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8世紀奈良時代、守山区および名古屋市北東部、瀬戸市、長久手市一帯を含む山田郡から都へ租税として納められた米などを記した木簡が平城京跡から出土、当地の人々の生活の一端が伺われる。 天平勝宝4年(752)山田郡の一部の土地(耕地)が東大寺の荘園に施入(寄贈)され、その後も多くの土地が東大寺に施入されている。これは租税対策と思われるがやがて荘園の崩壊とともに武士が台頭してきた。 戦国時代、守山城では徳川家康の祖父松平氏七代松平清康が家臣阿部弥七郎に惨殺された「守山崩れ」が突発的に発生。秀吉、家康が戦った小牧・長久手の合戦では龍泉寺城、小幡城が歴史に名を留めている。 江戸時代の暮らしぶりは寛文年間(1661〜)に編纂された村勢調査書『寛文村々覚書(1670〜1672)』や寛政4(1792)年より文政5(1822)年にわたり編纂された『尾張徇行記』によれば寛文年間この辺り1戸辺りの平均世帯員数は6人前後、文政年間(1818〜)には平均4.2人前後となり名古屋城下近隣において既に核家族化が始まっており、上志段味地区においては寛文年間と比べ人口が2.14倍に増加、男女比においてはやや男性が上回っておった。当時1年1人1石(150kg)あれば暮らしていけると言われており「反当たり石高」はこの地方では1村平均約1.5石(全国平均約1石前後)、文政年間には守山の一部村では平均値を上回る約2.51石と言う高い生産性を持つ村も現れた。 志段味地区においては1〜1.5石程の生産高で有ったが、庄内川流域の開墾地においては「見取場(新田開発などにより生じた痩せた土地等を指し年貢が除外または若干の年貢対象となった土地)」など多くあり畑作による米以外の農産物の作付けが多く行われたと思われ、都市近郊農業の発達も見らる。これらの事から一部の村を除き総じて豊かではないが極貧農地帯ではなかったと思われる。 明治6年名古屋鎮台が創設され翌年演習地として 小幡ヶ原 が使用され、明治30年より歩兵33連隊が駐屯、大正、昭和と数々の連隊がこの地に駐屯し小幡ヶ原には大砲の射場も作られた。また飛行機が珍しかった大正時代ここには飛行場が開設され、軍用機が飛び民間飛行学校「 名古屋飛行学校 」も設立され女子学生もおり整備士の養成も行われていた。 戦後、昭和20年11月連隊施設は米軍に接収され進駐軍が常駐したが同32年9月返還、同34年より陸上自衛隊の駐屯地(基地)として発展し、現在は陸上自衛隊第十師団司令部が駐屯している。 この様に明治以降の守山の発展は軍が寄与した部分が大きい。 昭和30年代に入り長年の懸案事項、名古屋市との合併問題が本格討議され、同38(1963)年2月15日「 名守合併 」が成り守山区が誕生。これを記念して2月15日は「区の日」と定められ、平成24(2012)年区政50周年を記念し区のイメージソング「WE LOVE MORIYAMA(作詞作曲:なかむらまさや・歌:RIE)を発表、公募によりマスコットキャラクター「モリスちゃん」が制定された。 その後東名高速道路開通、守山インター開設。昭和53(1978)年3月、 名鉄瀬戸線 都心乗り入完成。平成13(2001)年3月23日には日本初、専用高架道路走行の ガイドウェイバス「ゆとりーとライン」 開通。続けて名古屋第二環状自動車道開通、交通網も整備され緑の野山を残しながら名古屋のベットタウンとして発展を続けている。 ※寛文村々覚書 尾張徳川二代藩主光友の下命により寛文年間(1661〜)に編纂された村勢調査書。原本は藩内各郡別に「○○郡覚書帳」として作成され、通常「寛文村々覚書」と呼ばれ尾張一円の郷土史基礎資料として広く参考にされている。制昨年は寛文年中、1670〜1672年頃と言われる。 ※尾張徇行記 尾張藩士樋口好古(1750〜1826)が寛政4(1792)年より文政5(1822)年にわたり編纂した寛文村々覚書を底本とした村勢調査書。好古は他に「濃州徇行記」なども著している。
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名古屋市守山区公式ホームページ
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