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わだらんの鉄道自由研究表紙へ
11年 12月
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1078. 12/30 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ コンテナの奥深さが理解できればコンテナヲタだ
1077. 12/24 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 時代の象徴は世代交代とともに変化する
1076. 12/22 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 下りの大阪向きが大きく遅れると今度は大阪で上りの乗務員さんが足らなくなる
1075. 12/19 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 駅前に多人数が収容できるホールがあれば何かと便利であろう
1074. 12/18 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 篠山口柏原とか、海南藤並とか直線にならんかな
1073. 12/14 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 赤穂がにぎわう日は、吉良には面白くない日なのかな
1072. 12/13 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 災い転じて福となす、とはいかないのが昨今の輸送事情
1071. 12/12 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ここはどこ、とわかることが大事なのだな
1070. 12/8 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 私鉄対抗ができるのも平和のおかげ
1069. 12/5 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 天候穏便だから列車が走るでは困るなぁ
1068. 12/4 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 目の前で電車に乗れるのは一種の安心感ではなかろうか
1067. 12/1 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ やたら最近高齢者の車が線路に落ちるように思うのだ
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ コンテナの奥深さが理解できればコンテナヲタだ
12/30
わだらんの仕事場は29日が仕事納めで713Mの乗りおさめである。
ほぼ毎日乗っているが、日々ドラマがあってなかなか飽きることがない。
もちろん一般の方ならどうでもいいようなことに一喜一憂しているわけで、ヲタでない限り毎日ドラマがあるとは思わないだろう。
特に貨物列車が遅れたとか来なかったとか、そんなことは一般の方ならまずわからないと思う。
貨物列車、特に最近の貨物列車はコンテナばかりで、なかなか一般の方にはわからないだろうと思う。
毎日見ているとそれなりに載っているコンテナやその貨車の組成を見ておおよそどの列車か見当がつく。
もちろん貨物時刻表ときちんとにらめっこしながら数日観察すればどの列車がやってくるかわかると思うのだが、なかなか観察する時間がない。
でも結局いつも見る貨物列車でそれなりに楽しめるので、それで十分である。
713Mの直前を走るのは1053列車、横浜羽沢を0時半過ぎに出て6時過ぎにもう野洲を通過してしまう、かなりの俊足列車である。
さらにその前、711Mの前を走るのは1051列車、東京九州間のいわば特急列車が二本続けてやってくる。
1051列車は特に大きなコンテナが多いのでこれはわかりやすい。
713Mの後ろを走って途中で抜き去る2093列車は隔日でタンクコンテナが載るし、EF66牽引でこれもわかりやすい。
とはいえ、ダイヤが乱れてしまえば実際何の列車がやってきたのかわからないことのほうが多いのだが。
ところで先日はこの2093列車の絡みで遅れた713Mだが、この2日間、朝のこれら貨物列車の様子がおかしい。
27日の晩に岐阜貨物駅で起きた脱線事故の影響で貨物のダイヤは乱れたままのようだ。
フォークリフトが貨車を引き上げてしまうというどうも信じられない前代未聞の事故である。
本線上で脱線してしまっては大騒ぎ必須である。
でも停めた線路に直接フォークリフトが出入りする架線下荷役なら入れ替えなしで列車がそのまま本線に出ていくわけで、たとえば毎日眺めている京都貨物駅でも起こりうる事故でどうしたものかと心配になる。
まぁわだらんが心配してもどうしようもないことなのであるが。
そんなことを考えながら713Mに乗っていると、膳所で6170列車とすれ違う。
紙輸送のワムハチ編成、さすがに年末ぎりぎりになって新年需要分が一段落したのか、編成がずいぶん短かったのは残念だ。
とはいえ、年末最後の日に無事にワムハチ編成を見ることができたのはちょっとうれしかった。
来年春の吉原駅車扱貨物廃止でこのワムハチ編成の貨物列車もなくなる運命である。
こんなわかりやすい貨物列車がなくなってしまうのは残念で、毎日のドラマの種が一つ減ってしまう。
まぁ、種は尽きないから、ここに書くネタもつぎつぎとあらわれてくるとは思うのだけれど。
そんなわけで、今年も一年間お付き合いいただきありがとうございました。
どうぞみなさまよい新年をお迎えください。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 時代の象徴は世代交代とともに変化する
12/24
新幹線300系が来春で引退することになった。
新幹線の世代交代は早く、いまだに0系が基準の頭ではなかなかついていけないところがある。
とはいっても、新幹線乗り場を表すマークは少しずつ変わってきているわけで、だれもがわかりやすい新幹線のピクトグラムというのは難しくなるのだろうか。
もちろん今となっては東京から鹿児島までN700系が走り回っているのだから、すべてN700顔に置き換えてもいいのだろうけれども、世間はN700の顔になじみがあるのだろうか?
昔々、まだ東北新幹線が建設中の頃、「ひかりは北へ」と大きく掲げた看板が立っていた。
結果的には愛称名がやまびこになったので、ひかりが北に行くことはなかったのだが、一般的にはひかり=新幹線と認知されていた頃の話なので、なんら違和感はなかった。
が、今のように車種も愛称も多くなってくると、さて、何が新幹線の代表なのかよくわからなくなってしまう。
というか結局会社によって表現が変わってくるわけで、東は「はやぶさ」、東海は「のぞみ」、そして西日本と九州は「みずほさくら」になってしまう。
誰にでもわかりやすい愛称というのは恣意的なものであるのかもしれない。
わだらん的には九州の「つばめ」が少し影が薄いように思えて少し残念なのだが。
ところで300系といえば、いわばJR世代の初の新幹線である。
JR東海の発足時100系が大量増備されてその時の顔になったのだが、100系が今回西日本からも引退して姿を消してしまうのはあまり話題になっていないようだ。
いずれにせよ世代交代はどんどん進んでいるわけで、いつの間にか東海道区間は700系とN700系しかいないことになる。
運用や事故災害時のダイヤ収拾のことを考えると車種の統一は仕方ないが、時計代わりになる列車がないのはちょっと残念だ。
なにしろ春の改正でのぞみだけで最大時間10本、新大阪から野洲への新快速よりはるかに多い。
大阪野洲が特に不便だとは思わないが、それを上回る東海道区間の輸送力にはただただ感心するばかりである。
さて、きょうはクリスマスイブ。
まだ日本が夢を見ていたJR発足後間もなくの頃がずいぶん懐かしく思える。
深津絵里や牧瀬理穂のCMを思い出すたび、やっぱり100系はいい車だようなぁと個人的に思う。
そういえばまだこの頃は改札に駅員がいた時代。
待ち伏せの相手が自動改札を通るのではちょっと絵にならないか。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 下りの大阪向きが大きく遅れると今度は大阪で上りの乗務員さんが足らなくなる
12/22
大阪駅のホームに上がったのが19:42、ちょうどのタイミングで19:45発の3520Mに間に合った。
欲を言えばもう少し早く着いて列に並べば着席できそうなのだが、最近はむしろ新大阪狙いでも割とあたるので、強いて列に入らなくてもいいかなとかと思う。
この3520Mは12両になってずいぶん楽になった。
いつもなら編成後方、3号車とか2号車あたりでもざっと着席してしまうと通路に入る人はほとんどおらず、新大阪での降車客の後を広い範囲で狙えるのがありがたい。
きょうもそう思い、10番のりば側を下り方向きに歩いていた。
電車は定刻に到着し、大量の降車客が電車から吐き出されてきた。
ところが、ふと頭上の案内を見ると、この電車の次は20:45とある。
はて、とみている間にさらに21:00に変わってしまった。
いまいち事情が呑み込めないが、どうやらこの後の電車が遅れているようだ。
これは是が非でも目の前の3520Mに乗らなくてはならぬ、と。
幸いにも車内は大きな混雑もなく、結果的には新大阪で無事着席ができた。
めでたしめでたし。
混乱の原因はわだらんの乗った3520Mの後続、3522Mが須磨で人身事故に遭ったためだった。
そもそもなんで須磨で新快速が人にあたるのか不思議ではあるが、その2時間前には新幹線西明石駅で通過する列車に人があたっているし、最近はわざわざ狙いに行く仏様が多いのか、と考え込んでしまう。
事故の多さにはなんとも閉口してしまうが、それでもわだらんは5分遅れで野洲に帰ってくることができ、なんら問題はなかった。
あと3分大阪駅に着くのが遅ければ大騒ぎになっていたところで、ちょっと運がついていたかな、と思う。
ところで須磨の列車線はその後もなかなか運転再開できなかったようである。
おそらく運転再開できるであろうかと見込んで発車させた下り新快速が大津、膳所、石山、瀬田と各駅の外側に停めて抑止中。
一方、内側はT電や本来外側の草津線5385Mを流している。
南草津手前でも新快速にすれ違ったのでこれも南草津抑止になるな、と。
ちなみに抑止は大津が3521Mで以下順番に停められたもよう。
