪駅の改札を17:30を少し回った時点で通過する。
すると思ったより電車は落ち着いている。
17:30の3496M敦賀行きが10分遅れの案内を出しているが、一方17:38の804Tは定刻の様子。これなら、と8番のりばへ向かう。
どうやら内側のC電、T電はなんとか順調に回っているようで、7/8番のりばのホームはいつも通りの混雑度。
一方9番は新快速が遅れている影響で、乗車の列は10番のりば側に届いて末端は列の様相が取れない有様。
そんな混雑する9番のりばを横目に見ながら、定刻でやってきた正規編成、10両の804Tに乗り込む。
乗り込んだのは2号車、後ろから2両目の位置で編成後部とあって車内は落ち着き、わだらんも窓側こそ無理だったが、座席を確保。
あっさり着席とはありがたいことだ。
結局高槻まで新快速に抜かれず、804Tはそのまま高槻まで逃げ切り。
つまり3496Mはほとんど15分遅れ、つまり3498Mのスジで走っているのだ、と容易に想像はつく。
それなら混んでいる新快速に乗らずこのまま804Tで野洲まで帰ろう、せっかく座っているのだから、とのんびり構えていた。
ところが、ふと見上げた高槻駅ホームの案内に3496Mが10両とある。
これは見ておかねばならない、とあわてて804Tを降りる。
そして待つことわずか、804Tの開通待ちをしていた3496Mが入線する。
6+4の10両で、前編成が米原まで、後ろ編成は敦賀行きという日頃見ることのできない編成である。
車内はさすがに混んでいるが、それでもいつもより2両長い分、比較的落ち着いているように見える。
そんな10両の3496Mに乗っていこうとドア前で待っていると、ホームの係員の「次の野洲行きも後ろにいますのでご利用ください」との声が。
振り向くと確かに223系が場内開通待ちで停まっている。
となれば後続の方が空いているはず、と敦賀行きを見送る。
3496Mの出たあとに続けて入ってきた3498Mは案の定空いている。
あっさり座席を確保。
前の敦賀行きではとても座れる状況でなく、続けてくる電車のありがたみさまさまである。
本線の運行管理システムが稼働してもう結構な時間が経った。
おそらく司令員の異常時多忙によるものか、大きな駅での列車扱いには疑問が出るばかりだが、でも列車の接近案内などはずいぶん便利になった。
今日も後ろに3498Mがいるのはホーム案内でわかったし、遅れ時分でおおよそのスジも読めるようになった。
この部分は確かによくなったと思う。
空いたままの3498Mは高槻5分遅れ以降そのまま順調に走り、野洲手前までやってきた。
野洲の場内開通待ちでちょっと手間取ったが、結局5分遅れで野洲着であった。
向かいにはダイヤ通り802Tが待っている。
ということは802Tを3番に待たせて、遅れてきた3496Mを2番に振ったのだな、とこれまた推測ができる(駅で確認するとやはり3496Mは2番であった)。
結局大阪から野洲までずっと座って帰ってきたのは的確な情報のおかげか、と少しは運行管理システムに感謝をしてみる。
ついでに言うと、駅の発車案内をネットで中継してくれると、もっと状況がよくわかるのに、などとヲタしかできないわがままな思いつきをするわだらんである。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 食べ放題という甘い言葉
5/22
口蹄疫なる伝染病が宮崎で大流行だそうで、なんともいたたまれない話である。
感染のおそれ、の一言で命を失う多くの牛豚は哀れ以外の何者でもないし、そんな無益な命の終末に付き合わねばならぬ
農家のみなさまの怒りや悲しみはどれほどのものだろうか。
伝染病自体は恐ろしいものであるから、「処分」という言い方で片づけるのは仕方ないのだろうけれども、
もう少し救う方法がないのだろうか、と外野であるわだらんがつぶやいてみる。
帰宅時の新快速の車内で、立っている暇つぶしに電車の中を見回していると、
