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  能登の民話伝説

  ここに取上げた話は、主に「加能越良民傳」(石川県図書館協会・昭和47年発刊)に書かれていたものを、私(畝)が、訳したものです。また他にも能登各地に残るその地域の良民・偉人・木鐸となった人などの話などを採り上げていくつもりです。
  「加能越良民傳」は昭和年代に新たに書かれたものではなくて、「加能越三州孝子傳」(道者亭主人・寛政6年(1794)寅の春)「三州良民言行録」(河合良温著・享和2(1717)年)の二つの書物をまとめて所収した本である。そしてこの二つの本は、ほとんどの話が重複する内容となっている。また「加越能三州孝子傳」の方が古文体というか江戸時代の文体で書かれているのに対して、「三州良民言行録」の方は漢文で書かれている。この辺の関係についての考究はこの本の巻末の解説でもなされている。(石川県の人で)興味のある人は、図書館へ行って借りてきて読むのもいいのではなかろうか。
  最後に、訳についてですが、何分浅学な知識で訳すため誤訳も生じるかもしれません。意訳もかなり用いました。またたとえ間違いでないにしろ、拙い訳と思える箇所が多々あることでしょう、その当たりはご愛嬌ということで容赦願います。
能登の民話伝説(能登良民伝-1)

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  生神村・久右衛門(すぐ下↓)| (所口)たばこや伊右衛門娘すぎ  | 御祖(みおや)村・小林忠雄  | (所口の賢人)清五郎
生神村(うるかみむら)久右衛門 
 「加能越良民傳」の中の“生神久右衛門”の拙訳 (参考:「三州良民言行録」の中の“久右衛門”)
 (孝義録に、安永3年(1774)褒美(ほうび)されたと記されている)
 能登の羽咋郡生神村に住む久右衛門は、若い頃から父母に対する孝行が厚く、親への親愛と尊敬の念がはなはだ深い人物でした。なおかつ篤実(非常に誠実)で、自分を犠牲にしてでも人への施しをするタイプの人物でありました。
 元来、貧しい家ではなかったので、食事のことや身なりのことについては、自分はもとより妻や子とも相談して、朝から晩まで一日中、清らかにこれを拵え、過したのでした。

 父・善兵衛は、数年、村の肝煎(きもいり)役を勤めていたが、年老いていたので、久右衛門が、父に代わってこの役を勤めていた。久右衛門が、公用に出かける時は、父母の前で必ず両手をついて用事を述べ、用事から帰ってくると、見聞した事柄を詳しく語って聞かせたのでした。私用で出かける時も、同様でした。
 また毎夜、父母の寝る部屋を掃除し、布団を火鉢で寝やすいように温めてから、父母をまねき入れ、寝てもらうのでした。そして父母がぐっすりと熟睡するのを待って、その後勝手(台所)廻りの後片付けを行い、下男である少年にもそれぞれ会釈して、それから本人は、やっと寝床につくのでした。
 久右衛門の母は、病がちで、寒い時期も暑い時期も(一年中)、その寝床を温めてから、ふとんを敷きました。又、父母の寝る部屋を掃除するにあたっては、毎夜布団を戸外に出して、布団タタキをするのが日課なのでした。それで、近隣の者も、この物音に聞き慣れて、後々には、その音を時計代わりの合図にして、寝る準備をしたそうです。

 そもそも人が父母に事(つか)えるのには、家が貧しい場合は、まず食べ物を供することが重要となる。しかるに家が裕福な人の場合には、父母を尊敬する作法が重要となってくる。総じて久右衛門の行いは、十分に孝行の行き届いたものであった。
 ある年の正月の中ごろのことであった。善兵衛宅にて、仏事(法事)を執(と)り行っていた。その法事には檀那寺の住持(住職)やその他大勢の村のものも招いていた。その際、父の善兵衛は、痰(たん)がからんだ咳をしきりにして非常に不快がっていたが、饗応(もてなし)のために我慢してその席に出ていた。
 あれこれと雑談している時、客が、痰がからむ咳には、とろろ芋(山芋)を食べるのがいい、と言うのを聞くと、久右衛門は、ひょいと立ち上がり急にどこか外へ出かけてしまった。その頃は雪も深い時期であったが、しばらくすると、久右衛門が山から山芋(とろろ芋)を持って帰って来た。
 善兵衛は殊のほかに怒り「お前はどうして客を軽んじてしばらく外に出かけてしまったのだ。」と叱るが、久右衛門はただ謹んだ表情で一言も言い返さなかった。そしてすぐとろろ芋を煮たきして、父親に差し出したといいます。

