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ほんとうの神さま論争
「あなたのかみさまってどんな神さま〔〕ですか。」青年は笑ひながら云いました。 「ぼくはほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」 「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」 「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」 「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。 女の子もちょうどその通りにしました。 みんなほんたうに別れが惜しそうでその顔色も少し青ざめて見えました。 ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。 (4稿 九、ジョバンニの切符 〜サザンクロスで降りようとする青年とジョバンニとの会話より) |
氷山にぶっつかって船が沈んだ家庭教師の青年。
彼等の終着駅であるサザンクロスが近づくなか、
青年とジョバンニが「ほんとうの神様」について話し合うところがあります。
ジョバンニがはじめてはっきりと自分の意見を人に伝える場面でもあります。
そこを〔ほんとうの神さま論争〕としましょう。
ふたりはお互い自分の信じる「ほんとうの神様」についてを主張し合いますが、
結局わかり合えないまま、青年はサザンクロスで汽車を降りて行きます。
ジョバンニの言う「ほんとうの神さま」。
青年の言う「ほんとうの神さま」。
お互いの神様論。何が違うのか。
みんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しいしろいきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。 (最終稿 九、ジョバンニの切符 〜サザンクロスで降りた人々を銀河鉄道からジョバンニらが見ているところ) |
「神さま」というとやっぱり宗教的なことを思い浮かべるので、
青年の宗教は何かと言う事になります。
銀河鉄道の乗客の半分以上の人が「神々しい人」のいるサザンクロスで降りてゆくことから、
大きな宗教であるらしい。
キリスト教で「主をほめたたえよ」という意味で唱えられる「ハレルヤ」。
それに似た「ハルレヤ」という言葉を唱える人々。賛美歌。
サザンクロスの川なかの十字架。
サザンクロスで人々を迎える神々しい人。
キリスト教には生まれ変わりの観念が無く、
死んだら神さまのいる天上にいけるという考え方である。
サザンクロスの描写はそれに酷似している。
などなどの要素から青年はキリスト教徒であると読まれています。
それに反してジョバンニの言う「ほんとうのたったひとりの神さま」は、
与えられ、皆と共有できる「たったひとり」では無いようです。
こころのなかにそれぞれの、たったひとりの神さま。
ジョバンニの言う「たったひとりの神さま」とは、
「あかし(明かし)」と「あかし(証し)」論で述べたと同じに、
生きていくうえでそれぞれが自分なりに突き詰めた
信念の証しをあらわしたものでは無いでしょうか。
賢治は熱心な法華経信者だったので、
〔ほんとうの神さま論争〕は、
「キリスト教VS仏教」として読まれることもありますが、
今回はそれとはちょっと違う見方で読み解いてゆきたいと思います。
賢治は熱心な法華経信者でした。
けれども仏教だったら何でも良かったというわけではありません。
賢治の家は浄土真宗に属していましたが、
賢治は二十四歳の時に法華宗に改宗しています。
父にも改宗を迫り、しばしば激しい討論をしていたそうです。
ここで大雑把に法華宗と浄土真宗の理念をあげてみます。
〈法華宗〉 法華宗は法華経を絶対的なものとする宗派です。 生命を現世限りのものとせず、法華経の因果の法則に従って、輪廻転生する。 といった考え方を持っています。 また「南無妙法蓮華経」を唱えれば神仏と一体化できるとしています。 〈浄土真宗〉 浄土宗真宗は念仏が往生を決めるのではなく、 すべて仏より賜る絶対他力からなるとし、 世俗にまみえる在家主義をうたっています。 また、念仏が人の運命を決めるのではなく、 すべて神仏より賜る絶対他力からなっているとしています。 前に浄土真宗のお葬式に行った時、 お経の中に「輪廻を外れて浄土に赴く」と言うふしを聞いた憶えがあります。 この「輪廻を外れて浄土に赴く」という観念は うえに書いたキリスト教の観念に似ていますね。 |
二つの宗派の理念を簡単に抜き出してみましたが、
調べてみると同じ宗派でも「神仏」、「念仏」、「輪廻」、「他力」
それらの解釈のしかたによって
同じ宗派なのに正反対のとらえかたをしているところもあるようです。
キリスト教でも偶像崇拝は良いか悪いかでもめていることがありますが、
偶像崇拝とは、こころのなかに自分なりの神様(正しさ)があれば良いというのなら、
神さまを物理的に唯一つしかない存在として、
そこに正しさを見ること自体が偶像崇拝といえます。
なら物理的に偶像を作って拝んだとしてもそこに作った人が自分だけの神様を見れば、
何も問題ないことになりますね。それはジョバンニ的です。
そもそもキリスト教の神さまだって、
三位一体が唯一神でややこしいし、
何をもって一神とするかで、キリスト教のなかでも
「たったひとりの神さま」についての解釈は多々あるかもしれません。
無いか?あまり詳しくないのでわかりません。
なので今回は、本当の神さま論争に当てはまるような解釈をさせて頂くことにします。
自分の持ってる解釈と違うぞと思われる方。許して下さい。
とりあえず『銀河鉄道の夜』での宮沢賢治の宗教観は、
青年 | キリスト教 (ひいては浄土真宗) | 生まれ変わりはない。死後は神さまのいる天上へ行く。 神さまはたった一人である。 |
ジョバンニ | 法華宗 | 因果の法則に従って生まれ変わりがある。 誰もが神仏と一体化出来る。つまり誰もが神仏である。 |
という解釈とさせて頂きます。
では、結局ジョバンニと青年の会話にはどういう意味があるかという話なんですが、
1・2次稿では青年とジョバンニが神様について話し合う場面はありません。
かわりにジョバンニがサザンクロスで降りる女の子に向かってこんな台詞を言います。
「天上へなんか行かなくたっていいぢゃないか。もっといいとこへ行く切符を僕ら持ってるんだ。
天上なら行きっきりでないって誰か云ったよ。」
賢治は宗教宗派もしくは宗教に関係なく「行きっきりでない」こと。
これに何か抵抗を覚えていたのではないでしょうか。
漢字に直すと「行きっきりで無い」。
進む先が無い。
幻想第四次銀河鉄道はこころ・魂・精神の世界であるということをふまえると、
それは思考が止まってしまう。考える事を止める。ということ。
ジョバンニ、そして賢治のここでの叫びは
与えられた価値観の前に、
自分で何が正しいかどうするべきかの判断を奪われることの危うさに、
「考える事を止めるな。」という哲学者の叫びのようです。
そして、ジョバンニは青年との会話で
それぞれが正しさを突き詰めるときに、
その正しさ同士がぶつかりあうこともある辛さを少し学ぶのです。
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