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新選組の台頭

新選組の任務は激務だった。
なにしろ、昼夜問わずの市中見廻り、つまり京都の治安を乱す者を取り締まり、
「もし手にあまる者がいたならば斬り捨て御免でよい」との達しもあったという。

斬り合いともなれば、こちらがやられるかもしれない。
新選組の任務は常に命がけだった。

よく新選組は殺人集団という暗いイメージで語られがちだが、本当は朝廷から現在の警察の
ような役割を任ぜられていたのである。

そのような激務だったせいか、新選組は任務外の時間は遊郭へ出向き、女遊びもした。

また、任務の緊張感からか酔った勢いで憂さを晴らしたかのような刀傷が 旧前川邸 の出窓の
枠に残されている。(現在は取り外され邸内に保存、非公開)

特に筆頭局長である芹沢鴨の酒乱ぶりは目に余るものがあったようで、数々の武勇伝を
残している。

・島原(しまばら)


当時、島原は堀と塀で囲まれ、門はその東辺北寄りに設けられていました。
その後、享保17(1732)年には西辺にも門が設けられました。

東辺北寄りの門は、明和3(1766)年、道筋(どうすじ)と呼ばれていた道の東端である現在地に
付け替えられました。

嘉永7(1854)年8月の大火では、島原の東側は大半が類焼しており、
このとき門も焼失したと考えられています。 

大火後、門は再建されましたが、慶応3(1867)年5月には再び建て替えられました。
これが現在の大門です。

この大門は、本柱上の屋根のほかに後方の控柱上にも小屋根をのせた高麗門で、
前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて今日も当時の趣を伝えています。

豊臣秀吉が 応仁の乱 で荒廃した京都を再興するにあたり、二条柳馬場に柳町の花街を
公許しましたが(日本初の公許の花街)、これがのちに六条坊門(現在の東本願寺の北側)に
移され、六条三筋町として栄えました。

その後、京の町の発展に伴い、寛永18(1641)年、市街地の西にあたる現在地(当時の朱雀野)
に移されました。

正式名称は西新屋敷と呼びましたが、その急な移転騒動が九州島原の乱の直後であったため、
それになぞられて島原と称されるようになりました。

島原の遊女の最高位である「太夫」の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の遊女が
女歌舞伎を催したとき、すぐれた遊女のことを「太夫」と呼んだことから始まるとされています。

太夫道中は置屋から揚屋へ内八文字を踏んで練り歩く様子のことをいいます。

また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず、詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧に
ついては島原俳壇が形成されるほど活況を呈していたといいます。

戦後、お茶屋86軒を数えていましたが今は数軒が残るのみです。

昭和33(1958)年、売春防止法の施行で娼妓を廃したそうです。

わが国最古の公許遊廊島原の正門で、花屋町通にある。
一間幅、本瓦ぶき、切妻の高麗門。
門内は通りの左右に格子造りの古い揚屋、置屋が整然と並んでいたという。
門前に通称「出口の柳」「さらば垣」、門前の道筋には、「思案橋」と粋に名づけられた橋もあった。
市指定建造物。

島原大門(しまばらおおもん)

京都市下京区西新屋敷町

島原大門
島原大門に掛けられた提灯
「出口の柳」と「さらば垣」

島原大門に掛けられた提灯(島原と書かれている)

「出口の柳」と「さらば垣」

角屋は島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、
江戸期の饗宴もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、
昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。
揚屋とは、江戸期の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義されているところによると、
現在の料理屋・料亭にあたります。
大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、
庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。
所蔵美術品では、昭和58年(1983)に蕪村筆「紅白梅図屏風」が重要文化財に指定され、
また、平成元年(1989)には財団法人角屋保存会が設立されました。
平成10年度からは「角屋もてなしの文化美術館」を開設、
角屋の建物自体と併せて所蔵美術品などを展示・公開しています。

角屋(すみや)

京都市下京区西新屋敷揚屋町

島原には揚屋(あげや)と置屋(おきや)があり、揚屋は太夫・芸妓などを一切かかえず、
置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場です。

揚屋は江戸の吉原にはなく、京都の島原と大坂の新町にありました。

島原の角屋をはじめとする揚屋は遊宴のみならず、和歌、俳諧の文芸の席やお茶の席があり、
文化サロンとしての役割を果たしていました。

したがって、いわゆる遊郭の店ではなく、外観の格子造りも、京の近代初期の町屋の形を
遺しており、吉原の牢屋のような格子造りではありません。

この角屋は島原開基以来連綿と家督を維持守成してきた揚屋です。

角屋の建物は、揚屋建築唯一の遺構として、昭和27年に国の重要文化財に指定されました。

また、絵などは応挙、蕪村など当時一流の画人の作品で、特に蕪村の「紅白梅図」の大作は
重要文化財に指定されています。

角屋は、現在では「角屋もてなしの文化美術館」となっていて、毎年春と秋の観光シーズンには
内部が一般公開されています。

幕末には、西郷隆盛、久坂玄瑞などの勤王志士たちが軍用金調達のため、時の豪商を角屋へ
招いて会談をおこないました。

島原の入り口は、当初東の大門のみでしたが、享保17(1732)年に西側中央部に西門が
設けられました。

それは、両側に門柱を建てただけの簡略なものでしたが、天保13(1842)年に現在地に移され、
構えも東側大門と同じように高麗門型となりました。

近年まで島原の西門として偉観を伝えていましたが、昭和52(1977)年11月に交通事故によって全壊。

3年後に門柱のみが復元されましたが、平成10(1998)年4月、再度の交通事故に見舞われて、
それも倒壊しました。

現在では、西門があった場所に碑が建立されています。

島原西門碑(しまばらにしもんひ)