 また明和3年(1766)の頃、摂津の国の孫三郎の船が、生神村領の沖で難破した時、水主(かこ(船乗り))などが、衣類を脱ぎ捨て、岸辺に打ち寄せる出汐にひかれて、裸のまま泳いで上陸した。しかしその頃はまだ(旧暦)2月で、寒の残りの寒さもまだまだ強く、みなブルブル打ち震えていた。
 久右衛門は、自分の屋敷から急いで着替えの衣装を取り寄せると、まずそれぞれに分け与えて、着てもらった。それから木綿を買いととのえ、村中の女子どもに、早速衣類に仕立てるよう申し付けた。そして14、5人の遭難した者達へ渡して、着させたそうだ。

 また船頭が、船に金子50両、銭50貫文入りの行李があったが、難船の際、やむなく海に沈めた旨を嘆きながら物語るのだった。それを聞くと、久右衛門は、一人舟に乗って漕ぎ出し、船頭が心覚えに金子を沈めたと話していたあたりへ行き、あちこち海の中をのぞいて探して見た。すると、確かにそれらしきものが沈んでいる見えたので、すぐに引き揚げて帰って来た。船頭に渡したが、数えてみると49両で、いま一両足らないと分かると、ふたたび船頭を伴って、また先ほどの場所に漕いでいき、探してみた。すると残りの一両の金子も見つかって、都合50両揃えて船頭に渡した。
 
 その後、村中の者も動員して、沖に出て銭を探してみると、沈んでいた銭も全て見つかり引き揚げた。その他、船の道具なども一品も紛失することなく引き揚げたので、船頭や水主(かこ)までもが皆涙を流して、恩を感謝して、船で帰っていったという。
 摂津の国もとで、このことを詳しくお役所に上申したそうだ。その後、摂津の国の方から、厚く感謝する旨の書状も送られてきた。 
 以来その船乗りたちは、福浦の湊に入った際は、久右衛門にいつもかならず贈物をしたとか聞いたことがある。

 「孝」というものは、百行(全ての行い)の基本であって、この基本が行われてこそ、人としての道(道徳)に沿った行いをしたことになるのだ、とは誠に至言である。

 久右衛門は、孝を実践しようとの徳が厚いのみならず、人に恵みを施すのもまた同様であった。普段から志が素直であって、人を欺(あざむ)くような事がなかったので、他人からも、また久右衛門を欺くことはなかった。それゆえ、富木(富来)町あたりの市で買い物などしても、久右衛門が売ろうとするものの値段を、商人の言うままに値切らされることがあれば、商人も久右衛門に物を売る際は掛値を言わなかった

 また父善兵衛が存命の時から、馬商いをしていたが、久右衛門は篤実な上に慈悲に富んだ性格だったので、その商いをするにおいても利潤を貪欲に追い求めるようなことはなかった。また馬を現金で購入できず、費用を貸し付けにした者が、困窮しても、強いて返済を求めるようなことはような事はしなかったので、利潤ははなはだ薄かった。
 “(十分豊かなんだから)馬商いなどなさらずとも良いのに”という者もいたが、久右衛門は、“親の代からしてきた生業(なりわい)ですから”と言って、少々づつの馬商いは続けたそうである。

 また生神村は、主要な往来道に面していたので、雪の降る日など、旅人が難儀するような際には、助けて面倒をみるようなことも度々あったという。乞食をする以外に頼る術が無い孤独な者には、ますます(※1)憐れみを加えた。ましてや同じ村の人には、なおさら物を恵み与え、和をもって農業奨励したので、生神村の者は皆、耕作に怠けることはなかった。

 春いち早く久右衛門が、田畑を耕し始めると、村中の者も皆ことごとく耕し始めるのだった。秋になり久右衛門が、田畑を刈り取ってしまうと、秋の収穫の時期がやってきた、といって隣の里村までも、ともに収穫の作業を終えるのであった。長年その風習を守って、永くそれを変える事はなかった。

 その身分は、肝煎であったので、時々本藩である金沢へ公用で出かけようとする時には、大勢の人が一里(約16.3km)ばかりも見送り、帰途の際にも大勢の者が出迎えた。村中の者がことごとく久右衛門を敬愛したので、その風習は自然と隣里牛下村や領家七海(しつみ)村などにも伝播して、あたりの村々は、ますます淳孝謹厚(純朴で人情に厚く、また慎しみ深く、まじめな風俗)となっていくのでした。

 藩主はこれらの事をお聞きになり、感心なされて、安永3年(1774)午の年(うま)の9月に、御扶持米を下賜されました。その上(※2)夫銀のほか、諸役を永久に免じられ、ならびに牛下村・領家七海村の肝煎・組合頭にまで各々米や銭を賜(たま)ったのでした。

 その後(※3)天明5年(1785)の巳の年の12月、久右衛門の親孝行の志のみならず篤実慈悲の行いは、隣村までもこれを見習うありさまで、風俗が自然にいい感じになっていくのは、久右衛門の徳化による事績であるとして、(※4)十村並みに任命され、すなわちその禄を給与されることとなった。

 世の人々は、久右衛門のその徳のある行いを賞して止まなかった。久右衛門の父・善兵衛は、若い時より肝煎の役を勤めていたが、正道(人のふみ行うべき正しい道理)に遵(したが)うタイプで邪(よこしま)な道に進むことがなかった。農事の法例を重んじて遵守し、自分と他人との差別をつけることもなく、自分自身で田畑を巡見し、農事を奨励したので、村中豊かで、耕作の色々な仕事のタイミングを失するようなことはなかった。
 
 年貢や公役を、他のどの村より早く上納したので、藩主はご感心になられて、元文5年(1740)御蔵米を若干、御下賜なさられて、その志を賞したのだった。それのみならず、組合頭吉兵衛ならびに百姓11人にも同じく御蔵米を御下賜なされたのだった。嗚呼この父にしてこの子あるのは、“積善の家に余慶あり”と言うのが妥当かもしれない。

 かの久右衛門が、ある時隣村へ行こうとすると、父が「今日は天気がいい、草履(ぞうり)を履(は)いていけ」と言う。それで草履をはいて出かけようとすると、今度は母が、「道中、湿った場所があるから、木履(ぼくり・下駄)を履いて行きなさい」と言うので、また木履を履き、草履を手に持って暫くの間歩き、やがて片足に草履、片足に木靴を履いて行ったとそうである。その様を見た人は、あやしげにこちらを見たけれども、唯父母の心遣いを無駄にすることを懼(おそ)れたのであった。この一事をもっても、彼の日頃の行状を察するのには十分である。 

 また村の者が、田の穀物が例年ほどの収穫量がないことを嘆いていると、その者の田と自分が作った田とを交換して与えたのだった。
 さて代りに貰った田を使って、久右衛門が作ってみれば、なかなか良い田となったとかいうことである。

 もとより田を作る技が上手いので、村の者は、日々農事を久右衛門に習って、ことごとく指導を乞うのであった。一人だけそうしない者もいたが、(その結果は)殊(こと)に穀物の収穫量が少なかったので、遂に久右衛門に謝って、この者も指導を受けたそうである。また牛下村・領家七海村の者も、久右衛門を、ただものではないと考え、田畑の作り方を久右衛門に問うて習ったというのだ。

