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現存する石動山天平寺関係建造物
 建物というわけではないが、上の写真は、石動山の(大宮坊の横にある)伊須流岐比古(いするぎひこ)神社へ入る石段のあたりを撮影したものである。この神社は、延喜式内社であり、能登国二宮である。鳥居と石碑の間にある屋根は、境内のイワシガ池からひいた霊水を汲む場所。今尚多くの人が霊水を汲みにために来るそうで、特に毎年7月7日の開山祭には、万病に効く霊験あらたかな水として参詣者がこの水を持ち帰る習慣もあるそうです。
 上の写真は大御前と呼ばれる石動山の山頂にある伊須流岐比古神社を撮影したもの。この伊須流岐比古神を五社大権現の中心をなす大宮大権現と称して、白山宮より迎い入れた白山姫神(しらやまひめのかみ)を客人大権現と称して、ともに祀った(合祀したのは泰澄と伝承される)。なおそれぞれ祭神は伊奘諾尊(イザナギノミコト)、伊奘冉尊(イザナミノミコト)とし、本地仏は虚空蔵菩薩、十一面観音としていた。もともとは、ここに現在拝殿裏に建っている本殿が鎮座していたが、明治になって移されて、現在大御前に建っているのは仮宮である。
 石動山(標高565m)は能登・越中の両国の山塊にひときわ高く聳立しており、神の天降り、祖霊のしずまる聖地として、ぶなの原生林に覆われた山肌の四季移り変わる色彩は、里人の農事暦として、また灘浦(石動山の東側の富山湾に面した海岸を灘浦海岸と呼ぶ)の漁民には、魚だめの森として、航海の目じるしとして、敬われてきました。
 
 上の写真は、大御前から富山方面を見渡した風景です。この日は、意外と雲が多く、遠景もぼやけていました。空気の澄んだ日などは、この方向に冠雪した立山がくっきりと見えることがあります。 大御前にあった説明板です。
 上の写真2枚は、行者堂を角度を変えて撮影した(右の写真は現地の案内板を撮影したもの)。この堂は、7世紀後半の山岳修験者「役小角(えんのおづぬ)」を祀っていた堂である。小角は、「役行者(えんのぎょうじゃ)」とも呼ばれ、修験道の開祖として崇拝されている(私・畝源三郎も大好きな人物である)。大和国(奈良県)に生まれ、葛城山で藤の皮を着て花の汁を吸いながら、30年にわたって孔雀明王の呪(しゅ)を唱えながら修行した。のち種々の呪術を感得し、虚空飛行など奇跡として伝えられるところも多い。前鬼、後鬼などの弟子も多くもったが、後に朝廷から警戒され、伊豆に配流された。当石動山へは霊亀2年(716)に登山したと古縁起に記す。
 行者堂は講堂とともに伽藍の中では重要な位置にあるが、現建物は、天正の戦火で焼失後、江戸時代初期における石動山復興の一環として、18世紀のごく始め頃に再建されたと考えられる。嘉永6年(1853)能登沿岸警備巡見のおり、時の藩主前田斉泰(なりやす)公も、この堂に参詣している。明治初年の神仏分離令によって石動山関係の数多くの建物や宝物が離散したが、幸いにもこの堂は、明治7年最勝講村(現中能登町)が19円で買取り、最勝講(さいすこう)の天神社拝殿として存続してきた。拝殿の改築(昭和63年)を機に、平成元年地元氏子の理解を得て旧位置に復原し、永久保存の措置がとられました。   
手前は講堂跡。石段を少し登ったところが宝蔵。さらに登ると拝殿があります。宝蔵(宝物庫)。天正年間の石動山合戦で前田利家に焼かれた後、石動山で使用された宝などを保存する。
 左上の写真の中で石段の奥に見えるのは伊須流岐比古神社拝殿です。右上の写真は、拝殿内部を撮影したものです。奥に本殿およびその石段が見えます。本殿及び拝殿は、昭和42年(1967)ともに石川県指定文化財(建造物)とされ、昭和48年(1973)には半解体修理が行われました。
 伊須流岐比古神社本殿です。もともとは大御前にあった大宮(本社)でしたが、明治7年(1874)に拝殿裏のここに移築されました。その際、大宮、白山宮、梅宮、火宮、剣宮の各社殿に祀られた五社権現を合祀され、五体の本地仏が安置されています(白山社(宮)に関しては、移築前から相殿として合祀されていた模様)。承応2年(1653)前田利常の寄進で建立されたもので、大工は加賀藩の名工・黒田太右衛門尉藤原正重です。本殿には、前田利家をはじめ加賀藩歴代藩主が、石動山に宛てて出した古文書が保管されています。 
 現場の案内板には「桁行3間・梁行2間、向拝(ごはい)入母屋造り・正面千鳥破風・覆屋軒唐破風の均衡のとれた建物である。」とも書かれていた。
 因みに(余談になりますが)、黒田太右衛門尉は、同じく加賀藩の名工・山上善右衛門と共に高岡市瑞龍寺の鐘楼、山門(正保2(1645)の作)を建てたことが知られています。
 拝殿を正面から撮影しました。この拝殿は、昔は神輿堂で元禄14年.(1701)(あの浅野長矩が吉良上野介を斬りつけた年)に建立されたものです。五社権現の5つの神輿が収められていました。
 記録では大工・池上兵助実次、池上亦三郎、小工・与四兵衛、与三兵衛によって造られたとあります。明治の瓦解以降は神輿堂をそのまま拝殿として利用されることとなりました。毎年7月7日の開山祭の日には、ここで泰澄御霊祭が行われ、沢山の人々がお参りにきます。
 桁行7間、梁行4間、入母屋造りの平入り建物で飾りの少ない大きな建物であります。
 この建物の正面と両側に、大は1.6×1.5m、小は1m×1mまでの花崗岩の礎石が並んでいます。正面に8個、中央部に8m、その他3mの間隔全長22m、側面には6個、2.8m間隔14m。その他の礎石は、御神輿堂建立(現・拝殿)の際に用いられています。『能登の文化財 第8輯』の中で濱岡賢太郎氏(実は私が高校生の時の校長先生)は、現在の建物より一廻り大きな七間五面の大堂があったものであり、古絵図にも無い、それ以前の一山の中心たる金堂または本堂であったと考えられる、と述べています。
他、廃仏毀釈などで山外に移築された石動山の遺物のうち、下記のものは、私のHPの別頁に記事があるので、下記の黄色い文字クリックして、見に行ってね!
  ● 仁王門 (現・中能登町・長楽寺)
  ● 仁王像 (現・中能登町・本土寺)
  ● 梅の宮 (七尾市三島町・金刀比羅宮)
  ● 開山堂 も、道神社拝殿(氷見市中田町)

(参考資料)
 ●「国指定史跡 石動山」(石川県鹿島町)
 ●現地の案内板の説明記述
 ●「能登の文化財 第8輯」(能登文化財保護連絡協議会:北国出版社)
 ●「能登石動山」(櫻井甚一・清水宣英・濱岡賢太郎・田川捷一:北国新聞社)

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