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宇出津の歴史
<概略史・ブリ漁の基地など>

(1999年12月27日作成)

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<古代から現代までの宇出津の概略史>
(製作予定)

ブリ漁の基地・宇出津
 宇出津新町は元和3年(1617)、宇出津村中島に建てられた町であり、明暦2年(1656)以来、宇出津村と併せて宇出津町(現、鳳至郡能都町)となった。奥能登の湊では、輪島につぎ、経済の要地であった。文化3年(1806)の新町を含めた雑税のうち、もっとも大きいのは水産業で、クジラ、鰤(ブリ)、鱈(タラ)、イカ、鮪(マグロ)、コノシロ、フカ、河豚(フグ)、イワシ、タイ、鰹(カツオ)、シビラが獲れ、他にイルカ筋の採取もなされた。なかでもブリ網は、宇出津の経済を支える重要な産業であった。

 能登において鰤網漁が行われるようになったのは、最近まで17世紀の終わり頃と考えられていましたが、1980年代の中頃、15世紀の終わり頃すでに鰤網漁が行われていたらしい記録が見つかりました。それは、穴水町にある諸橋稲荷神社に伝わった戦国時代の初め延徳3年(1491)に書かれた神役注文という文書が残っていた事からわかったのでした。

 その充所は「御奉行所」とあるので、当時能登国鹿島郡八田郷府中(現、七尾市府中町付近)にあったと思われる 守護畠山氏の守護所(奉行所) へ提出されたものらしいのですが、内容は諸橋六郷を構成する各郷から惣鎮守の稲荷宮に、従来からどのような年貢・賦役の負担がなされていたかを書いたもので、それによりまた今まで通り神役の徴収をさせてほしいとの懇願の文書でした。

 その中でも特に、毎年旧暦10月の朔日(ついたち)と11月の朔日の月並みの神事が書かれた箇所で、10月の方には諸橋本郷(現、穴水町前波・沖波付近)沖の鰤網漁から、また11月の方には、諸橋六郷の内、波並(はなみ)郷(現、能登町波並)の鰤網から、それぞれ一定の課役と鰤が納められいたことが、記録されています。

 また、能登守護畠山氏が、京都の室町幕府(初見は、文明13年(1481)の『親元日記』)に鰤をはじめとし能登の特産品を献上したことが記録されていますが、これらの鰤は従来は、富山湾で獲れた鰤と考えられてきましたが、宇出津近辺の鰤網漁によって獲られた可能性があると考えられるようになってきました。その後も、室町幕府や、和学の第一人者・三条西実隆、本願寺法主・証如などへ何度も贈答品として献上された事が記録に残っています。


 享保13年(1728)には、3,371疋を水揚げした他、能登の浦々や越中方面からも、20,595本を集荷した事が記録に残っており、江戸時代、能登の漁業基地となっていた事がわかります。宇出津町に集荷された鰤やその他の鮮魚は、七尾町の魚問屋を通し、あるいは直接に金沢城下町を中心に領内外に送られた。また、宇出津町は、能登産の材木・木炭・枚木の集散地でもあった。この他、幕末には、年間150艘余の他国船が出入りしたという。

 ちなみに、天保5年(1834)に、藩の武器庫が置かれ、嘉永3年(1850)には、砲台の築造が計画され、同6年(1853)には、13代藩主斉泰(なりやす)が海岸防備状況の視察のために訪れ、慶応3年(1867)には、幕府外国奉行が訪れました。

<能都町及び宇出津関係その他・リンク>
(能都町及び宇出津関係その他の頁)
真脇遺跡とイルカ漁

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