その前に、「なし ? 宝珠山村か ? 宝珠山駅ていうとか?」
いつものことで、もういい加減ウンザリやろうバッテンこの詮索から始めないかん。
旧宝珠山村(いまは合併して東峰村)の岩屋神社に祀ってあるご神体は、欽明天皇の8年(547)に、天から降ってきた丸うか石ゲナ。光りかがやいとったケン、たまぐり返った社僧たちが宝珠石て名付け、神殿ば造って祀ったていい伝えとる。
大化4年(648)には村人全部に「星の玉ば茅薦(かやこも)で包んで祀れ」て、神のお告げがあったていわれとってクサ、いまだに、この行事と信仰は続いとるとゲナ。
また、むかしから、この宝珠石ば見たら目がつぶれるていわれとってクサ、いまだにだぁーれも見たもんはおらんげなバッテン、星の玉ていうぐらいやケン、まあ、科学的に考えたら、たまたま(ここシャレのつもり)ここに落ちてきた隕石やったっちゃろうタイ。そげな訳で宝珠石があるケン、宝珠山村ていうごとなっとうと。
ホームの境界線には小石原焼の陶板が埋め込まれとった。むこう3分の1が大分県、手前3分の2が福岡県にある。
その宝珠山村が2005年3月28日に小石原村と合併して、いまは東峰村になった。
宝珠石のある村の「宝」と、合併相手の小石原の「石」ばとって、なし「宝石村」せんやったとかいな。駅長はとつけむのう残念がっとると。
珍しか名前にしとけばマスコミが飛びついて、全国に知れ渡ってクサ、宣伝費に換算したら、あんた、数億円の価値があったろう。
そのうえに、物好きが訪ねてきて、よか村おこしにもなったろうに。惜しいチャンスば逃しなつたもんタイ。
むかしの宝珠山村は、九州の修験道の中心・英彦山(胎蔵界)から宝満山(金剛界)までの峰入りコースに当たるケン、山伏との関わりが深かった。岩屋神社の社伝「岩屋神社来歴略記」によれば、修験道の開祖・役小角(えんのづぬ)も岩屋に入峰したことがあるて伝えとる。
そげな山間の村やったっちゃが、かっては炭鉱が存在したて聞くとびっくりタイ。
明治37年(1904)頃から、土師炭鉱と長者原炭鉱が小規模な採炭ばしよったとば、明治45年(1215)に飯塚の炭鉱主・伊藤伝右衛門が買収して、宝珠山炭鉱ていうことになり、本格的な開発がはじまって、坑口ばどんどん増やしていったていう。
昭和38年(1963)に、石炭不況で閉山するまで、最盛時の昭和25年には約6,300人(約1,200世帯)までに 村の石炭人口は膨れ上がっとったゲナ。
バッテン、閉山した途端に過疎化が進んで、今は炭鉱の面影もその気で探さな、殆ど見つけられん。
桜の美しか駅の構内も、最盛期は石炭の積み出しでごった返しとったはずバッテン、いまはひっそりとした静かな山村の駅に戻っとった。
わずかに残るもんいうたら、東峰自然公園にある炭鉱の坑口跡と、飯塚の伊藤伝右衛門邸の別棟ば、移築した文化センター「いぶき館」ぐらい。
上・東峰自然公園に残る宝珠山炭鉱第一坑跡 江戸時代、宝珠山の人たちはこの辺の石炭ば掘って生活の燃料にしとったとゲナ。それが明治になり、富国強兵の産業政策の下、ガンガン掘るごとなっていった。伊藤伝右衛門が宝珠山の炭鉱ば買収して、本格的な開発が始まり、大正5年(1916)にでけたとがこの第一坑やった。
右上・第三坑跡は埋めもどされとった。かっては炭車が頻繁に出入りしよったとやろう。
右下・昭和38年(1963)、エネルギー革命のあおりば食ろうて閉山したバッテン、それまでの間多くの石炭ば産出し続けた炭鉱の橋脚が大肥川に残されとった。
その宝珠山村にあるケン、宝珠山駅。
昭和12年(1937)8月22日 彦山線の夜明〜宝珠山間開通と同時に開業した。
かつては島式(両面)ホームの1面2線やったが、現在は単式ホーム1面1線。
リニューアルされた古い木造駅舎が残る。勿論、無人駅やが、遙か昔の石炭の賑いが、駅前の広場と広か構内に見える。
花いっぱいの駅。気持ちよさそうにディーゼルが走ってきた。
飯塚にあった伊藤伝右衛門邸の別棟は、昭和8年ここに移築され「宝珠山炭鉱倶楽部」いうて、炭鉱幹部たちの社交場として使用されとったとゲナ。
それが平成17年にリニューアルされ山村文化交流の郷「いぶき館」で蘇っとうとタイ。
父親がここの炭鉱に関係しとった縁で、高倉健の企画展がありよった。
白蓮さんの写真のぶら下がっとって、なんか可笑しかった。
いぶき館