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各寺坊-その6
 上2枚の左下の写真は確か東林院跡(独立した寺坊です)の石垣であったと思う。石動山で最も格式の高い院坊の1つで、前面の石垣は見事。全山を統括する大宮坊の看司職(かんずしき)などを勤めました。主屋西側に残る庭園は、中世庭園の面影を残している。
確か東林院跡山の中で見つけた石碑らしき石
上大宮坊跡(発掘中)   
  (参考) 石動山に関するニュース
上大宮坊跡(発掘前)
以下の写真は、寺坊ではないが
 上の写真2枚は、梅の宮跡を撮影したものです。現在この梅の宮の建物は、七尾市三島町の 金刀比羅神社本殿 となっています。
 石垣礎石群が整然と遺存しています。大宮・白山宮とならぶ五社権現の一つです。鎮定大権現と称して祭神を天目一箇命、本地仏を勝軍地蔵菩薩としています。延宝2年(1674)に再建されたもので、一辺約11m、高さ約1mの正面を石積みした基壇上に、整然と礎石が配されています。
来迎院跡普門院跡
上の写真2枚は惣行院跡
上の写真2枚は随観坊跡を撮影したものです。
真蔵院跡
上の写真2枚は延命院跡を撮影したものです。
 上の写真2枚は、火の宮跡を撮影したものです。
 写真からでも説明板の文字を読める人も多いかと思いますが、念のためここに転記しておきます。
 「火の宮跡 五社権現の一つで、火宮蔵王大権現と称し、祭神を大物主神(または、迦具土神)、本地仏を聖観世音菩薩としている。寛文十二年(1672)に再建されたもので、一辺が約14mに16mの石積みの基壇の上に、桁行三間、梁行五間の三方に縁をもつ入母屋造りの建物が建っていたと推定され、その礎石が整然と配されている。 昭和六十一年三月 鹿島町教育委員会 」 また説明板の中に見える仏像は、現在本殿の中に保存されている蔵王権現立像です。
 この坂を登ったところに山頂の大御前がある。写真の右上の方にみえるのは、方向標識。この標識のところで、道が坂下の方へ続く道と、右の方へ向かう道に分かれていた。上の写真は、確か火の宮から剣の宮の方を見て撮影したものです。
 上の写真2枚は、剣の宮跡を撮影したものです。
 写真からでも、説明板の文字を読める人も多いかと思いますが、念のためここに転記しておきます。
 「剣の宮 五社権現の一つで、剣宮降魔大権現と称し、祭神を市杵島姫命(または素箋鳴尊)、本地仏を倶利伽羅不動明王としている。宝永十四年(1717)に再建されたもので、(前面に石段を積んだ約12m×15mほどの平坦面の中央部に盛られた)、4.7m四方に、高さ1mの土壇を築き、壇上に桁行一間、梁行二間の小堂が建てられていた。 
 昭和六十一年三月 鹿島町教育委員会」
 また説明板の中に見える仏像は、現在本殿の中に保存されている倶利伽羅不動明王像です。
上の写真は、作事場跡を撮影したものです。上の写真は、下馬札跡を撮影したものです。
 上の写真2枚は、仁王門跡を撮影したものです。
 写真からでも説明板の文字を読める人も多いかと思いますが、念のためここに転記しておきます。
 「仁王門跡 一対の阿・吽形の金剛力士像を安置してあった門である。化粧石に囲まれた一辺が11mに7mの基壇上に、桁行三間、梁行二間の入母屋造りの八脚門が建てられていた。正面柱間が2.4m(8尺)間隔で、礎石が据えられている。礎石の表面には、円形または方形に平滑にならした痕跡が明瞭に残っている。明治初年、仁王門は、鹿西町能登部下の長楽寺へ、仁王像は、同町西馬場の本土寺へそれぞれ移された。昭和六十一年三月  鹿島町教育委員会 」
 (参考)私のHPのコンテンツ 「能登の仁王像」  本土寺の項 及び 長楽寺の項

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