このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

「吉原町」


 

吉原町の全景写真です。


 

「西讃府志 巻之二十六」によると、

吉原郷
 此地昔シ海濱ノ村ニテ葭生茂レリ因テ名ヲ得タリト云

吉原村
 東西十五町三十間、南北八町六間、丸龜ヲ去ルコト二里、東弘田、南善通寺、西北碑殿等ノ諸村ニ隣レリ、村高千四百四石六斗一升四合、

碑殿村
 相傳フ昔行基彌谷寺ヲ開キシ時道標ノ碑ヲ立因テ名ヲ得タリト云、東西十三町南北五町、多度津ヲ去ルコト五十町、東西吉原、西大見、北奥白方、山階等ノ諸村ニ隣レリ、又相續テ天満寺村アリ、此村ニ屬リ昔天霧山ニサル名ノ寺アリ、因テカクヨベリ、東西ニ町南北七町、多度津ヲ去ルコト三十一町、東北山階、南吉原、西奥白方等ノ諸村ニ隣レリ、村高總テ四百三十六石三斗七升五合



昔は葭の茂る原っぱだったので葭(よし)原と呼んだ。碑殿は弥谷寺への道標の碑があったところから名がついた。

1丁(町)=60間≒109.1m、1間≒1.82mだから、吉原村の広さは、
 東西十五丁三十間≒1691m
 南北八町六間  ≒ 884m
であった。今の 吉原町の広さ はどうでしょうか。南北はもっとありそうですね。



「讃州府志」増田休意原著,梶原猪之松増補改訂,香川新報社,大正4.2.10発行によると、

吉原郷
和名抄ニ吉原、與之波良ト有リテ今モ同ジ吉原、碑殿、山階スベテ三ケ村コノ郷ニツク

吉原村
明治廿三年二月吉原、碑殿ノ二村ヲ併セ吉原村ト稱ス



「和名類聚抄郡郷里驛名考証」(S56.2.20, 池邊 彌著, 吉川弘文館)によると、

多度郡 吉原
 與之波良、与之波良

 吉原郷
 康平五、四、曼荼羅寺田地宛行状案。久安元、十二、善通曼荼羅寺寺領注進状。
 治暦三、八、廿五、曼荼羅寺僧善芳解。康平六、三、七、勘濟使紀某下文案。


「与之波良」を万葉仮名または変体仮名に当てはめると「よしはら」と読める。「わ」は万葉仮名では「和、倭、王、輪」等を当てているから、古くは「よしわら」とは書かれていなかったことが分かる。それなのになぜ今「よしわら」と言う呼び方が定着しているのか。もっとも「よしハら」と書かれると「よしわら」と読むようだ。吉原小学校 校歌 を習ってからみんな「よしわら」と呼ぶようになった?

それでは吉原郷はいつから存在したか。「香川県の歴史」(山川出版社)によれば、平安時代の讃岐に吉原郷が存在し、鎌倉時代には吉原荘が存在している。

上に書かれている康平五年は1062年、久安元年は1145年、治暦三年1067年であるから、すべて平安時代(794〜1192年)である。

昭和49年8月4日
1974.8.4

同上(飯ノ山方面,11号線)の夜景
1974.

1974.8.4

同上(筆の山方面)の夜景
1974.

田植え風景(もうほとんど見られなくなった手植え)
1974.6.27

昭和54年8月17日
1979.8.17

1979.8.17





吉原町  全景2   全景3   俯瞰図   江戸時代の記録   道路標示   字名   五岳山   銅剣銅鐸出土   二反地川   石灯籠   葭の原   八十八カ所案内板   八十八カ所道標   三井之江   十五丁石切場

善通寺   曼荼羅寺   出釈迦寺   禅定寺   西行庵   人面石   鷺井神社   東西神社
我拝師山   香色山   天霧山   七人同志   片山権左衛門   月照上人   牛穴   蛇石

香川県善通寺市吉原町  トップページへ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください