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  能登の民話伝説

 口能登というのは、中能登を含んで言う場合もありますが、ここでは加賀との境界から羽咋市及び羽咋郡の町々の地域を口能登の範囲とさせてもらいました。この頁では、上記の範囲の中で南部にあたる押水町の民話伝説を採り上げさせてもらいました。「三州奇談」から採った話は、私の拙い現代語訳(一部意図的に意訳した)のため、誤訳も一部あるかもしれません。でも大意は大筋間違っていないと思います。そんな訳で重大な誤訳以外は、抗議など、ご容赦願います。
能登の民話伝説(口能登地区-No.4)

<宝達志水町の旧・押水町地域の民話伝説>
末森山・駒ヶ谷の池のヘコタ伝説 参考:加賀・能登の伝説(日本の伝説12)・角川書店
 押水町の国道157号線を走っていると、末森山の麓を切通したあたりを通る際、「末森城跡」との看板が目に入ります。末森城は、もともとは加賀越中能登の三国の境界付近一帯の地、いまの押水町付近を勢力圏とした土豪・土肥氏でしたが、戦国期になると、独立を保つのが難しく、能登畠山側についたり、上杉側についたり、あるいは織田側についてみたりして、前田利家が加賀能登を領地とした頃には、前田家の家臣となっていたようです。三国の国境地帯といういわば要害の地にあったので、何度か戦場となったようです。
 ここを舞台とした一番有名な戦いはNHKの大河ドラマ「利家とまつ」でも有名になった天正12年(1584)の戦いです。前田利家の重臣奥村永福(おくむらながとみ)が越中の猛将佐々成政の大軍に攻められ、陥落しそうになりながらもよく死守し、金沢城から救援に駆けつけた利家軍と成政軍を撃退し、加賀百万石の基礎を作ったといわれています。永福の夫人・お鍋の方は、女傑で、侍女を従えて激励、粥を作って与えたりしたと言われています。近年まで
 お鍋の粥餅(かいもち)煮えたら持って来い 小豆じゃ寝臭い黄粉(きなこ)でなけにゃ
と謡われたのもこの伝説によると言われています。しかし史上に残る激戦でしたので、侍女で戦死するものも沢山いました。二の丸近くの駒ヶ谷の池に棲むヘコタという紅色の魚は、戦いの最中、絶望し投身して死んだ侍女が変化(へんげ)したのだと伝えられています。
(参考)私のHPの 「前田利家」「末森城と土肥氏」
モーゼ伝説 参考:加賀・能登の伝説(日本の伝説12)・角川書店
 この押水町には、何と旧約聖書「出エジプト記」に登場する十戒で有名なモーゼの墓があるといいます。私は、子供の頃、チャールストン・ヘストンが主役(確かエジプトのラムセス2世役はユル・ブリナー)を演じた映画「十戒」がどういう訳か印象が強く鮮明に覚えています。それだけにモーゼの墓が押水にあると聞くと、ちょっと荒唐無稽にも思われますが、興味がありましたので、調べてみました。

