このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

一般に祇園町といいます。
東は八坂神社、南は建仁寺、西は鴨川付近、北は新橋通の広い地域の名です。
鎌倉時代から祇園社(八坂神社)の門前町として開けましたが、江戸時代からは遊興の町として
発展しました。
現在でも花街を中心に高級料亭やスナックが密集して一大繁華街になっています。

祇園新町というのは祇園町のうち四条通の北、新橋通に沿った祇園元吉町一帯のことです。
京都の高級なお茶屋が東西に整然と軒を連ねており、祇園の花街らしい雰囲気があります。
このあたりは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
新選組の台頭 つづき

・祇園(ぎおん)

上七軒、 島原 と並んで京都を代表する遊里です。

歴史は古く、豊臣秀吉没後に高台寺を建てた北政所が諸国から女芸人を集め、
その中から秀でた者を侍女としたのが祇園の芸妓の起源といわれています。

もっとも栄えたのは文化・文政期で、当時は700軒もの茶屋が軒を連ね、舞子・芸妓は3000人を
越えたといいます。

新選組が上洛した幕末期は衰えていたものの、祇園は舞子や芸妓の気位も敷居も高かった
そうです。

祇園新町
祇園新町
祇園新町

京都四条河原は「 出雲の阿国 」がかぶき踊りをはじめた歌舞伎発祥の地です。
元和年間(1615〜1623) 京都所司代 によって公に許可された七つの劇場のうち、
現在唯一残っているのがこの南座です。
1906年(明治39)以後松竹(株)が経営されています。
延べ6600平方メートル(地上4、地下1階)。
1991年(平成3)音響、照明、舞台、客席(1086人)などの大改築が行われ、
歌舞伎からミュージカルまで多種目にわたる上演が可能になりました。
建設:1991(平成3)年 内部を全面改修
1996(平成8)年 国の文化財に登録されました。

京都市東山区四条大橋東詰

祇園新町周辺

南座(みなみざ)

南座
阿国歌舞伎発祥地の碑

歌舞伎発祥400年を記念して、平成14(2002)年に松竹株式会社が南座の横に建立した
「阿国歌舞伎発祥地の碑」

新選組は祇園ではあまり評判がよくなく、長州などの勤王の志士たちの方が人気があったと
いいます。

新選組は騒いだり、町民が連れてきた芸者を横取りしようとするなど、祇園の女性からは、
「遊び方知らはらへん田舎者」と煙たがられていたようです。

さすが、敷居の高い祇園というべきか・・・

元治元(1864)年11月、南座で「仮名手本忠臣蔵」を上演中、酒に酔った隊士が舞台の上に
乱入するという騒ぎがあったそうです。

芸能を粋に楽しむことが好きな京都の町衆は新選組のこのような行為に言語道断とばかりに
憤慨したといいます。

北座(きたざ)

南座があるなら北座は?と思うのが人の心理かもしれない・・・

実は北座というのは存在します。
でも、この事実は京都の人でもそんなに知らないかもしれません。

北座の場所は、やはり、南座の北向かいあたりにあります。

北座

北座といっても、現在は劇場ではありません。

北座という劇場があった場所は現在「井筒八ッ橋本舗」という会社が所有されていますが、
平成14(2002)年、「井筒八ッ橋本舗」さんが、当時の北座の姿を模した建物を、
当時と同じ場所に再現されました。

ちなみにこの建物は、テナント・ビルとして使用されています。(当時の北座の資料館もあり)

平等寺(びょうどうじ)

平等寺といっても、おそらく京都人でも知る人は少ないでしょう。
なぜなら、因幡薬師(いなばやくし)という通称の方が知られているからです。

京都市下京区松原通烏丸東入
平等寺
平等寺

平等寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)によれば、
長徳3(997)年、因幡国司橘行平が任務が終わって帰洛の途中、夢のお告げによって
因幡賀留津の海中から一体の薬師如来像を引き上げ、仮堂に安置しておきました。

ところが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、
長保5(1003)年4月8日、行平は自宅を改造してこの薬師如来像を祀ったということです。

この霊験談はひろく親しまれ、歴代天皇をはじめ、一般庶民の深い信仰をうけ、
承安元(1171)年、高倉天皇により平等寺と命名されたそうです。

歴代の天皇は、厄年には勅使を派遣し祈祷をうけたといいます。

この薬師如来像は、藤原時代のもので、一木造りの優れたもので重要文化財に指定されています。

嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに、日本三如来のひとつに数えられ、
人々に厚く信仰されています。

建物は、明治19(1886)年の再建で、薬師如来像は幾度もの火災も免れ堂内に安置されています。

真言宗。 毎月8日に手作り市を開催。

文久3(1863)年9月、当時はこの平等寺境内には見世物小屋があったそうです。

芹沢は、例によって酒に酔った勢いで、難癖をつけに平等寺に立ち寄りました。

その時、見世物小屋には当時は珍しい虎が檻の中にいたそうで、その虎は人が皮を被った
偽物ではないかと噂されていました。

そこへ現れた芹沢が、その真偽を確かめようと檻の前で刀を抜いたところ、その虎に
吠えられたというエピソードが伝わっています。

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