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「あかし(明かし・灯)」と「あかし(証し)」

 『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む』(中西良子編著)に掲載されている、
森井弘子さんのコラム「鳥瓜のあかり」の考察が
面白かったので取上げてみます。


 『銀河鉄道の夜』にはケンタウル祭(星祭り)というお祭りが出てきます。
星めぐりの歌を歌ったり、川へ鳥瓜のあかりを流すお祭りです。

 その鳥瓜の「あかり」(明かり・灯)なんですが、

「あかり」には「証し」という意味が込められているのでは?
という考察です。

宮沢賢治は、
3稿では「あかし」と書いていたところを、
4稿で「あかり」と書き直しているらしいです。

岩手方言なら「アガス」と書くはずだし、
この「あかし」という表記には意図的なものがあったのではないか。
しかも、鳥瓜のあかりは「青い」ので、
『春と修羅』の「序」にある「青い証明」ともリンクしているのではないか。
だから「あかし」っていうのは「証し」を意味しているのではないか
という考察です。

 「あかり」=「あかし」=「証し」

いいんじゃないかこれ。ということで、
この考察を鳥瓜の「あかり」限定でなく、
夜空の「あかり」である星・三角標にもあてはめて
読み解いてみたいと思います。



まずは天の川ついてみていきたいと思います。

冒頭でジョバンニたちの先生が天の川銀河について話すところをあげてみましょう。


「ではみなさんは、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやりと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」

(4稿 一、午后の授業 〜生徒に質問を投げかける先生)


銀河とは何か?

冒頭で先生がする質問です。

これは「銀河鉄道の夜」に込められた重要な命題のうちの一つですが、
ジョバンニとカムパネルラは答えられません。

先生はこう言います。


「このぼんやりと白い銀河を大きないゝ望遠鏡でみますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。」
                            (中略)
「ですからもしもこの天の川がほんたうに川だと考へるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考へるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでゐる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云ひますと、それは真空といふ光をある速さで伝へるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでゐるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでゐるわけです。そしてその天の川の底の深く遠いところほど青く見えるやうに、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。」
                            (中略)
「このいちいち光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光ってゐる星だと考へます。(中略)では今日はその銀河のお祭りなのですからみなさんはそとへでてよくそらをごらんなさい。」

(4稿 一、午后の授業 〜銀河について語る先生)


天の川銀河とは、
じぶんで光っているたくさんの星の集まり。

われわれの住む太陽や地球も
真空という川の水のなかに浮かぶ星のひとつである。



そしてジョバンニが銀河鉄道に乗った後の世界。

銀河鉄道の右手に天の川があって、
その岸には「三角標」が溢れています。

三角標の設定は一定に定まっていないのですが、
どうやら星をあらわしているようです。


「さうだ。見たまへ。そこらの三角標はちょうどさそりの形にならんでゐるよ。」
ジョバンニはまったくその大きな火の向こふに三つの三角標がちゃうどさそりの腕のやうにこっちに五つの三角標がさそりの尾やかぎのやうにならんでゐるのを見ました。

(4稿 九、ジョバンニの切符  〜銀河鉄道が蠍の火にさしかかったところ)



その天の川の水を、見きわめやうとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとほって、ときどき目の加減が、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のやうにぎらっとひかったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立ってゐたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或るひは三角形、或るひは四辺形、あるひは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光ってゐるのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけに振りました。するとほんたうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかゞやく三角標も、てんでに息をつくやうに、ちらちらゆれたり顫へたりしました。

(4稿 六、銀河ステーション 〜冒頭。銀河についての描写)


三角標は、岸にあるのですが、
三角標が星をあらわしているのなら、
岸も天の川銀河です。
とにかく三角標は星なんです。

けれど、「三角標」はただ星をあらわしているだけではありません。


ジョバンニは、
(あゝ、さうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのやうに見える三角標のあたりにゐらっしゃって、いまぼくのことを考へてゐるんだった。)と思ひながら、ぼんやりしてだまってゐました。

(4稿 七、北十字とプリオシン海岸 〜冒頭。ジョバンニが母のことを思い出す場面。)


ジョバンニはじぶんのお母さんが遠くの三角標にいると言っています。
どうやらジョバンニのお母さんも天の川銀河のなかにいるようです。

ジョバンニの先生が、
「太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでゐるのです。
つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでゐるわけです。」
と、言っていたように
お母さんのいる三角標は地球であるとも取れますが、
ジョバンニの住む町についての描写を見てみると、
お母さん自身が一つの星の輝きとなっているようにも取れます。

その町の描写を抜き出してみます。


町を通って行きました。
空気は澄みきって、まるで水のやうに通りや店の中を流れましたし、街燈はみなまっ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんたうにそこらは人魚の都のやうに見えるのでした。

(4稿 4、ケンタウル祭の夜 〜町の描写)


空気は水のよう、。
と、こんな描写もあって町じたい川の流れのなかにあるようですし、
だとしたら空気の中にあるものはみんな水の中に浮かぶ星のようなものです。
人もまた。

鳥瓜のあかり、三角標(星)は人ひとりひとり。
ひいてはひとりひとりのの「あかし」である。

ケンタウル祭は川に鳥瓜のあかりを流すお祭りですし
あかりは多分みんなひとりひとつ持つものと思われます。

現実世界で行き場を無くしているジョバンニが、
お祭りに参加していず、
からすうりのあかりを持っていないというところもポイントです。
(お母さんも持ってないけど・・・。うーん。)

天の川の設定、三角標の設定は定まっていなくって
はっきり言い切るのは無理なんですけども、
ここは言い切っちゃいましょう。

数々の「あかり」が「証し」であることを匂わせるところが
もう一つあるんですけれど、
それは物語のクライマックスにかかわるところなので、
「ブルカニロ博士とほんとうのさいわい」のヨミトキから探してみて下さい。


銀河鉄道は天の川の左の岸に沿って走っています。

銀河鉄道は自分のいる世界を離れてみることで
冷静に自分の世界を見つめるためのものです。
(離れすぎてもダメなので、岸に時々降りてみたりの慣らしもありながら。)

けど天の川銀河は現実世界も取り込んでいるようですし、
星のあるところ、つまり宇宙空間全体が天の川銀河であるともとれます。

となると銀河鉄道は天の川銀河の左を走っていながらも
おなじ次元にあるとははっきり言えないようです。

だから「幻想第四次の銀河鉄道」っていうのかな。
ちなみにジョバンニのいた世界は「三次元空間」。

ちょっと不思議な構造です。


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