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義経ゆかりの地を訪ねて
in Noto

好きな項目へジャンプ! 平時忠一族の墓 須須神社 山伏山 義経舟隠し岩
今後も取材を続け、項目を増やす予定です。
なお 「北陸における義経伝説」 を見たい人は ココ をクリック

  平時忠一族の墓  珠洲市大谷町字則貞
 国道249号線を珠洲市飯田町の方から行くと、大谷峠を越えて少しいった所、北の海側からだと、海沿いの道から南の山地へ入って数分行った所に、平時忠一族の墓という看板が見え、駐車スペースが設けられています。そこから道よこの西側斜面を案内板に従って数分降りると、この墓地に着きます。
 左上の写真に五基の墓が写ってます。また右上の写真に6基の墓が写っています。同じ墓を角度を変えて写したのではなく、全部で11基の墓が並んでいました。下の写真の石碑には11基の主の名が記されています。最も高い石塔が時忠の墓ということなので、左上の右から2番目(全体の並びでは、向かって右から2番目)の墓ではないかと思います。
 2代目以降、平大納言のかわりに頭に則貞という姓が見えますが、この地は現在、珠洲市大谷町字則貞となっており、地名自体が則貞になっています。この石碑によると2代目以降則貞ですが、同様に時忠の子孫といわれる 時国家 の由来と矛盾してしまいます。実は、この石塔は、専門家の発掘結果からは室町時代以降のものと推定されております。ただし住居跡は、鎌倉時代初頭のものと推定されています。
 この大谷あたりには、時忠一族の子孫と称する家が多く、大谷の地に時忠が配流されたことは事実なので、たとえこの墓も時国一族でなくとも、平家あるいは時国と関係の深い者達の墓である可能性が高いと考えられています。
(以下 「時国家〜平大納言の流れをひく能登の名家〜 のコンテンツの説明を大いに利用しましたので、かなり重複部分がありますが、あしからず)

 平成17年7月現在、NHK大河ドラマ「義経」が放映されているので、義経ブームが起きているようです。このドラマにも出てくる平時忠は、平安時代後期の大治2年(1127)に平時信の子として京都に生まれました。知略家として知られており、姉の時子は、平清盛の妻となりました。また、妹の滋子は後白河天皇の后(女御)となり、建春門院と称し憲仁(のりひと)親王(後の高倉天皇)を生むことになります。高倉天皇は、時子と平清盛の間にできた徳子を中宮とし、安徳天皇を産みましだ。徳子は、それにより国母となり建礼門院と称しました。こういう訳で平時忠は、平清盛の小舅として「平家にあらずんば人にあらず」と豪語するほど、権並ぶ者なき勢威を示すようになりました。そして官位も、中宮大夫、検非違使別当、左大弁などを歴任し、権大納言正二位まで昇進しました。また後に義経の娘婿ともなりました。

 平時忠は、平清盛亡き後、平清盛の妻の弟だったことから、平家一族の纏め役として実質上の頭領でありました。しかし、壇ノ浦の戦いで平家一族が敗れ海の藻屑と消え去った際、時忠は生きて捕らえられました。時忠は、三種神器の神鏡を義経に奉じ、また、娘(蕨姫)を義経に献じて身の安全を図りました。それで、助命されることになりました。ただ時忠の娘婿となった情報が鎌倉に届くと、源頼朝は今後一切義経の命令に従うなという密命を畿内及び西国の御家人達に書き送っています。

 平時忠が流罪になったのは文治元年(1185)9月23日で、配流地は奥能登の現在の珠洲市大谷の地でありました。時忠は、小舟に乗って、須々(珠洲)の浦の船着き場(現在の江の澗)へ到着しました。その約40日後に、頼朝は、義経追討の院宣を得るのであり、翌年の6月に五畿七道へ義経の追討令を出すことになります。平時忠は、波乱に富んだ生涯をこの配所大谷の地で閉じました。没年は、『吾妻鏡』で文治5年2月(1189)4月24日となっています。その際、頼朝もその死を惜しんだといわれています。また別の説もあります。時貞の末裔としてこの墓所を護持してきた則貞家の伝承では、源氏方の監視を逃れ、この地に居を求めて子をなし、元久元年(1204)4月24日に亡くなったというものです。どちらの言い伝えが正しいかは、今となってはわかりません。
  義経の能登における伝説 では、文治3年頃、妻(蕨姫)の縁を頼って、この大谷の地に妻を含む一行と訪れたことになっていますが、義経と時忠が会い、また蕨姫と時忠も最後の親子の対面をしたのかもしれない。真偽の程は、私はまだまだ不勉強なのでわかりません。
上2枚は、平大納言時忠館跡を写したものです。左上の写真の奥の案内板には、薬師堂跡と書かれています
現在建っている屋敷の裏手にあった小さな土盛。その前の案内板に鞍干し館跡と書いてありました平時忠館跡の敷地の一画に「経塚跡」と書かれた案内板もありました。
  須須神社  珠洲市三崎町寺家
 神社の案内板には、以下のように記されていました。

《縁起》
御祭神 
 高座宮
  天津日高彦穂瓊瓊杵尊(あまつひだかひこほににぎのみこと)
  美穂須須美命(みほすずみのみこと)
 金分宮
  木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

