このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

鞍馬での修行の後、牛若丸は弁慶と出会う。
このふたりの出会いのエピソードは有名だ。

五条の橋では夜になると、大きな長刀を抱えた恐ろしい大入道が現れると噂が流れ、
人々はとても怖がり日が暮れると五条の橋に近づかなかった。

その大入道は千人斬りの祈願をし、五条の橋の上で夜な夜な刀を差した侍を待ち伏せては
勝負を挑み、打ち負かしたあかつきには相手の刀を奪っていった。
その大入道の名を弁慶という。

弁慶は999振りの刀を奪い、あと一振りで千人というその時、牛若丸と出会うことになる。

と、これは絵本などである「牛若丸」の物語である。

この物語では、その後、弁慶は牛若丸に敗れ、主従の誓いをすることになるのだが、
狂言などの伝統芸能の世界では少し違った説がある。


ここでは、そのふたつの説を紹介する。

①比叡山西塔に住む武蔵坊弁慶は、五条天神へ丑の刻詣に行こうと、山を下りるため
従者を呼ぶと従者が五条の橋には少年の辻斬りがでるからと引き止める。

弁慶は、一度は思いとどまったが、それならその者を逆に懲らしめてやろうと出かける。

一方の牛若丸は源氏再興のために腕の立つ家来を見つけ出そうと夜毎に五条の橋の上で
辻斬りを装ってそのような人物を探していた。

弁慶は牛若丸のけなげな志を察し、適当なところで負けて家来となり、牛若丸の本懐遂行に
尽力する。

②①とほとんど同じだが、牛若丸の挑発にあい、腹を立てた弁慶は本気で戦ったが
牛若丸に軽くあしらわれてしまい敗れ、家来になる。

と、いう説である。

これが牛若丸と弁慶の出会いの場所として物語等で語られる五条の橋である。

しかし、当時の五条の橋はここではなかった。

ここの場所に初めて橋が架けられたのは天正17年(1589)であり、
豊臣秀吉が 方広寺大仏殿 を造営するにあたって鴨川に橋を架けよと命じたらしい。

というわけで、牛若丸と弁慶の時代には、この橋は存在しなかったことになる。

五条大橋の西詰には、牛若丸と弁慶の石像が建っている。

それでは、当時の五条の橋がどこであったかといえば、それは現在の
松原橋である。

安土桃山時代から江戸時代初期の頃、松並木が続く道だったことから
「五条松原通り」と呼ばれだしたのが、いつしか「五条」を略して「松原通り」の
呼び名になった。

そこで、消えてしまった「五条通り」の名を復活させようと、六条坊門小路を
五条通りと改めた。

松原橋は清水寺の参道にあたるため古くから架けられており、清水寺へお参りに
行くための「清水橋」とも、また、清水寺の僧の勧進(かんじん)によって架けられた
ので「勧進橋」とも呼ばれていた。

弘法大師(空海)の開基といわれる古社。少彦名命、天照大神、大己貴命、などを祭る。
古くから農耕、医薬の神として信仰された。
「義経記」は源義経が弁慶と出会った場所としている。
例祭の5月10日は厄除け祈願の参詣者が多い。
毎年の節分日には宝船が授与される。この宝船の古図は日本最古のもので、
船に稲穂を一束乗せただけの簡素なもので、厄除け、病除けのご利益がある。
建立:800(延喜)年頃

京都市下京区松原通西洞院西入

本殿

この神社は、旧五条通りである松原通りにあり、西洞院通りにも面している。

かつて、この神社の境内には西洞院川が流れ、つまり牛若丸と弁慶が出会った
五条の橋とは、鴨川に架かる松原橋ではなく、この神社の境内に流れていた
西洞院川に架かっていた橋であるという説がある。

室町時代に書かれた「義経記」には、牛若丸と弁慶の出会いは、この神社の
境内であると記されている。

「義経記」によると、弁慶が999振りの太刀を奪い、あと一振りを祈願して五條天神社に
詣り、そこで待ち伏せしていると牛若丸に出会った。
そこで勝負を挑むのだが、弁慶は牛若丸に敗れてしまう。

翌日、弁慶は 清水寺 に参拝し、そこで牛若丸を待ち伏せして、清水の舞台において、
再び勝負するが、またしても負けてしまい、牛若丸に主従の誓いをする。

この話が元になり、五條天神社と清水寺という2ヵ所の設定が、いつしか清水寺へ
向かう道と五条の橋ということで、松原橋に結びついたようである。

京都市北区紫野大徳寺町

この梶井門は大徳寺の南東角あたりにある。
古来開けずの門ともいわれ天台座主在京の梶井御所の門で応仁以前は
大徳寺の南に隣接していた。

土地の伝説によれば、牛若丸と弁慶の出会いは、この梶井御所の前の橋
(御所ノ橋)といわれ、のちに、ごしょのはしがごじょうのはし(五条の橋)に
変わったといわれる。

さて、真相はいかに!?

五条大橋(ごじょうおおはし)

松原橋(まつばらばし)

五條天神社(ごじょうてんじんじゃ)

大徳寺 梶井門(だいとくじ かじいもん)

五条大橋
五条大橋
松原橋
五條天神社
本殿
大徳寺 梶井門

その後の探索でわかったこと

牛若丸と弁慶が出会った場所・・・、僕の中では大徳寺 梶井門あたりだろうと結論付けて
います。

それにはちゃんと理由があって、大徳寺のある紫野という土地には次のようないわれが
残っているからです。

牛若丸の母、常盤御前は、7歳になった牛若丸を、鞍馬寺へ預けますが、自身は現在の
紫野の地に居を構え暮らしていたらしく、この頃には、常盤御前ではなく築山殿と呼ばれて
いたらしいです。

そして、時折、牛若丸が鞍馬から母に会いに来ていたといいます。

紫野には、築山殿が暮らしていたといわれる場所は現在でも「上築山町」「下築山町」という
町名が存在しています。

さらに、「上築山町」にある某米屋さんの中庭には、「弁慶の腰掛け石」といわれるものが
現存しています。

弁慶は、この石に腰を掛け、夜な夜な通りすがりの侍を待ち伏せし刀を奪っていたと
いいます。

そして、ある日、鞍馬から母に会いに来た牛若丸と出会ったといわれています。

この「上築山町」にある某米屋さんから、大徳寺 梶井門までは、直線距離で100メートル
くらい。

梶井門は現在は東の方角に面していますが、かつては南の方角にあったといいますから、
その距離はさらに短縮されます。

室町時代に書かれた「義経記」によれば、先にも取り上げた「五條天神社」が2人の出会い
の場所として描かれていますが、牛若丸が活躍したのは平安時代末期です。

「五條天神社」はかつて「五條天神宮」といい、かなり規模の大きな神社だったことは
事実ですが、「義経記」は悲劇のヒーロー的に源義経を描いており、相当の脚色がされている
のも、また事実で、何より牛若丸がわざわざ鞍馬から五條に行く理由が見当たりません。

そういうことでは、母に会いに紫野へというのは、いかにも人間味があって、”あぁ、かつて
そんなことがあったかもしれない”と思わず納得してしまうくらい説得力があり、信憑性も
高いと思うのですが、皆さんはどうでしょう?

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