このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

イスラエルキブツ研修日記

第1話 出発
第2話 建国40周年式典へ
第3話  国際姉妹都市会議

第4話 キブツの生活

第5話 29回目の誕生日
第6話 エジプト旅行
第7話 松村さんとハラシュ
第8話 イラナさんとアッコーへ
第9話 ガーション・ケラー
第10話 村長のアレック

第11話 ヨーロッパへ
最終回 西独アルヌスベルク

このリポートは’88年から’89年にかけて大分県大山町の広報紙「暁鐘」に掲載されたものです

 
第14次研修生  ⇒ 帰町報告座談会を読む

研修期間●1988.3.10〜6.30


 第1話                 

派遣壮行会の様子

 3月11日の夜1時過ぎに飛行機は成田空港を飛び発った。いよいよ外国である。途中アンカレッジを経由してチューリッヒへ着いたのは3月12日の早朝5時30分。飛行機の中では軽食を含めて4回も食事をした。実際に乗っていた時間は16時間あまりになるが時差の関係で、それほど時間は経っていないことになる。ボケはあまり感じない。
 チューリッヒからテルアビブへ。ぼくら研修生3人は直行便で、町からの代表団20名はローマ経由で。大山から大勢でやって来ていたので外国に来ても平気でいられたが、3人だけになると急に不安になった。
 空港のロビーをさ迷って何とか飛行機に乗り込んだ。テルアビブのベングリオン空港に着いたのが午後7時くらい。そこからタクシーで「ベルホテル」に向かった。このホテルは最近の研修生がいつも使っているもので、世界を知ろう会のユウちゃんが教えてくれたものである。あまり立派じゃないけど、小じんまりとした、落ち着く宿だった。
 食事を取りに町に出かけたが、日本とはまるでちがう街の雰囲気である。何もわからない外国の街で、不安いっぱいだけど、日常から抜け出したという解放感でなかなか眠れなかった。

 第2話                 

エルサレム郊外の山の上に記念植樹をした
 3月13日の朝、ぼくらは約束の時間よりも
10分くらい遅れて大山からの代表団が待つホテルに着いた。ホテルのロビーでしびれを切らしていた伊藤町長に痛いほどしかられた。これでぼくらの気のゆるみがいっぺんに直されたように思う。

 きょうはいよいよメギド入りである。テルアビブからメギドまでまっすぐ行ってもバスで3時間ぐらいかかる。途中、ダイヤモンドの研磨工場のあるナタニアやローマ時代の円形劇場や水道橋が残っているカイザリアに立ち寄り、午後1時過ぎにメギドの役所に着いた。
 そこにはメギド地区の議長ヨハナン・マオズ氏をはじめ、メギド地区の役員たちが日の丸と大山町旗を飾って出迎えてくれた。あいさつに立ったヨハナン・マオズ氏はアジアの東の果てからようこそここまでいらっしゃいました。テレビや新聞で伝えられているものではなく、素顔のイスラエルを見てくださいと言ってくれた。これに対して伊藤町長は建国40周年迎えたイスラエルにお祝いに来ました。これを機に大山とメギドの友好がますます深まることを期待しますとあいさつした。何もわからない外国で、知り合いの人に会うというのはうれしいことである。

 第3話                 

三笘啓之助農協長と伊藤隆町長


イスラエル、ドイツ、日本の姉妹町の
代表者が一堂に会した
 キブツ・メギドでの歓迎会の後、ぼくらはエルサレムへ向かった。いよいよ建国40周年記念国際姉妹都市会議である。夕方から歓迎レセプションがハイアットリージェンシーホテルで開かれた。ブラスバンドのファンファーレの後、エルサレム市長のあいさつがあった。ユダヤ人とアラブ人が混住するエルサレムで、この人がいなっかたら、こんな都市は実現できなかっただろうと言われている人気のある市長である。会場は世界各国からのゲストでごった返していた。
 翌、3月14日、市民大ホールで会議がはじまった。ヘルツォグ大統領ほか政界の代表がそれぞれの壇上に上がり、歓迎のあいさつに立った。一方ではアラブ諸国と戦線を戦いながら、また一方ではこんな盛大な国際会議が催されている。平和な日本人には不思議に思えた。
 午後、会議の出席者はバス59台に分乗して郊外の丘へ登った。少し以前までははげ山ではなかったと思われる丘の上で植樹際がはじまった。西洋では植樹に際してお祈りを捧げる。国際会議での植樹祭とあって、このお祈りが出席各国の母国語で準備されていた。
 英語はもとより、フランス、ドイツ、スペインなどの世界20カ国の代表に混じって、我が日本からは伊藤町長が日本語のお祈りを捧げた。ユダヤ人の気の利いた演出である。

 第4話                 

ストラスブルガー家のお茶会で

 今回からはキブツの生活について話そう。大山からの代表団と別れ、3月20日。ぼくらはイスラエル北部のキブツ・ガリエドに入った。メギド地区の中でも一番小さなキブツである。
 敷地の真ん中にコミュニティーセンターのようの集会場兼食堂がある。そのまわりを北欧風のカラフルな色使いの住宅が囲んでいる。まさに公園のような風景である。そしてその外側の丘には棉畑や果樹園が広がっている。

 ぼくらのような長期滞在で外国からやって来る若者はボランティアと呼ばれる。アメリカや西ドイツ、デンマークなど世界各国からのボランティアがいた。キブツ人所の手続きをした翌日からぼくらは働くことになった。
 
ぼくらに与えられたのは農場での果物の取り入れや、みんなが食事をするドイニングホールの準備や片付け、食事作り、皿洗いなど簡単な作業だった。朝6時から午後2時頃まで働く。自分の仕事が終わればそれで終わりである。実にあっさりとしている。
 仕事が終わるとフリータイム。ボランティア仲間とサッカーをしたり、キブツの家庭へお茶会に招かれたり、子どもたちと遊んだり。毎日があっという間に過ぎていった。一週間も経つとここの暮らしにもすっかり慣れた。  


 第5話                 

ボランティアたちと誕生パーティ

南アから来たトリー、ポニーナ、デボラ

キブツのパブで

4月10日、僕は29回目の誕生日をキブツで迎えた。世界各国から集まり、一緒に働いているボランティア仲間に声をかけて、バーベキューパーティーをすることにした。
午後、仕事が終わって薪を集めたり、ビールを買いに行ったりした。キッチンで働いている連中が肉や野菜を調達してきた。
 夕方からパーティーがはじまった。仲良しにしている子どもたちがプレゼントを届けに来てくれた。子どもたちはどこの国でも同じだ。はじめははにかんでいるが、知り合いになるととても人なつこい。特にぼくら東洋人はここでは珍しい存在だ。アメリカ人の両親をもつ9歳のデボラは英語をしゃべる。彼女はぼくらの通訳をする。
南アフリカからやって来た女の娘のグループが少し遅れてサラダを持ってやって来た。少し様子が変だとは思ったが気にしないでビールお飲んだ。今日はバースデイパーティー。
ボランティア仲間とは何度も一緒に飲んだけど、こんな多人数、みんなが集まることはなかった。とてもインターナショナルなパーティーたった。西ドイツから来ていたアネットとはファスヴァンダーの映画について話した。彼女も映画好きだった。
 南アから来ていた女の子に何かあったのかときいてみた。明日女の子のうちの1人カリーナが帰らなければならなくなった、今日午後、国際電話で、彼女のお母さんの訃報が届いたというのである。


 
 第6話                 

ギザのピラミットの前で


アブシンベル神殿で
 4月の終わりにぼくらは1週間の休みを取ってエジプト旅行に出かけた。朝7時にイスラエルを出発。サハラ砂漠をバスで12時間走ってカイロへ。この街を色でたとえると茶色、黄色、まさにコンフュージョン(混乱)。カイロで世話になった北海道新聞の駐在員の菊地さんがそう言っていたのを思い出す。人口は東京よりも多い。巻き上がる砂塵、車、車の大洪水、止むことの知らぬクラクション、その合間をロバが闊歩する。
 早速、ピラミッドを見に出かけた。デカイ!すごい!大きい!・・・こんなわけのわからない感嘆符がピラミッドを見た後の感想だ。何とかこれを実現してようと努力してみるが、4500年という時の流れと、巨大な存在の前で言葉なんて無力だ。こんな気違いじみたものを造らせた王の権力、その工法の緻密さ、宇宙的な美の極致・・・とにかくすごい。砂漠の中に立つ9つのピラミッド、見るべきものを見たという気持ちだ。人生観がかわりそうな気がした。
 この後ぼくらはルクソール、アスワン、アブシソベルとナイル川を上り、スーダンとの国境近くまで行った。カルナック神殿や王家の谷、アブシンベル神殿のカムセス2世像など世界史の授業で習った古代エジプトの遺跡は想像以上に巨大で、壮厳な姿でぼくらの前に現れた。  

 イスラエルキブツ研修日記
1988.3.10〜6.30
 このリポートは'88年から'89年にかけて
大分県大山町の広報紙「暁鐘」に掲載されたものです

 第7話                 

松村さんとハラシュの家で

 大山町とメギドのつながりを陰で支えてくれている一人に松村さんという邦人女性がいる。彼女は20年ほど前に日本を離れ、イスラエルのメギド地区のダリアというキブツに入り、そのメンバーになったのである。東京で小学校の教員をしている時に、キブツムーブメントに関心を持ち、イスラエルに住みついたのである。
  彼女と同居しているハラッシュという親日家の老紳士も大山からの研修生をとても熱心に世話してくれている。1910年、ロシアで生まれ、ナチスドイツの迫害から逃れるようにしてイスラエルにやって来た人である。そして、見捨てられた、砂漠同然の大地に道を拓き、樹を植えてキブツを、イスラエルという国を造ったのがこの世代の人々である。 
 ぼくらが過ごしたキブツ・ガリエドとダリアは5キロメートルくらいしか離れていない。ぼくらは休みを利用してよくこの2人を訪ねた。ここへ行けば松村さんが日本料理を作ってくれるし、ヘブライ語のテレビ放送を説明してくれる。ぼくらの滞在中の大きな日本のニュースは青函トンネルの開通と瀬戸大橋の完成である。仕事の出かけると誰もがニュースを見たぞと話してくれた。
 逆にイスラエル発の重大ニュースはPLOのナンバー2アブ・ジハドがモサドに暗殺された事件だろう。中東は現代史の舞台である・・・改めてそんなことを実感させられた。



 第8話                 

松村さんの家で

イラナさんとアッコーにて

 イスラエルでは日本の経済、文化に対する関心が高く、日本語を勉強する学生がかなりいる。前号で紹介した松村さんも日本語学校のクラスを持っていて、その生徒の1人にイラナさんという女性がいた。ハイファ大学の講師で、東洋哲学が専門である。ぼくらが休みの日にはクルマで迎えに来てくれた。道路はかなり整備されているが、人々の運転は日本人よりの乱暴である。バスもかなりのスピードで走る。
 ある土曜日(イスラエルでは休日)ぼくらはハイファから北へ20㎞ほどの町アッコーへドライブに出かけた。イスラエルの古い町の多くがそうであるように、この町も城壁に囲まれたオールド・シティーとその周りに発展していった新しい市街地とからなっている。市街地の方は何の特徴もなく、ごく普通の小さな新興都市であるが、オールド・シティーは雑然としていてエキゾチックな香りに満ちている。
 オールド・シティーに住んでいる人のほとんどがアラブ人、新興都市の方はユダヤ人であるが、両者が共存している年月は長く、テンションはない。アラブ人の町には独特の市場(スーク)がある。ぼくらはここで羊の頭を見て驚いたり、グロテスクな魚を気味悪がったりしていたが、今思い返してみると、とても活気のある市場だった。
 イラナさんは昨年9月に日本にやって来て、ぼくらは再会することができた。



 第9話                 

キブツのボランティアハウスの前で

キブツの休日

 研修日記も9回目を迎えた。ここらあたりでぼくらがキブツ・カリエドで一番世話になったガーションという初老のドイツ人について書いておかねばならない。彼もナチスドイツの迫害を逃れてイスラエルにやって来た人で、このキブツでは20年間にわたってボランティアの世話をしている。
 キブツ入所の手続きから作業服や毛布など、身の回りの世話、仕事や休日の割り振り、郵便の出し方など何から何まで世話してくれた。奥さんと二人暮らしで、自宅のお茶会にもよく誘ってくれた。近くにお菓子屋がないからかもしれないが、どこの家に行っても手作りケーキを食べさせてくれる。

 キブツに入って間もないある日、仕事が終わった後、ぼくらはガーションの案内でガリエドの中を散歩した。少し離れた丘に白い野生のシクラメンの群生が咲いていた。彼の言葉を借りれば「花のカーペット」である。とてもキレイだった。
 また、キブツでの生活が終わりに近づいた頃、君たちへの特別企画だといってユダヤ民俗博物館(テルアビブ)へのバス旅行を計画してくれた。
 去年の7月に日本に戻って以来、彼とはずっと文通を続けている。ぼくが受け取った手紙の数はもう20通を超えている。年末のクリスマスプレゼントにはみんなで「掛け軸」を送ってあげた。最近ではガリエドと大山町の子どもたちの絵画の交換をすることができた。


 第10話                 

村長のアレック親子と

ボランティア仲間とカーメル山へバスハイク

 5月のはじめ、ぼくら第14次研修生もとうとうイスラエルを離れることになった。予定されていた1ヶ月余りの体験学習の期間が終わりヨーロッパに向けて出発するのだった。ボランティアの仲間たちやキブツのメンバーたちや・・・出発前にぼくらは滞在中にお世話になった人たちへのあいさつまわりをした。1ヶ月以上も一緒に暮らしているとさすがに「情が移る」って言うのか、別れが辛くなった。
 村長のアレックスとしばらく話したあとぼくらは握手をして別れた。 
 河津「一ヶ月以上の間、とてもお世話になりました。」
 清田「ガリエドはぼくらの第二のふるさとです。」
 梶原「このキブツがますます発展することを祈っています。」
 みんなが働いているところへ声をかけに行った。今日もキブツ・ガリエドの平穏な一日が過ぎていく。ぼくらは再び旅の人になる。乗り合いバスでハイファへ。
 果てしなく広がるコットンフィールド、ハラッシュと歩いたナメシェの丘、キブツ・ダリアまでの徒歩の道のり・・・・いつの間にかこのあたりには思い出が一杯になっていた。
 いつかきっと何年か後にまたここを訪れたいもんだね、とぼくらはバスの中で話した。
 そのときキブツはどんなふうに変わっていることだろうか。


 第11話                 


フランクフルトにて

ベルリンの戦勝記念碑前で

 5月2日、イスラエルのベングリオン空港で朝を迎えた・チューリッヒ行きの飛行機の時間がとても早かったので夜のうちから待合室に入っていた。搭乗の時間が来て、税関で荷物のチェックや出国の手続きをした。係員が早口の英語で質問してくれる。イスラエルでは何をしていたのか、知り合いはいるか、手紙や荷物を預かってないか・・・チェックはかなり厳しかったが、なんとか手続きは終わった。ほっとするとともに、いよいよヨーロッパだと思うと興奮した。
 3時間でスイスに着いた。
 ぼくらは5月5日に第13次研修生(川述和利さんら)と西ドイツで待ち合わせをしていた。とりあえず、フランクフルトまで行った。トランジット(一時滞在)でチューリッヒに半日いたことがあるが、実質的にははじめてのヨーロッパである。列車から見える景色は絵のようにキレイだった。ちょうど花の季節だ。
 イスラエル研修制度では1ヶ月をイスラエルのキブツで体験学習をした後、せっかく近くまで来たのだということで、ヨーロッパを自由旅行するのが慣例となっている。13次の研修生は旅行のおわりに、そしてぼくらのヨーロッパ旅行ははじめに西ドイツを選んだ。
 そしてぼくらは一緒にアルヌスベルクという田舎町を訪ねることにしていた。そこにはイスラエル・メギド地区と姉妹関係にある町である。


 最終回                 

アルヌスベルグの役所で

アルヌスベルグにて

ゾーストにて

 長い間にわたって貴重な紙面を、ぼくらの研修報告のために使わせてもらった。いよいよ最終回である。
 5月6日、西ドイツ・ケルンのホテルで第13次研修生と待ち合わせて、ぼくらはアルヌスベルクへ向かった。3月にイスラエルで開かれた国際姉妹会議にはこの町とメギド、大山町の代表団が一堂に会し、お互いの友好を誓い合った。
 突然、予告もなしにやって来た、ぼくら5人の日本人を議長のフルグレイブ氏は歓迎してくれた。どれくらい滞在できるのか、どこに行きたいのか、何を見たいのか、3泊4日の滞在中、よく面倒を見てくれた。
 イスラエルを出るとあてのない放浪の旅が続く。見知らぬ町の、見知らぬ旅人として一ヶ月余りを過ごすわけだが、この時、宿や食事に不自由しなかったイスラエルがよかったと思う。頼りになるのは一緒に大山からやって来た仲間だけである。そんな中、ヨーロッパの真ん中に親戚みたいな町があるというのはとても頼もしいことだ。
 
フルグレイブ氏は書類上の手続き、(姉妹町盟約調印)はともかく、これから先、大山町からヨーロッパにやって来る研修生は歓待してあげようと約束してくれた。
『メリー・クリスマス・アンド
・ア・ハッピー・ニュー・イヤー』
 今年もフルグレイブ氏からカードが届いた。


 イスラエルキブツ研修日記
1988.3.10〜6.30
 このリポートは'88年から'89年にかけて
大分県大山町の広報紙「暁鐘」に掲載されたものです

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