駅の名は、今川のかっぱ伝説にちなんでつけられとるとゲナ。今川のかっぱ伝説ちゃなんかいな。ほらきたバイ。
その昔、今川にいたずら好きの河童がおったゲナ。あんまりいたずらがひどかもんやケン、村人たちは河童に人間の子どもと相撲ばとらせてギャフンていわせ、いたずらばせんごと懲らしめてやろうと思うたとタイ。
ところが、おっとどっこい、河童は昔から相撲が好きで、これがまた強かっタイ。人間の子供は投げられてばっかりで、河童にてんで歯の立たんやった。
思惑の違うて、大人たちが「どげんしたもんかいな」て慌てとったら、村のご長老が「今度はオレが行司ばしてやろう」いうて出てきなつた。
そして、相撲の続きが始まったとバッテン、この行司さんな行儀作法が厳しゅうてクサ、「初めと終わりにはチャンとお辞儀ばせないかん」いうて、指導ばしなった。
さあ、そして取り組み開始タイ。ところが河童がお辞儀ばしょうて頭ば下げた途端、頭の皿から水のこぼれてしもうてクサ、皿の乾いたかっぱでは全然力が出せんで、人間の子供に投げ飛ばされてしもうた。
始めて人間に負けた河童は、これまでのいたずらば「もう、またから、しまっせん、こらえてつかあさい」いうて詫び、それからは子どもたちとも仲良しになったていう。
平成筑豊鉄道には、前回取りあげた「東犀川三四郎」やら、「源じいの森」「美夜古泉(みやこいずみ)」やら面白か名前の駅が多かバッテン、ここも、そげな昔ばなしから「今川河童駅」の名が付けられたていう訳タイ。
駅は開業したとが平成2年(1990)。次の美夜古泉駅(みやこいずみ)まではたったの700mしかなか。
上・今川河童駅の駅名標は河童のイラスト入り。
左・田圃の中にポツンとホームだけ。河童の像だけがヤケに目立つ。
豊前国分寺
奈良時代の初期、聖武天皇は仏教に対して深い知識と厚い信仰ば持っとんなった。
当時(735年頃から)国内では疫病(天然痘)が流行ったり、米の不作が続いたり、政府に不満ばもつ藤原広嗣が大宰府で反乱ば起こしたり、世情不安やった。
そやケン、聖武天皇はこうした社会不安ば鎮護国家思想で取り除こうとして、741年に「国分寺建立の詔」ば出しなったとタイ。
国ごとに国分僧寺と国分尼寺ば建て、僧寺には七重塔ばつくり20人の僧、尼寺には10人の尼ば置くことば定めなったと。豊前国分寺もそのひとつていう訳タイ。
今川いうとは、源流が英彦山・豊前坊の「獅子の口」から出とる湧水で、31.6kmば流れ下って豊前平野ば潤し、行橋で豊前海に注ぐ1級河川タイ。
獅子の口からでた源流が最初にくぐる橋が、添田町上津野の焼尾橋(やきおばし)で、海に出る前、最後にくぐるとが、行橋市の今川大橋(いまがわおおはし)。途中に55、全部で57の橋が架かっとる。
「今川河童駅」に一番近かとは、昭和46年3月にでけた京都橋(みやこばし)。ひとつ下流の橋が高崎橋(たかさきばし)で、近くに「河童渕」ていう場所がある。ここが河童が相撲とったていう伝説の場所で、春は川原の菜の花が黄色の絨毯で美しか。
駅には「かっぱ君」のモニュメントがある。もともとが河童やケン、当たり前バッテン、どげん寒かったっちゃ裸でクサ、西の御所ケ岳の方ば指さして、なんか云いたそうにしとる。
「山のあなたの空遠く、幸住むと人のいう・・・・」て、カール・ブッセの詩でもくちずさんどるとやろか。
駅のある行橋と隣同士のみやこ町は、総面積が151.28平方キロメートルで、西は田川郡の添田町・赤村・香春町、南は大分県、北は小倉南区、そして東が行橋市と接しとる。
平成18年(2006) 3月20日、京都郡の勝山町・犀川町・豊津町の3町が合併して、「みやこ町」が誕生したと。
美夜古(みやこ)の呼名やら、京都(みやこ)郡の起こりは、景行天皇が九州に来なったとき、長峡県(ながおのあがた)現在の行橋市に行宮(あんぐう)ば置いとんなったことに由来しとる。行宮のあったケン、いま、その山ば御所ケ岳ていうとタイ。
みやこ町は古くから開けた土地で遺跡も多か。古代には周防灘と大宰府ばつなぐ官道も通っとった。豊津の台地には豊前国府があったし、豊前国分寺はいまでも残っとる。
戦国時代には大内・大友の戦場にもなったバッテン、江戸時代になると細川が所領する小倉藩となった。幕末に小倉藩は、第二次長州戦争で長州藩と戦うて負け、小倉城ば焼いて香春に藩庁ば移す。さらに明治3年(1870)には豊津に藩庁ば移したこともあった。
明治4年(1871)、廃藩置県で豊津藩は豊津県になり、11月には豊前の豊津・中津・千束県が統合されて小倉県になったと思うたら、明治9年(1876)に小倉県は廃止されて福岡県に合併された。
以上、みやこ町の超特急解説やった。


ここでちょっと休憩して、河童の話でもしてもうかい
河童(かっぱ)は、日本の妖怪・伝説上の動物で、未確認動物タイ。「かっぱ」ていうとは、川の童「かわわっぱ」が変化したもんゲナ。河太郎(かわたろう)ても言う。ほぼ日本全国共通して伝わっとる。
「河童の川流れ」 河童は泳ぎが得意やケン、物事に長けとる人でも失敗することがあるていうときに使う。
「屁の河童」河童はいつも水の中におるっちゃケン、屁ばしてもあまり勢いがなかケン、「取るに足りんこと」が「河童の屁」ていうたとバッテン、のちに語順が変わったとゲナ。「木っ端の火」から来たていう説もある。
「陸(おか)へ上がった河童」 河童は水中では能力ば十分発揮できるバッテン、陸に上がると力がなくなるていうところから、力のあるもんが環境が変った途端、まったく無力になってしまうことのたとえで使う。
河童ば題材とした作品に小説では、芥川龍之介の「河童」と、火野葦平の「石と釘」などがある。
河童が主人公の伝説のたぐいは、全国に掃いて捨てるほど転がっとる。
豊前国分寺三重塔
豊前国分寺は、創建当時九州東北部の文化の中心やった。戦国時代末期の兵火で焼けてしもうたバッテン、江戸時代の元禄年間にほぼ復興。三重塔は明治28年に建立されたもんゲナ。塔の高さは23.5m、九州に3箇所しかなか塔のひとつバイ。
上・昼の列車には乗る人も下りる人もおらんやった。これで大丈夫 ?
左・姿勢ば正して河童君が指さしとる先は遙か彼方の西の空。
上・英彦山・豊前坊の高住神社にある「獅子の口」ていう水汲み場には「今川水源」ていう石碑があって、ここが今川の源流ゲナ。