事故から間もない時間で外側に新快速を振ったようで、列車の遅れは別にすればなかなかうまいさばき方だ、と感心。
とはいえ、ホームで長い時間停められ、運転再開のあてもなくでは、乗客のかたも、さらには乗務員のみなさんもかわいそう。
大阪で折り返してもう一仕事の乗務員さんも多いはずで、きっといつもより相当遅い時間まで仕事につかねばならないのだろう。
まだ乗客は走っている内側T電に乗り換えて帰宅できるが、ホームに抑止された列車、しかも膳所や瀬田で通過の案内表示のまま停まっている新快速はちょっと物悲しく見える。
輪をかけて内側から普通電車に抜かれるのだからなおさらである。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 駅前に多人数が収容できるホールがあれば何かと便利であろう
12/19
野洲駅前の旧アサヒビール工場跡地にあった建物や設備の撤去がほぼ終わって、広大な空き地ができた。
案外何もない平面だと結構広く感じるものである。
具体的な使用方法はこれから決定されることになるが、それなりに市街化された地域の駅前にこれだけ広い空間、公共用地ができるのはうれしいものだ。
もちろん駅前空地といえばたとえばJR尼崎とかあるいは岸辺にしても広大な土地の再開発事業はあるのだが、地元での事業というとまた感じ方が違う。
各地に誇れるような立派な公共空間、交通結束点としての都市基盤整備をしてほしいものだ、と思う。
ところで、日曜日に某丹波篠山出身の落語家の独演会に行ってきた。
この落語家氏、毎年のように野洲で独演会を開いてくれて、何度か足を運んだことがある。
さすがにテレビで見るのとは違う、目の前の臨場感が伝わってくるのがうれしい。
何せ、野洲の小ホールでの公演であるので、より一層臨場感があるように思うのだ。
ただ、今年から野洲文化ホールでの公演になって、少し会場が大きくなった。
以前は旧中主町のホールで行っていたので、より会場が小さく、距離が近かったのだが。
さて、講演が終わるとみな続々と会場から出てくる。
野洲文化ホールは野洲駅徒歩2分(徒歩5分と文化ホールHPにあるが、どうみても5分は大目だよな)と駅前立地、駅へ向かう人の流れもかなりある。
実際には駅前広場で自家用車に拾ってもらったりもしているのだろうが、でも少なく見ても一割、いや間違いなくもう少しの駅利用者がいる。
基本的に車で動く滋賀県民でも、それなりに便利なところであれば電車の利用もあるのだ、とちょっとびっくり。
何しろ旧中主町のホールでは過去のこの落語会で臨時バスはあったものの、バス一台がきっちり埋まるほどの利用者ではなかったので、野洲駅前の公演ということで鉄道利用がそれなりにあったとみてよいようだ。
新快速の停まる駅の駅前のホールなので他所からの利用が見込める、とこの駅前整備計画の話の中でも出ていたが、実際そういう人の流れを見るとちょっと安心、というか勇気づけられる。
栗東のさきらも駅前に近いホールだが、栗東には新快速は停まらない。
大津のびわ湖ホールも大津駅からは近くない。
わかりやすさでは野洲の駅前はかなり有利に思えるが。
ということで、駅前整備計画に盛り込まれる可能性のある公共ホールは結構使えるのではないか、と改めて思うことになった。
もちろん駅前に不特定の多人数を収容できるものがあれば、いざという時、何らかの災害などで長時間電車が止まる際の一時収容施設として使えるはずで、いわゆる帰宅難民対策にきっと役立つと思う。
もっともそんな使い方など起こってもらっては困るのだが。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 篠山口柏原とか、海南藤並とか直線にならんかな
12/18
長岡京と山崎の間で線路の上を越す京都縦貫道の工事がずいぶん進んで、橋脚の上に桁がずいぶん並ぶようになった。
自動車道の工事は実際始まるとあっという間にできてしまう印象で、びっくりしてしまう。
国道一号の水口栗東道路もずっと計画段階で進まなかったのに、実際工事が始まるとあれよあれよと構造物が完成して
いつの間にか野洲川左岸からつながってしまった。
鉄道の改良工事もこれくらい次々進めばいいのだが、残念ながらそうはうまくいかない。
