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禁門の変の背景
8・18の政変
のによって京都を追われた長州藩でしたが、京都留守居役の乃美織江・桂小五郎
・久坂玄瑞たちは京都で長州藩の真意を訴え、藩主と三条公らの復権を求めて活動し、
再び天皇に忠義を尽くしたいと何度も願い出ましたが、それが聞き入れられることはありません
でした。
武力によって長州藩の復権を図ろうという武装上京論が、来島又兵衛や久坂玄瑞らを中心に
起こり、七卿に従って長州へ下った諸藩の過激派たちが、さらにそれを煽り立て、長州藩内は
今にも武装して上京しようという情勢になります。
この状況に反対していたのは長州藩内では、わずかに周布政之助と高杉晋作のふたりだけでした。
この事態を時期尚早とみていた高杉は、元治元(1864)年1月なかば、藩主・世子の命を受けて、
来島又兵衛を説得に行きます。
高杉は説得もむなしく、逆に来島から罵倒されてしまいます。
そうなると高杉は、自ら情勢を調べようと、藩主の許可も得ず脱藩し、京都に潜入します。
やがて、藩主・世子に呼び戻された高杉は、この脱藩の罪で、同年3月末に萩の野山獄に
入れられてしまいます。
同年6月5日、京都において、
池田屋騒動
が起こり、その一報が6月9日に長州藩にもたらされます。
高杉の軽率な行動にやるせない思いを抱いたためか、自分ひとりだけでは来島たちを押さえる
ことができないという思いからか、同年6月14日、周布は酔った勢いで獄中の高杉を見舞い、
獄中で刀を振り回すという禁を犯してしまいます。
このことを問題にされて、周布は謹慎を命じられてしまいました。
こうして武装上京論に反対する者がいなくなった長州藩はついに兵を動かし、京都へ向かいます。
6月15日、来島又兵衛が遊撃隊をもって挙兵上京。
福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老も京都へ向けて進軍します。
その数、1600人でした。
6月22日、福原率いる460名の兵は大坂へ上陸、武装したまま現在の京阪国道(国道1号線)を
東へ進み、6月24日、伏見長州藩邸に布陣します。
福原隊は、長州藩京都留守居役・乃美織江を通じて、所司代へ上京の届け出を提出しました。
その理由は、「池田屋騒動に関する取り調べ」としていました。
また、真木和泉守と久坂玄瑞の率いる1000名の兵は、6月24日、淀川を遡って天王山に布陣
します。
関所の届けには、「朝廷と幕府への嘆願書の提出」を理由としていました。
さらに、6月26日、河原町の長州藩京都屋敷にいた藩士と、合流した浪士ら約500人が、
嵯峨天龍寺に移り、長州藩は三方から御所をうかがうことになりました。
臨済宗天龍寺派の大本山。
足利尊氏が後醍醐天皇の霊を慰めるため、1339年(暦応2)夢窓国師を開山として創建。
室町時代には京都五山の第一位を占めた。
たびたびの火災で創建当時の壮大な面影はとどめていない。
現在の諸堂は明治になって再建された。
方丈には藤原時代の釈迦如来坐像(重文)を安置。
多宝殿は吉野朝の紫宸殿を模して建てた。
当時の原型を残す曹源池庭園は亀山や嵐山を借景にした池泉廻遊式で、
夢窓国師の作庭といわれる。
日本で最初に史跡・特別名勝に指定され1994年(平成6)12月には「古都京都の文化財」として、
「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。
建立:1339(暦応2)年。
平成9年(1997年)故・加山又造画伯によって法堂(特別拝観)の天井に「雲龍図」が描かれた。
天龍寺(てんりゅうじ)
天龍寺塔頭 弘源寺(こうげんじ)
臨済宗・天龍寺塔頭。
永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之が、
天龍寺開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建。
当時は広大な寺領を有したが、幾度かの火災に遭遇し、明治17年に末庵である維北軒と合寺した。
枯山水の「虎嘯の庭」、毘沙門天を祀る毘沙門堂、
竹内栖鳳とその一門(上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉・小野竹喬ほか)の作品、
また小倉山墓地には向井去来の墓と西行法師ゆかりの井戸などがある。
特別公開時のみ。
総門
庫裏
京都五山の第一位を誇る天龍寺。
現在では、ユネスコ「世界遺産」に登録されたことでも有名です。
ここに、長州藩の一隊が布陣しました。
山門
天龍寺の塔頭寺院のひとつである弘源寺。
毘沙門天を祀っていることでも有名です。
毘沙門堂
毘沙門天を祀る
毘沙門堂 扁額
毘沙門堂の正面に揚げられている扁額は、弘法大師・空海の直筆なのです。
本堂
長州藩の一隊が、天龍寺に布陣したのは前述のとおりですが、
その証となるものが、この弘源寺には残されています。
弘源寺さんは、春と秋の特別公開時以外は非公開で、内部を拝観することはできないのですが、
僕が取材に来た時は、非公開の時期でした。
お寺の方にお願いすると、「その場所だけなら」という条件付きで特別に見せてもらえました。
長州藩布陣の証とは何か!
長州藩兵の刀傷が本堂の柱のいたるところに残されています。
後に触れますが、御所を攻撃するということは、とんでもないことなのです。
長州藩士もかなりの覚悟で臨んだことでしょう。
その緊張からか、血気にはやる長州藩兵は、この本堂の柱で刀の試し斬りをしたといいます。
特別公開時でも、本堂内部は撮影禁止なのですが、弘源寺さんのご好意により、
撮影させていただくことができました。
長州藩の刀傷
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