 まず伝説の前にモーゼを知らない人もいようかと思いますので、ちょっと紹介。紀元前13世紀頃、つまりキリストが生まれるはるか以前の人で、ヘブライ(古代イスラエル)の預言者・指導者です。『旧約聖書』の「出エジプト記」によれば、彼は当時エジプトに住みエジプト王ラムセス2世(太陽王)に迫害されて奴隷状態にあったヘブライ人を、エジプトより脱出させ、約束の地カナンへみちびいた人です。エジプト脱出の際、あの水を押し分けて川を渡るシーンが出てきます。シナイ山まで来たモーゼは、そのとき神と契約をむすび、十戒(人が守るべき10の道徳)を受け、人々に指し示したことは有名です。
 このモーゼの墓がなぜここにあるかというと、富山県の竹内家が代々守ってきた「竹内文書」という古文書に、次のように記されていることが根拠のようです。それによると、モーゼはシナイ山に登ったあと天浮舟(UFO?)に乗り、能登宝達山に飛来し、ここで「十戒」を授かったそうです。そして天皇の娘大室姫と結婚したモーゼはその後、538歳までをこの能登宝達で過ごし、三ツ子塚に葬られたと記されているそうです。またその十戒石も当時の天皇に奉納したということです。
 こんなとても信じられないような話ですが、第2次世界大戦の終戦直後の1945年、米軍GHQ直属部隊がこのモーゼの墓の調査を行ったそうです。ただし調査の目的・調査の結果は、未だ発表されておりません。そして海外からも毎年数多くの観光客が来ているということだそうです。
 三ツ子塚は、モーゼの墓かどうかわかりませんが、古墳群であるようです。現在は、伝説の森「モーゼパーク」として整備されています。毎年1階モーゼ祭りを開催し、モーゼパーク内に祀られたモーゼの墓にお参りするそうです。
押水町の町名の由来 
 押水町は、羽咋郡の一番南の町、というか能登で一番南、加賀と接している町です。その押水町紺屋町に、「弘法の池」とも呼ばれ、町名の由来ともなっている伝説の湧き水があります。それは平安時代、弘法大師が北陸路を行脚した際に、宝達山の麓(ふもと)を通ったそうです。 大師は、旅で喉が渇き水を求めたところ、村に井戸や湧水など飲み水が無く人々が水不足で苦しんでいる事を知り、杖で傍(かたわ)らの岩を押したところ清水が湧き出し、農民の窮地(きゅうち)を救ったと言う伝説です。そこからこのあたりを「押しの泉(おしのいずみ)」といい、さらに約(つづ)まって押水(おしみず)と呼ぶようになったということです。
※弘法大師伝説は、北陸の各地にありますが、勿論、弘法大師は実際には北陸は訪れていません。高野聖などが、各地にこのような伝説を広めたものと思われます。
忍水池(おしみいけ)の巾着(きんちゃく) 
 (参考) (日本の民話21)「加賀能登の民話」清酒時男編
       「加越能三州奇談」三州奇談後編巻五(18世紀の加賀の俳人・掘麦水著/石川県図書館協会)
 昔、江戸時代は享保(1716〜1736)の頃、麦生(もんぎょ)に忍水池という池があって、深さが腰辺りの所に巾着らしきものが沈んでおりました。浅いので上から見えるのですが、よく見ると、普通の巾着ではなさそうなので、どんな物が入っているか気になり、誰しも掬い上げてみたくてしょうがありません。でも何しろ、この池には、昔から恐ろしい霊がすんでいると言い伝えがあり、誰もタタリが怖くて手が出せないのでした。
 ところがある日の昼下がり、一人の欲深な男が、人目を盗んで池に飛び込み、その巾着を拾い上げました。
 男は、その時、蔓(つる)のような紐が巾着についてきたのも気付かず、大喜びで畑に働いている村人の所へ見せびらかしにやって来て、
 「おーい、池の中から巾着取ってきたぞー。」
男が叫びますと、近くにいた村人も、皆興味があったので、2、3人駆け寄ってきました。
 「でかい巾着やな。」
 「2、3尺(約60〜90cm)はあるかいの。」
と言い合っておりましたら、一人が紐に気付き、
 「えっ、この紐ぁ、何やろ。」
でかい巾着には違いないが、紐もそれに合わせてか、言うに一町(約109m)くらいはありそうです。
 皆はでも中身が非常に気になり、
 「そんな事より、早う中を開けてみんかいや。」
とせかされ、欲深の男は、でかい巾着を隣りの男の掌(てのひら)に載せ、やおら中を開けようとしました。すると、巾着についていた紐が、ピクッ、ピクッピクついた途端、巾着をふーわりと空に舞い上げました。
 アレヨアレヨと騒いでいるうちに、巾着は空中を泳いで、再びもとの忍水池に落ちました。
 このことがあってから、村の者は二度とこの巾着を拾い上げる者がいなくなったそうです。 
薯(いも)から生まれたお鶴 参考:「石川の民話」(石川県教育文化財団発行)「石川県羽咋郡誌
 宝達山の南の山麓に、白生(しらお)という小さな村がありました。このあたりは昔から薯(やまいも)の名所として知られており、この山で採れる薯は、とても良いと評判でありました。大きいものになると、5、6尺あり、その太さは小臼ほどもあったそうです。だから近くに住む山里の多くの女達は、薯を掘っては、それを遠く金沢まで売りに出かけるのを生業(なりわい)としていました。
 そんな薯掘り女の一人に、おさんという娘がおりました。なぜかその家は次第におとろえて、今ではおさんが一人で暮らしていました。おさんは二十歳で、肉付きのいい、色白の、どう見ても山の娘とは思われぬ美人でありました。

 ある日の事、いつものように、山の奥深い所で、ツルはしを使って土を掘り起こしていると、土の中から、
 「おさん、おさん」
と呼ぶ声がします。おさんは気味が悪くなって、いったん逃げようと思いました。しかし毎日毎日が一生懸命働いてやっと暮らしていける貧しい状態です。明日の暮らしに困ると思いなおして、再び土を掘り始めました。

 しばらくするとまた声がしました。
おさんは、今度は思いきって
 「お前は誰か。」
と聞いてみました。
 すると土の中から、声がして
 「おらはお前の妹やさかい、そんなにびっくりなさらんで、もう少し掘って、おらを外に出してくれ。」
と言います。

 その声が何となく哀れに思えたおさんは、ツルハシの先が声の主に突き刺さらぬよう、そーっと注意深く掘っていました。そのうちにツルの端が重くなって何か巻きついてくる様子です。恐る恐る力を込めて引き揚げてみると、ツルの端には何と、8、9歳くらいの女の子が、白い髪に白い衣裳を纏ってあがってきました。

 引き揚げられたその子は、おさんを見上げると、なんとも可愛いらしい表情で、にっこりと微笑みました。おさんは、急に可愛さがつのり、その子をしっかり抱きかかえて、我家へ帰りました。
 おさんは、その子をこっそりと育てました。不思議なことに、3、4ヶ月もするとその子は、もう12歳くらいの背丈の娘になりました。おさんは、その子に「お鶴」という名をつけました。

 それからというもの、おさんは毎日お鶴を連れて山に入り、薯を掘るようになりました。
 不思議なことに、お鶴を伴うと、彼女が勘を働かせて、おさんに薯のありかを教えたり、掘る業を教えてくれるので、しくじった試しが一度もなく、長さ7尺、8尺ほどもある大きな薯をどんどん掘り起こすことができるのでした。村の他の女たちが1ヶ月掛かってやっとあげる収穫量を、たったの2、3日で収穫してしまい、その後も同じペースでどんどん売りに出すので、おさん姉妹は、たいそう裕福となり、立派な家で住むことが出来るようになりました。

 そして2年ばかり過ぎたある日のことです。お鶴が急にこんな事を言い出しました。
 「おら金沢へ行って、薯売ってくるさかい、白木綿の着物を作ってほしい。」
そこで、おさんは
 「作ってやるけど、お前は、金沢の町をあまり知らんやろうから、おらがついていってやろう」
と言いましたが、お鶴は、首を横に振って
 「頼むさかい、おら一人で行かしてくれ。」
と懇願します。おさんは、
 「ほんなん、一人じゃだめや。あぶないわ」
と説得して翻意を促しますが、お鶴はどうしたことか頑として受け付けません。

 そして、とうとう反対を押し切って、大きい薯を2、3本背負って、金沢へ出かけてゆきました。しかし一週間経っても、幾日経ってもお鶴は帰ってくる気配がありません。女の足で行っても二日もかからない遠さなのに、これはいったいどうしたというのであろう。おさんは心配でなりませんでした。
 「もしかするとお鶴は、一度伊勢参りに行ってみたいと言っていたから、伊勢へでも出かけたのだろうか。それにしても帰りが遅いな。明日は、ともかくも金沢へ出て、様子を聞くとしよう。」
などとぼんやりと考えていました。
 