日帰り駅プランの吊り広告が「近江八幡のバームクーヘン豚食べ放題」と囁いている。
バームクーヘン豚と言われて一般の方はぴんとくるのだろうか。
まぁ最近はいろいろ雑誌だのネットだの情報源豊富なので、ご存じの方もいるのだろうし、
ご存じの方がいるからこそバームクーヘン豚が謳い文句になるのだろうけれども。
まぁ店の宣伝で「食べ放題」というのは結構効くそうで、この甘い言葉に釣られて女性のグループがどんどんと琵琶湖線に乗ってくれればうれしいものだ。
ちなみにこのバームクーヘン豚、わだらんはまだ食べたことがないのであれこれ説明も評価もできないのだが、
要するに、某有名洋菓子店のバームクーヘンの切れ端を食べて育った豚、ということである。
決して豚肉でバームクーヘンを作るとか、肉が年輪になっているとか、そういうたぐいのものではない。
竜王や日野、水口あたりの丘陵地は牛や豚、あるいは鶏舎の多いところで、近江牛や地卵などとして売られている。
このバームクーヘン豚というのも日野町内の養豚場で生まれるものだそうだ。
地元ならではの滋賀県の名産品をわざわざ食べに来ていただくのはありがたい話で、もちろん「駅プラン」は鉄道の集客目的ではあるが、
結果として活性化、あるいはそこまで行かなくても知名度を上げるだけでも、地域に役立つことができれば、と思う。
もっとも今の世の中、何か媒体を通じて名前が売れれば、ものがいいか悪いかにかかわらず、とりあえずみんな寄ってたかってくるようではあるが。
できることなら無理に背伸びせず、地道に知名度も評価も上がる方がいいのに、と思うのだが。
まぁ滋賀県と言うところ、見るものも食べるものもいろいろあるが、なかなかそれだけでは人が呼べないのがつらいところに思う。
ちなみに近江牛の定義は「滋賀県内でもっとも長く飼育された牛」だそうで、出生地は定義には関係ないらしい。
宮崎の口蹄疫のために種牛確保が問題になっているそうだ。
早期に収まらないと、滋賀県の産業にも影響が出てくるようでやっかいである。
疫病の疫でなく、有益の益とか、電車の駅とか、やっかいものでないエキであってほしいと思う。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 養父の真相は藪のなか
5/19
世の中最近変な事件が多い。
殺人事件の多さも気になるのだが、その動機とか背景が納得できないものも多い。
そもそも5人も子どもがいる39歳の男が、どうして36歳の女を自分の娘にする必要があるのかよくわからない。
まぁそんな事件のおかげで夕刊紙や週刊誌は話題が尽きなくていいのかもしれないが、
そんな事件ばかりで紙面が埋まるのも困ったものである。
そんな世相にもかかわらず、以前にも書いたことがあるが、最近帰宅時の電車の中で
夕刊紙やスポーツ紙を読む人間の数がずいぶん減ったように思う。
昔は夜の電車といえば、もちろん路線や列車種別での差はあるものの、夕刊紙やスポーツ新聞と缶ビールやカップ酒が定番であった。
今となっては混んだ新快速の車内で酒を飲むのは窓側に座れない限りなかなか難しいのであるが。
そもそも今の琵琶湖線京都線の各線ではホームでの供食施設がずいぶん貧祖で、ホームで軽く一杯飲めるところがない。
新大阪と京都のホームにはうどん屋があって、いちおう夜になるとビールもあるのだが、どうも店の雰囲気が明るすぎて良くない。
だいたい、夜の一杯というのはどちらかといえば薄暗い、あまり小綺麗でない立ち飲み屋の方がよほど雰囲気があって入りやすい。
名鉄の金山や神宮前あたりのきしめん屋の雰囲気にあこがれるのだ。
まだ酒を飲んで名鉄に乗って帰宅するという状況がないのであくまで思い込みだが、東海道線の車内から見る限り、
立ち飲みのみなさんがちょっとうらやましいように思う。
結局最近はみんな帰宅の車内でも携帯の画面を見ることが多くて、ちょっと一杯という気分にならないのだろうな。
そんなわけで、スポーツ新聞なども車内で見ることが少なくなって、おこぼれを期待しているわだらんにとってはずいぶん寂しい世相である。