 この話は、世に喧伝された事ではあるが、以前に書いた著書の中では漏れてしまったので、惜しいから記すことにした。
註記
(※1)原文では「不便」とあるのを、“憐れみ”と訳したが、ここでの「不便」は、「ふびん」と読み、現在の「不憫」に相当する。
(※2)夫銀:加賀藩では、米を物納する定納の「正租」の他に「口米」・「夫銀」があった。口米は付加税で、正租1石につき8升ずつなど。それに対して夫銀は、他の藩でおこなわれていたような「夫役」の代納としての税ではなく、労力徴発に代えて徴収したもので、正租100石につき銀140匁などの割合であった。
(※3)この事に関しては、砺波郡戸出村(現富山県高岡市戸出)に居住した十村・川合家に残る文書をデータ化した 川合文書データーベース に記録が残っており、公開されています。関連文書の詳細ページは こちら
(※4)十村:江戸時代、加賀藩に置かれた、一〇か村ないし数十か村を単位に設定された地方(じかた)支配の組織。また、その長。他藩の大庄屋にあたる。(Yahoo辞書-大辞泉(小学館)から引用)
たばこや伊右衛門娘すぎ  
 「加能越良民傳」の中の“たばこや伊右衛門娘すぎ”の拙訳 (参考:「三州良民言行録」の中の“伊右衛門女杉”) 
 能登は所口町(現在の七尾市中心街)のタバコ屋伊右衛門の娘・すぎ(杉)は、親孝行で素直な性格であり、かつ情が深く誠実であった。

 天明8年(1788)3月、父伊右衛門が、悪事に加わったとの公儀(藩)から疑いがかけられ、本藩(金沢)公事場において牢獄に拘禁されたと聞いたことで、すぎは大そう嘆き悲しんだのであった。何とか獄屋へひそかに、食べ物を用意して届けたいと思ったけれども、すぎの家は元来貧しい上に、牢獄と所口とでは山川遥かに隔たり、思うようにならず嘆いていた。

 そんな時にある方法をハタと思いついた。すぎは、それから金沢に出て、近江町金屋六右衛門という者のお店へ奉公をしていた。主人に仕え、仕事を怠ることもなかった。奉公の暇を利用して食事をととのえたり、またあるいは、主人より肴など与えられたならば、深くこれを喜んで、自分ではそれを食べることはせず、密にそれらの食べ物を届けて、父が存命の間は心のかぎり贈り届けていた。

 その行状を金屋の主人六右衛門は、見てしまったが、はなはだ感じ入り、、なおさら不憫に思って召し使うのであった。この事は藩主の御耳にも達した。藩主は町奉行へ申し渡し、御褒美としてすぎに一生の間、毎年銀百目宛これを下賜なさったということだ。
御祖村(みおやむら)・小林忠雄  
 (参考:中能登町高畠の碁石が峰登山口住吉神社の石碑及び県道記念碑) 
 小林忠雄氏は、小林家12代目で文政3年10月6日生まれ。明治12年1月24日、鹿島郡高畠村ほか十ヶ村(酒井・四柳・大町・曽称・小金森・高畠原山・福田・藤井・小田中・小田中原山)戸長を拝命し没年まで奉職した。 

 生前、越中(現在の富山県)の懸札を経て、氷見に通じる新道の開削事業に全力を尽くし、そのため家の資産を失ってしまい、絶家の悲運に見舞われた。

 区民は皆この事を悲しんで、昭和41年新道入口の住吉神社横手に記念碑を建立した。新道は大正8年、郡道に編入され、次いで郡制廃止に伴い、大正12年に県道に編入された。
(追記)
 小林家はその後、小林昌幸氏が相続し旧御祖村の最終尊重となった。
(所口の賢人)清五郎  
 「三州良民言行録」の中の“清五郎”の拙訳  
 
 
(但書)原文は漢文のため、「加能越三州孝子傳」の古文以上に大変訳出に苦労し、(まだぎこちない訳文ですが)できるだけわかり易いように文(句)の順番を変えたりや意訳も各所でしています。大きな誤りは無いと思いますが、原文を読んだ方で誤訳と思われる箇所があれば指摘していただけると有り難いです。なおここに登場する清五郎とは、塩屋家の当主の名で、当主は代々塩屋清五郎を名乗った。この塩屋家は七尾で豪商として知られていた。ここでの清五郎は3代目清五郎こと、岩城穆斎(岩城は本姓)ことと思われる。
 鹿島郡(能登)は所口の商人・清五郎は、屋号を塩屋と号し、近郷で抜きん出た富豪であり、遠くまでその名声は轟いていた。その先祖は、尾張に仕え、名古屋に住んでいた。後、そこを去って越前の大野に遷(うつ)り住んだ。あやうく乱に巻き込まれそうになったが乱を避け、能登にやって来て、所口の町に家をを建てた。

 兄・泰蔵は、書籍、経書、史書といったものを読みふけるような人物だったが、生業は、商いをして利を得ることに従事することだった。そしてまた、人の踏むべき道によくしたがい義を守り重んじ、志操が高かった。信義ということを重んじ、その事により親しんだり遠ざけたりした。彼には子が無かったので、清五郎を後跡継ぎにした。

 泰蔵が亡くなると、清五郎は、その後を継いだ。彼もまた人の踏むべき道を尊び、経書を習い学芸を講じた。浮靡の学(軽薄で驕った学問)を、好まなかった。商いに従事し、その所用で各地をめぐった。賢人がいると聞くと、すぐにすぐに行って、正しき道の教えを乞うた。思うに彼が学問をするのは、一に種々の事がらに尽力したいのだ。ゆえにおのれに対しては、万事に倹(つつま)しく行動し、人と接すると、まごころをもって惠み与えた。多くの人を愛し、これを敬った。

 能登の海の中には、沢山の海鼠(なまこ)がいた。海辺の民(漁師達)は、これを獲り、乾して海参(いりこ)にした。それは(日本)国内で珍味とされた。これらを船で輸送し摂津(大阪府)や京及び寄った先の港に船で輸送し、巨万の富を得ていた。清五郎の店は全力を尽くしで、海参の生業のお頭となり、これを鬻(ひさ)ぎ(販売し)、転送した。

 以前、清五郎が大阪へ行った時、海参(いりこ)の価格が、うなぎ登りに高騰する場に出くわし、非常に海鼠で利益を得た。しかし帰郷すると、彼は得たところの利益の余剰分を、市する民(海鼠を収めた漁民?)に分け与えた。清五郎のその行為の義を感じてその恵みを喜ばない者はいなかった。

 天明年間に、(幕府の)官吏(役人)が所口にやって来た。海辺の民(漁師達)に命じて言うには「(清五郎の店が)ことごとく海参を鬻ぐ(海参の販売を独占している)。ゆえにかつて清五郎の店からだったものを、今後は或いはこれを(幕府に)直接納めたい者があるならば聞くが、いないか」と。それに対して皆は、今まで通りの方がいいと願った。一人として申し出るものはいなかった。

 この事件によって清五郎は、その財産を損失することなく、ますます名声を高めた。遠近の指導的立場の人たちは、彼のことを推して「所口の賢人」と呼び、敢えて名で呼んで、彼のことを愛し敬った。市尹(しいん)(→町奉行?)は、事情を詳細に聞いて、そうしてから(清五郎に)黄金を下賜した。また家徭(税)を免除され、町奉行所の役人の次に列座する(町年寄となる)こととなり、平民ではなくなった。かつ諸々の商いをする者どもは、よく清五郎の所業を見習え、とも御布令した。こういったように、(藩より)重く賞されたのであった。

 (※1)天明5年(1785)清五郎は、病没した。その亡骸は郷里の西尼谷に葬られた。その墓の碑文には京都の(※2)儒者・皆川愿(皆川淇園)の銘文を請い、石碑を樹(た)て、その業績を表彰した。墓参に訪れる者は、後を絶たないと言われている。
(註)
(※1)岩城穆斎の事績を記した多くの書物では、彼の没年は天明8年(1788)となっている。私自身もそれに反駁するつもりはないが、この文章の原文では天明5年となっているので、訳ではそのままにした。
(※2)皆川淇園(1734〜1807):江戸中期、折衷学派の儒学者で京都の人。名は愿(げん)。字(あざな)は伯恭。医者の家に生まれ、ほとんど独学で勉強。漢字の字義を研究し、そこから経書も独自に解釈し、独自の説をうちたてて開物学と名づけこれを唱えた。門人3千人。また、漢詩文・書画もよくした。晩年、自宅に私塾弘道館を開いた。著書には「名疇」、「易原」「門学挙要」「易学開物」など。「甲子夜話」で有名な平戸藩主・松浦静山などから厚遇された他、円山応挙などとも親交があった。
(参考)「岩城清五郎」については、私のHPの「能登の歴史」のコーナーのコンテンツに 「江戸時代能登を代表する文化人を輩出した一族・廻船業者・岩城家」 という頁がありますので、よかったらご覧になってください。

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