 当社は高座宮・金分宮の両社にご夫婦の大神様を祀り、須須神社と称し「三崎権現」・「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな神社であります。第十代崇神天皇(約2000年前)の御代最東北端の山伏山(鈴ヶ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間に現在の地に遷座した国史現在社・延喜式内社であります。
 古代よろ縁結びの神として、世に知られており、この「むすび」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく生成化育、修理固成という日本民族の根本精神である神業を、みずから妹背(ふうふ)の契を結び子孫繁栄の道を示し教えられた尊い祖神(おやがみ)様であります。
《宝物》
○木造男神像五躯(国重要文化財)
 鎌倉時代のもので、素朴でいずれも表情を異にし写実美をおびた衣冠束帯の坐像です。
○社叢(国の特別天然記念物)
蝉折れの笛と守刀(義経の笛と弁慶の守刀)
 文治3年(1187年)源義経が兄頼朝に追われ奥州平泉へ下向の際、須須神社沖合いで時化(しけ)に会い無事難を逃れた御礼として、平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛と弁慶が寄進した「左」銘入りの守刀です。
義経・弁慶の献詠
 「都より波の夜昼うかれきて道遠くして憂目みる哉」
  義経返歌「憂目をば藻塩と共にかき流し悦びとなる鈴の御岬は」
○前田利家公献詠
 「ほうくわん(判官)殿この笛をこのすずのやしろにささげ給へるとなん
  ありしよのそのあらましをきくからに袖さへぬれてねにそなかるる」
○法華経八巻
文明12年(1480年)蓮如上人の奥方真如院(幼名蓮能)が16歳の時、父の七回忌を祈念し納経されたものです。
 他、翁面(古珠洲焼)、隠切支丹崇拝像、古文書(県指定有形文化財)70余通があります。

その他にも、この須須神社には、義経伝説にちなんだ「義経駒の爪石」という石があり、源義経の愛馬が爪跡を残した言い伝えられています。また須須神社ではないのですが、この近く塩津というところにも、義経伝説のある「塩津の舟隠し」といわれるところがあるそうです。
この鳥居は、海岸沿いの国道249号線に面した一番外側の鳥居です。寺家のバス停がすぐ近くにあります。左の最初の鳥居を過ぎて、2〜30mほど入ったところにある2番目の鳥居です。写真に青いビニールシートが写っていますが、現在境内の一部を工事している模様でした。
 2番目の鳥居を抜けてまた2〜30mほど奥にいったところにある鳥居です。ただし、参道は途中右に折れていますので、向きは他の2つの鳥居と異なります。 三番目の鳥居からは拝殿まで4〜50mほどの石畳の参道。
 参道最後の階段を登ると、綺麗な拝殿が見えてきた。柱や壁の色から推測すると比較的最近建て直したものではなかろうか。 拝殿の裏手には、本殿があった。境内は、気多大社ほど大きくないにしろ、鎮守の森に囲まれて厳かな雰囲気であった。この森は国の天然記念物にも指定されているらしい。私は、華やかな神社よりこういう神社の方が好きなので大変気に入った。
上の写真は、拝殿のあたりから参道を撮影したものです。また右の写真は、ここにはない山伏山の奥宮との位置関係を示した地図です。奥宮へも本当は行ってみたいのだが、時間の関係もあり、大変なので、今回は残念ながら諦めました。
  山伏山  珠洲市
 左の写真は、珠洲市の北端狼煙(のろし)の漁港の堤防から山伏山方向を撮影したものです。山伏山は、珠洲市狼煙町にある山の名で、標高172mです。
 須須神社から狼煙漁港の方へ北上する途中、道を左に折れてあるいていくといけるようですが、適当な駐車場もなく、参拝はあきらめ、遠くからの写真だけ撮ることにしました。<(^^;;

 伝説では、昔、源義経の家来・常陸坊海尊(ひたちぼう かいそん=弁慶のモデルとなった人物)は、九穴(きゅうけつ)の貝を食したため不老不死となり、いつまでも義経の思い出を語り歩いたといわれています。その海尊が珠洲岬で一行と別れて残り、時々、修行姿の山伏姿で現れたという伝説が山名の由来となっている。須須神社の旧社地とされ、山頂には奥宮があります。
 
  義経舟隠し岩  羽咋郡富来町関野鼻付近
 福浦港から北方の関ノ鼻まで約29kmの海岸が能登金剛と呼ばれています。福浦港より北、能登金剛のヤセの断崖の少し南に、「義経の船隠し」と呼ばれる場所があります。断崖がまるで、真っ二つに裂けたように、両方から迫った入江の地です。ここに48艘を隠し、義経一行が潜んでいたといわれています。義経主従が、頼朝の追捕を逃れ、能登を通って奥州平泉に逃避行する途中、海難を避けるため、能登のこの関ノ鼻付近の海岸の絶壁の岩の間に、船ごと入れ、難を避けたと言われています。
(私のHPのコンテンツ内における関連頁)
 ○ 「時国家〜平大納言の流れをひく能登の名家〜」
 ○ 「義経の能登における伝説」
 

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