 そんな時、突然立派な身なりをしたお武家が訪ねてきました。
 「おさん殿のお宅はこちらか。」
と尋ねました。
 「はいそうですが・・・・」
 「やはり、貴方がお鶴殿の姉君でおられたか。実は、お鶴殿の言伝を持って参りました。お鶴殿は、今はさる方の立派な奥方になっております。もうご心配要りません。ついては、ついてはそなたにもいつか金沢にお出でなさるようにとのこと。その際には、お迎えの籠を差し向けるので、是非に、とのことです。」

おさんは、
 「お鶴が無事なら何よりでございます。私も金沢にちょうど行こうと思ってましたかが、籠なぞ、私の柄ではではございません。この足で伺いたいと思いますが、で、お鶴は今どこにおるのでしょうか。」と言うと、
 「さる御大家ですが、事情があって、お鶴殿の居所については、それをはっきりと申すなとの仰せでして・・・・・・ここに持って参った品々がございます。これを仕立てておめしになってお待ちください。ご出立の準備もありましょうから、2、3日したらお迎えにあがります。」
 お武家は、こう言うと、白木綿と、お金を差し出し、消えるように夕闇の中に消えるが如く去っていきました。

 おさんはもらった白木綿で、着物を拵え、すっかり用意を整えた上で、隣りに住むおよつと言う女にこう言い置きました。
 「おら、お鶴のおかげで、金沢に良い奉公口が見つかったんや。そこで、暫く働いてから、京都の本願寺にお参りに行こうと思っとる。ただし、いつ帰れるかわからん。それでしばらくお前に、おらの家を預かってほしい。ほやけどもし帰らなんでも、このことぁ表沙汰にせんとおいてくれや。そん時ぁ、おらの家の物ごっそり、お前にあげるからの。絶対に言わんといてくれやな。」
と、くれぐれも頼みました。

 そして、おさんは迎えの者を待っていると、翌日、先ごろのお武家が数人の下人を連れて迎えにやってきました。おさんは、およつに留守を再度頼むと、白木綿の一重物を何枚も重ね着て、家を出て行きました。
 さて、留守を預かったおよつは、おさんの家に移り住みましたが、一年過ぎ、二年経っても、おさんからは何の音沙汰もありませんでした。せめて今度の正月にもと待っていると、三年経ってしまいました。そこでおよつは、おさんが気になって仕方ありません。もしかしたら旅先で病気にでもなったのではないかと考えたりすると、じっとして居れませんでした。

 およつは、ある日旅支度を整えて、金沢へ立ちました。何日も金沢のあちこちを尋ねまわったが、どうしても行方がわかりませんでした。それから京都へも出かけてみました。しかし本願寺へも、清水寺へも、五条の賑わいの中にも、おさんの姿は見つけることが出来ませんでした。それで仕方なく、故郷に戻ることにしました。帰る道、もう一度金沢の中を探してみようと、犀川のふちから新竪町にやってくると、向うから、奥ゆかしげなおかみさんが、沢山の下男、下女に伴われて、通るのに出くわしました。

 そのおかみさんは、美しい着物を着て、しゃなりしゃなりと歩いています。簪がキラキラと揺れていました。およつは、‘おやっ、綺麗なおかみさんもあればあるものだ’と、感心して見ていましたが、すれ違いざま、その女の顔をよく見ると、なんと、それはおさんでした。
 「あれっ、おさんではないか。」と思わず大きな声をあげてしまいました。相手は、
 「まあ、およつ」と、にっこり微笑みました。およつは、尋ね人に久しぶりに会った嬉しさに、
 「今、何しとらっしゃるか。」とまた大声で聞きました。すると、おさんらしき女は、
 「これっ、その者、もう少し静かにものを申さんか。」とたしなめるように言うと、下男たちに
 「わたしは、この者と話があるから、お前達先に帰りなさい。」
と言って下男たちを帰してから、おさんは近くの人目につかない借家の奥の間へ、およつをあわてて誘い込みました。

 それは、間違いなくおさんでありました。しかし相対して座ってみると匂うばかりの艶やかさであります。白粉をつけて紅つけて、あの薯堀りのおさんとは、どうしても思えない変わり様でありした。おさんは、昔どおりの親しさを込めて、
 「およつ、元気やったか。会えて嬉しや。あんなとこでばったり出会って吃驚してしもうた。」
と聞いてきました。およつは、
 「それは、私のせりふや。おさん、こんなに大そう立派になって・・・・私こそ吃驚してしもうたわ。」 と言うと
二人は、手を取り合って喜びました。

 およつは、村のものはおさんの事をまだ何も知らぬことや、村には別に何も変わったことがないことを話しました。ただおさんの事が案じられて、誰にもいわず一ヶ月前から訪ね歩いていた事を語りました。おさんは、それを聞き、目に涙を浮かべて喜びました。
 「実は、何とも不思議な縁での、お鶴がある大名の奥方に取り立てられたのや。私はそのご縁から、ある町家のおかみさんにさしてもらったと言う訳。」
 「はぁん。あのお鶴ちゅう娘ぁ、あんたの妹さんやったか。おらまた、どこの馬の骨かと思うとったがに・・・・・。」
 「それにも実は深い訳があってなー・・・。」
おさんは、薯から生まれたお鶴の事を、およつに、包み隠さず詳しく話しました。

 「そんな訳で、薯から生まれたお鶴のお陰で、幸運をつかんだんじゃ。今日聞いた話だけは、どうか村のものをはじめ、誰にも言わんでおいてほしい。絶対に隠しておいてほしい。この事が知れたら、お鶴もわしも今のようにはおれん。約束してくれるかい。」
 およつは
「うん」と答えた。

 おさんは沢山の土産物を持たせて、もう一度口止めの念を押すと、こう言いました。
 「ほんとに、私たちのことをお頼みしますよ。白生の家はお前にあげる。それから、月々、お金や米を届けさせるから、あとの事はくれぐれもお頼みしますよ。」と。外に出ると、いつの間にか、もう夕暮れであった。およつは、おさんに別れを告げると、背中の土産物の堤を赤く染めて帰っていきました。

 白生へ帰ったおよつは、さっそく白生のおさんの家に引っ越しました。そして、おさんの頼みを守り続けました。そのために家はみるみるうちに栄えたということです。
不思議な男 出典:「石川県羽咋郡誌
 今から、五、六百年ばかり前の話です。今浜(押水町今浜)へ山伏に似て修験者でもなく、僧かと見れば坊さんでもない、かといって儒者でもない妙な男が、どこからともなくやって来て住みつくようになりました。
 この不思議な男がある日、酒肆見推(さけちかけんすい)という地主を訪ねて言うには、
 「この家の土の中にタタリ物が埋まっておるが、何か心当たりでもござらぬか。」
との事なので、主人も、
 「近頃、色々と家の中がおもしろくない事が多くて、ほとほと弱っておる。」
と心の中のことを打ち明けました。
 すると不思議な男がさらに続けて、
 「お前さんは、置くべきでない所に、何かを匿(かく)もうてござるぞ。早う、くまなく探したがよかろう。」
と言いますから、主人はすぐにも下人などに言いつけて、探させました。けれど、見当たりません。
 それから、何ヶ月か経って、酒肆見推は、家の中に穴蔵を掘らせることがありました。
 土を一丈ばかり掘り起こした時、下人が大きさ7、8寸ばかりの、つぼ形の石を見つけて、主人のとこへ運んできました。
 どうも加工した石にしては、細工がなさ過ぎるけど、自然の物とも思えず、土をふきとると、すばらしく青光りしております。
 それで、さっそく不思議な男に見せますと、
 「これこそ、私が申した石です。陰隙(いんしつ)の神と言って、水気を守り、どこか水源に浸しておかれたら、お前さんの家運は末代まで栄えるじゃろ。」
とのことです。
 そこで主人は、早速、切石を取って着て、水船を造り、中へ庭の泉水を湧かせる一方、その神石をその水の中に浸して安置させました。
 すると家運がだんだん良くなってまいりますので、主人はある日不思議な男を訪ねました。
 ところが、男はどこかへ姿を消しておりません。とうとう、今浜へは帰ってこなくなりました。
 まことに不思議な男もあるものです。
 上記と同様の話は、加越能三州奇談」三州奇談後編巻五(18世紀の加賀の俳人・掘麦水著/石川県図書館協会)の「今浜の陰石」という所にも書かれています。以下その文章を拙い現代語訳ではありますが、記しておきます。

 (作者の掘麦水が)ある日、妙法輪寺の大旦那で、今浜の酒肆見推(さけちかけんすい)という人の宿に泊まった。ここにおいて陰隲(いんしつ)の奇談を聞きました。主は、つぎのような夜話をしてくれたのです。

 20年ほどばかり前の事です。その頃は我家には色々と良くない事が多く起きて、憂鬱な気分になっていた頃なのですが、どこか怪しき感じがする隠士がやって来て、この近くのあたりに住みつきました。その隠士は、山伏に似てはいますが、かといって修験者ではなく、また仏僧でも儒家でもないのです。道士というのが一番適当な風の者でありました。時々我家にもやって来て、異国の物語などして聞かせてくれたりもしましたが、ある時、私にこう問うのでした。
 
 「この家には土中に祟る物が埋まっている。何か思い当たることはないか」と。
それで、私も
 「この頃、少し心配事が多く、どうしてな・・・・・・・・・・・・・・・・・(工事中)
悪たれ分限者 出典:「石川県羽咋郡誌
 昔々、沢川(押水町沢川)近在きっての分限者(金持ち・財産家)がおりました。この家には、先祖代々、妙な血筋がありまして、親が悪人ならばその子は善人で、孫の代になると、また悪事を働く者が出てくるという具合でした。
 時は、不運にも、親が悪人の頃です。その当時の主が財力にものを言わせて村の長になりました。加賀藩の役人が視察などに来ても、へっちゃらで、ベラベラと嘘をつき、おまけにお土産まで山と持たせるのですから、受けがいいことは勿論です。しかし、そのお土産はというと、村のものから吸い上げた物ばかりなので、村人からはひどく恨まれました。
 ある年のこと、大地震があって、村のお寺が崩壊して木っ端微塵となってしまいました。それで分限者は、村人を自分の屋敷に集めて相談し、お寺を建直す事を申し合わせました。話は即決し、翌日からはもう材料となる木材の伐り出しにかかっていました。村人は、村の大事な寺を建直すということで、毎日風雨も厭わず、山へ通いました。そして三ヶ月もすると、分限者の屋敷前に木材の山が出来上がりました。
 これを見た分限者は、
 「もうこれでよっしゃ、あとは暫(しばら)く、木を干すことにしょまいか。干せ上がり次第、おまいちに知らせっさかい、しばらく待っとくれ」
と言いました。
 「ほんなら、そんときにゃ、すぐ知らしてくさい。おらちゃ、何時でもくっさかい。」
 村人達は、そう言って、我家へ帰りました。
 ところがそれから、何ヶ月経っても、分限者からは何の音沙汰もありません。やがて一年にもなろうとします。そこで、村人達は、使いを出して分限者に問いただしましたら、分限者はこう答えたそうです。
 「せっかく、寺を建直すぎゃから、もう二年待たっしゃい。何でも、三年間乾いた木なら、建物に隙間ができんちゅうからの。」
使いの者から返事を聞いた村人たちは、何かすっきりしない感じもしましたが、一応は納得してその指示に従うことにしました。
 それから2年経って、もうそろそろだがということになり、村人達はまた、分限者に使いを出しました。ところが分限者の屋敷には、一本の木もありません。これはおかしいと思って、
 「干してあった木なくなっとるけど、どうしなさったんかいね。」
と聞くと、分限者は
 「それがなー、弱った事になってしもうて。三月ほど前、どこのどいつか知らんが、盗んでってしもうて。」
と言うのでした。ヌケヌケと大嘘をつく分限者に、使いの男も開いた口がふさがらず、すごすごと帰りかけました。そして玄関を出ると、屋敷の横手に今までついぞ見たこともない豪壮な別荘が建っているのを見つけ驚いてしまいました。さてはと思い、この事を村の衆に話すと、村では、あの悪たれ分限者にまたしてもやられたかと、地団駄踏んで悔しがりました。
 けれども、分限者に楯突こうものなら、たちまち借りている田畑を取上げられてしまいます。皆黙って耐えて、ただ心の内で恨むだけでした。
 一方、分限者は、そんな村人の怒りなどおかまいなく、その別荘を自分の愛妾の女に与えてやり、一晩おきに通い楽しく暮らしておりました。
 ところがある時、バチが当ったのか、分限者がぽっこりと亡くなってしまいました。この時、空が俄かに掻き曇り、凄まじい雷鳴がして、物凄い豪雨となり、妾女の家を吹き飛ばしてしまったということです。
 それから二日後のことです。
 葬儀が始まって間もなく、雷が落ちて、分限者の棺桶の所在が分からなくなりました。それと同時に、分限者の一人娘が気が狂って、泣くかと思えばゲラゲラ笑い出し、夏物を着たかとみるや冬物を取り出す始末です。もたもたしたあげく、
 「池が恋しい」
と言って、素足のまま屋敷を飛び出して、樽見淵の方へ突っ走りました。身内の者が心配になり、後を追っかけたところ、娘は振り向きもせず、池の中へ飛び込んで、二度とあがってこなかったということです。
 その後の噂では、この池から時折、蛇が浮かんで泳いでいるということなので、村人はこの池を蛇池と呼ぶようになりました。蛇池へ鎌を投げ込んで雨乞いをすると、必ず効験があると言い伝えられています。 
麦生の懐古・今浜及び押水の命名由来など 
    「加越能三州奇談」三州奇談後編巻五(18世紀の加賀の俳人・掘麦水著/石川県図書館協会)から
    拙い私の現代語訳ですが <(^^;

 注:この話は「忍水池の巾着」の話と内容が重複しています。比較の意味もあり、割愛せずに、また訳して載せました。
 麦生(もんぎょ)というのは里の地名であります。羽咋郡押水の郷、すなわち末森の古城の下の辺りです。その昔は繁栄したところであったのでしょう。この辺りの村々には、今(18世紀)でも一條、二條などの名や、あるいは何町、何丁、何小路といった繁栄していた当時の町を想起させるような名が残っています。竹生野村までの間には、土地は平坦にして、古い石碑や古い樹木が多く見られます。国君菅公(加賀藩祖・前田利家)が、佐々成政に攻められて落城の危機に瀕していた末森城を救援し勝利したあの有名な 末森城の戦い の後、この麦生の村の民家を浜に面した地域に移転させ、今浜と名づけたといいます。
 そのため、この麦生には寺院のみが残りました。妙法輪寺という寺がそれであり、その寺が建つ丘陵は物さびた風情です。この寺は昔は、法輪寺と言って、天台宗山門系統の寺院でしたが、鎌倉時代の頃、日像上人の勧めにしたがって法華に改宗し、寺の号に「妙」の字を加えて今日なお栄えています。この寺の向かい側の松林の中には、かの(延喜式)式内の能州四十三座に挙げられている中相見の神社が鎮座しています。場所柄藁が調達しやすかったようで、今は藁葺きの小さな社が建つだけですが、境内は広く清浄の地となっています。この社の麓には、また八幡宮の社が建っています。こちらは朝夕荘厳に輝き、金光燦爛として、神事祭礼のほか、相撲なども行われて、近郷の人々がよく訪れ賑わいをみせており、新しくできた宮ではありますが、時勢を得ているように思われます。
 思い起こしてみれば、国祖の菅君(前田利家)が、かの末森城の戦勝の際、この地に御陣場を置いたのであり、それゆえこの八幡社は陣貝(戦陣で使ったほら貝)を集めて祀られることになったのだ。このようになるのは当然のことであります。 

 それでは押水の郷の名は、どのような謂れがあるのであろうか。押水は、川の流れが押し入ってきて淵池となっている箇所が、この辺りでは所々で見られ多いのです。淵池の水は田畠に利用しやすいので、「湯」というもうの設けて、水を何箇所にも分けています(「湯」という古い呼び名の施設は、今は用水ともいいます)。それらの淵池の中に忍水(おしみ)池という池がありました。この池で、鱗一つ取っても(神様が?)惜しになされるといって、昔からこの池では漁は行われませんでした。

(忍池の巾着の話)
 先の妙法輪寺の老僧の話によると、この忍水(おしみ)池では、享保の頃に一つの怪異な事件があったということです。その池の、ある水際を4・5尺(1.2〜1.5m)ばかり中のほうへ進むと、水は腰にいたる程の深さとなり、巾着(財布のこと)らしきものが見えました。村人が、寄ってきて、あれは何だと言い合っていました。どう見ても巾着と思われ、それが証拠に根付なども見え、藻の下に葉隠れ状態で見えました。
 あまりにも見事な巾着に見えたので、誰彼となく取りに入れと言ってはみるが、日頃、霊験灼(あらた)かな池であるので、誰も入ってみようとするものはいませんでした。翌日も、池の中を覗いてみると、昨日と同じ場所にふらふらとそのものが揺れてありました。さては岸を歩いていた人が落としたものであろうか。でも巾着が見える場所より、もう少し奥へ入ると、背丈も見えなくほどの深みとなり危ないので、人々は皆、取るのをあきらめて畑仕事に戻っていきました。

 昼下がりの頃、一人の欲深い者が、水練(水泳)も得意なのであろうか、ひそかに池に飛び込んでその巾着を取って岸にあがったが、紐と思われる蓴菜(ジュンサイ)のような物が巾着にくっついていました。この者は、巾着を掬い上げたことが嬉しくて、紐がついているのも気付かず、畠で野良仕事をしている村人のところまでひたすら走っていきました。およそ一町(約109m)ばかりも走ってきたのに、紐は、なお途切れずにくっついてきました。ここで村人が2・3人寄ってきた。皆は、あの巾着を取ってきたのか、と言って、手にとっては回して見ていた。根付と見えたものは、赤く縁を括ってありましたが、藻の実と思われました。さて巾着は皮で出来ているらしいと思われましたが、何の皮かははっきりしません。ずっしりと重いので、皆が注視する中、手の上に据えて開けようと試みたところ、あの蔓の紐のようなものが、しゃくって引くような感覚を受けに、そして巾着が手の中から抜け出て、空中を飛んでいき、もとの池の中へ引き戻されてしまいました。人々はこれに驚いて、どうなったかも見ずに、逃げ帰ってきました。

 巾着は、確かに見た者は2・3人いましたが、その大きさは言う人によって異なっていました。一尺(約30cm)四方くらいの大きさと覚えていた者もいれば、五寸(15cm)ほどと覚えている者もあった。皮で出来た物なのか、生き物であったのか、この事は、はっきりとはわかりません。
 その後は池に再び現れることはなかったと村人は言います。私は、見ていないことなので、実際がどういう物であったのか確かなことは言うことは難しいです。2・3人も見た者が、近年まで生きていたが、今は亡くなっていないということです。

 この巾着のごとき物は、草の実の類であったのだろうか、それとも古い器の類であったのだろうか、おそらく神が人に与えるのを惜しみなされるような物であったのであろう。しかしながら、これを取りあげた人も、さしたる煩いもなく恙無(つつがな)く、暮らしていたことは確かなことであった。
 くっついてきた紐のようなものは、蔓のように見えたというが、一町ばかりも、繋がってきたというのは、いったい何の糸であったのだろうか。触った感覚が、ぬめぬめとしていたや、根付と思われたものが、藻の玉であったことは見た者が確かに覚えていたことであった。巾着は丸くて重かったらしい。池から揚げた時は、小さかったが、次第に大きくなったという。
 「今考えてみると、中は何かの生物であったのではなかろうか。鶏の卵のような物が、6つ7つ入っていたように思われた。」と、取って来た村人が、夢を語るように常々話していたといいます。

 ※以上のように、この「加越能三州談義」では、この忍水(おしみ)池の話の方を押水の由来としており、先に記した「押水町の町名の由来」と説を異にしています。

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