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12年  1

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1088. 1/28 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   優先順序が低い列車と思うとなんとも寂しい

1087. 1/24 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   風が吹くと桶屋が儲かり、木が倒れると列車が休む

1086. 1/20 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   停まれば便利だが、万人に便利かどうかはわからない

1085. 1/17 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   機関車が横転するような災いがきませんように

1084. 1/15 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   遅れは鉄道側の見方、走っていれば客は遅れとは思うまい

1083. 1/13 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   ただ今から扉付近の補助椅子が使用できます、と昔京橋今草津

1082. 1/11 ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   そのうちみどりの窓口も死語になるか

1081. 1/9  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   十年ひと昔、二十年ふた昔

1080. 1/8  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   続 新しい年の始まりに新しい駅の話でも

1079. 1/4  ○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   新しい年の始まりに新しい駅の話でも

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   優先順序が低い列車と思うとなんとも寂しい

1/28

北陸から東北の日本海側は大雪である。

新潟や長野の内陸、そして今庄や九頭竜も大量に積もっている。

東京が大雪ではすぐにニュースになるが、山の雪は当たり前と思われているのか、よほどの大雪でない限りニュースにならない。

とはいえ、やはり今年は例年よりやはり多いのか、大雪がニュースになっている。

最近は雪かきにいろいろと不便が多く、人手も機材も足らない状況では作業も進まないようだ。

もともと雪かきはいわば人海戦術であって、過去の38豪雪などの写真を見ても

大量の人々が線路の除雪をしている写真を見ることができる。

ところが人手が足らない現状では最低限以外は放置状態ともいえるような。

もちろん現場で苦労されている方には極めて失礼な言い方かもしれないが、

例えば昨冬に湖西線永原駅で列車脱線事故が起きたためか、今は雪の状態によっては塩津まで回送し折返ししているようだ。

これなら永原駅で副本線の除雪をせずとも済むわけだが、ますますあちこちの駅で棒線化が進みそうな気配である。

もちろん昔から除雪はまず本線を開通させてその後少しずつ周囲の線路を開通させるのだから、まずは棒線と同じような状況なのだろうけれども。

 

とはいえ、このところ特急日本海の運転状況は極めて悪く、先週から連続3日運休の上、また今夜も運休である。

大雪が続いて除雪がままならない状況ではまず必要最低限の列車、

生活列車や生鮮品輸送貨物列車などから優先順序をつけてそれ以外は運休になってしまう。

その運転整理、計画運休は仕方ないのだが、でも逆に日本海はそれほど優先順序が低いのかとちょっとがっかりしてしまう。

まぁだからこそ廃止になってしまうのかもしれないが。

 

とはいえ、この状況では大雪を一番心配しているのは日本海の廃止前に何とか乗っておきたいと思う葬式ヲタなのかもしれない。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   風が吹くと桶屋が儲かり、木が倒れると列車が休む

1/24

火曜日の朝、いつものように713Mに乗っていたのだが、なんとなく眠れず京都を過ぎて起きていた。

すると京都の西側、愛宕山や小塩山が白く化粧して朝日に光っている姿を見ることができた。

とても美しく、いいものを見た、とうれしくなった。

雪山ならいつも比良山系を見ているはずであるが、いつもと違う山々が、そして朝日に輝く姿はまた格別なものだ。

さぞ冷え込んでいるのだろうと思いつつ周りを見ていると、線路際が濡れているのに気が付いた。

野洲ではまったく雪どころか雨模様すらなかったのだが、京都盆地の西あたりは雪雲の通り道になったのだろうか。

深夜あたり向日町や桂川駅あたりも雪模様だったのだろうか。

とはいえ、線路に雪があるわけでもなく、いつものように順調に713Mは大阪に着いた。

まずはめでたし、である。

 

