このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

岩見トンネル


 




今回の舞台は豊浦町にである。
同町の西部、大岸集落礼文集落の間に岩見トンネルはある。
この地帯は険しい断崖がそのまま海へと落ち込む難所で、ここを通過する室蘭本線は長大な礼文浜トンネルを穿っている。
そんな室蘭本線の旧線に存在しているのが岩見トンネルだ。


このトンネルは現在の室蘭本線が長輪線(万部と室蘭の西を結ぶ路線)として全通した1928年から利用されていたトンネルである。
ここを含む静狩から伊達紋別は特に工事が難航したらしく、一番遅れての開通となっている。

そんな長輪線も1931年に室蘭本線に統合された。

その後、岩見トンネルを含む旧線は廃され、現在に至っている。



 
① 2005年 冬





友人のzweibel( 彼のホームページはこちら )と共に函館へドライブに行く途中でのお話。
道中の豊浦町に海岸沿いを辿る面白そうな道を発見したので、寄ってみた。

道道大岸礼文線。
奇岩ひしめく断崖地帯。
予想以上の大物に、早朝だと言うのに二人とも興奮しっぱなしであった。

さらに・・・、見て欲しい。
前方にロックシェードらしきものが見えないだろうか。





そう、廃隧道であるっ!!!!



位置からしてこれは室蘭本線旧線の遺構だ。
当時は恐らく私が立っている地点に踏切があったのだろう。

脳内の液がボコボコと沸騰し始めた我々が、すぐさま車から降り、この隧道に突撃してしまったのは言うまでもない。

これが我々と岩見トンネルの出会いであった。





少しは進入してみたものの、灯りがなく、時刻も時刻だったため、今回の内部探索は見送ることにした。
まあ豊浦ならば札幌からさほど離れていない(狂い始めた私の物差しでは)ので、いつでも来れるに違いない。

洞内はというと、ヒンヤリとした、しかし不快ではない風が外に向かって吹き出しており、この隧道が閉塞していないことを物語っている。

数分の朝の廃隧道浴を楽しんだ後、我々は一路函館を目指したのである。





② 2005年 秋





岩見トンネルとの出会いから9ヶ月後。
道道大岸礼文線が崩落により通行止になったりして、再会はなかなか叶わなかったのだが、ついにこの地に舞い戻ってくることができた。

この日もzwiebelと共に瀬棚方面へドライブした帰り。
美利河ダムの魚道 を探索した約1時間後のことであった。







以前と同じように、踏切跡に立ってみる。
出会いの時から感じてはいたのだが、非常にオープンな廃隧道である。
道内の廃隧道は、山奥など人が立ち入らない場所にある物は除き、ほとんどが封鎖されている。
これほど目に付きやすい場所にあり、なお何の処置も施されていないのは極めて異例なケースである。
さらに、こんな容易に侵入できるにもかかわらず、荒らされた形跡がないことにも驚かされた。





トンネルを抜けた旧線は写真の右下から道道を渡り、中央辺りへと進んでいた。
こうして見ても、非常に狭い場所に道路と線路が並走していたことが分かる。
あの僅かなS字カーブの所に踏切、その奥の猫の額のようなスペースに旧線の線路があったのだ。
当時は、まさに波にさらわれそうな場所を列車が通っていたのである。





錆び付いたロックシェード。
長年の間、潮風にさらされ続け、こんな姿になったのであろう。
もはや元々の色が分からないくらいに錆び付いている。

こんな鉄骨の色一つで、景色は大きく代わってしまう。
そんなことを考えながら、草生した路面を一歩一歩踏みしめていった。




さて…いよいよ全開は果たせなかった隧道内部進入。

黒いぞ!!

蒸気機関車が往来していたせいか、天井部分は黒く煤けている。
そして側壁の方に行くにしたがって、白化が進んでいるという状況。

白化は崩壊の前兆だと聞くが、この隧道はこんなにオープンで良いのだろうか。





側壁下部にはカマボコ型の窓が開けられている。
何なのだろうか。
ただの飾り窓か…、それとも何らかの目的のためか。

よく分からないが、この隧道の特徴の一つである。

隧道は緩やかに右にカーブしており、出口の光は見えない。





実は今回も懐中電灯を忘れてしまい、暗闇の中での探索となった。
我々は携帯電話の灯りを頼りにそろそろと奥へと進んでいった。

写真は振り返って撮ったもの。
内部にはバラストが敷かれているものの、足をとられることはない。








随分と入口が遠ざかってしまった。
当時はフラッシュ機能がない携帯電話のカメラを記録媒体として使っていたため、もはや真っ暗な画像。








その携帯カメラで撮ったものを、目いっぱい明るく加工したものである。
分かりづらいが、これは隧道側壁のアップ。
ご覧のように素掘りである。
これは竣工当時のものだろう。








そして謎の物体。
U字型の金具が側壁から生えており、それが縦に幾つも並んでいる。
これに関しては、ハンガーを引っ掛けるくらいしか用途が思い浮かばなかった。
まったく正体不明である。





程なくして大岸側の出口が見えてくる。

今回は始終真っ暗画像で申し訳ない・・・。
2006年に入り、私も遂にデジのカメを購入。
フラッシュバシバシ光らせて隧道のシミ一つまでも鮮明にお伝えすることができるだろう。




ほら、ここまで来れば携帯カメラでも問題なく撮れる。
画質の良さは携帯にしては優秀賞もので、それがデジカメ購入を遅らせた最大の要因であろう。
隧道探索なんて酔狂な趣味を持っていなければ、デジカメは購入しなかったかもしれない。

私のデジカメ購入事情はどうでも良いとして、出口である。
こちらにもカマボコ窓が並んでいる。





この辺りでΩ型の断面が∩型に変わる。
∩型の部分は隧道と一体化した覆道部分である。
その隧道と覆道の境界部分に写真のような記述がある。

これを見て我々はこのトンネルの名を初めて知った。
最初私は岩鬼と読んでしまったが、まったくの見間違いである。
長さは164mらしい。




大岸側から望む。

窓から内浦湾を眺めるzwiebel。
恐らく室蘭〜砂原を結ぶ新・白鳥大橋の構想でも思い描いているのだろう。
彼は北海道知事になった暁には、その一大プロジェクトに取りかかってくれるらしい。
その後道内の全道道の舗装を剥がすという「カントリーロードプロジェクト」と遂行してくれるに違いない。
その際には私はちゃっかりと彼の側近に君臨しようと考えている。





誇大妄想をアツく語ってしまったが、今回の探索は終了である。

この隧道はこれ程のアプローチの容易さにもかかわらず、レポートしているサイトは少ない。
大岸礼文線自体通行量が少ないので、単に知名度が低いだけなのかもしれない。

断崖絶壁にある隠れた廃物件を後にし、我々は東へ向かった。



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