このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)

京都市左京区黒谷町

1175年(承安5)比叡山を下りた法然上人が初めて念仏道場を開いた。
浄土宗四カ本山の一つ。
幾度か火災に遭いその都度再興。 阿弥陀堂は1605年(慶長10)豊臣秀頼が再建。
文珠塔の本尊文殊菩薩像は、運慶作と伝えられ、日本三文殊の一つ。
絹本着色山越阿弥陀図(重文)などを所蔵。

本堂

京都で「金戒光明寺はどこですか」と訪ねても、おそらく答えられる京都人は少ないと思われます。
金戒光明寺は、京都では”黒谷(くろだに)さん”と呼ばれ、その名の方が通っており、
「黒谷さんはどこですか」と訪ねるべきでしょう。
ちなみに道路標識にも”金戒光明寺”とは記載されておらず、”黒谷”と記載されているほどです。

京都守護職屋敷址
京都守護職屋敷門
京都守護職屋敷門

ほらほらっ、黒谷って書いてある

京都守護職の設置
高麗門
本堂
京都守護職は,文久2(1862)年、京都の治安維持のために設立された幕府の役職で、
京都所司代・京都町奉行などの上位に位置づけられた。

その役宅は、はじめ黒谷金戒光明寺内に置かれたが、文久3年末この地に新築された。

当時、京都守護職の敷地は、約3万坪に及んだという。

慶応3(1867)年12月に廃止され、その跡地には京都府庁が移転した。
京都市上京区下立売通釜座上る(京都府庁内)

当時の京都は、脱藩した尊王攘夷の討幕派志士が続々と入洛し、血なまぐさい暗殺事件が
相次ぎ、京都所司代、東西町奉行所の警察力では治安維持が不能な状態で、
文久2(1862)年7月27日、幕府は京都所司代の上層機関となる”京都守護職”を設置。
同年閏8月1日、再三固辞をしていた会津9代藩主、松平容保(まつだいらかたもり)が、
京都守護職という重職に任命された。 容保は当時26歳という若さだった。

松平容保は、同年12月24日、京都守護職として入洛したが、屋敷は急ごしらえもできず、
金戒光明寺のほぼ全部を守護職屋敷に召し上げ、京都市中取締りの指揮を執った。

入洛時、容保に率いられた1000人余りの会津藩兵は、4キロほどにもなった隊列を整え、
堂々と進んだという。

容保は、まず御所に拝謁してから宿舎へと入った。

高麗門

京都守護職屋敷址(きょうとしゅごしょくやしきあと)

京都守護職屋敷門(きょうとしゅごしょくやしきもん)

京都市左京区聖護院円頓美町

文久2(1862)年に入洛した松平容保は、金戒光明寺を本陣としたが、翌年には、
会津藩御用屋敷が完成し、さらに、慶応元(1868)年には、京都守護職御用屋敷が完成
した。

この屋敷は、維新後さまざまな施設として利用された後、跡形もなく失われたが、かろうじて
門だけは、 平安神宮 の西隣、武道センター敷地内に移築されポツンと現存している。

新選組隊士も、この門を通ったのだろうか?

しかし、この門は、聖護院村にあった会津藩下屋敷の表門を移築したものという説もある。

金戒光明寺には、松平容保の遺墨と会津藩兵の鎧が現在も残されています。
(普段は非公開)

京都守護職屋敷正門(きょうとしゅごしょくやしきせいもん)

京都市中京区二条油小路町

京都守護職屋敷正門

京都守護職屋敷の正門は、「京都国際ホテル」に移築されて現存しています。

その後の探索でわかったこと

なぜ、会津藩が京都守護職に任ぜられたか?

京都守護職が実際に設置される以前、この要職はどの藩に任せればいいかという話が
もたれ、その時点では、彦根藩に決まっていたそうです。

彦根藩といえば井伊家。 「井伊家は安政の大獄でイメージが悪い」ということで、
再考されることになりました。

そこで名前が挙がったのが会津藩でした。

会津藩は、黒船来航時、浦賀の警備という過酷な任務を文句も言わず、立派に務めていた
そうで、「きっと会津なら立派に務めてくれるだろう」という判断のもと、会津藩に京都守護職
就任要請がされたのです。

会津藩主・松平容保は京都に到着した際、宿舎(金戒光明寺)に向かわず、まず御所を
訪ねています。

容保は京都に入る直前に裃や草履などすべてを着替え、御所の周りにある公家屋敷の
ひとつである鷹司邸へ赴きます。

その鷹司邸で容保は、「天機伺い」をします。

「天機伺い」というのは、禁裏に入る前に、まず公家屋敷において、
「天子様、ごきげんいかがですか」と挨拶を述べることをいいます。
これは、朝廷におけるしきたりなのです。

このような一連の容保の行動に、朝廷側は感心したといいます。
容保は会津を発つ前に、京都のしきたりなどをきちんと学んだに違いありません。

松平容保は、1000人もの藩士を率いて上洛しましたが、これほどの人数を遠く離れた京都に
駐屯させるということは、経済的にも会津藩は大きな負担を背負っていたはずです。

そのためか、藩士たちは休暇の日でも、なかなか 祇園 などで遊ぶことができなかったそうです。

祇園では、会津にかけて、「あいつ(会津)はだめや」といわれたそうで、
遊んでお金を落としていく薩摩や長州の藩士の方が人気があったといいます。

このあたり、京都は「きっちり」していますね。

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