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わだらんの鉄道自由研究表紙へ
2011年 10月
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1058. 10/31 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 備えあれば憂いなしとはいうが、備えは無駄になってほしいものだ
1057. 10/27 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 野洲まで来る熟睡中の人も減ったのだろうか
1056. 10/25 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 線路もそろそろ冬支度
1055. 10/23 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 税金の使い道はみなで有効に使える野洲の自慢施設になるように
1054. 10/22 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 高い位置から遠くを走る列車を見つめる優しいこころ
1053. 10/20 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 帯の色違いだけではどれも同じ電車に見える
1052. 10/17 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 帯の色違いだけではどれも同じ電車に見える
1051. 10/16 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 週に二回のお楽しみ
1050. 10/13 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車と自家用車のすれ違い
1049. 10/11 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 琵琶湖線一の自由通路と胸を張れると思う
1048. 10/10 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 乗客を捜してまとめてくれる手配師
1047. 10/8 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 輸送手段が新聞販売の勢力圏でもあった
1046. 10/6 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 商売繁盛を願う赤い鳥居の山
1045. 10/3 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 山陽九州へ向かう列車の基地から50年
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 備えあれば憂いなしとはいうが、備えは無駄になってほしいものだ
10/31
あまり報道になかったような気がするのだが、さる10月28日は濃尾地震から120年の日にあたる。
1891年10月28日朝6時過ぎに起きた直下型地震で、岐阜県南部の沖積平野地域を中心に大きな被害がでた地震である。
震源域の根尾谷には地表に現れた断層面が今も地震の力を見せつけるように残っている。
まだ通信や研究の発展途上であった時代で、もし今の時代なら克明に地震被害の記録が残るのだろうけれども、なかなかその被害のすごさの全容を伝える資料は残っていない。
とはいえ、7000人以上の死者を出したこと、そして東海道線長良川鉄橋が落ちたことははっきりしているのである。
1891年というと、その2年前に東海道線が全通したばかりである。
せっかく輸送の大動脈になりつつあったときに、鉄橋が落ちてしまったのは大きな障害になったのであろう。
その後長良川鉄橋がいつ復旧したのか、どう復旧工事をしたのかわだらんは知らないのだが、さぞ突貫工事で開通にこぎ着けたのであろう。
災害が起きてもそれに負けない鉄道施設があればそれに越したことはないが、洪水やら地震やら大雪やらと鉄道を痛める天災はこと欠かない。
困ったものだが、どうしようもない。
とはいえ、少しでも災害に強いようにあれこれ工夫や改良は進んでいる。
高架区間や橋梁には胴回りの補強工事が進んで、例えば逢坂山トンネル西口付近は高架で分離していく湖西線の足がずいぶん太くなった。
地震による高架橋の損傷がより少なくなればいいなぁ、と思う。
ところで、石山駅の改良工事が始まって、ホームや階段が狭くなった、と車掌氏がアナウンスをするようになった。
どうやらエスカレータの増設と合わせて耐震補強工事をするようだ。
エスカレータはまず下り向きにつけられフル稼働しているのだが、上り方階段にもつけるそうだ。
これで人の流れが変わるのかどうかすぐにはわからない。
ただ、もともと石山は上り方の利用者が多いところである。
駅利用者にはエスカレータが付けば便利になるはずだが、琵琶湖線列車の編成内の混雑度合いはあなり変わらないか。
ともあれ、地震に強い駅舎になることはいいことだ。
野洲は少し前に耐震工事が終わったが、 耐震工事をしてよかったと思える日はあまりきてほしくないものだ。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 野洲まで来る熟睡中の人も減ったのだろうか
10/27
統計上琵琶湖線の利用者が大幅に増えているようには見えないのだが、どうも電車の混雑度が増しているような気がする。
もちろんわだらんの乗る特定の列車だけの印象なので、一日全体を見れば変わらないのかもしれない。
少なくとも南草津に新快速が停まるようになってT電、つまり琵琶湖線の普通電車のことだが、の混雑度が減るかと思いきや、あまり変わらない。
大阪17:38の804Tは以前6連で客扱いに難儀していたので、いまは10連になった。
にもかかわらず、特に理由なく野洲時点で遅れることが多い。
京都線内はまぁまぁ定時で走っているので、遅れの原因は琵琶湖線内の客扱いである。
そもそも夕方の新快速が京都をどの列車も微妙に遅れて出ているし、何か原因、例えば踏切安全確認とか急病人とかの理由がなくても、どうも夕方から夜にかけて微妙に毎日遅れているように思う。
これが3分5分となると遅れ表示も出るが、1〜2分程度ならまぁ問題にはならないと思うのだが、それでも新快速がT電遅れのため守山で徐行することが以前とまた変わらない程度になった。
新快速が南草津停車で遅くなっても、である。
もちろん乗客が増えているのならうれしいことなのだが、夕方でも特定の時間に帰宅が集中して、その他の時間にはあまり客が乗らないのかもしれないし、よくわからない。
なぜか804Tは混み、次の806Tは草津以南では比較的空いている。
学校の終了時間とか何かあるのだろうか。
水曜日の深夜のことである。
久しぶりにもう30年ものつきあいとなる昔からの友人と酒を飲み、遅くなってしまった。
おまけに店に定期券を忘れて大阪駅まできてから気づき、あわてて阪急東通商店街まで往復して20分時間を無駄にした。
そんなわけで大阪23:40の3548M利用の帰宅となった。
念のためトイレのある最後尾1号車に乗ったのだが、結局座ったとたんすぐに寝入ったようで、トイレに行くどころか新大阪も京都もまったく知らず、目が覚めると草津を出たところだった。
大阪駅を出る時点でも1号車は座席の半分近くが空いていたが、目が覚めるともう車内にほとんど人がいない。
こんなのならもっと早くに座席を広げて横になって寝ていればよかった、と思うくらい。
さすがに客扱いに手間取ることもないのか、順調に電車は進んで、定刻に野洲駅に着いた。
日付が変わって、もう下りホームは消灯の時間。
上り米原行きも終わってホームはひっそりしている。
しかし思うのは以前なら野洲駅でこの時間でももう少し客がいたような気がする。
世の中金のまわりがよくないのか、人々が健康志向になったのか、若い人が夜酒を飲まなくなってしまったのか、この時間の人が昔に較べて少ないように思う。
この3548Mも京都から草津の間あたりならそれなりに混んでいたのだろうけれども、でも困るような混雑とも思えない。
もちろん週末や年末になれば酔い客が大量に出現して雰囲気は変わるのだろうし、もとより水曜日の深夜などもともと人が少なかったのかもしれないが、ちょっと寂しいような気がする。
そう考えると、もう少し深夜帯の電車の様子を観察してみたいものだ。
前回の改正で琵琶湖線内の終電が繰り上がってしまったが、深夜帯の客が全体に少なくなっているのかもしれない。
客がいなければ終電の以前への復活はあり得ないな。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 線路もそろそろ冬支度
10/25
もうすぐ10月も終わりである。
夜の訪れはずいぶん早くなり、もう帰宅時の車内から外を見ることはできなくなってしまった。
季節が進んで日が短くなるばかりか、少しずつ北からの空気が冷えてきて、空模様も秋から冬へと模様替えの途中のようだ。
火曜日の早朝にさらっと雨が降ったようし、日曜日も晴れ間から雨が降ってきて、これで気温が下がっていれば雪でもおかしくないお天気。
もちろんまだ日中20℃近くもあるので、すぐに雪になることはないが、でも比良の山々にかかっている雲を見ると、やはり冬の景色になってきたのだなという雰囲気である。
野洲の駅構内の分岐器にも凍結防止用暖房がつけられた。
雪国ならどこでも見ることのできる装置だが、琵琶湖線内は野洲から北側の各駅に付いている。
雪を挟んだり、凍結したりしてポイントが不転換にならないようレールを温めておくものである。
最近は入切や保守の楽な電気式ヒーターも多くなってきたようで、電気式は線路を見ていても設備があるのかないのかよくわからないのだが、野洲のような灯油温風式のものはレール内に細長いカバーがあるのでわかりやすい。
野洲駅は駅の南北に二カ所灯油タンクがあって、そこから分岐器へ灯油を配管しているようだ。
分岐器温め機は冬しか使わない施設で、夏場は外してあるが、さすがに灯油タンクは取り外しができず、年中姿を見ることができる。
もっともこれが灯油タンクだと知っていなければ、車窓から見てもわからないかもしれない。
そういえば先日河瀬駅で油漏れ事故があったそうだ。
当然河瀬にも分岐器温め機の設備があるので、灯油タンクがどこかにあるのだろうけれども、電車から見ていてどこにタンクがあったか、気にしていないのでわからない。
線路施設は本当にいろいろあって、車窓からあれこれ眺めていても 飽きることがないのだけれど、でも案外わかっていないのだよな、とあらためて思う。
電車の車内に「かにかに」広告がかかるようになった。
神戸ルミナリエの公式案内の発表や、JR3社の北陸キャンペーンもまた始まるようで、定番のこんな冬の催しが出てくると、やはり季節の進みを感じてしまう。
大阪から野洲の間でも季節感を感じる場所は至るところにあって、冬の景色もまた趣深いのだけれど、いつもの帰宅時の車窓では楽しむことができないのが残念だ。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 税金の使い道はみなで有効に使える野洲の自慢施設になるように
10/23
ワムハチの話でビール工場の話を書いたのだが、実は野洲駅にもビール工場があった。
正確にはビールそのものではなく、ビールを作るために必要な酵母を造る工場であった。
おそらくは野洲川の豊富な水量に、周辺の豊かな農地、そして鉄道利用による容易な原料調達、製品出荷ができるためであったとわだらんは推測する。
実際、今は駅前から工場が移転したものの、野洲市内にその大きな酵母工場が稼働しているのである。
ところで、その移転した跡地は紆余曲折やら、口約束(言い方が正しいかどうかわからないが)やらで、いままでの経過は複雑である。
とはいえ、最終的にビール会社の現時点での所有地を野洲市が買い取ることでほぼ道ができた。
とはいえ、ビール会社側の仕事の進め方など野洲市側から見ると歯がゆいところがあったりするなど、なかなか先へ進まない。
それでも有期契約で土地借用で営業していた風呂屋の解体工事がやっと始まるなど、少しずつ変化はある。
駅前の一等地でも民間では単に高層住宅になりそうな場所であり、市が買い取って住民サービスの中心地にする意向を持っているのはうれしい限り。
交通結束点として、また市民の便利なサービススポットとして市民みんなに有意義に使ってもらえるといいな、と思う。
ところで毎日コキ車を15両程度(不正確な数字で申し訳ない)出荷する伊予三島の某製紙会社の元代表が会社資金の私的利用で100億円の使途不明金を出しているそうだ。
100億円というお金がわだらんにあるわけがないので、悩んでも心配しても仕方ないのだが、少なくとも100億円あれば、この野洲駅前の土地を買ってまだ80億円以上は余る。
それなら十和田観光電鉄を買い取ろうかとか、交直流電源の寝台電車を1両2億円で40両作って4編成できたぐにと日本海に新車を投入してみたいとか、ばかばかしい妄想はいくらでもできる。
どちらにせよ金はあってもなくても苦労するとは思うのだが、100億円とはいわずともせめて野洲市が用意した12億円が有効に使われますように、そして野洲の駅前に他にはない新しい公共施設ができることを願ってみる。
ただ、やっぱり銭湯がなくなってしまったのは寂しいなぁ。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 高い位置から遠くを走る列車を見つめる優しいこころ
10/22
このところ鉄道が趣味としてずいぶんメジャーとなって、テレビでは毎日のように鉄道の旅番組をやっているし、大人の雑誌でも鉄道を取り上げる機会は多い。
経済紙ですら鉄道業界を取り上げたりしている。
そうなると鉄道好きが急に世間に認められたようでうれしいような、つまらないような。
もともと子どもでの鉄道好きは昔からいたものだが、最近は小学生ともなればネットを駆使して立派なカメラを持って走り回っている。
これがもう少し大きくなるともっとやっかいになって、ホームで人に迷惑な状況でも気にしなかったり、乗客に罵声を浴びせたり、はては列車の往来を妨害する輩まで出てくる。
特にネットの時代になって速報性やら貴重性やら、昔なら雑誌記事にならなかったような話もどんどん飛び回るようになって、より一層カメラで追いかけ回る対象は増えたようだ。
わだらんが子どもの頃は新車の輸送とか、廃車解体のための回送とか、そんな列車があることすら知らなかった。
もちろん国鉄の全国組織であったから、今のような会社を跨ぐ輸送ではなく、単に車両製作工場から最寄りの国鉄工場までが新車の輸送で、そこで引き渡されたのちは配属先まで回送扱いであった。
その地域で普段見ることのできない珍しい車両が走ることがあっても、機関車に電車が無動力で牽引されるようなことはほとんどなかったから、いわゆるネタ列車というのは今よりずっと少なかったのかもしれない。
本来鉄道写真というのはもっと広い範囲であろうし、なにも珍しい列車ばかり追いかける必要はないと思うが、どうも今の大人になりきれない子どもたちはネタ列車ばかり追いかけているような気がする。
昔の子どもの撮影対象が特急列車ばかりであったと思えば、今の子どもの撮影対象がネタ列車なのもわからなくはないが、でも少なくとももう少し大人になれないものか、と時折思う。
もっともわだらんが子どもの頃、もっと年上の人たちがどう見ていたのか知らないのだが。
草津在住の鉄道写真家の方が長浜で写真展を開いておられるとお誘いを受け、出かけてきた。
撮られた方の人間的魅力から来るのだろうか、鉄道写真ではあるのだが、なぜかとても表情が優しく見える。
鉄道雑誌で見る写真となぜか受けるイメージが違うように思えるのだ。
もちろんこの方の写真をよく雑誌で見るが、もともとの作品の狙いが違うのか、同じ撮影者とは思えないようだ。
写真展で飾られた写真だからおしゃれに見える部分はあるのだろうし、ましてや風景の中に列車がとけ込んだものばかりを写真展で並べられているので、より一層列車を中心とした写真とは違う雰囲気なのかもしれないが。
例えば米原駅でしらさぎの増解結作業を撮られたものがあったが、同じような場面を雑誌の写真で見るのと、この写真展のもので見るのでは明らかに違うと思われる。
もちろん記録写真とすれば写真展のような構図にはならないのだろうけれども、作業が風景になってしまうのはおそらく撮られた方の感性とか優しさとかがあるのだろうかと思われる。
ネタ列車ばかり追いかけている連中が将来こんな写真を撮るようになるのかどうかはわからない。
鉄道に直接興味を持っていない人たちに鉄道の魅力を伝えるためには、ネタ列車の追いかけばかりでは進歩がないだろうし、何より性格がかえって悪くなってしまうのではないかと余計な心配をしてしまう。
まぁわだらんも人に性格がいいだの悪いだのと言える身分ではないが。
ともあれ、時間のある方は一度10月中に長浜鉄道スクエアに足を運ばれてみてはいかがだろうか。
いつも当たり前に見ている221系や223系も少し離れたところからみるとずいぶんと表情が違うものだ、とびっくりされるだろうから。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 帯の色違いだけではどれも同じ電車に見える
10/20
先日、紙輸送列車のことを書いたところ、「ワムハチといえばビールだ!」とお手紙をいただいた。
まさにその通りで、かつてワムハチが大量にビール工場に伸びた専用線に停まっていた姿を思い出す。
大阪京都周辺にもビール工場は多く、向日町・茨木・吹田・尼崎・西ノ宮とビール工場が線路横に広がり、貨車の姿を楽しめたものだ。
近江鉄道多賀大社駅から伸びる専用線でワムハチを扱い、その継走で彦根でも姿を見られたし、東に向かえば清洲や新守山、西は万富やら九州御手洗やらと今でも工場に面した駅名がすぐに出てくる。
そう考えると貨車ヲタは日本のどこにどんな工場を持っているかほぼ把握していたわけで、ビール工場のみならずセメント工場であったり、石油精製所や油槽所、あるいはエチレンとか塩酸とかの化学薬品とか、貨車ヲタのネタは尽きない。
専用貨車はそれぞれ常備駅があって、そこを起点に単純往復が多かったので、常備駅や輸送先に行けば容易に見ることができたが、逆にそこに行かなければ見ることのできないものが多かった。
セメント貨車などは工場の積み込み・積み卸し設備によってそれぞれ輸送区間ごとに貨車の構造が異なり、ホッパ車のところ、タンク車のところ、それぞれ特徴があった。
近江長岡の大阪セメントにはタキ19000という貨車がいて、駅北側の側線群にいつもいたのでなんら珍しいものではなかったが、逆にここでしか見ることができなかった。
すぐ近くの彦根や多賀の住友セメントはタキ1900が主力だったのだ。
セメント類や石油類の専用貨車に種類が多かったのと較べると、ワムハチのビール貨車、ワム584000台の貨車は700両を越え、日本各地で見ることができたのであった。
他の物資別専用貨車が地域ごとや使用企業ごとで違っていたのに較べると、ビール用ワムハチは全国的に、また企業を越えて同じ形の車という、ちょっと珍しいものであった。
残念ながら時代が下るとビール輸送はトラックによるものになり、専用線は剥がされ、さらには工場自体が線路際から撤退した例も多い。
当然ながらビール用ワムハチは仕事を失い、その多くは解体され、また解体を免れたものは倉庫や小屋として線路のない土地に置かれることになった。
おそらくみなさんの身近なところにも、国鉄払い下げの貨車車体、しかもその中の多数を占めるワムハチ車体があろうかと思う。
線路にいない貨車というのももう今となっては何ら違和感を覚えることはなくなってしまった。
尼崎や茨木、向日町は工場敷地が更地になって、一部は再開発が進んでいる。
駅間近の工場跡地は一等地で、これからどんどん変わっていくのだろうけれども、かつての専用線や側線跡地を車窓から見るのはなんとなく寂しいものだ。
トラックでは工場がどこにあっても輸送に大きな影響はないし、貨車ヲタが拠点駅と運用には詳しいような興味の対象も少ないよなぁ。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 帯の色違いだけではどれも同じ電車に見える
10/17
この週末から網干の本線運用が一部変更になって、225系4両編成がデビューしたそうである。
そうであるというのは目撃情報はあるものの、わだらんは実際まだ見ていないからである。
53運用で4本使用だと追いかけない限りなかなか見つからない。
もちろん新しいもの見たさはあるが、でもいずれ増えていくものなのだから、あわててどうしても見たり乗ったりするものでもなかろう、と思う。
ヲタの噂ではこの運用改正で本線から追い出された車を使って宮原や京都の113系を置き換えるなどと流布されていたが、結果として113系は安泰であった。
まぁ古い車両が残ることを喜ぶべきなのかどうか、実際乗る立場で考えると113系が今となっては必ずしもよい電車とは言えない部分も多いのだけれど。
それにしてもこれでまた少し223系の休車が出ることになる。
運用をはずれて車庫の片隅にいわば放置されるわけで、せっかくの比較的新しい高価な電車がもったいないような。
とはいっても、とりあえず走らなければ車両の検査時期は延ばせるので、その分多少の節約にはなるか。
車両の運用順序はある程度予測できるものの、実際どの車両を使うかは外部からはなかなかわからない。
ある程度丹念に車両を追いかければ、検査時期もわかるのかもしれないが、なかなか車両を個々に見ることができない。
ましてや最近は車両の妻面に転落防止の仕掛けがついて、妻面の検査表記を読みにくいのである。
となるとしばらく見ていない車両が休車になっているのだろう、と想像する程度のことしかできない。
網干や宮原だと外周道路から見にくい線路もあって、留置されている車両を見ることが難しいことも多く、非稼働車を見つけるのはさらに難しいものである。
昔は全検を終えると車体を塗り直してとてもきれいな姿で出てきた。
検査上がりと素人にもわかるようなものであった。
今でも検査上がりはきれいな姿で出てくるが、ステンレスの車体ではそのきれいさがわからない。
なかなか床下機器などは見ることもできず、区別がつかない。
もちろん塗装不要、メンテナンスが省略できるのがステンレス車体の特徴で、コストダウンなどメリットが多い。
鋼製の塗装の場合車両の塗装が傷んで、はげ落ちたり浮いていたりすると、素人目には古くてボロになった車両に見える。
サンダーバードなど高速で雪の中を走って塗装がぼろぼろになっている。
そう考えるとステンレスの塗装なし車体は経年に対しても便利といえるのだが、でも見た目がわからないのは残念。
というか、やはり車体に色がないのはちょっと寂しいように思う。
113系は乗り心地が今となってはいいとは言えないが、それでも色の付いた車両を外から見るのは楽しいものだ。
ましてや、いろいろな色の電車を見るのは特に子どもには楽しいものだ。
もっとも最近は全検明けだと緑一色になって出てくるケースが多いので、これもまたわだらんにはちょっとショックであるが。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 週に二回のお楽しみ
10/16
ほぼ毎日713Mに乗っていると、火曜と木曜日に膳所すぐ手前で貨物列車とすれ違う。
実際には週三回、火・木・土の運転なのだが、土曜日は早い時間に電車に乗ることがないので、すれ違いを見るのは火・木の二回である。
貨物列車は梅田発稲沢行きで、機関車EF66は10両程度の貨車を牽いている。
貨車は梅田に静岡県の吉原から紙を届けた車の返空、つまり積み荷なしのからの状態である。
なので、機関車にとってはざぞ楽な仕事だろうと思う。
昔鉄道貨物は重厚長大がお得意さまであった。
石炭や石油、セメントといった重量のかさばる素材類は専用貨車が各種大量にあって、専用線があちこちにあって、その多くが専用列車で運ばれていた。
石炭は石油に取って代わり、石油は油槽所の閉鎖など需要が減りで、セメントは建設現場の減少で工場がなくなり、ずいぶんと専用列車が減ってしまった。
その中で紙は今でも鉄道貨物のお得意さまで、各地の製紙工場から貨物列車で都会の新聞社や印刷工場の需要家のところへ運ばれている。
熊本県八代とか、紀勢線鵜殿とか、城端線二塚とか、そして今回地震津浪で大きな被害を受けた石巻であるとか、鉄道貨物のお得意さまである。
今はコンテナ積載ばかりで本線上で列車に組成されるとコンテナの中身を紙だと判別はできないが、城端線や紀勢線はこの紙だけを運ぶ列車が設定されていて、それが紙であるとわかるものだ。
コンテナ化以前は二軸貨車、特に通称ワムハチと呼ばれるワム80000という貨車を連ねているのが一般的で、今でも中央線春日井や岳南鉄道吉原はこのワムハチで紙を出荷している。
梅田にも吉原からワムハチで紙が輸送され、その返空貨車をわだらんがいつも膳所で見ているのである。
梅田5:35発、稲沢9:35着の6170列車というが、今やほとんど見ることのできない二軸貨車を連ねた姿は他のコンテナ車を連ねた貨物列車とは印象がずいぶん異なるものである。
ただ、わだらん的にはワムハチというと茶色のイメージで、今の改造された青色の車体はどうも好きになれないのだが。
先日新聞輸送のことを書いたところ、早速ありがたいことに名鉄名古屋駅の新聞輸送用シューターの写真を一宮在住の方が送っていただいた。
まだ現役のようでとてもうれしい。最近電車の中ではみなスマートフォンをさわっていて、昨日は新聞を読んでいる人を見かけた。
新聞をどこでも好きなときに読めるのはすばらしいことなのだろうけれども、紙に頼らない新聞が増えてしまうと紙輸送も減ってしまうのではないか、とちょっと心配。
ただでさえ夕刊廃止の話があちこちで出ているわけで、夕刊がなくなってしまえば紙輸送も、そして電車による各販売店への夕刊紙の輸送も減ってしまう。
時代の流れなのかもしれないが、ワムハチの姿があとどれだけ見続けられるのか、ちょっと心配である。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 電車と自家用車のすれ違い
10/13
もう5,6年前、具体的な日をすっかり忘れてしまったのだが、ある夜のことである。
わだらんは水口町内の旧国道1号線を西へ向けて走っていた。
現在の1号線は山の中を4車線で突っ切っている区間を、旧1号線は市街地を抜けていくところである。
途中近江鉄道の線路を平面交差し、踏切がある。
信号も多く、踏切もあって、バイパス完成前はさぞ渋滞したであろうと容易に想像がつくところ。
でも今はバイパスのおかげで通過交通はほとんどなく、しかも夜ともなれば混むことなく進めるのである。
ところが、その踏切近くになって突然渋滞している。
踏切が下がっているわけでもないのに、進まない。
片側1車線で交互に車を通していたのである。
やがて踏切にきてびっくり、車が線路に落ちていて、レッカー車で引き上げている最中であった。
何をどう間違ったのか、踏切を交差点と勘違いしたのか、旧1号線から水口石橋方向へ曲がった車があって、そのまま線路上で立ち往生したようである。
幸いにも電車とぶつかったわけではないようで、ダイヤ乱れや道路混雑以外には直接の被害はないようであった。
線路を道路とどう間違うのかちょっと理解に苦しむが、でもこの例でなくとも車が線路に入る例は時折おきている。
線路の敷石の上を走るのは乗り心地がいいようにはとても思えないが、実際走ってみるとどうなのだろう?
