このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

05年証言集会①
泰緬鉄道=死の鉄道 元ロウムシャの証言

               
        マレーシアより アフマド・ビン・マハドさん
                   ワン・ママット・ビン・ガーさん
           をお迎えして 

2005.12.10 証言集会で
アフマドさん(左)ワン・ママットさん(右)
横浜のインド料理店でのアフマドさん
63年前の悲しい出来事
 今回、日本にお招きをしていただきありがとうございました。わたしは、マレーシアからきました。73歳です。家族は、妻、息子、娘、孫など22人います。
 63年前、悲しい出来事、わたしにとってはとても大きな出来事がありました。当時10歳でした。
 父の強制徴用
 わが家は、4人家族で、父42歳、母35歳、妹8歳とわたしが10歳でした。稲作をし、河で魚を取り、鶏やアヒルを飼ってシンプルではあるが、幸せに暮らしていました。
 1942年日本軍によるシンガポールを陥落からしばらく経ってからのことです。村長が二人の日本兵とともに我が家にやってきました。父にいい仕事の口があるから、すぐついて来い、と言ったのです。トラックに乗るまで10分ぐらいしかありませんでした。ふろしきに身の回りのものを包み、トラックに乗せられました。断ることなどできませんでした。
 心配して父に付いて行く
わたしは、父のことが心配でとっさに一緒にトラックに乗り込みました。監督の人は見逃してくれて何も言いませんでした。村から何人かが選ばれ日本軍の指示でロウムシャとして連れていかれたのです。
 駅までトラックで行き、貨物列車に乗せられ、カンチャナブリの駅まで行きました。大勢が貨物列車に詰め込まれ、立ったままでした。窓も無い貨車だった。暑いので出入り口を開けたままにして走り、何人かは貨車から落ちてしまった。4日間停まらず走り、食べ物もなく、逃げようとしても、日本兵に銃撃される恐れがあったので逃げれませんでした。
 カンチャナブリに着く
 カンチャナブリの駅に着いて始めて食事をとることができました。中国系、マレー系、インド系の人たちがいました。80人ぐらいのグループに分けられ歩いて、泰緬鉄道の作業現場まで行きました。日本兵が後ろに着いて見張っていました。マサカリ、ノコギリ、ナイフなどの道具はまとめて縛ってありました。武器として使われることを恐れたためでしょう。
厳しい労働
 目的地に着くと、まず、小屋を作りました。竹を半分に割って床にし、葉っぱで屋根を葺きました。
 鉄道の敷設は、まず回りの木を切り、土を盛り、枕木を運び、そしてレールをすえつけました。一部の人は食料調達の仕事をしました。河の魚を取り、ジャングルの蛙や亀などを捕まえました。回教徒は水の中の動物、蛙や亀は戒律で食べてはいけないことのなっているが、そのときは戒律を破り食べました。命をつなぐ方が大切だったからです。
 朝8時から、夜の10時まで働きました。食事は1日1回でした。10歳のわたしは、食事を運ぶなどの比較的楽な仕事をしました。
 父の死
 父は熱と腹痛に苦しみながら、医者にも診てもらえず、薬も飲ませてもらえず、亡くなりました。その時一緒に7人が亡くなりました。宗教的な弔いも無く、墓石も無く、ただ穴に埋められただけでした。父の墓がどこにあるのかわたしにはわかりません。それがわたしの最大の悲しみです。
 さらに奥地に
 そこの作業が終わるとさらに奥地に移動しました。そのときは雨季だったので、土がどろどろになり、作業が難航しました。父が亡くなってからは一人のロウムシャの人が、養父になって面倒を見てくれました。やさしく親切にしてくれました。父が亡くなった後は、彼の後に付いて行きました。
 解放される
 ある日、飛行機が飛んできて、ビラをまきました。「日本軍は負けた。我々は自由になれる」と書いてありました。
戦争が終わり、母と妹の待つふるさとに帰ることができました。
 死の鉄道、泰緬鉄道はたくさんの犠牲者を出しました。二度とこんなことはくり返してはいけないと思います。「ミスは」許せるが、忘れてはいけない」のです。
 父の働いた賃金は日本政府にきちんと補償してもらいたいです。
 最後に、わたし達をこの証言集会に呼んでくださった方々に感謝いたします。テレマカシ。
アフマドさんの証言

ワン・ママットさんの証言

父のあとをついで 
 私は、泰緬鉄道強制徴用労働者と遺族の会の会長です。今年50歳になります。2003年に会長だった父の跡を継ぎました。この組織は1978年にできました。現在、4800人が入っています。マレー系60パーセント、インド系20パーセント、中国系15パーセント、その他5パーセントです。
 63年前、マレーシアを占領した日本は、死の鉄道で働かせるために、労務者をいい給料を出すなどという、甘い言葉で住民を騙して集めました。怖くて、住民に選択の余地はありませんでした。
日本軍に捕らえられた父 
 16歳だった父は、日用品を買いに店に行く途中で他の30人とともに突然日本軍に捕らえられ、トラックでケランタンに送られました。
 そして、鉄道馬車で移送中多くが飢えと暑さで死んだが、埋葬されることもなく、車両からただ投げ捨てられるだけだったそうです。
給料ももらえず 
 そして、3年6ヶ月働いたけど、給料をもらったのは最初の2ヶ月だけ。父は今では体も弱り、82歳になります。我々マレー人は泰緬鉄道建設の不払い賃金の支払いを日本政府に求めるための話し合いを始めました。
もし、あなたの父親が連れて行かれたら
どう思いますか 

 立場を変えて考えれば判るのではないでしょうか。自分の父親が死の鉄道に連れて行かれたらどう思いますか。
 今、マレーシアで、労務者への補償請求を裁判に訴える準備をしています。
 このようにたくさんの方々が聞きに来てくださってありがとうございます。

ヘル・ファイア・パス 泰緬鉄道の工事跡
戦争博物館に展示されている機関車泰緬鉄道
クワイ河の鉄橋を渡る黄色の列車
観光客を乗せて走る
ワン・ママットさん 証言集会会場で
東京ジャーミー(トルコのモスク)で

トップページ   過去の証言   05証言集会①アフマド・ハムザさん、ワン・ママットさんの話
05証言集会②高嶋伸欣さんの話
   05証言集会③永瀬隆さんの話  
  05証言集会アンケート結果

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください