このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



コロ記

出逢い

<昭和55年5月20日>
探検中 ペット、コロの事をペットと呼ぶのは今となっては気が引けるけれど、ちいさな頃からいろいろなペットを飼っていた、でも、ちょうど20年前の春、家にはペットがいない時期があった。
 小学生だった私は、ペットを飼いたい一心で両親に相談。今度の日曜日に、ペットショップへ行こうと決めた次の日の出来事である。
 遊びから帰って自宅にいると突然鳴り出した電話、仲の良い友達からだ。話しは、かわいい子猫が捨てられていたので保護をしたのだけれど、飼えないかな?と言う相談だった。もちろん私が黙っているはずが無い、さっそく私は母と友達の家に向かった。
 そこには、産毛がいっぱい生えた、ちっちゃなちっちゃなトラネコがいた。まだまだあどけない顔つきで目はみどり色、両目の色は若干違うようにも感じられ、20セン チ位の段差も登れないで困っている。細いからだの割にはお腹がぷくっとふくれているおんなの子だった。
 絶対に飼う!。子猫と、これから始まる生活への期待感を、一緒に胸に抱きながら家に向かった。

 30を過ぎた今でも変わらないのだが、私は子供の時からお風呂の中でいろいろと考える事が多い。唯一の欠点はメモが出来ない事だが、どうもお風呂の中でしか発想がわかないのだからしかたがない。その時もお風呂の中での事である。文鳥のぶんちゃん、ハムスターのポー、インコのミーちゃん、いままでのペットの名前を思いだしながら、子猫の名前を考える。お腹がころっとふくれているから、「コロ」がいいと思うのにそんなに時間はかかっていない。漢字での書き方も「湖露」と決めている。湖一面の露、なんとロマンチックな名前であろう。



お腹

<昭和55年5月28日>
うらめしや〜 コロの名前の素となったお腹のふくれ、このふくれが原因でこの後問題が起こる。午後8時30分、子猫と一緒に家に帰ると父も帰っていた。先日に両親の了解は得ているのと同時に、みんな動物好きだった事もあいまってコロが打ち解けるまでにそんなに時間はかからなかった。と言っても、コロにしてみれば知らない環境に連れてこられたので、それどころの余裕ではなかったのだろう。
 突然やってきたのはもちろん子猫だけ。ペットショップでの購入だとすれば、食べ物、器を始め飼い方まで教えてもらえるだろう。今の様にコンビニでペットフードを売っている時代ではない。お決まりの牛乳を与えられ、ごはんにかつお節をかけただけの、いわゆる猫まんまを用意し、トイレも海苔の空缶にちり紙を敷いて準備した。すると、いままで我慢をしていたのだろう、すぐにトイレに駆け込みおしっこ。本来はトイレのしつけで悩むであろう問題を難なくクリアし、幸先の良いスタートを切ったように見えたが、そんな夢の様な生活も実はそこまでである事に、この時はまだ誰も気づいてはいない。
 コロと迎える初めての夜、私は寝ている間に、コロが顔の上に乗ってきたら痛そうだろうなぁと心配をしていたが、臆病コロにはそんな余裕はなかったらしい。父がいびきをするたびに、ビクッビクッと起きていたようである。
 そんな夜を過ごした次の日、部屋中に茶色い点々がある事を発見する。それはまさしくうんち、しかも水状の。運良く?私がお腹を壊しやすいため、人間用の整腸剤はある。しかし子猫には何錠と書かれている訳ではないので、子供の半分の量を与える。なんとか下痢は落ち着きを見せたのだが、根本的に解決した訳ではなかった。
 翌日、良い病院として近所で有名な動物病院へコロを連れていった。先生は見るなり、お腹にガスが溜まっていますね、寄生虫もいるはずです。と言いお尻の左右に計2本の注射をする。
 薬の効きとはすごいもので、翌日のコロのうんちはとんでもない事に。ご想像にお任せするが、数日間おそばだけは食べたくない心境になる。お腹の中にいた寄生虫が団体で、特製うんちのチャーター船に乗ってどど〜んと登場する。おっと、これくらいにしておこう。

 しかしコロの問題はこれからも続いた。

遊び 獣医さんが見た所、生まれつきの異常で骨が全体的に短い事が判明。それに加えて腰が悪く、この状態では、飼育をしていく上でかなりの覚悟がいる点、寿命も短い可能性を母は伝えられていた。と同時に安楽死という方法までも。今から考えてみれば、獣医さんの心からの気持ちだったと思う。初めて猫を飼う小学生にしてはコロの状態は決して良くはない、途中で放棄する可能性まで考えれば、安楽死をすすめる気持ちもわからなくはない。
 しかし頭に血が上るスピードがロケットよりも速いであろう私に聞く耳はなかった。家に帰りその話しを母に聞いた途端に私は、「そんな事言うやつは医者なんかじゃねえ、コロを捨てたりしたら、コロが見つかるまで家には帰らないから!」なんともお恥ずかしい話しだが、当時の私には、そんな言葉を発する事が精一杯であった。それは今でも変わらないかもしれないのだが。


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