まぁ経験したくはないが。
近鉄奈良線の額田駅近くで車が線路に入り込んで、電車とすれ違いをした、と新聞記事になった。
この事故も幸い電車との衝突はなく、大げさにならずにすんだようだ。
とはいえ、線路上を車が進んでくるのを見た電車の運転士氏はさぞびっくりであっただろう。
これがすれ違いだからまだ笑いですんだ話で、もし追突でもしてしまえば笑い事でなくなってしまう。
そもそも自家用車の運転席は電車からみればかなり低いはずで、車に乗っていた人は相当電車が大きく見えたのではないだろうか、と思う。
もっとも記事によれば当の運転者はパニック状態だったそうで、まわりがどうとか、電車の大きさがどうとか、きっとわかっていなかったのだろう。
まぁ大きな事故にならずよかった、としておこう。
しかし車の主は82歳だったそうである。
元気なお年寄りが昔よりずっと増えてきているので、時代は変わったのかもしれないが、それでもずいぶん高齢者である。
田舎の農業用トラックならまだしも、比較的都市部で高齢者が車を運転しなくてもいいのにと思うのだが、なかなか車を手放せないのだろう。
車がなくても不自由ない交通機関や街づくり、旗振れどなかなか進まないからなぁ。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 琵琶湖線一の自由通路と胸を張れると思う
10/11
三連休の中日、9日に米原へ行ってきた。
鉄道総研の一般公開である。
試作車とはいえ、新幹線車両に触れられる機会は少ない。
もちろん新幹線に乗ればいくらでも車両内をお見て回ることはできるが、 新幹線の特徴ある前頭部や、妻面で見える車体断面など、米原でしか見ることのできないのである。
というか、今回初めて出かけてみたのだが、新幹線の車体の大きさを体験できるいい場所だ、と納得してきた。
ただ、大型風洞は公開されておらず、がっかりであった。
公開は車両の展示スペースのみで、まさに子供向け、家族向けのイベントであった。
とはいえ、会場は盛況で、人集め、町おこしには十分役立ったと思う。
ところで、米原駅にきて思うのは、東西自由通路の広さである。
一般的な橋上駅と同じ、線路を東西に跨ぐ橋を作り、そのほぼ中央部に改札をおいた構造なのだが、この東西を跨ぐ通路がやたら広く感じるのである。
そして天井も高く、また改札正面は大きなガラスで外の風景、つまりホームの様子が見えるようになっていてとても開放感あふれるものだ。
自由通路部分は米原市管理なので、市がずいぶん思い切って大きなものを作ったものだなと思う。
この日は親子の日記念という写真展を通路の壁を使って行っていたが、通路壁際に貼った上下に大きな写真はとても見栄えのするものであった。
人が決してそう多くない場所でこれだけのものはもったいないと感じる人がいるかもしれないが、でも人が少ないが故に空間の広がりを気持ちよく感じられるのかもしれない。
少なくともわだらんは大阪駅の新設された連絡橋口改札とその周辺より米原駅の在来線改札の付近の広さのほうがずっと好きである。
鉄道総研のイベントに加えて彦根で近江鉄道の工場公開もしています、と東口で観光協会(か商工会かな?)の方が案内をしておられた。
東口広場には別に観光案内の人も立っていて、総研公開にきたであろう家族連れに声をかけている。
鉄道の各種イベントも含めて、湖北はいろいろといつも観光客集めの何か催しや周遊バスを週末に行っている。
たくさんの人が特に京阪神からやってきてきれればいいなと思う。
鉄道に限らず、戦国時代の史跡など観光の材料は豊富なところ。
駅の自由通路が人であふれるくらいになるといいな。
そう考えると、ほとんどの鉄道利用者は米原駅で電車を降りても改札を通って外に出ることがない。
まぁもともと乗換の駅として発展してきたのだからやむを得ないとはいえ、せっかくの見応えのある通路がほとんど知られていないのはちょっと残念に思うのである。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 乗客を捜してまとめてくれる手配師
10/10
路線バスの色を見れば、どこの地域の画像かおおよそ想像がつく。
もっとも最近はバス会社内の分社化や地方自治体への移管もあって以前ほど統一された地域性はないのだけれども、いわゆる大手路線バス会社は都市部の公営交通事業も含めておおよそ昔からの塗装などで区別することができる。
先日ある講演会で映された街の風景を見てわだらんが「熊本」と発言したところ周囲の人から不思議がられたのだが、これも九州産交の路線バスが判別できたのだから、いとも簡単に撮影地を当てることができるのである。
ところが、これが貸切となると難しい。
もちろん貸切であるから営業範囲の規制はあるが、目的地ならどこへ行っても構わないわけだから、九州のバスが北海道を走っていても何ら不思議ではないわけである。
ましてや老舗の観光バス会社や路線兼業ならまだバスの色でおおよそ判別できるが、最近の規制緩和で出現した大量の中小規模の貸切バス会社になるとどこの車か全くわからない。
野洲市にも重機業者が起こしたバス会社がある。
業績順調なのだろうか、次第にバスの台数も増えているようなのだが、ここは社名に「びわこ」と入っているのでまだ滋賀県のバス会社だと容易に想像できるだろう。
が、新免の業者の中には花の名前のような、地名などに全く関係のない社名のところも多く、バスをぱっと見ても全くわからない。
遠くのものなどの珍しい貸切バスを見かけるとちょっとうれしくなるものだが、どこの車かわからないのでは楽しみも半減である。
ところで、貸切業者の中には用途を限定して特別塗装にしたものも多い。
学校やホテルの送迎用などは多くのところで見ることができるし、最近は旅行代理店の名前を派手に入れたバスも多い。
特に高齢者が比較的多い日帰りバスツアーなどは、ツアーの会社名を大々的にバスに書いておく方が何かと利用者のためになるのだろう。
もちろん旅行代理店にとっても宣伝になるわけだが。
いよいよ鉄道の世界にもそんな旅行代理店専用の車両がお目見えするそうだ。
まぁいつかは出てきてもおかしくないとは思っていたし、今回は近鉄がグループ企業の旅行代理店と組むわけで、かつ車両も既存の改造なのだから、そう驚くものではなかった。
ただ鉄道の場合最終の目的地まで直接乗り付けることはできないことが多いので、どうしたものかと思う。
この近鉄の場合、基本的に伊勢志摩への送り込みか、あるいは名阪間の輸送にある程度の需要が見込まれるから特別車両を作るメリットがあるのだろうけれども。
鉄道事業者側も乗客を旅行代理店側が捜してくれるわけで、まさに代理店。
特別車の集客や運転が軌道に乗ればいいものだ、と思う。
その意味では旅行代理店の企画集客の臨時列車がもっとあってもいいように思う。
時折山陽線を夜行の団体列車が走ったりしているが、そんな関西対九州の夜行需要や京阪神エリアの日帰り行楽用直通運転などの旅行代理店企画集客型列車があってもいいように思うのだがどうだろう。
JR西日本も日本旅行を直接子会社にしているのだから、あれこれいろいろと企画列車を作ってもらえないものだろうか。
もっとも列車を新規に割り込ますのは大変なものだろうけれども。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 輸送手段が新聞販売の勢力圏でもあった
10/8
昔、新聞輸送は鉄道のお得意さまであった。
名古屋を深夜に出る高山線や紀勢線の夜行急行列車は荷物車を連結していて、飛騨や紀伊の各地へ配られる朝刊を積んでいた。
もちろん東海道線にも荷物電車が走っていて、名古屋を深夜2時前に出て、大阪へ向かう荷1043Mというのもあった。
名古屋の某球団所有新聞社のものも大量に積まれていたのだろう。
今でも湖北はその名古屋某新聞の勢力が強く、帰路の新快速車内の座席で名古屋某新聞を開いている人はまず間違いなく野洲までの間で席を立つことがない。
ところでその荷1043Mの野洲発着は3時半頃になるのだが、上り大阪からの荷1042Mとともに、きっと深夜というか明け方に新聞店のみなさんが駅に新聞を受け取りに出かけていたのだろう。
今はトラックが新聞店まで直接配達に来るし、ましてや深夜の駅は基本的に締め切り状態で、とても往事の賑わいを感じることはできない。
それでもまだ夕刊は専用車両ではないものの、特定の列車に夕刊紙が大量に積まれているのを見ると、なんとなくうれしい。
そういえば名鉄名古屋駅には新聞輸送用のシューターがあったのだが、今でも使われているのだろうか。
ほぼ毎朝713Mに乗っているが、朝早いこともあって学生はほとんどおらず、会社員と思われる男性ばかりが特に山科までの間で目立つ。
その多くの人が新聞を読んでいるのだが、中でも某経済紙を読んでいる人は多い。
きっと一般紙は家で、専門誌は出勤前にということなのだろう。
金曜日の朝、何気なく人が開いている新聞を遠目に見ていると、その某経済新聞の見出しが座席の前後の人で違っているのに突然気がついた。
わだらんの座っている座席の前列と通路を挟んだ二列前の新聞の一面左上の見出しが「円高」と「ユーロ安」の二種類なのである。
同じようなことだが、でも円高とユーロ安は微妙に違う。
少なくともわだらんの欧州旅行で考えれば円高よりユーロ安の方が都合がいいな、と思うが、まぁそれは個人的な都合ではある。
で、その新聞は何か理由があって見出しを変えたのだろうなとは思うのだが、なぜ同じ野洲から乗ってきた新聞で見出しが違うのかどうもよくわからない。
某経済紙を扱うのは野洲では駅前の新聞店のはずで、何か違う理由があるのか、よくわからない。
まさか違う便に乗ってきたとも思えないのだが。
いつものように713Mは守山栗東と乗客を増やし、草津で席がほぼ埋まり、南草津では若干の立ち客も出た。
その中で、栗東から乗ってきた男性の持っている新聞も「ユーロ安」見出しで、よく見ると13版とある。
わだらん前列はよく見ると12版である。
なるほど、版を見出し差し替えで変えたのかと納得。
でもなんで別の版が同じ野洲で混在するのだろう?
ひょっとすると新聞屋の配達と駅売りの関係なのだろうか、あるいは朝夕刊と朝刊のみの違いなのだろうか、と考えてみる。
新聞の輸送手段も時代とともに変わっていくのだろうけれども、鉄道が新聞輸送の主役に再びなる日はないのだろうか、などと見出しの違う新聞をみながら考える。
しかし当面の問題は新聞輸送の将来ではなく、二列前の新聞がそこそこ読めるのに、目の前の時刻表がちょっと暗いと読みにくくなってきたわだらんの目である。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 商売繁盛を願う赤い鳥居の山
10/6
新快速の中で吊り下げ広告を見て初めて知ったのだが、今年伏見稲荷は鎮座1300年の節目の年なのだそうだ。
あす7日からは御鎮座1300年奉祝記念大祭なるものが開かれるそうだ。
さぞ大にぎわいなのだろうか。
1300年ということは平安京より前だったのか、とびっくり。
そこで伏見稲荷でWEBを検索するとこれまた立派なホームページをもっておられる。
いままで伏見稲荷が稲荷駅近くにある、と当たり前のように思っていたし、何度か山をぐるっと鳥居をくぐって回ったことはあるが、711年に鎮座してどうこうというのはこのHPを見て初めて知ったのだ。
いろいろと奥が深いなぁ、とつくづく思う。
伏見稲荷のあるあたりはいつもわだらんが通る東海道線の位置からは鴨川や桂川を挟んだ対岸と見ることができる。
おそらくずっとずっと昔は今の竹田や横大路あたりは低湿地で古代人には定住しにくかったのではなかろうかと思う。
逆に伏見稲荷のHPを見ると、紀伊郡深草の里と記載があり、過去からこの山の麓に人が住んでいたのだろうと推測できる。
地理用語でいう滝線に沿って開けていたのだろう。
JR奈良線はまさに滝線に沿った集落をトレースしているし、東海道線も京都からしばらくは西国街道に沿っているが、この西国街道自体がまた山に沿っている。
そのような滝線に沿った線路の例は日本中至る所にあるが、それだけ昔から人が住みやすかったのだろう。
そんな由緒ある伏見稲荷神社は過去から大量の参詣者を集め、それを目当てに鉄道が敷かれた。
もちろん今でも特に正月は京阪もJR奈良線も繁盛していて、まさに参詣者さまさまと言ったところ。
京都市電もかつて伏見稲荷そばまで来ていたし、昔まだ自家用車も他の娯楽も普及する前の正月風景はさぞ大騒ぎだったのだろう、と思う。
伏見稲荷は商売の神様として有名である。
参詣する善男善女を運ぶ鉄道も商売繁盛ということか。
願わくばもっと鉄道利用の旅行者が増えればいいと思うのだが、商売の神様は人々の行動まで見ていただけるのだろうか。
まぁまずは世の中平和で災害がなく、商売繁盛でみな笑顔で暮らせるようお祈りしておこう。
ちなみに記念行事の総額は40億円とHPに記載がある。
さぞ大がかりにいろいろなことをするのだろう。
それはもちろん大事なことなのだと思うが、40億円あったら十和田観光電鉄がとりあえず40年程度は生き延びることができる、などと商売の皮算用をするのは失礼か。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 山陽九州へ向かう列車の基地から50年
10/3
早いものでもう今年も2ヶ月を残すのみになってしまった。
10月になったとたんに忘年会だと騒ぐ連中もわだらんの周囲にいるが、酒を飲むネタも季節感あふれるものと考えればまた風流か。
いや、宴会で騒ぎたい人間は風流などと考えないのだろうけれども。
10月14日は鉄道の日である。
1872年10月14日が新橋横浜間営業運転開始なので、鉄道記念日である。
て、10月から11月にかけて鉄道のイベントが各所でいろいろ行われるのだ。
今年はJR西日本で吹田工場に加えて京都総合車両所の公開もある。
抽選制なのでまずははがきを出してみなければならないが、なんとか当選できないものかと今から願っている。
とはいっても、昔に較べて京都総合運転所、いや向日町運転所の車両たちはずいぶん寂しくなってしまったものだ。
かつて編成からはずされた予備車が至る所に停められ、異形種で適当に連結されていたのだが、いまはほとんどが編成単位で留置されていて、バラの車がほとんどない。
車庫、特に客車を多く持っていた車庫では妻面をあらわにしたバラの車両が当たり前のようにいたのだが。
今の向日町、もとい京都総合運転所は最近113系や117系、それに221系と223系ばかりになってしまって、特急車両の姿はぐっと少なくなりましてや寝台客車はもう見ることができず、なんとも寂しくなってしまった。
加えてそういったバラの車がいなくなったからだろうか、全体に車両が少なくなった印象を受ける。
今の通勤電車、特に221系や223系は編成をバラされることがほとんどなく、あるいは681系も編成単位の管理なので、中間車が裸になった編成姿を見ることがない。
昔まだ対九州の寝台列車が多かった頃はしょっちゅう構内で客車の入れ換え作業をしていたようで、車窓から作業の様子をいつでも見ることができたのだが、最近は本当に静かに見える。
もちろん構内の作業はいろいろあるのだろうけれども。
特急用車両が通勤用車両に較べて華やかだと思うのはわだらんだけではないと思うが、でも子どもにはどう写るのだろう?
きっと電車好きの子どもにはみな輝いて見えるのだろう。
小さいときの電車好きが大きくなっても鉄道利用者になってくれればよいが。
まぁ通勤用車両と言っても、京阪神地区のフラッグシップが特急でなく新快速であることからすれば、構内にいる多くの223系が新快速運用でなく湖西線運用絡みであっても子どもにとっては華やかな姿に思えるのだろう。
創設50周年記念のイベントがたくさんの子どもに夢を与えますように。
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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |