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池田屋騒動 その1

元治元(1864)年6月5日、新選組の武名を一躍轟かせた事件が発生します。

世にいう「池田屋騒動」です。

新選組といえば池田屋騒動とばかりに、新選組を扱った演劇や映画(つかこうへい原作、
深作欣二監督の「蒲田行進曲」など)では、池田屋が舞台になるシーンが登場するほど有名な
事件ですね。

実際に起った池田屋騒動も、新選組史上最大の大捕物だったようです。

8・18の政変 で、禁裏の護衛役を解かれ、京都から追われた長州藩でしたが、
翌年の元治元(1864)年になると、再び京都に潜伏しはじめました。
肥後藩の宮部鼎蔵(みやべていぞう)もそうです。
しかし、この頃になると尊王攘夷派の志士に対し、新選組が目を光らせていました。

同年4月に松原通木屋町で発生した火災の現場で不審な行動をとる人物を捕らえ、
京都を追われたはずの長州藩士250人が京都に潜入していることを自供させることに成功します。

その後、新選組をはじめ、京都守護職・京都所司代による巡察隊に、町奉行所の役人を同行させ、
より厳重な警戒態勢を整えました。

新選組では探索方として、島田魁・浅野藤太郎・川島勝司・山崎丞の4名が5月の下旬に、
四条小橋のあたりにいる桝屋喜右衛門という人物が、実は元近州大津代官千代古高俊太郎という
ことを見破り、長州人と同意しており、300余人が正体を隠して三条大橋あたりの宿屋に泊まっている
という情報を 京都守護職 に報告しました。

古高 俊太郎(ふるたか しゅんたろう)

筑前藩御用達商人で、近州(滋賀)守山古高出身。 本名は古高俊太郎正順(まさより)。

古高は桝屋こと湯浅喜右衛門と変名を使い、表向きは薪炭商人を装い、裏では勤王志士たちの
武器調達をおこなっていました。

古高は、故あって桝屋へ養子に入りました。 桝屋は本姓・湯浅といい、京都府船井郡日吉町の
郷士・湯浅五郎兵衛の分家でした。

本家は肥後藩主・細川家と遠縁にあたります。

五郎兵衛は細川家旧領の下桂西ノ岡で肥後藩の浪士らと親交をもち、援助を惜しみませんでした。

古高は、はじめ堺町丸太町下ルに住居を構えていましたが、当主・喜右衛門が病死したため、
五郎兵衛のすすめもあって商いを継ぎ、文久元年3月に木屋町に移り住みました。

古高の家は次第に浪士らのアジトとなり、肥後の宮部鼎蔵・松田重助をはじめ長州の浪士らも
出入りして討幕の策を練っていたといいます。

古高の家の裏の長屋には、京都では名の知れた侠客で会津藩中間の小鉄(会津の小鉄)が
住んでいたらしく、このあたりから志士らの情報がもたらされたと思われます。

一説によると、元治元年6月1日、宮部鼎蔵の従僕・忠蔵が古高の家から出てくるところを
新選組探索方が見つけて尾行しました。

忠蔵は宮部の言いつけを受け、南禅寺塔頭にある肥後藩宿陣に向かいました。

忠蔵が用を済ませて出てきたところを新選組探索方が捕らえ、用件の密事を問いただします。

しかし、忠蔵は一向に口を割ろうとしなかったため、新選組探索方は忠蔵を南禅寺三門の楼上に
縛りつけました。

三門
三門

南禅寺(なんぜんじ)

京都市左京区南禅寺福地町
臨済宗南禅寺派の本山。
1291年(正応4)亀山上皇の離宮を賜り、無関普門(大明国師)が開山。
室町時代は隆盛を極め、「五山之上」という禅宗寺院の最高位に列せられた。
応仁の乱 で焼失した伽藍を‘黒衣の宰相’といわれた以心崇伝によって復興。
境内には勅使門、三門、法堂、方丈の伽藍が一直線に、その周辺に12の塔頭が並ぶ。
三門(重文)は、藤堂高虎の寄進。
方丈(国宝)は、大方丈と小方丈に分かれ、大方丈は御所清涼殿を、
小方丈は、伏見城殿舎を移築したと伝えられる。
小方丈の襖絵、狩野探幽筆「水呑の虎」は名高い。
大方丈の前庭(名勝)は小掘遠州作の「虎の子渡し」と呼ばれ、
江戸初期の代表的な枯山水庭園として知られる。
境内の面積は、約4万5千坪。
建立:1291(正応4)年
中門