ところが大阪駅に着いてびっくり。

「山陰地方大雪のため特急こうのとり3号の運転を取りやめます」と液晶画面の案内板に出ている。

とはいえ、福知山線の列車が遅れているような案内はなく、不思議に思っていた。

のちにJR西日本の運行情報HPを見て納得。

もともと雪の影響があったのは福知山線ではなく山陰線、倒木で運転見合わせだそうだ。

最近特に多いのが倒木による運転見合わせ、昔は雪が降ってもそんなに止まらなかったよなぁ、と思う。

線路の保守点検にかかる人手が減ってしまっているからだろうか、

あるいは森や林の管理ができていないからなのだろうか、とにかく山陰線は一部区間で止まっている。

そんなわけで福知山から出てくる特急列車の1番目、つまりきのさき2号が運休したのだ。

京都に着いたきのさき2号の車両は折返しを山陰線に戻らず、向日町へと進み、そして今度は回送で新大阪へと向かい、

新大阪から福知山線こうのとり3号になる運用を組んでいる。

なので、山陰線きのさき2号が運休になると、雪に関係のない福知山線の特急こうのとり3号が運休になってしまうという次第。

車両は山陰線も福知山線も福知山電車区の車で、両線で共通運用を組んでもなんら問題がないのである。

今の特急は比較的各運転区間ごとに運用を組んでいて、例えばサンダーバード用683系は大阪魚津間が基本で、米原や越後湯沢には行かない。

あるいは南紀とひだは同じキハ85系だが、運用も編成もまったく異なる。

その意味ではこうのとりときのさき・まいづるをまとめて運用に組んでしまう287系はちょっと珍しい車両といえるかもしれない。

 

昔国鉄の時代は特に特急車両は広域運用を組んでいた。

佐世保線早岐の14系寝台車があかつきで大阪に上がり、そのまま日本海になって遠路青森まで行き再び日本海とあかつきで戻っていた。

あるいは金星で名古屋に博多から着いた583系が夜の金星で博多に戻るまでの日中にしらさぎで富山を往復したり、

上野に着いた東北特急はみな着いた列車と違う列車で折り返していったりと、広い地域を行ったり来たりするのが当たり前だった。

なので雪のための運休がまったく雪の降らない地域で発生することが珍しくなかった。

今は長距離列車自体がほとんどなくなってしまい、そんな広域運用自体成立しないのであるが。

 

と、こうのとりの運休の話を見ながらそんなことを思い出してみた。

運用ヲタ的には面白いが、倒木に関係のない福知山線利用者には迷惑千万な話。

他線区の不都合を受けるのは面白くなかろう。

そういえば米原姫路はおおよそ200km、大阪名古屋間とか大阪岡山間にほぼ近い距離である。

その距離を快速含めて時間あたり上下8本が直通運転しているとなれば、何かあった時のダイヤの乱れ方は相当なものだとやはり覚悟がいる。

事故後の捌き方はあれこれあれど、とにかく長い運転区間のどこかで何かあれば何らかの影響を受けることは間違いない。

直通運転は乗り換えなしで便利なものだが、いざ何か起こればたやすく崩れてしまうものだ。

と頭では分かっていても、遠い播磨の地で起きた輸送障害で琵琶湖線が遅れるのも困ったものだ。

いや、湖北の雪で列車が遅れる播磨もまたそれはそれで迷惑か。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   停まれば便利だが、万人に便利かどうかはわからない

1/20

先日、昔京阪特急も阪急京都線特急も大阪京都間無停車であったと書いた。

今の途中駅停車数から考えると想像がつかない。

昔を懐かしむだけでは進歩がないのだが、今度は近鉄名阪甲特急、つまりノンストップ特急が全列車津に停まる、と近鉄から発表があった。

津に実家のあるわだらんとしてはうれしい話ではあるものの、また無停車の列車がなくなるのかと思うとちょっとさびしい。

最近はどの路線も停車駅が増えるばかりで確かに利便性は高まるのだけれど、何か高揚感というかわくわくする気分になりにくいように思うのだ。

つい最近までひかりは東京を出るともう次は名古屋だったのに、いまはのぞみでも品川と新横浜に停まる。

確かに新横浜からのぞみなら名古屋まで停まらないとはいえ、東京を出てすぐに車内が落ちつくのか、

新横浜を出るまで落ち着かないのかはちょっと違うように思う。

とはいえ、例えば八王子は新幹線へは新横浜経由が定着したし、新宿からでも品川のほうが時間的に有利となれば、停車駅が増えるのも致し方ない。

飛行機のように二点間のみで便が成立するのと違い、列車の場合は途中で需要があれば乗り降りできるのが便利なところなのだから。

 