国鉄時代は曲線緩和や勾配緩和、あるいは複線化で新線切り替えがところどころあった。
古いところでは膳所京都間や、まぁまぁ新しいところでは福知山線宝塚篠山口間とか、山陰線京都園部間とかあるものの、最近は線路改良による新線切り替えはとんと聞いたことがない。
もっとも新幹線は線路改良の最たるものであるから、確かに九州や東北など新幹線開業区間では劇的な変化があったといえるのだろう。
さらに今回北海道北陸九州の各新幹線で新規着工の可能性が高まったそうで、鉄道による所要時間の短縮は近い将来間違いなくできるのだろうが、
在来線が放置(というと言葉が悪いが)されるのはまだまだ先の話とはいえちょっと残念にも思う。
とはいえリニアができれば東海道新幹線が今度はいわば主役から転落するわけで、それなりに鉄道線路も改良が進んでいくのだろう。
もっともリニアが東京大阪間を走るようになるころにわだらんが元気でいられるかどうかもまた問題なのだが。
山陰線は保津峡付近の線路切り替えなど複線化工事と高速化工事が終わってまずまず改良されているので、
特急の利用者も極端な減りもないまま推移している。
もっともそれはどちらかと言えば道路整備が他所に比べて遅れているのが原因の一面もあろうかと思う。
福知山や舞鶴から京都へ高速道路というとずいぶん大回りになるし、京都縦貫道も前後が一般国道で時間がかかる。
さらに国道9号は京都市内から亀岡市内まで渋滞する時間帯も多く、ちょっと大変である。
車の移動に時間がかかるのを喜ぶのは本意でないが、でもそれで鉄道利用が維持されていると考えるとちょっと複雑な気分である。
長岡京駅の北側、かつての側線跡に大きな鉄製の桁が鎮座していた。
そのうち東海道線の上にかかるのだろう。
線路の上の工事は何かと大変なのだろうし、安全を祈っていよう。
でも着々と進む道路建設を見ていると、ちょっと悲しくなってしまったりする。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 赤穂がにぎわう日は、吉良には面白くない日なのかな
12/14
12月14日と言えば赤穂浪士である。
新快速が赤穂まで日中も時間1本直通するようになったおかげで臨時列車までは出なくなってしまったが、でも赤穂ではお祭りがあって人が集まる。
みな赤穂浪士が好きなようだ。
実際のところ吉良上野介が言われるほど悪人なのかどうか、わだらんにはわからない。
まぁ話の筋としては仇討、主君の無念を晴らす、というほうが筋は作りやすし、見る者読む者に共感も呼びやすいと思うのだが、どんなものなのだろう。
ちなみに討ち入りの日が12月14日であることはよく知られているが、その発端となる松の廊下の斬りつけ事件が3月14日であることはあまり知られていないし、
さらにはこの12月14日も3月14日も旧暦なので現在の暦では異なるのだが、そんなことはみな無関心である。
結果として12月14日は忠臣蔵の日、とそればかり人気の独り歩きである。
わだらんはきちんと忠臣蔵などの類を読んだり見たりしていないので、いささか誤解があるかもしれないが、もともと吉良藩のほうが赤穂藩より大きく、
またどちらの地も塩を作っていたそうで、そのあたりの何か因縁に近い思い込みが事件の背景か、と思う。
吉良藩のあった幡豆郡の海岸沿いは開けた水田地域であるが、昔は広い塩田だったのだろうか、と想像ができる。
最近は赤穂の塩とか伯方の塩とか地域ブランドものが盛んだが、江戸時代もどこどこ産、と塩がブランド化していたのだろうか?
江戸時代もさぞ吉良藩のあたりや赤穂藩の周囲も豊かな塩田や水田で、豊かな暮らしをしていたのだろうな。
ところで、ふと気になって吉良町をネットで調べてみたところ、この4月に西尾市に合併されていることが分かった。
ちなみに幡豆郡の一色町、幡豆町も同時だそうだ。
そこで西尾市役所のページを見ると、残念ながら吉良町や上野介の話は載っていない。
おそらくは旧吉良町などのページはまだあってリンクがされていないだけだろうかと思うが、でもやはりちょっと寂しい。
吉良上野介では観光客が呼べないのだろうか、その点では赤穂市の圧勝である。
まぁ悪者扱いでは観光客も来ないのだろうか?
でももっと心配なのは開いた西尾市のページで名鉄電車の存続にかかわる取り組みを見て思うこと。
既に三河線海線区間と言われた碧南吉良吉田間が廃止されて久しいが、西尾線自体末端区間の廃止論議がある。
廃止の可能性については最近でなく結構前から出ていたのだが、ただ西尾のあたりのようなそれなりに人口のある地域ですら、鉄道の維持ができないのだろうか、と悩んでしまう。
もちろん平野で道もよく車の移動は便利だし、ましてや鉄道路線が人の流れに一致していない部分も多数あろうけれども。
輸送密度が人口密度に比例しないのは理解できるが、観光客がいなくとも西尾線が蒲郡まで末永く残るよう、地元の名君と言われた上野介にお願いをしても損はあるまい。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 災い転じて福となす、とはいかないのが昨今の輸送事情
12/13
週末の冷え込みで、野洲から見る比良の山並みはすっかり冬景色、頭に白い帽子をかぶっている。
もう12月も半ばになって、山に雪が降っても何らおかしくない時期であるが、やはり実際雪の山並みを見ると、冬だなぁ、と実感する。
しかし冬となれば特に北からの風が暴れる季節で、せっかく防風壁を作ったのに湖西線はしょっちゅう風規制で乱れてしまっている。
最終的にはトンネル構造か何かにしなければならなのかな、とも思う。
ちなみに雪にいじめられている東海道新幹線は一時期線路に屋根を作る案が真剣に検討されたそうで、何かと金がかかる話ばかりである。
そもそも雪が降らなければ除雪作業などいらないわけで、新幹線に限らず雪は鉄道にとって厄介者である。
雪を見るためや雪で遊ぶための観光客も多少はあるので、雪が降らないと困るし、実際雪で生計を立てている観光業の方も多いのだから雪が降らないと困るのだが、
できることなら線路の上だけ雪が降らないように、などというと天気の神様に怒られそうだ。
せめて列車に大幅な乱れが出ない程度に雪が降ってくれるのが一番いいのだろうけれども。
高島市内のスキー場が共同で集客PRをするそうだ。
湖西線ができた時にはスキー客対象の臨時列車もたくさんあったのだが、今はせいぜい臨時停車くらいで、臨時列車があったこと自体想像しがたいものがある。
かくいうわだらん自体、最近すっかりスキー場に縁がない。
歳を食ったせいか、どうもスキーをすることが億劫になってきた。
こんな状態なのだから、スキー客が減ったなどと心配できる資格さえないのだが。
10年ほど前はシュプール号が関西から信州へ日2〜3本あって、野洲で23時すぎに定期列車を退避していた。
ホームから眺める車内は楽しそうに見えたのだが、それは当時のわだらんの妬みであったのかもしれない。
が、今は列車でスキーに出かけること自体ほとんど目にしなくなってしまった。
昔は週末ともなれば必ず板を担いだ人間を夜見かけたものだったのだが。
朝野洲を出発する際に雪の山を見ているとなぜか目がさえて、713Mの車中でずっと外を見ていた。
日の出とともに空の色も街の雰囲気も変わっていくさまはなかなか美しいものだ。
しかし向日町運転所、いや京都総合車両所の横を過ぎる時、特急車両がほとんどいなくなってずいぶんがらがらに見える構内を眺めるのはさみしいものだ。
かつて6本いた583系は半減し、20系や14系の寝台客車は姿を消し、これではスキーの臨時列車はおろか、年末年始の帰省臨時ですら出せるのだろうかと思ってしまう。
雪を屋根に積んだ夜行帰りの車両を見るというのはもうほとんど不可能なのだろうな、と通勤車両ばかり目立つ車両所を見ながら考える。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ ここはどこ、とわかることが大事なのだな
12/12
テレビのニュースや新聞でも取り上げられたのでご存じの方も多いと思うが、金曜日の夜に地震計が誤動作して電車が停まる騒ぎがあった。
多くの電車が影響を受けたので、みなさんの中にも巻き込まれた方もおられるかと思う。まぁ誤動作でよかったわけで、
もしこれが本当に地震、しかも運転再開に時間を要するようなものだと、巻き込まれたなどと悠長なことを言っているところではないのだろうけれども。
わだらんは大阪20:15の新快速3524Mに乗っていた。
大阪では発車時間に余裕なくホームに上がって、そのまま列後方から車内に入ったのだが、目の前で着席していた男性が発車間際に突然飛び起きて下車していった。
駆け込み降車とでもいうか、でも時折そんな例はあるし、わだらんも野洲であわてて降りることはよくある。
まぁとにかくありがたく座ることができて、既に新大阪は夢の中であった。
さて、そんな心地よい睡眠は停車のショックで破られた。
どう見ても急停車である。
