このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
江戸時代「葭原村」
<江戸時代の記録>
−「金毘羅参詣名所図會」弘化4年(1847年) 暁 鐘成著(翻刻版 S55,歴史図書社)より −
吉原は葭原(よしはら)村と書かれている。
筆の山
葭原村の向ふに高く聳ゆ。
山家集 筆の山にかきのぼりても見つる哉苔の下なる岩の景色を 西行
筆の海
同所をいふ。今は一圓の田畠となりて其の名のみ残れり。往昔は筆の山の辺りまで海邊にして葭の沼などなりしゆへ、地名を葭原と名づくとぞ。滄桑うつり替るを眼前なり。道のかたはらに標の石あり、苔に埋みて文字詳かならず。
ながらへて身にぞしらるヽ筆の海かくまて■はけにいとまなし
西行の歌にや、後人の詠にや尚考べし。
左上の句は「行く秋や踏みわけてある鹿の道 廬元」
筆の山のふもと、葭原村の左に水面のようなものが描かれていますが、もちろん筆の海ではありません。
弘階池
でしょうか。それとも、「吉原は昔海だったので三井之江という地名が残っている」という言い伝えを再現して海の名残を絵画に描き加えたのでしょうか。善通寺市教育委員会によると、縄文時代に海面がかなり高かった「縄文海進」の時代には詫間湾は現在よりも内陸に深く入り込んでいたことが分かっているが、吉原が
昔海だった
という説は、縄文海進まで遡ってもあり得ないとして、否定的であるようだが・・・
なお、五岳山は次のように読まれている。
香色山(こうしきざん) 筆の山(ふでのやま) 我拝師山(がはいしざん) 中山(ちうざん) 火上山(くはじやうさん)
いつの頃に描かれたものかは分かりませんが、「金比羅善通寺弥谷寺の道案内図」を2つ見つけました。
(板元 栄寿堂)
(同上拡大図) 曼荼羅寺、出釈迦寺、碑殿、七仏薬師、等が書かれている。
(原田屋板)
(同上拡大図) 曼荼羅寺、出釈迦寺、水茎、碑殿、七仏薬師、等が書かれている。
丸亀資料館に展示されていた讃岐国絵図(下が北)
三井之江は「
吉原
三井上」と書かれていることが興味深い。この絵図の作成者は各地の地名をどのように確認して描いたのだろうか。当時文字が読めない人が大半だったであろう時代に、各地の地名を現地で聞き取って書いたとしたら、「みいのえ」と言われたときに「三井之江」と考えるか「三井之上」ととらえるか。ここは三井郷の上の方には当たるが、途中に吉原郷が入っているから、三井郷の上とは考えにくいように思える。しかし、「三井之江」が思い浮かばなかったら、ちょっと離れていても「三井郷の上」で納得したかも知れない。また当時の土地の人も漢字が読めない人がほとんどだとしたら、「みいのえ」の意味まで理解していた人がどれだけいたか疑問である。
吉原郷に碑殿と三井之江が属している。この時代には「筆の海」といった浅瀬が内陸に入り組んでいることもないようだ。
絵図の説明(下図)が読めないので作成年代がわからないが、正保二年(1645)に幕府の命により作成し、以降地名を一部訂正して享保十五年(1730)に書写、さらにそれが古くなったので、寛政七年(1795)に修復した、ということだろうか?
国立公文書館デジタルアーカイブ
より、「讃岐国」から吉原付近を抜粋
天保9年(1838年)に完成した天保国絵図で、村毎の石高が記されている。(下が北)
多度郡全体
吉原町
全景1
全景2
全景3
俯瞰図
道路標示
字名
五岳山
銅剣銅鐸出土
二反地川
石灯籠
葭の原
八十八カ所案内板
三井之江
十五丁石切場
善通寺
曼荼羅寺
出釈迦寺
禅定寺
西行庵
人面石
鷺井神社
東西神社
我拝師山
天霧山
七人同志
片山権左衛門
月照上人
牛穴
蛇石
トップページへ
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください