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明治期〜戦前までの七尾(前編)

(2001年3月3日一部加筆修正)

興味のある項目へジャンプ! 1.石川県の行政区域の変遷 2.行政単位の変遷
3.学校制度の始まり 4.交通の発達
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5.交通の発達
<七尾線(別ページ)>へのリンク

<石川県行政区域の変遷>

明治の初め頃は、行政区域や機構がめまぐるしく変わった。明治4年の廃藩置県後、七尾市の区域は、藩領だった部分は、加賀藩から金沢県になり、御預所(旧天領)の村や最後まで土方分家領として存続した各村は、飛騨県(のちに高山県)に編入され、飛地まじりの複雑な形となった。
明治4年(1871)11月、能登4郡(羽咋・鹿島・鳳至・珠洲)と越中の射水郡(現・氷見市、現・高岡市の元射水郡内の町と村、現・新湊市、現・射水郡の2町2村)それに先に飛騨県に編入された旧天領・土方分家領を併せて七尾県とした。急のことで、県庁舎が間に合わず、翌5年2月にようやく所口村(現・小丸山)に県庁が開設された。だが、これも長続きせず、この年9月七尾県は廃止となって、能登4郡は、金沢県から変わった石川県に合併した。県庁は11月から石川県支庁となり、同7年2月10日まで存続した。
七尾は明治初期わずかの期間であるが、県庁所在地として、地方行政の拠点となったのです。

<行政単位の変遷>
明治2年3月加賀藩は町会所を市政局と改めた。
明治2年6月17日、諸藩の
藩籍奉還を許し、藩知事を置く。これにより、加賀藩でも14代藩主前田慶寧(まえだよしやす)は、藩籍を奉還し、加賀藩は金沢藩となり、旧藩主前田慶寧は藩知事となった。

明治4年、9〜10月、金沢藩は町年寄を市長(金沢市長)、十村(とむら)を郷長、さらに里正(りせい)と改称している。それまでの「組」に変わって、約500戸を単位とする「番組」がおかれました。
明治4年(1871)7月14日明治政府、廃藩置県の詔所を下す
同年11月七尾県成立
明治5年、区政がしかれ、七尾県の下で能登国は16区(鹿島郡は4区)に分けられた。七尾町は、能登国第一区となっています。明治6年には、七尾市域は第7大区(鹿島郡)の小3・4・8・9・10・11区に属しています。その後、何度か改正。

明治8年(1875)には、七尾町がそれまで所口とも言われ、まぎらわしいので、七尾町と呼ぶよう定められました
明治9年、鹿島郡は第7大区として、一つの大区になり、8つの小区に分けられた。第7大区の政治を行うところを「第7大区役所」といい、区長副区長がおり、6つの小区には、それぞれ戸長がいたが、役所にあたる施設はなく、戸長の自宅で事務を執っていた。
明治11年に地方三新法が施行され、それまでの大区・小区の制度を改めて、県−郡−町村が地方行政の組織となった。そして区務所を郡役所とし郡長をおいた。郡に含まれる村や町には戸長をおき、町や村の仕事をさせた。その事務を執るところを戸長役場といった。明治17年の資料でみると、現在の七尾市の範囲には8つの戸長がありました。
(郡役所): 明治11年から置かれた鹿島郡役所は、郡内の町や村の指導監督を行った。はじめ、民家や寺を仮庁舎とし、転々と移り変わったが、明治24年庁舎を建築し、2度の大火にあい、40年に再建された(現在の市立図書館の位置にあった)。大正12年、郡の制度は廃しされたが、その後、郡の役所は長く残り、種々の目的に利用されました。
(しかし、江戸時代以来の町村が単独では、教育や衛生など近代的な行政は担いきれず、国や県の後押しで町村合併が薦められた)
明治22年(1889)4月、地方制度の仕上げとして、町村制が実施され、江戸時代から続いた村々が、大きな村にまとめられ、現在の七尾市の範囲では、1つの町と11の村が出来上がりました。 「町村制の施行」については、別ページが設けてあるので、興味のある人はしてください!
明治23年(1890)郡制が公布され、翌24年7月から8月にかけて、初の鹿島郡会議員の選挙が行われた。町・村会議員から19名、大地主から6名の議員が当選しています。初めの頃の郡会議員は、町村議員からと、地価1万円以上の土地を持つ大地主の中から選ばれたのです。明治32年からは、住民の投票によって選ばれることになりましたが、この時でさえ立候補する人も納税額によって制限されていました。


<学校制度のはじまり>
(臻学所の開設と、各学校の開設)
明治4年(1871)、七尾町の区役所に臻学所(しんがくしょ)が開かれた。このことは、これまでの寺子屋の教育から進んで町が公に教育する場をもったということを意味し、学校の先駈けとなった。ただし、設立の経緯や教育内容については史料が無いので不明だ。今の所、明治5年5月1日と年号が入っている「町役員交名等書上申帳」の中に臻学所掛りとして任命された職員や氏名から当時の様子を窺い知ることができる。「教師」「副教師」とは現在の校長、教頭にあたるが、両名の肖像写真が残っており(教師→畠山太郎(小丸山小学校に所蔵)、副教師→安田元吉(七尾市立図書館安田文庫に在る)、参照:「七尾市の歴史と文化」)、当時の人柄がしのばれる。幹事として6人が名を連ねるが、現在の教育委員会の役割を担っていたと考えられる。商人の町の七尾のリーダー達が、町を盛り上げるべく子弟の教育に力を入れ、いち早く町立の学校を設立した気概をこの交名帳が伝えている。
明治5年(1872)9月に七尾県は、加賀と合併石川県となるが、「県区学校規則」によってこの年10月には佐々波村(民家)、同年11月には、八幡村と七尾町に能登国区学校が設立される(七尾町は臻学所が区学校と改められたのである。七尾町区学校については、石川県所口支廰の文書に「当区会所の臻学所において更に区学校創立 来る二十四日午後第一時開校候事」とある)。
これらの学校は、国の制度によって開かれたものでなく、当時の石川県が独自の立場でひらいたものであり、能登地方には18の学校があった。
また、石川県の新聞の草分けとなる「開化新聞」の29号(明治6年1月発行)に開校式次第はじめ、当日の賑わい、献金者の人数や金額、論評が載っている。区会所は生駒町1番地、現七尾郵便局の地にあったと言われている。教師は臻学所同様、畠山太郎(忠太郎から改名)がなっている。
明治5年(1872)、国民が誰でも教育を受ける機会に恵まれるようにと学制を頒布した。この制度によると、人口600人をもとに、小学区をつくり、小学校を一校。小学区を210集めて中学区とし、中学校を一校。中学区を32集めて、大学区をつくり、全国を8つの大学区にするという計画です。その結果、鹿島郡は、第2大学区24中学区ときめられた。
明治6年(1873)七尾小学校2校(男子・女子)、八幡小学校、山崎小学校の4校と、今の西三階に私立の仁恵小学校(同8年9月、三階小学校となる)が開校した。明治7年には、万行、下村に、そして明治10年には、現在
の七尾市域で分校も含めて19校にも増えました。七尾小学校は、明治6年(1873)7月上記の能登国七尾町区学校が再度改められたものである。これ以降、学校制度は国の指導を強く受けていくことになった。明治20年には七尾小学校内に七尾幼稚園もおかれている。
(学校の様子):学校が次々と出来た頃は、まだ学校の建物は少なく、寺や民家を借りて勉強していました。教師は、元武士や、住職、神主、医者などの教養のある人々でした。学校ができても授業料を払うのが大変でしたので、「学校へいくよりも、仕事を手伝え」といいた風潮が根強く、今のように全ての子供が通うというようになるのは、ずっと後になってからの事でした。
(仁恵小学校)
:明治6年7月、三階村に、同村の医師・野村謙三などの努力により、仁恵小学校がつくられた。この学校は、家が貧しい子供には、学用品などを与え、また、学校の経費も有志が出し合って賄った。さらに、学校の規則も緩やかにし、子供が学校に通いやすくした。
(小学校令)が、明治19年(1886)に出され、石川県では翌年4月から実施された。これにより、小学校は、尋常科、簡易科、それと高等科に区分され、尋常科は4年、簡易科は3年、高等科は4年と修業年限が定められ、尋常科または簡易科を卒業することが国民の義務と定められた。簡易科が設けられたことによって、学校へ通う子供も随分増えた。高等科鹿島小学校は、鹿島郡内の唯一の高等科で、七尾町にありましたが、高等科への進学者が増えるとともに廃止されて、各地の小学校に置かれるようになった。
(中等校令):中学校令も、小学校令と同時に発令され、明治の中頃は、小学校4年、高等科2年を卒業した人のうち、進学を希望する人は、入学試験を受けて男子は中学校、女子は女学校へ進学する制度でした。
明治28年(1896)石川県尋常中学校七尾分校ができ、西田幾多郎が教職者としての初の赴任地として、やってくる。しかし、翌年、西田は第4高等学校の講師となり、金沢に移る。また、その後まもなく、校舎は火事を起し、廃校となった
明治30年(1897)七尾町立簡易商業学校(のちに七尾町立商業学校→県立)が誕生している。石川県では、最初の商業学校でした。
明治32年(1899)石川県第三尋常中学校(のちに、七尾中学校)が七尾に置かれた。
明治44年(1911)、鹿島郡立実科高等女学校が創立された。最初は、寺を借りていましたが、後に今の御祓中学校の地に校舎を建築し、移転した。この校舎は、後に石川県立七尾高等女学校になりました。
(私立中等学校)

明治9年(1876)9月、真宗大谷派は生駒町に能登小学校をひらき(現在・佐藤工業駐車場)、お寺の子供を教育し、明治14年5月能登教校(中学校)にしましたが、明治21年に廃校となりました。
明治17年(1884)安田三平私立安田英和学校を開いている。三平は多根出身の医師安田竹荘の三男で、明治9年慶応義塾に入学し、9年間勉強して、明治17年、郷里七尾に帰り学校を開いた。学校では、英語、漢文、数学を教え、その弟子は、3百人になったといいます。この学校は10年間続き、明治27年に三平が亡くなると廃校になった。



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七尾港の歴史(明治〜戦前)
七尾線

(参考図書)
「七尾のれきし」(七尾市教育委員会)、「七尾ものしりガイド・観光100問百答」、
「七尾市史」(七尾市史編纂専門委員会)、「七尾の歴史と文化」(七尾市)
「コンサイス世界年表」(三省堂)、「図説 石川県の歴史」(河出書房新社)

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