このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





「想定」を線引きせよ





■The day after 東日本大震災

 東日本大震災の後、筆者はつたないながらもいくつかの所感を書いてきた。そのなかには、 「想定外」 について採り上げたものもあるし、 「日本人には科学的思考ができない」 と批判した記事もある。

 盛夏を迎えようとしている今日、いま少し言葉を補いながら、改めて上記の点についてまとめなければなるまい、と考えている。論点は「原発再稼働」問題である。筆者には、これがなぜ大混迷するのか、まったく理解できない。議論があまりにも倒錯している、と指摘せざるをえない。政治的状況が混乱しているからやむなし、という一面があっても、理路は整然とすべきである。

 実は既に、筆者は この点を包括する意見 を記している。しかも、対象は浜岡原発だけにとどまらなくなった。よって、文言を一部置き換えたうえで、当時の意見を再掲したい。すなわち、各地の原発を再稼働しないというからには、実は、以下の隠された前提条件がひそんでいる。これを無視してはいけないのに、敢えて無視して事態が進んでいる現状はおそろしい。

  ●それぞれの原発を包含する地域で大地震が発生し
  ●今まで想定していた以上の津波が発生し
  ●揺れと津波とあわせ当該原発を含む地域には激甚な被害が生じ
  ●当該原発において福島原発事故と類似した状況が発生する


 このように書けば、原発を再稼働するなと声高に叫ぶ前にまず為すべきことがある、とすぐ御理解いただけよう。それぞれの地域で地震被害軽減対策を打つのが先である。何故ならば、原発再稼働反対派は「必ず福島原発事故類似状況が発生するほどの大地震」発生を前提条件としているからだ。

 そんな大地震が本当に起こるのか。しかも全国すべての原発において。可能性はゼロではないとしても、百年単位で考えたところで、途方もなく稀有な状況といわざるをえない。「想定外のことが必ず起こる」という、頓知の如き論理矛盾を基礎としているような主張に、科学的思考は存在しない。結論ありきの御都合主義はあまりにも危険である。

 どうしても原発再稼働しないのであれば、同時並行でその他の地震被害軽減対策を進めなければおかしい。あるいは人倫に悖る。大地震が起こっても各地の原発だけが無事で、原発周辺は激甚被害に見舞われる状況など、許容されるわけがなかろう。

 即ち、原発再稼働問題は、本質的なことが横に置かれたまま時間と金を空費する、典型的な空理空論であって、現実の問題になんら向き合わない現実逃避に近い。端的にいえば、原発再稼働問題とは、再稼働をめぐる綱引きが自己目的化した政治運動にすぎないわけで、 今日の日本の政治状況を象徴している 。「何もしない政治」とはまさにこれで、政治そのものが空洞化、真空化しているともいえよう。





■本則に辿り着けるか

 残念ながら、健全な議論がよみがえる時期はしばらく先になる、と予測せざるをえない。だから悲観的にならざるをえないのだが、それでも本来あるべき姿を論じることには意味があるだろう。

 まずは「想定される事態」を全て洗い出したうえで、これらへの対策を確立しなければならない。この点に異議・異論がある者は、よもや存在しまい。

 問題はそこから先だ。いくら可能性がゼロでなくとも、マグニチュード10以上の超弩級大地震を想定するのはバカげている。「想定」には線引きが伴うのだ。そして、線引き後には必ず(というより自動的に)「想定内」「想定外」の事態が確定する。

 ここでの「想定外」とはいわば「(新)想定外」であり、「(旧)想定外」とは意味が異なる点に注意しなければならない。「(新)想定外」の事態とは即ち、発生確率が極端に低い事態である。発生確率が低いから無視するのではなく、発生確率があまりにも低いためにその事態が発生したら諦める、という極地である。

 だから、この「(新)想定外」の事態は、当事者や専門家だけで定義してはいけない。当事者・専門家が素案をつくったとしても、関係する住民(または自治体)との間に合意形成されていなければならない。「絶対安全」という概念が成立しえない以上は、原発に限らずほんらい、全ての事象の安全確保に対してこの合意形成が必要なのであり、これが本則であるべきなのだ。そして、合意形成とは結果責任の共有でもある。

 上記の本則は、実は今までに具体化した例がない。当事者・専門家は、発生確率が極端に低い事態を無視し、あるいは「発生しない」ものとみなし、それを「(旧)想定外」と言い逃れてきた。さらには発生事故の結果責任を逃れてきた。住民は「絶対安全」という存在しえない概念を錦の御旗とし、事故が起これば当事者・専門家を一方的に指弾した。住民は「無辜の民」であろうとも、「絶対安全」を言い募るようでは「無知な民」にすぎない。「無辜の民」には責任ないが、「無知な民」には無知ゆえの責任と罪がある。

 「絶対安全」が存在しない概念である以上、残念ながら事故は起きる。その発生確率がどこまで許容されるか、社会的な合意形成が必要なのであり、その作業が実は「想定」の線引きとなりうるはずだ。かような合意形成ができる世界になってほしいものだが、十年単位どころか、百年単位でも難しいと悲観している。





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