京都市下京区西新屋敷下之町

島原西門碑
角屋
角屋
玄関
長州藩士 久坂玄瑞の密議の角屋碑

このような揚屋では、公武合体派も尊王攘夷派もそれぞれに会談の席を設けましたが、
上がる際には、店に刀を預けるというしくみがあり、また、このような場で争いごとを起こすのは
いかにも無粋であったのです。

店側の配慮もあり、揚屋での争いごとはあまりなかったようです。

実は、この角屋に伝わる新選組の評判はすこぶる悪いのです。 
その原因は次のような話が伝わっています。

文久3年8月、新選組の屯所では手狭とあって、島原の揚屋・角屋で集会が開かれた。

この集会は、水口藩の公用方が会津藩の公用方へ、「近頃の新選組の隊士の行状がよくない」と
申し込んだのにはじまり、芹沢が水口藩の者を呼び出し、詫び状を書かせた。

ところが、水口藩の仲裁人という者がやってきて、「あの詫び状を返納してほしい。 このことが
藩にばれれば詰腹を切らされる」と頼みこんだ。

芹沢も潔く受け入れ、この日の集会は水口藩の招待となった。

そこで、大宴会となり娼妓、芸妓、舞子の総揚げとなった。

ところが普段より、角屋の主人徳右衛門と犬猿の仲の芹沢が、店の仲居が一人もいないことに
立腹して、いきなり太鼓を表へ放り投げ、愛用の約1キロもある鉄扇で、手当たり次第に器を
壊し、三味線をもって床の間の掛け軸を破り、置物まで破壊した。 
見ていた女たちは、恐れのあまり逃げてしまった。

芹沢は土方に向かい、「これで気分がサッパリした」と言い、直に会所に行き、角屋の7日間の
営業停止を申し付けた。

ということです。 酒を飲めば暴れていた芹沢が、この夜も大暴れをしてしまったのです。

また、角屋には床柱や玄関口の柱に「新選組の刀痕」といわれている刀傷があります。
さらに、慶応2年9月付けの「ツケは完済。 以後は隊士にツケをさせないように」という主旨の
新選組調役からの文書も残されています。

輪違屋(わちがいや)

京都市下京区坊城通花屋町上ル中之町

輪違屋は太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で、元禄年間(1688〜1704)の創業と
伝えられています。

現在の建物は、安政4(1857)年に再建されたといわれますが、その後、増改築がなされて、
明治4(1871)年には、ほぼ現在の姿になっていたそうです。

平面構成は複雑ですが、大きく分ければ、1階南半分の居室部分と、1階北半分および2階を
占める客室部分からなり、客室は全部で十数室あり、2階の主要な座敷の襖や壁の意匠には
目を見張るものがあるといわれています。

輪違屋は建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、昭和59年6月1日、
京都市指定有形文化財に登録されました。

輪違屋は、通常内部非公開です。
しかしながら、現在でも現役の「お茶屋」さんです。

輪違屋
輪違屋

この輪違屋には、近藤が書いたと伝わる漢詩が金屏風に仕立てられて保管されています。
(通常非公開)

玄関

長州藩士 久坂玄瑞の密議の角屋碑

その後の探索でわかったこと

「京都冬の旅キャンペーン」というイベントが、毎年実施されていますが、
このキャンペーン期間中は、普段非公開の文化財が特別に公開されるので、
京都の人でも要チェックのイベントなのです。

2004年は、1月10日〜3月18日の期間に実施されました。

今回、特別公開された文化財のひとつに「角屋」も含まれていました。

「角屋」は、毎年春と秋の観光シーズンには一般公開されているのですが、さすがに今回は
特別でした。

なにが特別だったのかというと・・・
一般公開時であっても、「角屋玄関」は閉じられたままです。(上の画像を参照)
入館者は建物の横に設けられている出入り口から入ることになるのですが、
今回の「冬の旅キャンペーン」期間中は玄関が開かれていました!

これは珍しい!

「角屋」の玄関から内部を見る

角屋の玄関から内部を見る

(上の写真と比べてみよう!)

「角屋」では、どのような客でも刀は玄関台所付近の刀箪笥に預ける決まりなのですが、
新選組は、たとえ遊興の場でも刀は持ったままだったそうです。

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