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奥能登の名刹

(2005年7月6日製作)

好きな項目へジャンプ! 松波松岡寺 能登阿岸・新巻山本誓寺

今後も取材を重ね、随時追加していくついもりです
ただし総持寺(門前町)に関しては、 「総持寺祖院の風景」 、また岩倉寺(輪島市)については 「岩倉山の歴史及び岩倉山探訪記」 という別の頁をそれぞれ設けてありますので、そちらを見て下さい。
松岡寺 石川県珠洲市松波
 松岡寺の由来・歴史
 松岡寺が配っているパンフレットでは「波佐谷松波松岡寺由来記」では、「松波松岡寺は能美郡(元小松市)波佐谷松岡寺の後身であります。
この波佐谷松岡寺は後花園院御宇宝徳3年(1451)に、本願寺第8代蓮如上人によって加州能美郡波佐谷に建立され、三男の蓮綱法師が受け継いだ※一家衆寺院でありました。この蓮綱を初代とする。」と書かれています。(※一家衆寺院とは、蓮如が自分の子を配置した寺院)

 実際には、この蓮如の三男北隣坊こと蓮綱法師が、二俣本泉寺に住する兄・蓮乗の招きにより加賀にくだり、最初能美郡山田の池の城(小松市池城町)」に寺坊を開いたことが始まりといいます。それが東隣の古屋(小松市松岡町)に移り、松の木が多いのと地名に難があるということで、新たに松岡と名づけたと言われています。それを宝徳3年(1451)に蓮如がそれとは別に開いた波佐谷坊と合し、永正14年(1517)蓮綱が上人号を勅許された時、父である蓮如が松岡寺と寺号を定めたと言われており、それが「松岡寺由来記」に書かれた蓮如の建立という由来の意味あいだと思われます。このこの松岡寺が波佐谷(小松市波佐谷町)に移転したのが文明10(1478)年頃と考えられております。

 以後、若松本泉寺、山田光教寺と並ぶ加賀三ヶ寺(三ヶ寺とも一家衆寺院)の1つとして栄え、住持の蓮綱は文明年間の後半期、本泉寺蓮悟とともに加賀一向一揆を統括していました。摂津氏領倉月庄(金沢市鞍月あたりにあった庄園)の代官に合力して富樫正親の押領を制止したり(美吉文書)、近衛家領安江保(金沢市安江町一帯にあった庄園)の代官に補せられたり(『後法興院記』)しています。

  「光徳寺と冨樫家と一向一揆」 の頁では、同じ真宗寺院である(現在七尾市にある)光徳寺の、一向一揆での役割を大きく取り上ましたが、能登に現在ある寺院の中では、松岡寺は、光徳寺に勝るとも劣らない大きな役割を演じています(ちなみに光徳寺は一家衆寺院ではなく、本願寺外様代坊主として津幡鳥越の弘願寺、吉藤の専光寺、磯部の聖安寺とともに「四ヶ寺」と称していました)。

 享禄4(1531)年、第3代実慶法師の時、加賀におこった越前の大坊との勢力争い(※享禄の錯乱)では、白山麓の山内に籠る越前系の藤島超勝寺・和田本覚寺と彼らに協力した三河国門徒軍に奇襲され、寺は焼け落ちました。また松岡寺一族はほとんど山内庄に連行・監禁されてしいましたう。このとき蓮綱は82歳であり、同年9月18日に監禁されたまま没してしまいます。また蓮綱の子の蓮慶と孫の実慶・慶助らは自害しました。たまたま山科本願寺にいて唯一生き残った蓮綱の孫・教宗(蓮綱の息子である蓮慶の次男)も、諸国を流浪したと言われ、波佐谷松岡寺は中絶してしまいます。
※享禄の錯乱については、太平記を想起させるような複雑な真宗内部の内乱の様相を呈しているので、(調べると大変面白いのですが)ここではこれ以上詳しくは述べません。

 蓮慶の長男(教宗の兄)・実慶の息子である顕慶(能登入国時10歳、後の4代。寺伝でなく『諸家分脈系図』では慶裕とある)が、のちに能登国珠洲郡松波(現・能登町(旧珠洲郡内浦町)松波)は天台宗の空寺・高福寺に入り、顕慶の長子・5代空観(慶玄)のあと、顕慶の次男慶栄が、加賀藩主前田利家から寺地を受けて堂宇を建て、元和(1615)には本山の本願寺に請うて、元の松岡寺の寺号を得ることが許され、近世になって松岡寺は再興されました。よってこの6代慶栄法師をもって松波松岡寺の開祖としています。
 『能登名跡誌』に、「松岡寺というて西方一向の院家あり。蓮如の三男蓮綱の開基にて、昔は加州波佐谷といふにありし由。今も地方七石五斗寺領あり。此寺の太鼓の筒は豆がらの木にて、一撥ニ声にひびく由。」と記しています。

 その後、本願寺の東西分裂に際しては西派(本願寺派)に属し、藩政時代を通して奥能登西派の触頭寺院としての地位を保つようになりました。触下には、光琳寺(鳳至郡波志借村地子地)、高源寺(珠洲郡白丸村地子地)、浄専寺(珠洲郡松波村拝領地)、真浄寺(珠洲郡鵜島村地子地)、大行寺(珠洲郡馬緤村地子地)の5寺がありました。

 松波松岡寺は、はじめは松波地内の旧高福寺跡、現在の御坊と呼ばれる地にありましたが、低湿の土地であった為、出水の害をしばしば受けて御堂の損朽が著しいとの理由で、文化11年(1814)8月、14代法勲法師の時、小丘の上の現在地に仮本堂を建てて移転を行いました。その後文政7年4月(1824)奥能登屈指の14間四面の大本堂が、着工以来7年にして落成、つづいて経堂も建てられました。

 嘉永2年(1849)16代澤融法師が京都公家の大納言葉室家の次女雅子との婚儀に際して庫裏を新築した。しかし明治13年11月22日(1880年)失火によってその規模を誇った松岡寺本堂は消失しました。現在の本堂は、越中(富山県)井波の工匠・松井角平を棟梁とし12年の歳月を経て明治25年4月(1892)に再建されたものであります。また鐘桜堂は、旧本堂時のものであります。明治13年5月6日、21代明如宗主より住職、門徒一同に対してご消息が下付されています。

 寺宝
○木像彩色聖徳太子孝養像 一体(高さ1m54cm)
 (もともとは奈良興福寺勧修坊にあったと伝えられ、鎌倉時代の作とされています)
など

 (参考)
○松岡寺パンフレット「波佐谷松波松岡寺由来記」
○「加能郷土辞彙」(日置謙編:北國新聞社)
○「石川県大百科事典」(北國新聞社) 
本堂及び庫裏を撮影したもの。木像聖徳太子立像(一躯)を重要文化財に指定する旨が書かれた石碑。平成5年6月10日文部大臣森山真弓となっています。

能登阿岸 新巻山・本誓寺 石川県鳳至郡門前町阿岸
↑本誓寺の山門前から見た写真
↑本誓寺の茅葺屋根の本堂を正面から撮った写真↑本誓寺の茅葺屋根の本堂を横の庭園の方から撮った写真
↑本堂の軒下を撮った写真↑庫裏の方を向いて撮った写真
↑門の横にあった楼↑鐘楼
↑鐘楼横のアギシコギクサクラ↑何のお堂だろうか、特に調べなかった
 奥能登最古の真宗寺院と言われ、旧藩制下で真宗東派の触頭として106ヶ寺の触下寺院を支配した古刹です。少なくとも蓮如の頃から能登の有力寺院であったことが色々な史料からわかっています。
 真宗寺院ではありますが、創建時(文永5年(1268))は真言宗の寺院だったといいます。鎌倉時代に(真宗寺院としての)開基の善了が親鸞に帰依して浄土真宗に改宗し、本誓寺となったからです。またはじめ新町分村にありましたが、天正4年(1586)現地に移ったといいます。
 「能登名跡誌」には、「本誓寺とて東方一向宗鳳至一郡の触頭録所あり。此寺昔は石動山門派の密院なりしとて、泰澄大師などの什宝数多あり。」と記されています。触頭として支配した寺は106ヶ寺です。
 現存する本堂は、新潟から腕利きの棟梁大工を招いて、安永9年(1780)〜寛政4年(1792の足掛け13年を要して再建した非常に立派なものです。入り母屋造りの総茅葺き屋根の本堂は、、屋根面積が約1100㎡もある全国の茅葺き屋根の寺院の中でも3指に入る豪壮さです。屋根の高さは、22.5mとのこと。1992年に本堂は県の文化財になっています。戦国期から江戸時代を通じての膨大な古文書を所蔵することでも知られ、『能登阿岸本誓寺』文書も刊行されています。宗教史、寺院史、藩政史、庶民生活史など様々な観点から研究のために訪れる学者が多いことでも知られているそうです。鐘楼横のアギシコギクサクラは、県の天然記念物(指定年月日:昭和43年8月6日)です。山桜系の一品種で一花に80枚〜140枚の花弁をつける。始め桜赤色を呈するが開くに従い、外輪の花冠から淡色となりほとんど白色となる。

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