しかも駅ではない。はて、どこかいな、と外を見ると向かいに新快速が停まっている。
車内は電気もついていつもの雰囲気ではあるが、でも駅間で停まっている。
目の前が電車ではただでさえ真っ暗な中視界も効かないが、線路のカーブの雰囲気で東淀川吹田間であろうことは想像ついた。
ダイヤ通りなら15分発上り新快速が30分発下り新快速とすれ違う場所で、それならまさに線路を2本またいだところに停まっている新快速は大阪20:30のもの、と想像つくのである。
そこでせっかくなら、と携帯電話のGPS機能の現在位置検出というのを初めて使ってみることにした。
いままでどこにいるのかわからない、ということがなかったので使ったことがないものである。
結果は予想通り吹田東淀川間、城東貨物線分岐と神崎川橋梁の間ということがわかった。
さて、場所がわかったところでどうしたものか。
やがて車内で地震が発生しましたとの車内放送。
これまた大変、どうしたものか、とさらに思案。
もしこのまま運転再開まで時間がかかれば難儀だし、運転見合わせともなると歩いて帰れる距離でもないし。
そもそも駅まで遠く、線路の上を夜間の暗い中歩くのは大変である、と思っていた矢先、運転再開との車内放送が入り、安堵する。
結果的には野洲25分遅れで済み、まぁ大事にならずにすんだ。
とはいえ、実際に帰宅途中の電車が暗い中で運転見合わせとなったらどうなるのか、ちょっと現実味を帯びると結構怖いものがある、と体験をした一夜であった。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 私鉄対抗ができるのも平和のおかげ
12/8
大阪駅18:45の新快速3510Mに乗って帰宅。
12両で、かつ前後に大阪始発の新快速に挟まれ、車内は比較的すいている。
しかも無事に新大阪で着席でき、転換クロスシートの座席に腰深く落ち着くと、あっという間に睡魔に襲われる。
いわゆるラッシュに縁遠い通勤電車に乗れる本当にありがたい帰宅である。
ところで、この新快速が153系で運転されるようになった時は「特急並みのスピード」と言われた。
実際大阪京都29分は当時の特急雷鳥と互角であったのだ。
さらに117系で運転されるようになると今度は「特急並みの設備」と言われた。
当時の国鉄では前向き転換クロスシートというのは特急車しかなく、普通運賃で乗れる転換クロスシート車というのは破格のサービスだったわけだ。
実際117系直後に出た特急車185系は車体構造が異なるものの、座席は117系と同じものであったし、JRになって東海がキハ82系で117系と同等の転換クロスシートを載せ替えていたりした。
従って特急並みのスピード・設備ではなく、特急と同等のスピード・設備というのが正しいことになる。
もちろん同等と言ってしまうと特急料金の意味がなくなるので、あくまで並みとこだわっていたのだろうと思うのだが。
この新快速、速度や座席は私鉄対抗であることは言うまでもない。
ということはもし阪急や京阪に転換クロスシートを持った特急車がいなければ、今の新快速はなかったことになる。
京阪初代600系が戦前にロマンスシートと銘打って登場したのが転換クロスシートのはじめと記憶しているが、その後の進化で京阪1900系や阪急2800系が颯爽と走る姿はとても国鉄に簡単には真似できなかったわけだ。
私鉄王国の関西であったが故にわだらんは今こうして特急同等の列車で通勤できるわけで、私鉄に感謝しなくてはいけない。
ところで、京阪特急が戦後早い時期から復活したのはもともと身内であった新京阪線が他人になってしまったからである。
カーブの多い京阪本線では時間の短縮が難しい、と淀川右岸に線路をできるだけ直線で敷いて高速運転を目指したのだが、
国から他人(当時の阪急)と一緒になれと言われて、今度はまた分離するときに新京阪線を引きはがされてしまったのである。
京阪からすれば身内であった路線、しかも高速運転を目指した路線と競合する結果になったわけで、なんとも皮肉である。
そんな国による私鉄の統合が行われた時代がある。
多くの地方鉄道やバス会社はこの戦時中の合併・統合が基礎になっているし、都市圏の大手私鉄も多くが戦時中の路線統合と戦後の分離を経験している。
輸送力確保や無駄な競争排除などいろいろ狙うところはあったのだろうが、戦争という非常時に他社との統合など国策に協力させられたのは確かである。
もちろん今でも、いや最近だからこそ、鉄道会社やバス会社の分離や合併も多くあるが、でもそれはもともと経営上の理由であって、決して非常時対応というわけではない。
平和な時期だからこそ平和に分離統合ができるわけで、それこそ戦争のような非常時にでもなってしまえばこんなのんびりゆったりとした通勤などできるわけもない。