昔は少し遅い新快速で野洲に着くとたいていスポーツ新聞が座席に放置されていて各紙とも揃ったのだが。
321系に続いて新車225系も車内に画面が付いて停車駅の案内や広告を流すそうだ。
321系に乗ってみると確かに次駅の案内などわかりやすく、また広告も見ていて時間つぶしにはなる。
でも普通電車と違って比較的乗車時間の長い新快速では繰り返しで画面も飽きてしまうだろうな。
やっぱり人の新聞を横から読むのが一番楽しいように思う。
もちろん読んでいる新聞の持ち主に気づかれないように、上手に眼で追わなければならないが。
車内で新聞が少なくなったのはつまらないな、とぶつぶつ。
何しろ人の新聞であるから、全容がわかるのに時間がかかる。
高槻の淀川堤防で見つかった殺人事件に関する報道とは知らずに、見出しの「養父自殺」を「ようふ」でなく「やぶ」と読んで、
何か但馬で事件でもあったのか、と一瞬悩んでしまった。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ラッシュの体験も思い出になるだろうか
5/18
「二度とかえらぬ 思い出乗せて クラス友達 肩寄せ合えば ベルが鳴る鳴る プラットホーム」
と聞いて歌が歌える人は単なるおっさんであるはずだ。
ちなみにわだらんも歌えるのだが、それはずっと時代が下って懐メロ番組で知ったのであって、
この歌の発売当時のことは全く知らない。
ちなみにこの舟木一生の「修学旅行」、調べてみると歌の発売は昭和38年だそうだ。
ちょうど今の世代の鉄道車両が生まれ始めた時期で、103系や471系など、
あるいは阪急2300系など、今でもがんばる車がなんとかぎりぎりで残っている。
そんな車が次々出てきて、みんなが鉄道で旅行を楽しめるようになってきた時代なのだろう。
修学旅行の専用車両として155系やキハ58の800番台とか、あるいは近鉄のあおぞら号などがが出てきたのもこの頃で、
当時の修学旅行生のみなさんはそんな専用車両できっと楽しい旅行をされたのだろうと思う。
最近は修学旅行専用車両はなくなってしまって、車両の面白みはない。
もちろん今でも新幹線や集約臨など団体専用の修学旅行輸送列車はあるが、
定期列車と区別がつかないものが多く、見ていてワクワクするものではない。
もちろん当の学生さんたちはきっと楽しいのだろうけれども。
いつものように帰宅しようと大阪駅9番ホームで新快速を待っていると、近くで周囲と全く違う集団がいるのに気がついた。
どうやら修学旅行生で、此花区の某遊園地からの帰りのようだ。
単なる遠足ではなかろうというのは、その制服姿でわかるのだ。
少なくとも此花区の某遊園地に遠足に行くような近在の小学生は学生服など着ない。
みんなが同じような土産袋を持ち、かつ学生服であれば、まず間違いなく高校生であろう。
ただ、みんな荷物が少ないので、移動中ではなく、旅程の途中でのお出かけのようだ。
とすると、京都に宿泊しているのだろう、今日は一日此花区まで電車で遠征したのだろうとおおよその想像はつく。
やがて入ってきた新快速にその集団も流れ込む。
何とか車内に入ったのだろう、やたら大きな話し声が聞こえる。
もともと混む宵の新快速の車内である。
いつもなら人は多いものの比較的静かな車内は、ちょっとやかましい。
どこからきた高校生かは結局わからずじまいだったが、案の定京都で彼らは下りていき、いつもの混雑しつつ静かな車内になった。
どちらから来たのかがわからないので断言はできないが、きっと混んだ電車というのは非日常の体験だったのではなかろうか。
もちろん地方都市であっても混んだ電車はあるわけで、決して地方を見下すつもりは毛頭ないのだが、でもいつもと違う電車で、
かつ人のやたら多い大阪駅や京都駅を利用した彼らたちにとって、ラッシュの電車移動体験がどんな印象を持ったのか、
通勤電車とはどんなものに見えたのか、ちょっと気になる。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 売り残りの繰り越しができないからスーパーの生鮮食品と同じ
5/15
わだらんが海外に初めて出かけたのはもう25年も前の話である。
今から思えばずいぶん冒険だったと思う。
何しろ最初にでかけたときから海外旅行は一人でずっと移動していたし、列車もホテルもその場で取る、つまり今のわだらんの旅行スタイルと全く変わっていない。
ちなみに、この一人ででかけて、夜行列車で宿代を浮かし、必要ならホテルは飛び込みで探す、というのはさらに昔にわだらんが九州や北海道の旅行のスタイルそのままで、
つまりわだらんに取っては九州4日間ワイド周遊券の旅と欧州ユーレイルパス10日間の旅は内容がほとんど変わらないということだ。
どうせ欧州にいても美術館や観光名所に行くわけでなく、ずっと列車に乗っているか鉄道施設内にいるだけ、日本でも欧州でも旅程の中身は変わらないのである。
しかし、そんないわば贅沢な旅行をわだらんができるようになったのも海外旅行が身近になったおかげ、航空運賃が下がったおかげである。
その25年前くらいというと、ちょうどジャンボジェット、ボーイング747がフラッグキャリアのフラッグシップとして君臨し始めた頃、ちょうど747-400が出始めの頃である。
主翼の先に補助翼を付けた姿はなんとも迫力満点であったし、ジャンボジェットに乗ることが海外、特に欧米に行くことと同意であった。
欧州のフラッグキャリア、英国航空もエールフランスもルフトハンザもKLMも、あるいはカンタスもシンガポール航空も、大韓航空も、そして日本航空も、
747を多く保有し飛ばしているところが大手航空会社の代名詞であった。
時代は変わって、今やジャンボジェットは燃料喰い虫の悪者扱いである。
瀕死の日本航空は今年中に747を全て退役させるそうだ。
確かにエンジン4発と2発では2発の方が燃料を食わないし、2発の777で太平洋もシベリアも飛び越せるのだから、わざわざ4発の燃料喰い虫を飛ばす必要はないのだろう。
でも二階建ての大きな機体は、ずんぐりむっくりの777とはまったく違う迫力を持っていると思うのだが。
747ジャンボジェットの功績は何と言っても航空運賃を下げたことである。
就航当初あまりの乗客収容数の大きさのため投入を躊躇した航空会社もあると聞くが、空いた席は安い価格でも埋めてしまうという
今までにない座席の捌き方のおかげで、わだらんのような貧乏人でも海外旅行ができる世の中になった。
そんな立役者が航空会社の体力だけの理由であっさりと退役するのは何か寂しいというか、そこまで悪者にしなくてもいいのに、と思う。
残り席を出発間近になって安く売りさばいたり、旅行社が大量に一括購入した座席を出発日に応じて価格に差を付けて販売するとか、
そんなスタイルは航空業界では当たり前になってしまっているし、都市間ツアーバス(そもそもツアーバスが決まった路線を毎日走ること自体おかしいのだが)出発日で運賃が違ったり、
前日の売りさばき低価格など当たり前に取り入れている。
いいのか悪いのか。
でも、大阪駅で新快速を待つ長い列を横目に走り去る空席ばかりの京都行きスーパーはくとを見ては、そんな座席の売りさばき方があってもいいように思う。
大阪京都間、各特急の末端区間側で通常の指定券と別に、発車30分前から、指定席の残席数のみに絞って300円で指定席を売り出したら、少しは増収にならないだろうか。
下り京都大阪間で雷鳥サンダーバードにひだしなの、上り大阪京都間でスーパーはくととはるかくろしお。
特に夕方以降、300円で座れるなら乗ってもいいか、と思う人間はきっとわだらん以外にもいるはずだ。
そもそも指定席は売り残っても翌日に繰り越せるわけでない。
つまり、閉店間際に半額で売り切ってしまうスーパーの生鮮食品と同じはずである。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ファースト・ビジネス・エコノミー?いや上流・中流・庶民かな?
5/13
今や死語に近いかと思われるのだが、昔からみどりの窓口や車内車掌相手に座席や寝台を確保する際に
「ハザ1枚」とか「ロネ1枚」などと声をかけ、それで用事が済んでいた。
切符の話だと1席、2席の意味であるし、列車編成で使うと1両2両の意味になって、「今日はハザ1増結」などと駅で使われていた。
ザは座席のザ、ネは寝台=寝るのネであり、ロはグリーン車、ハは普通車のこと。
つまりハザと言えば普通車指定席で、ロネならグリーン=A寝台のことになる。
もともと日本の鉄道は一等車、二等車、三等車の三階級(正確には上等中等下等)でスタートしていて、階級でおおよそ乗客の構成も決まっていたそうだ。
かつて東海道線の特急についていた展望車など、とても庶民の乗れるものではなかったそうだ。
もちろん運賃料金もずいぶん差があったから、庶民には高嶺の花であったことが間違いないのではあるが。
いつの間にか時代は進んで、展望車のような特別な車、一等がなくなって、新一等と新二等の二階級制になり、
それが今は等級なしでグリーン車と普通車になっている。
一等二等とグリーン車普通車は似て非なるもので、今のグリーン車は利用の料金を普通運賃に積み増しするのに対して、
一等運賃は運賃自体が高く、高価だが快適な移動を保障されていた。
欧州の鉄道は今でも一等二等の制度で運賃に差がついているので、一等運賃を払った客は一等に乗る権利があり、
そんな理由からほとんどのローカル線や普通列車でも一等席がある。
一方グリーン車は乗る区間だけ料金を払えばいいわけで、すべての列車にグリーン車が付いている必要はない。
もっともフルムーングリーンパスなどはもともとグリーン車に乗れる権利を持っているわけで、
グリーン車のない特急などに乗っていてはもったいない、とまたわだらんが小さいことを言っている。
いずれにしても、今やグリーン車の敷居はずっと低くなって、乗客の身分だの品格だの言っていられなくなった。
もちろんそれを悪いとは言わないが、でも何かグリーン車のありがたみ、優越感というのは以前に比べてずいぶん小さくなったような気がする。
そんな敷居の低くなったグリーン車を見下す(言い方が悪い?)かのように、来春に東北新幹線にグリーン車の上を行く席が設けられる。
久々の三等制であるが、しかし東北新幹線で果たしてグリーン車の上を行く席に乗る客がどれほどいるか、ちょっと心配。
ましてや乗客の多くが所要2時間の仙台で降りる状態で、供食サービスなどが成立するのだろうか。
もちろん当然深い検討の結果だろうから、わだらんが心配することではないのだろうけれども。
確かに一度は乗ってみたいものの、わだらんが乗るのはいつの日のことだろうか。
帰路、新快速の北近畿やくろしおの往復割引切符の吊り下げ広告に踊る「追加2000円でグリーン車に」という
これまた敷居の低い話、いや決して悪い話ではないのだろうし、憧れのグリーン車に手が届くのは特に家族で旅行するにはいいのだろうか、
と悩んでみたりしながら、まさか「はやぶさ」の名称とは、とJR東日本のプレス発表を思い出してみる。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 川の流れも線路もまっすぐの方が気持ちいいよなぁ
5/10
青木栄一先生の書かれた「鉄道忌避伝説の謎」という本を読んでいる。
こんな本を置いてくれている野洲図書館にまず感謝しなければならない。
とても万人向けの内容ではなく、読むような人間はごくごく限られると思われる、地理的歴史的にずいぶん内容の濃い、でもわだらんにはとても面白い本である。
よく明治初期、街道に沿った村などが汽車が来るとよくないことが起こる、と線路をわざと集落から遠ざけた話、
いわゆる忌避伝説というのが世の中の通説なのだが、それをほぼ正面から否定している。
なるほどこの本を読むと、明治時代の線路敷設が従来の街道筋では難しく、鉄道の論理で合理的に選択されたルートが
のちに忌避伝説のもとになったのだろうと納得するに十分である。
名古屋京都間にしても琵琶湖の水運が利用できる中山道まわりの方がとりあえずの敷設距離を短くできるのだ。
もし明治政府がもっと裕福で、鉄道敷設に予算を回すことができれば
ひょっとすると東海道本線は旧東海道の街道筋に沿っていたかもしれない、などと考えてみる。
ちなみにもうひとつ思ったのは、明治の初期まで橋梁はたいそうな土木工事であって、江戸幕府が大きな川に橋を架けなかったのは架けたくても
それが土木上できなかったのではなかったのかもしれないのだろうかということである。
旧東海道の野洲川には橋がなく、横田の渡しで野洲川を横断していた。
昔から野洲川、特に三上山を抜けたあたりから琵琶湖に注ぐまでの区間は暴れ川、つまりしょっちゅう洪水を起こして
河道が安定しなかったようで、ずいぶん苦労したようである。
野洲に伝わる大ムカデの伝説も、ムカデとは野洲川のことであろうかと。
横田のあたりの野洲川中流域も上流から土砂や流木などの堆積物で橋が洪水に耐えられないのではないのだろうか、と思う。
上流からの土砂が大水の度に大量に流され、それが野洲郡域に入って天井川となって河道が暴れる原因でなかっただろうか、と。
を江戸幕府も物流をわざわざ阻害したとも思えず、橋を架けなかったのはできなかったから、あるいは架けても保守にやたら金がかかって、
それならいっそ人足でと考えたのではないだろうかと勝手に思う。
いずれにせよ橋を架けるのは鉄道初期もたいへんだったはずで、木曽川や長良川を渡るのも河口に近く川幅が大きい今の関西線の位置より、
まだ中流に近い今の東海道線の位置の方が確かに楽だったのだろうし、
当初東京大阪間の鉄道敷設が中山道に沿ったものであるのも納得できるなぁ、と思う。
いつものように6:14の713Mに乗って朝野洲を出る。
この季節になるともうすっかり明るくなって、車窓を楽しむにはいい季節になった。
早朝の空気の澄んだ中を進んでいくのは何とも楽しい。
が、そんな澄んだ空気のおかげでずいぶん近くに見える大津市内のホテルやマンション群、
あるいは焼却場の煙突を見ては、なんとも遠回りしているなぁ、と思う。
草津からまっすぐ、つまり今の近江大橋の位置に線路があれば、おそらく5kmは短くなったのではないか、
野洲京都の運賃は今より80円安い400円で済むのではないか、などと考える。
もちろん東海道線、いや湖東線が完成した明治22年にそんな長い橋を架けるのはたいへんだっただろうし、
そのころは今より湖岸線がずっと内陸よりだったから、あくまでまっすぐ線路を敷くのは空想の世界。
でも琵琶湖までまっすぐに続く新草津川を渡るごとに、この新草津川に沿って湖岸に出て、そのまま対岸由美浜へ抜ける線路だったら、
きっと朝日に輝く湖面を見ることができるだろうに、と朝の貴重な時間にもかかわらずくだらない妄想にふけっているわだらんである。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 標準化汎用性と車両の個性は両立するだろうか
5/8
瀬田一里山のショッピングセンター内に鉄道模型のレイアウトを持った軽食屋があるのだが、そこで開かれている写真展に行ってきた。
草津線関西線の無煙化は1972年のことで、わだらんがまだ津市内で小学生をしていた頃である。
そのころのわだらん自身が撮った写真などはきちんと記録も整理もなく、いわばわだらんの記憶が一番の記録なのだが、
とにかく身近なところに蒸気機関車はいたので、結構鮮明に覚えている。
朝小学校への登校時、ちょうど亀山発伊勢市行きの普通列車が眺められるところを通るのが日課で、C57が客車を引き連れて走っていく姿を見るのがとてもうれしかった。
毎日絵日記に書いて、「たまには他のことも書いたらどう」と担任の先生に文句を言われた(と母親から聞かされたのだが)そうだ。
そんなまだ小学生に上がりたての頃、某家電メーカーが最新の家電製品を列車に載せ全国を回るツアーに出ていて、津にもいつだったか回ってきた。
日時の記憶はないのだが、ネットで調べると1970年秋から71年6月にかけてのことで、当時のわだらんが
ポンパ号の先頭に乗っかっているのを撮った写真を見ると冬服なので、おそらく70年年末近くのことではなかろうかと思う。
C11が先頭の5両編成の列車であったが、C1191は実際の牽引機ではなく、津にやってきたときはD51145が先頭に立ってやってきた。
駅での展示の間、ずっと有火の状態で、機関士氏、機関助士氏が機関車でのんびり待機していたのを思い出す。
石炭を何個かもらって家に帰ったが、家で石炭など使うものはなく、いつのまにかどこかへ行ってしまった。
でも当時はまだ蒸気機関車が津や亀山にごろごろいて、珍しいものではなかった。
もちろん都会からは蒸気機関車がどんどん姿を消していく時期で、まだ蒸気機関車が元気だった加太越えのあたりは、
その当時から写真家がずいぶんたくさん集まっていて、線路際にどこにでもいつも誰かがいる様相であった。
そんなわけで、そのころの蒸気機関車の写真を見ると、未だにそのころのことを思い出すのである。
ところで、JR東日本が保有するD51498が中央東線の走行に備えて集煙装置を付けたそうである。
亀山や奈良竜華の集煙装置に重油燃焼タンクを積んだ重装備のD51ばかり見ていたわだらんからすれば
かえってD51らしくなったように思うのだが、なかなか人によっては気に入らないらしい。
でも重装備のD51のほうがかっこいいよなぁ、と当時の写真を見ながら思う。
できることなら1番違いのD51499を復活させて重装備D51498の隣に並べてみたいものだが、かなわないだろうな、
と柵の中で静かに眠るやたら厚化粧のD51499を眺めながら妄想してみる。
ちなみにこの津の公園に眠るD51499、亀山にいてもちろん津もあるいは草津線も走っていたカマである。
長野工場仕様の除煙板を付けた異端な姿であったはずのD51499であるが、当時そんなに目立っていたカマではないように思える。
そのころのスターはむしろデフに飾りを付けたD51906やD51882あたりでなかっただろうか、と機関車を1台ずつ特定して話ができるのは蒸気機関車ならではなのだろう。
もちろん例えば223系の中にもパンタやライトが他と違う異端児は存在するのだが、でも当時のカマへのこだわりとは少々違う気がする。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 通告なしで別の線路に入るのが難しいご時世
5/6
連休明け、いつものように野洲6:14の713Mで大阪へと向かう。
いつもの見慣れた顔ぶれ以外に見慣れない客もいて、連休明けで外回り職の方が出社するのか、出張なのか、あるいは単身赴任なのか、事情はよくわからないがいつもより混んでいた。
定位置を確保できず少々欲求不満ながらも、大阪までの1時間をいつものように熟睡していたのである。
ところが、がくんという前後の振動で目が覚めた。
吹田を少し過ぎたあたりである。いつもなら外側線をかっ飛ばしている区間なのだが、どうも様子が違う。
やがて車掌氏の「先行列車が新大阪駅で急病人のため停車しています」との放送が入る。
連休明けの出勤で誰か体調でも崩されたのだろうか。
しかし、そのおかげでのろのろとしか進めないのは困りもの。
まあ新大阪であれば、駅員も多く、急病人の搬送もそんなに手間取らないだろうとは思うが、列車がホームを塞いでいるのは事実である。
当該は先行の711Mのようで、やがて車掌氏の「急病人の手配が済みました」との放送があって電車は動き出した。
車掌氏はおそらく無線を聞いていたのであろう、丁寧に案内し、また車内は混雑激しいながらも落ち着いていたので、車内が騒ぐこともなく、結局713Mは大阪駅5分延着で大きな問題にはならなかった。
とはいえ、朝の貴重な時間である。
当該が711Mで17番乗り場を塞いでいるはずなので、18番に713Mを振ってくれれば、新幹線乗り継ぎの客も車内で焦らずにすんだのに、と思う。
確かに急に列車の発着番線を変えるのは難しいことなのだが。
そんなことを日中ぶつぶついいながら順調に仕事は片づき、何とか大阪17:45の3498Mに間に合った。
しかも新大阪で無事に着席でき、ありがたいことである。
と思ったのもつかの間、高槻を出たところで、「先行電車が京都駅で急病人降車手配をして遅れているので、この電車は草津までとなります」と無情の放送。
3498Mを草津で切ることは珍しいことではないが、草津で下ろされるのは面白くないのである。
結局草津5分延でしかも4番に着いた3498Mは大量の降車客をホームに吐き出し、またその乗客たちは一斉に階段を上がり始める。
確かに上りから下り内側となる4番へ直接入線するケースは珍しく、多少浮かれる気持はあるものの、なんでわざわざ階段を上り下りしなくてはならないのか、と実に不愉快である。
これで5番に802Tが待っているならこれはこれでお許しできるのだが。
しかし3498Mを4番へ、825Tを3番へ発着線変更をかける手間があるのなら、どうして802Tを待たすことができないのだろうか。
ましてや5分程度の遅れなら、最近はずっと野洲まで持ってきて、827Tが少々遅れながらも発車していっているのに、なんで今日に限ってわざわざ手間をかけるのだろうか。
機敏に発着線変更がかけられるなら、もっと別のシーンでやれ、とまたぶつぶつが絶えないわだらんである。
それでもまだ804Tが10両になった分、草津で乗り残しの刑にならずにすんだだけありがたいと思わねばならないか。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 風が吹くと儲かるのは桶屋、快速が遅れると困るのは新快速
5/5
世間様なみに5連休を頂いた。
休みが多いのがいいことか悪いことか、まぁ人による解釈の違いはあろうけれども、民族大移動が輸送機関に与える影響は大きかろうと思う。
とは言ってもこのところ1000円高速のおかげで鉄道はどうも意気消沈なのだが、でもきっと渋滞を嫌になる人間も多かろうと思う。
もともと子どものいる家庭は高速が1000円であろうとなかろうと車で動いているわけだ(ろう)から、1000円で渋滞を招いたのはむしろ今まで車を選択肢に入れていなかった、
つまり鉄道など車以外で動いていたか、あるいは新規需要ではないかとわだらん的解釈では思うのだ。
ということは鉄道も目をひくような施策があれば、逆に車にこだわらない客を呼び寄せることができそうに思うのだが、かといって今の鉄道会社の体力で
そんな目が飛び出るような企画ものが出そうにもなく、なんとも歯がゆく思う。
こんな時期こそJR各社が足を揃えて統一の割引切符がほしいと思うのだが、なかなか別れて20年も経つと、統一した動きというのは難しいのかもしれない。
とはいえ、連休は遠出だけというわけでもなかろう、と京阪神の電車もまずまず混んでいたように思う。
まぁそれが連休だったからかどうか、大阪駅の人混みを見ているだけでは判断つかないのだが。
が、しかし2日の3233Mに乗っていると、石山を出てしばらくして、膳所の第一閉塞か場内あたりで注意現示がでていたのだろうか、がくんとスピードが落ちた。
結局大津3分延で、京都停車をさっさとドア閉め、新大阪も停車時間を削って大阪ではなんとかほぼ定時になった。
電車を降りてからホームの掲示を見ると、長岡京で抜いてきた757Tが4分遅れ、その影響を受けたのであろう1149Bも4分遅れと出ている。
757Tは地雷と揶揄される6両T電。
その直前は湖西線新快速で、まるまる15分空いた時間の客を野洲から山科まで各駅で拾うもの。
こんな天候に恵まれた休日なら当然滋賀県内から京都大阪への客も多く、6連T電が琵琶湖線内で客扱いに手間取っているのは容易に想像がつく。
そんな状況なら、757Tのあとを行く3233Mが大津で前が詰まるのもまた道理。
休みの日には特に午前中の下りの編成増強をと思うのだが、なかなか車両キロを伸ばすのはこのご時世難しかろうと思う。
ただ、こんな連休だからこそ普段電車に乗らない人間が電車に乗るわけだから、荷物を抱えたりベビーカーだったり、
本来車の方が動きやすい人間でも快適に電車に乗ってもらえるような工夫があればきっと運賃だけが移動手段選択の決めてでない客がいるように思うのだが。
少なくとも、こんな一見さんの多いときだからこそ、たった一本の列車、つまり757Tが1149Bやさらに新大阪で開通待ちをするであろう3235Mなど
周囲の列車を遅らすことのないよう、何か工夫がほしいと思うのだけれど。
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