中門

三門

この南禅寺三門は、京都三大門のひとつに数えられ、高さが約22メートルの「五間三戸二階ニ重
入母屋造」です。

歌舞伎「楼門五三桐」で、大泥棒・石川五右衛門がこの楼上の欄干に足をかけ、「絶景かな」と
見得を切る場面は有名ですね。

しかし、この三門は応仁元(1467)年までに焼失しており、復興されたのは寛永5(1628)年です。
石川五右衛門が生きたのは、1557年〜1594年ですから、五右衛門存命中は、この三門は
ありませんでした。

この歌舞伎での五右衛門のエピソードは、じつは初代・並木五瓶が書き下ろした創作なのです。

現在も残るこの三門は、伊勢伊賀の領主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦没した藩士の霊を
弔うため、寛永5(1628)年に建立寄進したものです。

池田家騒動での勤王の志士側のリーダー格であったのは、肥後藩の宮部鼎蔵です。
その宮部の下僕・忠蔵は新選組探索方に捕らえられ尋問されますが、一向に口を割りません。

それで、新選組探索方は忠蔵を、この三門の楼上に縛りつけさらし者にしました。

三門の楼上
三門の楼上
楼上からの眺め

三門の楼上

忠蔵は、ここに縛りつけられたのだろうか・・・

楼上からの眺め

法堂

法堂

南禅寺境内には「水路閣」という煉瓦造りの西洋風建造物があります。

これは、琵琶湖疎水事業の一環で、南禅寺境内に琵琶湖疎水分線を流すため、延長93.17メートル、
幅4.06メートル、水路幅2.42メートルの煉瓦造り、アーチ構造の水道橋を建造することが計画され、
明治23年に竣工しました。

竣工当時は、「寺の境内に西洋建築などもってのほか!」と市民より強い反発があったそうですが、
現在となっては、京都の近代建築を代表するひとつで、南禅寺の景観にも溶け込み、市民にも
広く親しまれるスポットとなりました。

この水路閣は、古代ローマの水道橋を模して造られたものですが、西欧技術が導入されて
間もない当時、日本人のみの手で設計・施工され、日本の土木技術史上極めて貴重なものである
として、昭和58年7月1日に京都市指定史跡に指定され、また、平成8年6月には、日本を代表する
近代化遺産として、国の史跡に指定されました。

水路閣
水路閣
水路閣

水路閣

水路閣の上部には、琵琶湖疎水分線が流れる

さて、新選組監視の下、宮部鼎蔵の下僕・忠蔵は三門楼上に幾日も生き晒しにされていましたが、
この様子は市中の評判になり、宮部がよく利用していた旅館・小川亭の女将・小川テイは
宮部の行方を捜し、このことを知らせようとしましたが、宮部の行方はわからなかったといいます。

その後、テイは見張り役の者に金包を渡して忠蔵を解き放してもらったそうです。

小川亭之跡(おがわていのあと)

京都市東山区縄手通若松下る西側
小川亭之跡

店の名前が「小川亭」なら、女将の名前も「小川テイ」・・・

小川亭は、肥後藩御用達の魚商「魚卯(うおう)」の未亡人テイと姑リセが幕末に開いた旅館です。

肥後藩邸から近く、肥後藩士ほか勤皇の志士たちに密会の場として利用されました。

宮部鼎蔵・河上彦斎・藤村紫朗・松田重助などのほか、桂小五郎や平野国臣らも出入りしていた
そうです。

二人は志士たちの面倒をよく見たといい、明治になってからは、勤王家として知られたテイを慕って
投宿するものも多かったそうです。(テイは志士たちから「勤王ばあさん」と呼ばれていました)

小川亭の屋敷は、太平洋戦争時の建物疎開によって取り壊されてしまいました。

リセの二男・テイの義弟にあたる馬之助は佐竹吉兵衛を名乗って、今も続く京料理の料亭「美濃吉」
を継いでいます。

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