新快速が朝通勤時に運転を始めたころは高槻通過、つまり京都新大阪間無停車であった。

高槻茨木にとっては快速が大阪への速達列車だったので、当然通勤時は大量に乗客が乗り込んでいた。

高槻でかなり混みあった快速が茨木に着いたところで、茨木の客がすんなりすべて乗れるわけでもなく、列車の遅れも乗り残しも日常茶飯事であった。

一方新快速はもちろん通勤客でそれなりに混んでいたものの、まだまだゆとりのある状態で、快速と比べればいわばがらがらの状態であった。

そんながらがらの新快速が高槻に停まるようになると、高槻からの利用客の多くが新快速に流れたおかげで快速の茨木着時点での車内はずいぶん余裕ができ、

茨木の利用客も安定して快速が利用できるようになった。

新快速の高槻停車の恩恵を茨木でも享受できたという話である。

とはいっても、近鉄の名阪甲特急が津に停まることのメリットはなんだろう。

確かに今津に停まる名古屋行きで大阪からの白子四日市桑名客が乗換しているので、三重県内、特に北勢地域からの大阪利用は便利になるだろう。

でも日中までそんなに利用客があるようにも思えず、津と名古屋の間もいわば増発となるようなほど特急利用客がいるようにも思えず、よくわからない。

ひょっとするとお役所からの指導でもあったのだろうか。

今の甲特急は中川駅構内の大阪線と名古屋線を結ぶ短絡線を走行中に運転士が交代しているが、走行中に運転士が席を離れるのはけしからん、

みたいな話があったのだろうかとわだらんが勝手な妄想。

まぁその妄想が当たっていたとしても対外的には利便性向上が謳い文句になるのだろうから、はっきりしたことはわからないだろう。

少なくともおおよそ確実なのは、停車駅は増えることはあっても減ることは少ない、ということである。

 

友人と酒を飲んで、大阪21:45の新快速3536Mで帰宅する。

12両編成の最後尾1号車は大阪でほぼ全員が着席でき、わざと立っていると思われる客がドア付近にちらほら。

京都で少し乗車があって高槻下車分を補ったものの、まずまず車内は落ち着いている。

そして石山、南草津と客が降り、草津を過ぎると乗客ももうまばらになってしまった。

とはいえ、階段からずいぶん遠い1号車でも南草津で結構降車客がある。

草津以東の対大阪京都ではおおよそ2分の所要時間増で不便こうむっているが、もうすっかり南草津の新快速停車は板についてしまい、

逆に通過していた時代のことを想像できなくなってしまった。

わずか1年前の話なのだが。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   機関車が横転するような災いがきませんように

1/17

朝、いつものように713Mに乗っていた。

日によって違うが道中おおよそ眠っていることが多い。

もっと起きていて周囲の観察をしなくてはと努力はするが、221系の心地よい揺れにはかなわない。

今日もがんばって大津まで起きていてワムハチ列車のすれ違いを楽しんだものの、その後はあっさり眠ってしまった。

眠っている途中に大幅遅れのサンライズ瀬戸とすれ違っているのだが、瀬戸大橋線内での事故による遅れの話も聞いたところで後の祭り。

知っていれば良いものを見た、といい気分になれたのかもしれないが。

 

