このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
●資料室● |
■地名の起こり |
![]() また一説には、森と山のある地域、地形に起因するとも言うがこれも確たる証拠はない。 守山区を含む名古屋市北東部一帯は中世山田郡に属し、正倉院古文書の日本書紀、天武5(676)年に「神祗官奏して曰く、新嘗のため国郡をトする也。斎忌則ち尾張国山田郡・・・」とあり、天皇家が神に新穀を供え祀る悠紀斎田 (大森斎穂社) を当地に置いたと記されているが守山の地名表記はまだ見えない。中世においては、一部では「木ヶ崎」(鎌倉時代、無住国師著『沙石集』など)と呼ばれていたと思われる。 守山の漢字が初見されるのは大永6(1526)年、駿河より京に向かう途中、尾張国守山松平与一(信定)館にて開かれた新地知行祝言の千句会に招かれた連歌師柴屋軒(さいおくけん)宋長(そうちょう)の『宋長手記・下巻、廿七日(三月)』の項に「清洲より織田の筑前守・伊賀守・同名衆・小守護代坂井摂津守、皆はじめて人衆、興ありしなり〔あづさ弓花にとりそえ春のかな〕新地の知行、彼是祝言にや」とあり、この時詠まれた、詞書「尾州守山の城千句に」の発句に「花にけふ風を関守 山路哉」と守山が折込まれた事に始まる。 また仁和寺僧正尊海は天文2(1533)年、東下りの折り、吾嬬の道記-もり山といへる所にとまりて旅宿いと寒ければ「守山の里の名におふ宿かればさよもすがらに袖ぞしぐるヽ」と詠んでいる。 近世、村名が固定するまで守山、森山は混在して使われており「守」に固定されていったのがいつ頃か定かではないが、白山神社縁起によるとこの守山が実際に使われ出したのは慶長の頃(1596~1615)よりと言う。 ※続紀(続日本紀) 平安時代初期に編纂された勅撰国史書。桓武天皇の延暦16(797)年に完成) ※写真は正倉院文書の塵介に収められている「正倉院古文書 尾張国正税帳」。天平2(730)年、尾張国が作成した正税の収支決算報告書。右肩に「山田郡 天平元年定大税穀弐万捌阡弐伯陸拾肆斛壱斗伍升・・・」と続く。当時紙は貴重品で使用後払い下げられ東大寺写経所等で再利用されていた。 右肩に「山田郡 天平元年定大税穀弐万捌阡弐伯陸拾肆斛壱斗伍升・・・」と続く。紙面全体に「尾張国印」が押印されている。 |
■明治以降守山の町村合併の動き |
江戸時代より明治22年以前 | 1889年(明治22)10月1日 (明治の大合併) | 1906年(明治39) 7月16日 | 1954年(昭和29) 6月1日 | 1963年(昭和38) 2月15日 | ||
守山村 | 二城村 川村城と守山城 と推測される 村役場は大永寺村に 置かれた。 | 東春日井郡 守山町 | 愛知県 守山市 守山市は9年間しか 存続しなかった。 初代市長 加藤千一 二代目市長 黒田毅 東春日井郡旭町は 守山町又は瀬戸市 との合併にゆれこの 合併から離脱した。 旭町が市制に移行したの は16年後の1970年 (昭和45)12月1日 すでに千葉県に旭市 があったため 現市名とし、 県下27番目の市 尾張旭市となる。 | 愛知県 名古屋市 守山区 (名守合併) (昭和の大合併) 13番目の区として誕生 二ヶ月後 愛知郡鳴海町が 名古屋市と合併し 14番目の区となる。 滋賀県守山市は 1970年(昭和45) 7月1日市となり 守山市が区となっ たのが1963年 (昭和38)2月15日、 7年の差があり 同名の市が重複す ることはなかった。 | ||
金屋坊村 | ||||||
大永寺村 | ||||||
大森垣外村 | 1878年(明治11) 12月28日 合併 大森垣外村 | |||||
牛牧村 | ||||||
川村 | ||||||
瀬古村 | 高間村 瀬古・高牟神社「高」 幸心・間黒神社「間」 | |||||
幸心村 | ||||||
小幡村 | 小幡村 | |||||
大森村 | 大森村 | |||||
森孝新田 | 大森村の「森」と 高針村の「高→孝」 明治22年大森村に編入 | |||||
上志段味村 | 志 段 村 | 1892年(明治25)6月24日 上志段味村分離 | 東春日井郡 志段味村 | |||
中志段味村 | 志段村 | |||||
