このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

本山支線クモハ42の旅
PartⅠ 「クモハ42・ファイナルラン」

東京駅にて発車を待つ、「出雲」
というわけ(どんな訳だ?)、1月中旬のある日、出雲に乗って出発するのでした。
平日ということで前3両は結構な乗り具合でしたが、後ろの車両は回送状態でした。
このあと、米子で、「スーパーおき」に乗り換えて、いざ小郡まで約4時間の長旅です

え、何でわざわざ出雲に乗ったか?
富士で行けば翌朝に着くんですが、
鉄道旅行好きの血が山陰線経由で行けというもので…
夕暮れの長門本山駅にたたずむ、クモハ42
で、2日目の夕方やっと現地に着きました。
この日は、ラストランまでまだ2ヶ月あるせいか、
ファンの姿もまばらで、ゆっくりすることが出来ました。

ちなみにこの路線、運転本数が朝2往復・夕方3往復の計5往復しかなく、
乗りに行くには大変な路線の一つです。

自分自身もめったに聞けなくなった、
釣り掛け式モーターの音を堪能しながら、夕方の3往復を過ごしたのでした。

あ、ちなみに『津和野・秋芳・萩ゾーン』の周遊きっぷを使っているので、
この区間は乗り放題です、不正はしていません(^_^)v
歴史を感じさせる、銘板の数々
この電車が誕生したのが1933年(昭和8年)で、大阪地区に配属されました。
今でいう221・223系新快速のような活躍をし、
途中東海地区で活躍した後、1957年(昭和32年)に本山線に来ました。
以降2003年(平成13年)3月14日まで、ここで働いてきたそうです。

もう一つの旧型国電として、鶴見線のクモハ12がありましたが、
こちらは1996年(平成8年)に運行終了になっていますから、
JRでは最後の旧型国電の定期運用として残っていたのです。

ちなみにJR西日本の場合、国鉄型車両については所属名版が「JR西日本」ではなく、
「日本国有鉄道」のままになっているらしく
(2002年3月紀勢線の165系もそうだった)
交換をケチっているファンにはたまらない仕様になっています。

銘板の表示について…左上(更新修繕−2 豊川分工場 昭和31年)
 左下(更新修繕−Ⅰ 吹田工機部 昭和24年) 右下(日本車輌會車 昭和八年)
単に写しただけでも渋さがにじみ出る
車内はセミクロス仕様になっていて、運転室が左側半分しかなく、
右側は前面までシートがあるので、前面展望がばっちり楽しめるようになっています。

床からシート、窓枠と木が使われていて、
今の電車には無い(特にJR東の新車)暖かさが
この電車にはあります。これで照明が蛍光灯ではなく、電球だったら、
なおさら良いムードになるのでしょう。
朝の長門本山駅に到着するクモハ42
今回は2泊3日の日程で行って来ましたが、
ずっとここにいたわけではなく、1日の夕方と3日目の朝に本山支線を訪れています。

2日目については、 2ページ目 を見てください。
ちなみに、翌日は小郡からバスで萩へ行き、「いそかぜ」に乗って下関まで出ました。
2ページ目は、萩の案内…ではなく、新旧DC特急乗り比べと題してお送りします。

限られた回数しか乗っていませんが、ファン以外の乗客といえば、通学の高校生くらい
(しかも計5人くらいしか見ていない…)で、
この路線大丈夫かなぁと思ってしまうくらい閑散としていました。

クモハ42亡き後は、ファンもいなくなって、
いつもの閑散とした風景が広がっているのでしょうか?

このときの乗客は、ファン5・6人と
 昔を懐かしんでいた女性2人、高校生2人でした。

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