そんな瀬戸大橋線での事故とは関係なく、いろいろな事情が重なって、朝の下り貨物はダイヤが乱れていた。

結果的には713Mは定時大阪着でわだらんとしては問題なかったが、サンライズと別にいつもなら見ることのできないものを見ることができた。

熟睡していたわだらんが岸辺で目が覚め、そのまま外を眺めていたときである。

吹田信号所に下り貨物がいたが、なんと先頭はDE10型機関車である。

本来おDE10型機関車というのは入換と支線での使用を目的とした機関車で、本線でしかも組成されたコンテナ貨車を牽くのはちょっと不思議な光景である。

コンテナ列車をDE10が牽くのは高岡でも小牛田でも珍しいことではないが、吹田でそんなことがあるのかな、

と調べてみると常磐線泉から百済ゆき5083列車で百済への機関車送り込みを兼ねた定期運用がある。

定時は吹田信号所5:46と早く見ることができないので、ちょっとうれしい。

というか、そんな運用があることを知ることができたのがよかったと思う。

確かに入換支線用といってもかつての本線用蒸気機関車D51と出力が変わらないので、短距離のしかも速度の必要ない区間なら

コンテナ列車を牽いていても何ら問題ないのだろうけれども、長大な貨物列車を牽くのはちょっと違和感というか、不思議な光景である。

ある面サンライズ瀬戸とすれ違うよりいいものをみることができたのかもしれない。

案外とDE10は可愛い機関車なのかな、とちょっと姿を思い出して再認識してみる。

 

しかしそんなDE10が実は3月の津波で転覆したという悲しい話がある。

石巻にある製紙会社は大きな専用線ヤードをもっていて、毎日コンテナで製品を発送していた。

そのための入換や東北本線小牛田までの石巻線内の牽引にDE10が活躍していたのだが、そのDE10が工場に押し寄せた津波に襲われてしまったのである。

おそらく機関士を含めた鉄道関係者の方は避難されたとは思うのだが、横倒しになった機関車の姿を写真で見るとなんとも悲しい気持になった。

 

大阪駅で713Mを降り、改札前の画像広告に映った117日というカレンダーを見て

ふとさっきまで思っていたDE10と全く違う横倒しになったDE10を思い出してしまった。

今年はどうか災害で長期間列車の運転ができないようなことがないよう、

そして災害でこれ以上尊い人命が失われることのないよう願ってみる。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   遅れは鉄道側の見方、走っていれば客は遅れとは思うまい

1/15

話が前後するが、12日の木曜日に夕方宝殿駅で事故があった。

実は大阪駅に着くまで、いや正確にはホームに上がるまで事故でダイヤが乱れていることを知らず、ホームに19:40にあがって始めてダイヤの異常に気が付いたのである。

9番線にいた電車は19:15の野洲ゆきであったが、実際には19:45頃発車ということだそうだ。

わだらんは一回車内に入っては見たが、「このあとに大阪始発の野洲行きがある」と駅員さんがアナウンスするので、この列車を見送りホームに降りた。

停まっている新快速は8両なので、そもそもこの電車が3512Mではないはずなのだが、このあとに始発で野洲行きを出すとなるとちょっと気になる。

もちろん停まっている電車は座れるわけでもなく、立ち客も車内に多いので、このさきどうなるかわからなかったのである。

 

30分遅れで見立て3512Mが発車したのち、9番線に19:45の新快速野洲ゆきが8両の225系で入ってきた。

この後の20:00の長浜行きは運休なので、この新快速野洲ゆきを20:00頃の発車にするとアナウンスしている。

18時台の野洲行きを運休にしてここに車両を持ってきたのだろうか、いずれにせよ降ってわいた幸福で225系に始発で楽々着席できてしまったのである。

その後車掌は15分遅れとアナウンスしているのだが、少なくとも新大阪守山間の各利用者は20:003522Mとみて何も不便のない、

ほぼ3522M通りの走りのまま野洲まで無事についた。

野洲で上りの普通電車がいて米原までも進めることができ、近江八幡や彦根客は乗り換えを一回したものの、ほぼいつもと変わらない時間で利用できたのである。

異常時に列車を切るのは仕方ないのだが、だからといってまったくしばらく電車が来ないのは困ったものである。

ましてや振替輸送と言っても大阪からの滋賀県民には阪急で京都まで出てもそこからの足がないし、あちこち遠回りしている間にJRが復旧してしまうことのほうが多い。

少なくとも滋賀県民が大阪から帰るときに電車が止まっていても、結局待っているのが一番早いのである。

そうなるとこうやってあいた時間帯に車両をやりくりして見かけのダイヤで走らせてもらうととても助かる。

乗客としては仮に電車が遅れていても目の前でいつもの所要時間通り走ってくれればそれで何も問題ないわけで、列車番号や運用がどうであろうと関係ないのだ。

どうも運行管理システム導入以来、列車を途中で別の列車に振り替えることをしないようだ。

とりあえず本来の列車から遅れていても見かけのダイヤで走ってくれればあまり「遅れ」「遅れ」と連呼しなくてもいいように思うのだが。

 

野洲駅に着くと、三上から湖南市方面への路線バスが待っていた。

大阪毎時0分発の新快速から乗り換えができるダイヤでわかりやすいし、この日も見かけ定時3522Mのスジで走った3520Mからの客がバスに乗り込んでいた。

いつもの光景、当たり前であるが、何かちょっとうれしくなった。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   ただ今から扉付近の補助椅子が使用できます、と昔京橋今草津

1/13

大阪19:453520Mに乗って帰宅する。

この3520M、特に先頭12号車はこの前の同じ野洲行き新快速、19:153516M18:453510Mに比べて新大阪や高槻での降車客が少なく、

大阪駅で着席できないと京都まで座れない。

いや下手をすると京都でも座り損ねる実に厄介な列車である。

3510M3516Mは多くの場合新大阪で降りそうな客の見極めが容易で、実際座れることが多いのだが、3520Mは降りる客がいないので、

車内を見まわすこと自体無駄に思えてしまうのだが。

ところでこのことは逆に返せば新快速の客の多くは京阪間以外ということになる。

確かに日中や休日午前など京都大阪で大半の客が入れ替わるのだが、少し早い朝や少し遅い宵でみると特に通勤客に京阪間または阪神間を通り越す客が多い。

実際列の先頭で並んでいても大阪で座れないケースがあったりして、なんでこんなに大阪で車内に残る客が多いのかと悩んでしまう。

もちろんわだらん自身京都を通り越して毎日滋賀県から大阪市内まで通勤しているわけで、人のことなど言えるわけではないが。

 

ところで、この正月前に友人が古い時刻表を送ってくれた。

自宅の整理で不要になったと送ってくれた本人はごみと自嘲してくれるが、わだらん的にはなかなかありがたいものばかりである。

その中に京阪と阪急の時刻表もあった。

1983年から1985年、まだ特急が京阪間無停車の時代である。

いまは京阪も阪急も10分パターンでだが、当時は15分パターンで、特急が停まらない京阪間の主要駅は急行が受け持つ形である。

もちろん昔の新快速も大阪京都間無停車で、それが当たり前であった。

当時は大阪京都間の移動は私鉄が常識で、特急が途中駅に停まらなくても利用客はあったし、新快速は私鉄対抗で途中駅に停まる余裕はなかったのだ。

しかし時代は下って大阪京都間移動のシェアはJRが優位になって私鉄の特急は途中駅で客を拾わないとガラガラになる状況になった。

一方新快速は京阪間の移動にとどまらず滋賀県内からの大阪方面への直通客の増加とか、大阪を通り越す京阪神間の客などずいぶん多目的になってしまった。

平日の通勤客と休日の行楽客ではずいぶんと車内の様子も着席の方法も異なるものだ。

それが故に新快速の車内観察は楽しくて飽きることがないのだが。

おそらくは3520Mともなると時間が遅くなり学生の利用が少なくなるために大阪までは比較的空いていて大阪での着席が容易、

で座った客は滋賀県民が多い、ということなのだろう。

ちなみにこの後20:003522M8両で、米原長浜まで直通ということもあって、かなり混んでいるのだ。

3520M狙いの客はそれらもよく知っているのだろう。

 

この3520M12号車だけを見ていると、大阪から京都まで無停車でもいいように思うくらい車内は高槻での移動がない。

昔の京阪や阪急の特急は京橋や十三を出ると確かに静かになったもので、ちょっとその頃のことを思い出してみた。

とはいえ、京都まで座れないのはなんともつらいものがある。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   そのうちみどりの窓口も死語になるか

 

1/11

年が明けても同じように713Mに乗っている。

毎日のことであるが、それでもいろいろと変化がある。

不思議なもので、野洲ではほぼ固定メンバーなのに、守山栗東と少しずつ毎日乗車する方々が違うし、ましてや草津になれば毎日ばらばらである。

もちろん草津でも同じ人が乗ってくるのだが、乗車数が大きいので固定客の割合が低くなってしまうのだ。

おおよその場合草津で隣席に誰かが来るケースが多く、毎日隣人が違うのである。

その隣席の状況で幸先良い朝のスタートになったり、悲惨なスタートになったりするのである。

 

金曜日は隣に草津から乗った男性客が座った。

さっそく携帯を開いて何か始めている。

携帯を開いていること自体は当たり前の光景だが、ふと見るとEX予約画面であった。

京都7:02ののぞみ208号の指定席を取っているようであった。

窓口に行かなくても切符が買えるのはずいぶん便利なものだが、でも考えてみればその分鉄道側は手を抜けるわけで、

自動改札でもそうだが、なんとなく損をしているように思う。

もちろん多くの方は煩わしい窓口での購入より手元で使える携帯のほうが便利なのだろうけれども。

 

ところで、713Mは草津6:25発でのぞみ208に乗ると東京9:23着。

これを野洲で見るとどうなるかと時刻表を引くと、おなじのぞみ208号に名古屋で乗り換えができるひかり506号に米原まで902Mで間に合う。

野洲6:20なので713Mの京都まわりよりわずかに遅く、かつ運賃はずいぶん安くなる。

ちなみに902M713Mは守山駅のすぐ東側ですれ違うので、こののぞみ208号を中心とする時間帯、

東京9:30目標であれば京都まわりか米原乗換かの境は野洲ということになる。

もちろんこの境は時間帯によって多少移動するが、でもおおよそは野洲付近で間違いないようだ。

何かと滋賀県南部と北部の境はこと交通と気象に関しては野洲である、と自慢してみるが何の得にもならないな。

いや、米原まわりで運賃が安いのが自慢の種か。

 

ところでこの年末年始の東海道新幹線は利用が好調だったようだ。

悲惨な震災があったが故に帰省客が増えたとの見方があるそうだ。

震災などなくても帰省客が増えればいいことなのだが、でも理由はどうであれ鉄道利用客が増えるのはいいことだ。

家族連れや若い集団などどちらかと言えば車利用の多い機会の移動が鉄道中心になればもっとうれしいが、これはなかなか難しいか。

転移の一番の特効薬は安く利用できることだろうと思うのだが、今の強気の某新幹線会社では難しいか。

結局今の東海道新幹線は窓口に並ぶ時間ももったいない、携帯で移動中に予約を取るような忙しい利用客に支えられているわけで、

なかなか余裕のある旅行というのは今の新幹線、特に東海道区間には似合わないものなのだろうか。

しかし野洲東京間が3時間というのはやはり相当速いし、今ののぞみの本数の多さとその速さは0系の時代に比べるとびっくりするものである。

大阪野洲間の新快速より新大阪東京間の新幹線のほうが本数が多いのはどうしたものか。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   十年ひと昔、二十年ふた昔

1/9

今日は成人の日である。

いつの間にか今の成人式参列者は平成生まればかりになってしまい、昭和は遠くになりにけりである。

何しろ平成になって製作された番組でさえ懐かし番組になるくらいなので10年ひと昔なら平成のはじめはふた昔になってしまう。

この二十数年の動きが激しかったのかどうなのか将来が決めてくれるのだろうけれども、変化が続いているのは間違いないようだ。

 

とはいえ、最近の車両は昔に比べるとずいぶん長生きである。

昭和の20年代から30年代にかけての車両は比較的短命なものが多かった。

151系電車は誕生後6年で主役を降りてしまい、転用されたものののち10年程度で廃車になってしまったし、

ましてや客車特急であったつばめはとの電車化のために登場したパーラーカーなど実質の活躍期間は4年である。

近鉄特急でも初代のビスタカーはわずか13年の命、しかも晩年は運用も限られてしまい、試作的要素が多いとはいえ、あまり恵まれた車両とは言えないのかもしれない。

その点たとえば2231000番台はすでに登場後18年になろうとしているのにいまだ新快速の主役を務めているし、

221系も311系も811系も脇役になってしまってはいるが、まだまだ本線で元気に頑張っている。

もちろん平成初期の車でも徐々に取り替えが進んできているのでこの後がどうなるかまだわからないのだが、でもまだまだ元気な姿は見ることができそうだ。

 

ところで、青森港で保存展示されている青函連絡船八甲田丸が存続の危機にさらされているそうだ。

東京にいた羊蹄丸は解体される運命だそうだし、もう青函航路がなくなって四半世紀にもなろうとしているのだから、当然船の傷みも激しかろうと思う。

産業遺産に指定されているそうでなんとか末永く残ってもらいたいとは思うが、果たしてお金が湧いてくることがあるのかどうか。

青函航路がなくなってほぼ25年、つまり今年の新成人は連絡船の存在を知らないはずである。

ということは津軽海峡冬景色〜と石川さゆりがうなってみても歌詞の意味が実感できないのだろう。

 

そういえばその歌を知っている世代であっても、前日18日が平成の誕生日であることを知っている人間などそう多くもなかろう。

いや、そもそも多くの人間には成人の日であってもなくても、単なる祝日で三連休であることのほうが大きいか。

成人の日が今年は9日にあるためなのかどうなのか、おかげで18切符はずいぶん利用期間が短く思えるし、使える機会がないとぶつぶつ言ってみる。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   続 新しい年の始まりに新しい駅の話でも

1/8

さて、以前新幹線の駅が野洲にできる話があった、と書いたことがある。

新年なのでその話を書いてみようかと思う。

ただし、現時点ではまったく裏付けがなく、あくまで人から聞いた話をわだらんが周囲の状況から脚色したもの、とご理解いただきたい。

 

どうやら野洲に新幹線の駅ができるかもしれないという機会は2回あったようだ。

まずは1960年代後半、新幹線が順調に運転できるようになるとともに、新幹線の輸送力増強の必要性が出てきた頃である。

ちょうど万博輸送の準備で車両が増えてきて車両基地の検討を始めたので、新駅の検討を始めたのではないのかと思われる。

ところがこのときは野洲町が工場誘致と住宅建設で手いっぱいで新幹線新駅の駅前整備までできなかったとの判断ではなかったのだろうか。

この頃は在来線野洲駅の北側に工場を誘致し、駅舎を橋上化して北口を整備する計画中であった。

もちろんこのときに新幹線新駅が野洲にできていれば在来線野洲駅の構造も変わっていたかもしれないが、それはあくまで仮定である。

 

さて、ふたたび新幹線新駅の話が浮かんできた。

今度は国鉄がそろそろ民営化の話がでてきていた1980年代初めである。

先の話が国鉄側から出てきたのに対して、今回は主に滋賀県が考えていたようだ。

つまりこの頃滋賀県が高速輸送への対応を検討していて、新幹線に新たに駅を作ること、空港を作ることを考えていた。

一方国鉄は国鉄で、新幹線の保守に手がかかるようになってきていて、新たに新幹線の保守基地を作る計画を持っていたようだ。

ちょうど新幹線が半日計画運休を繰り返し、レールや架線の交換を行っていた時期である。

が、米原京都間が長く、保守車両を作業終了後始発までに基地に戻すのに時間がかかっていたので、新たに中間に基地を作ることを考えていた。

当時は資材の運搬を在来線で行っていたので、新幹線の保守基地が在来線に近いところとして野洲を考えていたようだ。

在来線野洲の電車基地はまだ余裕があり、新幹線への側線を設けるには問題なかったのだろう。

その後の細かい経過がまったくわからないのだが、結果的に保守基地は栗東の草津線交差地点に作られた。

野洲町も地元負担が大きいので滋賀県のお誘いを断り、滋賀県は近江八幡市内と栗東町内で新幹線新駅の具体的検討を始めることになる。

もしこのときに野洲町が積極的に動いていたら、新富士や掛川と同時開業できていたかもしれない。

 

と、人から伝え聞いた話にわだらんが脚色したのが以上である。

あくまで裏の取れない話であり、かつ行政側が公開で検討したものではないので、公文書に残っている可能性もまずないが、おそらく大きく外れていることはないと思われる、

ただし、二回の話とも新幹線新駅の位置が在来線駅に近い小篠原地先なのか、野洲電車区に近い辻地先か、

さらには新幹線車両の留置線や保守基地をどの程度にするものなのか、ましてや駅の規模がどれほどのものであったのか、まったくわからない。

ただ、はっきりしていることは、もし新幹線駅が野洲にできていれば栗東新駅の可能性がまずなかったこと、

そして野洲駅周辺をはじめとする今の野洲市市街地は大きく姿が変わっていたのだろう、ということである。

冬になって湖北は雪が積もってくる季節になった。

スプリンクラーは野洲市内が終点、つまり雪に弱い新幹線は多くの場合野洲までであって、野洲に駅があって雪落としをすれば、京都まで徐行するよりずいぶん楽に思えるのであるが。

 

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○わだらんの琵琶湖線雑記帳▽   新しい年の始まりに新しい駅の話でも

 

1/4

みなさま、あけましておめでとうございます。

よいお正月を迎えられたこととお喜び申し上げます。

 

さて、あまりうれしくないことの多かった年が終わって、新たな年のスタートになった。

列車運行情報を見る限り、どうやら正月期間中琵琶湖線を含む本線は大きな支障がなかったようでまずはめでたし。

天候もまずまずで、よい年末年始になったようだ。

昨年の正月は大雪で大騒ぎになったところも多かったのだが、今年はそういえば雪のニュースも少なかったように思う。

雪は多いと困るがなくても困るもので、なかなかやっかいであるが。

 

ところで、新年最初の話なので、新駅の話をしようかと思う。

山手線に40年ぶりの新駅ができる、とニュースになっていた。

はて、西日暮里ができてもうそんなに立つのかとびっくり。

調べてみると1971年開業なので、確かに40年以上になる。

琵琶湖線は新駅の中では古巣の瀬田が1969年でもう40年強、その後国鉄末期の1981年に南彦根、1991年に栗東が開業し、1994年の南草津が最後で、開業後約20年前になる。

最近になって南草津瀬田間とか瀬田石山間に新駅の話が突然出てきているが、さてどうなるのだろうか。

 

実は野洲市内にも新駅の話がある。

篠原野洲間に仮称祇王駅を設置する計画で、もともと1955年に当時の野洲町に祇王村が合併する際に合併記念または祇王村側への配慮か資料が乏しく不明なのだが、行政側で新駅の構想があったようだ。

この1年後、1956年に野洲を含む区間の東海道線電化が完成し湖東線ローカルが電車化される予定で、電車になれば従来より短い駅間でも運転ができるということだったようだ。

で理由がはっきりしないのだが、このときには駅はできずであった。

次に電車の車庫を作る際にまた新駅の話が浮上する。

これも車庫を設置するにあたって地元の苦労に報いようという意図だろうかと。

これが国鉄の意図するものか地元の要望なのかわだらんはよくわかっていないのだが、具体的に12両が停まれる相対式の駅を作る計画ができていたようだ。

この話が1960年年代後半で、その後も地元では新駅設置の構想がくすぶっていたようだ。

で、現在の話をすると、野洲市の総合計画の中にも具体的な駅名は出ていないものの、この祇王新駅がでてくる。

9年後を目標にした総合計画では篠原野洲間の新駅設置と新駅を中心にした街づくりの可能性についての検討を行う、と記載がある。

ただ今となっては多くの場合新駅は地元負担になるので、市が負担して駅を作ってそれが見合うだけの経済効果を出せるかどうか、見極めが難しい。

もちろん駅があれば近くに点在する大きな事業所や周辺の住宅地など一定の需要はあろうかとは思うが、その多くが野洲駅からの転移になってしまうと思われ、

野洲駅を中心とした街づくりの方針とどうつながっていくのか、わだらん自身はよくわかっていないのだが。

 

山手線の場合は都心の一等地で、駅前整備や事業計画などでは黒字基調なのだろうが、野洲ではどうなるものなのだろうか。

近い将来駅ができるのか、あるいは投資に見合う効果がないと見送られるのか、まだまだ先の話である。

 

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