過去の歴史によって今があるのだが、とにかく今は私鉄に感謝する前にまずは平和であることをありがたいと思わねばならないし、また平和を維持していくことを考えていかねばならないと睡魔に襲われながら考える。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 天候穏便だから列車が走るでは困るなぁ
12/5
いつもいろいろとネタをいただく九頭竜川氾濫原にお住まいの方から半井小絵さんの講演が福井である、と事前にお知らせをいただいていた。
が、どうしようか迷っている間に定員になってしまったようで、結局行けずじまいでちょっと残念であった。
テレビと違う実物を間近に見るのではずいぶん違うのだろうなぁ。
天気予報の話より単に半井小絵さんを見てみたいだけ、というとちょっとあぶないと思われるか。
今の天気予報はより正確になってまず大きく外れることはない。
むしろ大荒れの天気とか大雪とか、最近は派手な気象現象が続発するので、より一層天気予報の重要性が増しているように思う。
昔は駅の軒下に「警戒xx注意」と書かれた丸型の気象警告板を下げて乗務員に知らせていたが、今は無線で情報が飛んでくる。
もちろん無線のほうが正確でかつ対応も早いのだろうけれども、板で知らせていた時のほうがなんとなく親近感がある。
無線だと直接乗客が情報を見ることができないし、ちょっと残念。
一方乗客は乗客で最近はみな携帯とか端末で気象の詳しい状況を知ることができるのだから、それでよしとするか。
今はアメダスデータも国道の積雪情報も簡単に知ることができるわけで、ありがたいものだ。
もっともそれを有効に使えるかどうかはまた別物であるが。
そろそろ冬の天気になってきて、野洲の空も突然細かい雨が降ってきたり、湖西側に低い雲が寝ているのをみることができたり、あるいは駅の転てつ器には温め器カバーがついたし、線路のあちこちにバラスト飛散防止用のネットが貼られるようになった。
しかも今年は以前のような12月1日からでなく、11月19日からすでに長時間停車列車の扉半自動扱いも始まって、すっかり冬支度。
荒れない天気が続いてくれればいいなと思う。
月曜日、ちょっと早めに仕事場を出て、久しぶりに17:45の3498Mで帰宅することにした。
隣には4001列車、特急日本海が定刻で入線していきている。
今日は欠車なしの10両編成、やはり寝台車は長編成が似合うものだ。
週末は羽越線内の強風で運転打ち切りや運休があったようだが、今日はいつもどおり。最近はむしろ天気予報の高度化で事前に運休が決まってしまうことも多く、これからの荒れ模様の多い季節はちょっと心配。
もちろん雪が降らなければ困ることも多いのだけれど、列車が運休になるほど急に降ってもらっても困るし、なかなか難しい。
でももっと心配なのは、簡単に運休しても影響があまりないほどの需要しかない夜行列車になってしまったことなのであるが。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ 目の前で電車に乗れるのは一種の安心感ではなかろうか
12/4
ちょっと所要があって、蹴上に行ってきた。
山科から京阪電車と言いたいところだが、残念ながら山科から地下鉄である。
そもそも昔なら、改札の目の前で蹴上に行く電車に乗れたが、今は地下に潜らねばならない。
もちろん今でもJRの改札前に京阪山科駅はあり、そこから蹴上まで電車で行くことはできるのだが、階段を下りて地下駅へ行くだけで運賃が30円も安い。
まぁ250円と280円の差はその地下駅への手間賃とみることもできるが、いずれにせよ同じ区間で二重運賃というのは遠来の観光客にはわかりにくいだろうな、と思う。
山科駅でJRから地下鉄へとしきりにPRしているが、地下鉄一日乗車券などを持って京阪山科駅で「別途運賃が必要です」と言われたらびっくりする客も多かろう。
まぁそれもあってか、少なくともJR山科駅の改札前にはボランティアだろうか、法被姿の案内人がたくさん立っていたのだが。
しかし昔の京津線路面区間はずいぶん楽しかったように思う。
まずは景色が楽しめたこと、たとえばこの紅葉の季節なら九条山とか、神宮道の角とか、赤や黄色がいろいろ楽しめたものだ。
いまは何も眺めることはできないし、地下鉄のトンネルの中では季節を感じることはできない。
せいぜい御陵と蹴上の間が山岳トンネル区間で、地下鉄車両で本格的な走行が楽しめるくらいのものか。
しかも蹴上のホームはやたら深く、地上に出るのに難儀する。
地上時代の蹴上駅は東山三条からどんどん坂を上っていく途中にあったのだが、地下鉄蹴上駅はその勾配が緩く、つまり昔なら電車が上っていた標高差を階段やエスカレータで乗降客が上り下りしているわけだ。
京阪山科にしろ、この蹴上にしろ、エレベータなど設備を揃えなければバリアフリーにならないものの、でも路面の駅なら少なくとも深い階段の上り下りは不要である。
ましてや蹴上など電車の駅が路面にあれば、地下鉄の駅入り口がどこか迷う必要もなかろうに、と思う。
とはいえ、ちょうど南禅寺や永観堂の紅葉めぐり観光客が殺到して、かつ旧1号線が渋滞でちっとも進まない車列を見ると、地下鉄化もやむを得ないのだろうな、と思う。
願わくばせめて京阪山科までだけでも地下鉄と同じ運賃にしてもらえればありがたいのだが、どうしたものだろう。
特定運賃はあるにせよ、どうも地下鉄東西線は少なくとも旧京津線区間の運賃が高いように思えてならない。
いや単に、昔がよかったとは思わないのだけれど。
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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽ やたら最近高齢者の車が線路に落ちるように思うのだ
12/1
昔からヲタはいろいろと鉄道車両にあだ名をつけるのが得意であるが、最近は683系4000番台のことをヨンダーバードなどと呼んだりする。
確かに4000番台は今までの681・683系と編成内容も車両の構成も異なるし、サンダーバードと区別して考えてもおかしくない。
しかも4000番台という付番も珍しく、その点もあだ名の対象になっているのだろうかと思う。
もともと4が死に通じるためか、私鉄を中心に4000と名乗る車は少ない。
たとえば阪急は3000や3300系の次の車が5000や5300系を名乗るし、京阪も5扉5000系が出ると次は4000を開けて6000になったし、近鉄にも4000はいない。
東京メトロでも4000が飛んでいるし、いま活躍中の4000というと小田急や西武、そして最近出現した名鉄くらいだろうか。
国鉄時代も4000をつけたものは少なく、JRでも223系や225系、あるいは313系でも4000が飛んでいる。
そう考えるとこのヨンダーバード、ちょっと不思議である。
ところで、今を去ること50年ほど前、初めて北陸線に特急が生まれた時の列車番号は4001D、4002Dであった。
大阪駅基準では1D・2Dを長崎行きかもめで使っていたし、青森駅基準では1D・2Dは上野行きはつかり、そしてこの大阪青森間特急白鳥に併結された上野発着の白鳥は2001D・2002Dを名乗っていた。
当時列車番号は0〜2999あたりを使うのが一般的で、3000台が使われることはほとんどなかったはずなのに、なんで突然4000を付番したのかはよくわからない。
が、それが故今になるまで北陸線の大阪発着の特急列車は4000番台の列車番号を使っていて、それにヨンダーバードもひっかけたのかななどと思ってみたりする。
まぁ車番の起源にこだわらずとも、緑の熱線吸収ガラスが目を引く車体はなかなか美しく、また9両貫通の編成はなかなかたくましく、これに3両付属編成のついた12両編成は、なんともほれぼれする美しさでわだらんのお気に入り。
弟分287系も美しく見えるのだが、編成が短い分迫力に欠けるように見えて、より4000番台が好きなわだらんである。
ところで、そのヨンダーバードが乗用車を引っかけてしまった。
どうして狭い踏切に車を入れたのか理解に苦しむが、そもそも尼崎の方が金沢に行こうとしてどうして大聖寺あたりの狭いところを走っていたのかよくわからない。
車に乗っておられたのが79歳とのことで、高齢と事故に何か関係があるのかどうか気にはなるが、いずれにせよ踏切事故になってしまったのは事実である。
そしてそのおかげで夕方までの特急が運休してしまったのもなんとも迷惑な話である。
朝713Mで大阪駅到着時の構内放送ではサンダーバード9号まで運休確定と案内されていたが、結局39号までに加えて日本海まで運休になってしまうありさまになってしまった。
現場や北陸線関係の乗務員のかた、駅係員のみなさま、そしてなにより移動の手段を奪われた乗客の皆様の苦労はさぞ大変であっただろうと思う。
まさかここまで運転開始が遅れるとは誰も最初考えていなかっただろうから。
そんな苦労をされている方のことを考えながら帰宅につき、いつもの通り野洲駅に戻ってきた。
ホーム階段を上がると、「北陸には渋滞のないJRでおでかけください」と北陸キャンペーンのポスターが貼ってある。
少なくともこの29日の事故でいえば「渋滞のない」より「道を間違える心配のないJRをご利用ください」である。
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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |