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コロ記

電話

<平成12年11月7日>
 コロが亡くなって1週間が過ぎていたある日の夜、電話のベルが突然鳴り出した。そこには見慣れない番号が表示されている。電話に出ると受話器からは、どこか覚えのある声が聞こえてきた。それは最近連絡をしていなかった友人からだった。「ひさしぶり、元気?」などと話をしていると会話は猫の話へと進み、徐々に内容が猫についての相談へと変わっていく。

 友人が家へと帰る途中、溝に1匹の子猫がはまっていたらしい。このままでは・・・と感じた友人は、その子猫を救い出した。どうしようかと考えたが、とりあえず家へと連れて帰ったらしい。しかし彼の家はペット飼育禁止のアパートだった。猫がを飼えない事を思い出した彼は、慌てて知人の家に電話をかけまくったらしい。しかし、どの友人からも明るい答えはかえってこなかった。そんな時に彼は、古い友人に猫を飼っている人がいる事を思い出す。もしかすると飼ってくれるかもしれない、猫好きの知り合いを紹介してくれるかもしれない。そう考えているうちに、既に彼の指は私の電話番号を押していた。そして私は電話のベルが鳴っている事に気がつく。

 「猫を救い出してくれた事は、とても感謝するよ。でも今の所、猫を飼う予定は無いし、知り合いの方々も猫を既に飼っている方達ばかりなんだよね・・・。申し訳ないけれど、たぶん力にはなれないと思うんだ。」こんな話を最初にしながらいろいろな話をしていく。その話の中では終始一貫して「私は猫を飼えない」と友人は言い続けた。私も「何かの縁だからね、うちもペット禁止なんだ。でもいけないんだけれど手放せないから」などと促すような話をしていたものの、彼の気持ちに変化は見られなかった。
 そんな時、話はコロの事へと変わっていく。「あれ?あの猫はまだ元気なの?」「実はね、先日亡くなったんだ」この会話の途端、彼の言葉がだんだんと変わっていく様を感じとる。「じゃあ飼ってよ、連れて行くからさぁ。いなくなったんだからいいじゃない」


 今でこそ少なくなったものの、自宅の周辺は緑の多さから野良猫がたくさん生活していた。季節になるとお腹を大きくした猫を見かけ、その後にはたくさんの子猫が増える。それと同時に、ダンボールに入れられた子猫達も増えていた。そこには親のいない、目も開けられない猫たちがさまよっていた。
 こんな状況からか、近所の猫好きの方が野良猫に食事を与えるようになる。そのネットワークは徐々に広まり、猫を飼っている事から食事の提供を呼び掛けられるようになっていった。
 公園の砂場に糞尿をする野良猫問題、食事を与えるからここに捨てる人が増えるんだと町会で問題になるなど、様々な問題を抱えながら結果としてお金を出し合い、野良猫の避妊去勢手術、病気猫の通院、亡くなった猫の火葬埋葬手続きをする事にもなっていく。そんな中で、野良ちゃんを自宅に招きいれる方も多くなり、そうなると多くの場合が複数飼いとなり、うちへの疑問が生じたらしい。「なぜ1匹しか飼わないのか」
 時々たくさんの野良ちゃんを救う方法として、あと1匹でもいいから飼ってほしいと言われる事があった。しかしいつの時でも、その要請を丁寧にお断りしていた。それはコロの性格からの判断である。

 たぶんわがままに育ててしまった私達に一番の原因があるのだと思う。コロは他の猫が大嫌いだった。野良ちゃんであれ、飼われている近所の猫であれ、コロに逢わせた途端に強烈な威嚇が始まる。そしてその威嚇は私達にも及び、相手がいなくなるまで永遠に続くのである。また、他の動物の匂いにも敏感だった。出かけた先で動物に触れる事があると、帰ってからのコロの匂いチェックは徹底的に行われ、その匂いを自分の匂いに変えないと許せないらしい。縄張りを大切にする猫の当然の行動なのだが、どうもコロのその行動は、少々異常に感じられた。一度は人間の赤ちゃんにも嫉妬を感じたらしく、家で母親がその子を抱くと、慌てて下にやって来て、自分を抱けと言う素振りをしていたらしい。その結果から、コロ以外の動物を飼わないと言う事は、必然的に決まっていた。ただ、複数飼いをしない理由には、コロの性格以外にもある。
 私が小学3年生の時、家では文鳥のぶんちゃんを飼っていた。しかしその時の友人達の間では、ゴールデンハムスターが脚光を浴びていた。気がつけば私も、ハムスターが欲しくなっている。何ヶ月かが過ぎた頃、友人の家でハムスターが産まれる。そしてそのうちの1匹をいただく事となる。その時の嬉しさは今でも覚えている。憧れていたハムスター、その日の夜はハムスターのカゴの前でずっと過ごしていた。
 翌朝、母に起こされる。悲しい言葉とともに。「ぶんちゃんが亡くなってる」鳥かごの一番下には、冷たく固くなっているぶんちゃんが横たわっていた。もしかすると寿命とか、病気とかの偶然の結果なのかもしれない。しかし、どうしてもぶんちゃんの死の原因が、自分にある事以外は考えられなかった。自分を見てくれない、相手にしてくれない寂しさが、ぶんちゃんの死因だったに違いない。
 嬉しかった日の次の日に起こった悲しい出来事に、私の気持ちは大きく動かされている。コロの後から、かわいい子猫を飼い始めたら、それが例え一瞬であろうとコロの事を気にしない時がくるであろう。ぶんちゃんに教わった事を無駄にしてはいけない。コロ以外の子は飼わない。これが私が複数飼いをしない一番の理由である。

 コロが亡くなってから、時々考える事がある。「猫を飼う」という事に今もっとも適しているのはうちなのだろうと。「今、猫はいない」「道具はすべて揃っている」「ある程度の知識も備えている」。猫の知識については正直、あまり自信がない。偶然にもコロとの生活が20年に及んだだけであって、猫のプロであるショップの店員さんでもなければ獣医さんでもない。コロとの生活の中では、数えきれない程の失敗もある訳で、人に言えるほどの経験はない。猫の事については、私よりもむしろブリーダーさんであったり、複数飼われている方達の方が詳しいであろう。私は猫のプロではなく、コロのプロであったのだと思う。


 友人の「じゃあ飼ってよ、連れて行くからさぁ。いなくなったんだからいいじゃない」との発言に、私の脳裏からは常識だとか忍耐だとかの文字はすっかり消えていた。
 「コロが亡くなって時間が経っていない時に、新しい猫を飼う事なんて考えていない。猫を助けてくれた事は感謝するけれど、言わせてもらえば、最後まで猫の責任を持てない可能性があるのなら、助けた猫を自宅に連れて帰らないでほしい。その場に置いて帰ってほしかった」そう言いきって私は電話を切った。切ると言うよりも受話器を電話機に叩き置いたと言ったほうがいいかもしれない。

 冷静に今考えると、私のこの発言にも問題が無い訳ではない。友人の行動には頭の下がる思いだ。ただ、コロが亡くなった事を知った友人の発言内容と、その猫の立場になって考えてほしかった。助けてくれた優しい人間に連れてこられた暖かい家。ぐっすり休める空間と探さずに与えてもらえる食事。無事に里親が見つかればいいが、飼えないと断言する友人が、もしもその子猫を捨ててしまったら、その子猫はまた外の世界で暮らさなくてはならない。私がその子猫だったら、その人間を許さないだろう。

 その後、友人からは何の連絡もない。こちらに非があるのだから仕方はないが、その子猫がどこかで無事に生活している事だけを願う。



パスポート

<平成12年11月25日>
  2000年冬、私は成田空港から空へと飛び立つ。久しぶりの海外旅行だ。実は、この旅行への参加は申込締切ギリギリ、いや締切を過ぎた後の申し込みとなった。
 今回の旅行の目的地は中華人民共和国。日本で言うと鹿児島県屋久島の位置に当たる街、上海へ渡り国内線に乗り換えて蜜波へと向かう。この蜜波と言う街は以前、遣唐使が中国に渡った際の港として有名。この蜜波にある「天童寺」が今回の目的地。日本で曹洞宗を開いた、道元禅師が修行し解脱されたお寺として有名な寺院である。

 私がこの旅行に参加する事となる理由を少しお話ししよう。

 昨年の春、父のお墓があるお寺の住職さんが、曹洞宗の大本山である福井の永平寺で、1日だけ永平寺の住職を務める事となった。檀家をはじめ、お茶、お花、御詠歌などで住職さんにお世話になっている方々と一緒に、私も永平寺へ行く事にした。一言で表わせば旅行なのだが、永平寺に泊まり簡単な修行も受ける事となる。
 その前年に私は1度永平寺に行っていた為、今回は母が誘われたのだが、母の都合により今回も私が参加する事になる。そこで、昨年出掛けた際に写真は撮っていたので、ビデオカメラを持っていく事とした。

 添乗員の方にビデオ撮影の事を確認した所、永平寺内でのビデオ撮影は基本的には禁止されていて、テレビ局などでの撮影の場合には許可が必要との事らしい。ただ、永平寺で尼僧さんが住職を務める事は、1年で1名と決められている為、次はない事を考え添乗員さんが許可をお願いしてみるとの事だった。
 当日の撮影を許されたのは、福井放送と私だけとなる。腕に腕章をつけ、寺内や法要などの一般では見る事ができない場面、場所などの撮影を終えた。
 旅行を終え、ビデオを見ながら考えた。せっかく撮影を許していただけたのだから、完全な物に仕上げよう。撮ってきたビデオを編集してお寺に収めると、住職さんの喜びは想像以上で、お寺にいろいろな方を招き、上映会を何度も開催していたらしい。

 今年の夏、住職さんが新たな話しを始めた。中国・天童寺への参拝のお話しだった。そして是非参加してほしいと。旅行費を負担するとも付け加えられた。私は正直言って悩んだ。撮影に出掛けるのは苦ではないし、道元禅師が修行されたお寺への参拝は、観光での参拝とはひとあじ違った経験も出来るであろう、是非参加したい。
 しかし・・・・・・・・・・コロを置いていく事が心配で、申し込む事が出来なかった。もちろん母がいるのだが、どうもコロは母が発声する「食道発声」を聴きとらないようなのだ。どのような声を出しても、コロが反応する事は稀だった。そこで私が話し掛ける事がある程度大切な役割を持つ、その役割が数日間無くなる。元気だったら問題は無いのだが、もしも元気でなかったら・・・。そうでなくとも家族がいない事に不安を持つコロなのに・・・。
 更に万が一の場合、容易に帰る事が出来ない事も不安のひとつになる。国内旅行なら、車で高速を飛ばせば、急いで帰る事ができる。携帯電話もほとんどの土地でつながる。新幹線だって夜行列車だってあるのだから。
 この数年間は、そんな事しか考えていなかった。どこに出掛けていても、帰る手段を考えていた。コロの体調によっては、約束を断る事も多かった。どんなに楽しい瞬間でも、本当に楽しんでいた訳ではないような気がする。出掛ける予定も、コロの留守番を極力なくすように、母とスケジュールの調整をした。その結果、今でも休日には家で過ごす事が多くなってはいるが、当時はそれが苦ではなかった。そして、今ではとても良かったと思えている。期限の決められている時間を大切に出来たのだから。

 つまり、中国への旅立ちは、コロに万一の事がおこった場合、私には何も出来ない事を覚悟する必要があった。その覚悟が、私にはなかなか出来なかった。
 申込締切を過ぎたある日、母が父の墓参りに行った際に、住職さんがお話しをされたそうだ。中国に是非・・・と。毎晩、国際電話でコロと話そう。獣医さんには母からのFAXで対応していただくようにお願いしよう。コロにはしっかり言い聞かせれば、納得してくれるだろうし。そして、旅行費をご負担していただく事を断り、私は参加させていただく事にする。

 以前所得していたパスポートの期限が切れていたので、申請に出掛ける。受け取ったらコロと記念撮影をしようなどと考えて。しかし、更なる問題がひとつあった。ビデオカメラの故障である。
 毎日少しずつ、コロを撮影している分には問題が無い。ホームページの「さんぽ」に掲載する写真にも問題は無いのだが、長時間の撮影となると現在の状況では難しい。買い換えるにも、旅行費の倍以上の金額がかかるので無理だ。修理には2週間を要する。修理の間、コロにもしもの事があったら・・・。修理に出した事を後悔するであろう。結局、ギリギリまで修理に出す事をためらった。

 10月27日、コロは優しい顔をして旅立った。私が飛行機で向かう空よりも、たかいたかい雲の上に。もしかすると、旅行とビデオの事で私が悩んでいた事を、コロはすべて知っていたのかもしれない。心配する事はないよ、と。コロが旅立った後、パスポートも無事に受け取り、ビデオの修理も無事に終えた。

 飛行機が飛び立ち、コロに近づいたら、少し話をしようと思う。眼を閉じながら。



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