下志段味村 | ||||||
吉根村 | ||||||
春日井郡 1878年(明治11)12月 成立 | 西春日井郡:1880(明治13)年2月5日成立、豊山町一町があり、まだ存続している。 | |||||
東春日井郡:1880(明治13)年2月5日成立、1970年(昭和45)12月1日 旭町が尾張旭市となり消滅、90年間存続した。 |
■守山区のガイド活動
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■守山区の主な交通網 |
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1. 旧国道41号線(愛知県道102号名古屋犬山線) 2. 名古屋鉄道(名鉄)小牧線/上飯田連絡線(地下にて区内を通過) 名古屋市北区平安通駅にて市営地下鉄と相互乗り入れ・区内に駅はない~愛知県犬山市 3. リニア中央新幹線地下予定線。(瀬古十五・瀬古赤目・瀬古一、三地区) (2027年開業予定・大深度40m以上の地下) 4. 国道19号線 (愛知県名古屋市熱田区-長野県長野市) 5. JR中央本線(西線) ①−新守山駅 名古屋駅より約23分 6. ガイドウェイバス(ゆとりーとライン)高架式バス専用道路 小幡緑地−高蔵寺駅(JR)間は地上走行公園一部地上走行含む) 7. 名古屋第二環状自動車道(名二環) 8. 東名高速道路 9. 名古屋鉄道(名鉄)瀬戸線 名古屋市中区栄~愛知県瀬戸市 A−守山自衛隊前 B−瓢箪山 C−小幡 D−喜多山 E−大森・金城学院前 10. 瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線) 11. 千代田街道(市道) ■実線:名古屋市営バス |
■名鉄(名古屋鉄道)小牧線/上飯田連絡線 ![]() ![]() ![]() 今は撤去された線路と庄内川鉄橋を渡る在りし日の赤い名鉄電車 (平成15(2003)年2月撮影) |
守山区は西からバス路線を除き名古屋鉄道(名鉄)小牧線、JR中央線、名古屋ガイドウェイバス「ゆとりーとライン」、名古屋鉄道(名鉄)瀬戸線(通称瀬戸電)が通っております。 小牧線は上記名岐鉄道とその後愛知電気鉄道と合併し誕生した現名古屋鉄道(名鉄)の手により1931年(昭和6)開通。路線は区内西端、瀬古地内を700~800mほど通過するのみです。1921年(大正10)6月13日、初代名古屋鉄道が発足、1930年(昭和5)8月20日、美濃電気軌道と合併し9月5日、初代名古屋鉄道は名岐鉄道と改称。1931年(昭和6)2月11日名岐鉄道城北線の駅として瀬古駅が開業。同年4月犬山まで延伸され大曽根線と改称した。その後名岐鉄道は愛知電気鉄道と合併し名古屋鉄道(二代目・現名古屋鉄道)となる。瀬古駅は1942年(昭和17)に廃止さた。 1994年(平成6)小牧線は名古屋市営地下鉄平安通駅にて相互乗り入れするため第3セクター上飯田連絡線株式会社が設立され、地下にて区内を通過する事となり、2003年(平成15)年3月27日上飯田連絡線は開通、またその折り瀬古駅復活の動きもあったようだが結局復活は成らなかった。(一説には矢田川・庄内川を潜り抜ける為地下部分が深くなっており地下駅設置には不向きであるとの説もあり、将来駅復活のため路線間隔など地下駅設置スペースが既に確保されているとも言われている。)。 味鋺駅(愛知県春日井市)南にて小牧線は地下に入り守山区内を地下にて通過、地上の線路は撤去され「愛知県近代化遺産」に指定されていた橋梁も撤去された。 ●名古屋鉄道(名鉄)小牧線庄内川橋梁(撤去、現存せず) 1931年(昭和6)年2月11日開通 全長200.4m 単線橋梁 支間46.2m下部トラスト4連 斜角右81度36 (1)単線下路ワーレン構桁 4×46.21m (2)下路鈑桁 1×12.85m ※他の近代化遺産は 「守山の近代化遺産」 の頁を参照。 |
■中央線新守山駅誘致 ![]() ![]() ![]() JR中央線新守山駅 画面左側(西)が貨物駅でしたが現在は廃止され現存しない。 |
JR中央線は海岸線を走る東海道線に対し軍事的に安全な内陸部を、そして森林資源の搬出等にと明治25(1892)年鉄道敷設法により建設が決定。諏訪以西木曽谷経由、伊那谷経由が検討されたが現在の木曽川沿いに決定し岐阜終着案も有ったが明治44(1911)年5月東京-名古屋間が全通。 それに先立ち明治33(1900)年7月、名古屋-多治見間が開通した。名古屋から多治見間の路線は陶磁器産業の経済的効果を主眼とした瀬戸経由案。同じく多治見を中心として東濃地方の陶磁器搬出と平坦地の利便性を強調した小牧を経由する小牧案。(この路線案には坂下(春日井市)付近の養蚕農家が煤煙による減産を懸念し反対運動があり、内津峠をトンネルで抜ける案も含まれた)。そして庄内川(玉野川)沿い高蔵寺を経由する高蔵寺案と3案が名乗りを上げた。結果熱心な誘致活動と最短距離の優位性が認められ勝川-高蔵寺-多治見と言う現在の庄内川沿いルートが決定。 「守山に旅客駅を」と言う動きは早くからあり大曽根駅からの距離が短い(約2.5km)等の理由でその都度見送られていたが、昭和33(1958)年1月、名古屋市では都市計画に基づき中央線千種駅、大曽根駅の貨物事業統合移転案を計画、貨物新駅の場所として守山区の現在地を候補地とした。守山市(現守山区)ではすぐさま同年3月、中央線守山駅誘致委員会を設置し名古屋市、国鉄(現JR)そして地主と協議を重ねたが、一部地権者より農地を削られる不安、貨物駅のみの新駅は不要と議論続出し協議は必ずしも順調に進まなかった。 昭和34(1959)年1月、地元民による守山駅設置地元対策協議会が発足、各機関と個別に協議をし協定を締結。市議会でも中央線守山駅対策委員会が組織され、昭和35(1560)年4月、土地買収開始。幸心地区より旅客駅舎を路線西側へ造る案が提出されるが現在の東側への駅舎建設に決定。昭和39(1964)年4月1日「新守山駅」開業。現在貨物用プラットホーム、路線は全面撤去された。 ※名鉄(名古屋鉄道)瀬戸線は 瀬戸電(せとでん)の頁 参照 |
■守山区の人口と世帯数 平成28年12月01日現在 |
区名 | 面積 km2 | 世帯数 | 人口総数 | 男 | 女 | 1世帯当 たり人員 | 人口密度 人/km2 |
名古屋市守山区 | 34.01 | 70,320 | 174,104 | 85,934 | 87,683 | 2.46 | 5.105 |
■守山の生産高 江戸時代:寛文村々覚書・尾張徇行記より |
生産高上位四村 1.大森村 1,443石3斗2升7合 880人
2.守山村 1,413石6斗3升7合 565人 3.小幡村 1,339石4斗5升 571人 4.瀬古村 921石4斗7合 369人 ●生産高は全体の約54% ●人口は全体の約52% 生産高下位三村 12.牛牧村 305石9斗8升2合 156人 13.中志段味村 258石5斗6升3合 128人 14.金屋坊村 217石2斗3升5合 114人 『尾張徇行記』によれば 村立良き村として、大森村の項では「信州飯田街道筋ニ農舎数戸・・・村立ハ大体ヨキ所ニテ・・・其内ニ富家モ二三戸アリ酒屋味噌屋ヲシ又小商ヒヲスル者モアリ」と記され、続いて守山村では「矢田川北ニアタリ街道通リニアリ村立アシク貧村ナリ・・・其内紺屋二戸鍛冶二戸アリ其外小商ヒスル者モアリ村中竹木茂リ」、小幡村は「信州飯田街道筋ノ北ヘ付・・・其内街道ヘ付テハ二三戸農業ヲ兼ル者モアリ」、瀬古村は「南瀬古ハ下街道通リニアリ・・・竹木茂リテ大体村立ヨキ所ナリ高ニ準シテハ戸口多ク」と記されている。 この四村に共通している事は信州飯田街道(瀬戸街道)、下街道(善光寺街道)が村内を通り、この事により農業生産以外の生産活動が活発した事により、他村に比べ比較的豊な村となったと考えられる。 一方貧しき村として、金屋坊村は「貧村ナル故ニ農業ヲ以テ生産モナリカタク・・・半バ荒廃ノ様眼前ニミエタリ」とあり、牛牧村では「白沢川流レ度ル・・・高ニ準シテハ戸口少ク田力不足ナルニヨリ・・・細民ハカリニテ貧村ナリ」、大森垣外(海道)村では「竹木生立モ薄クシテ村立アシク細民ハカリニテ貧村ナリ」と記されている。 これらの村々は旧白沢川下流の低湿地に立地していて、度重なる洪水により地味が悪く農業生産力が低く、またそれ以外の生産手段を持たない村々であった事が起因していると思われる。 |
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