このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

禁門の変 その2

天王山に布陣していた真木と久坂は、朝廷に対し、挙兵上京した大義名分を訴える哀願書を
提出することにします。

哀願書は2800字からなり、 8・18の政変 で京都を追われた三条実美ら五卿ならびに長州の
毛利父子の冤罪、攘夷の国是嘆願が主な理由でした。

真木と久坂は、哀願書を届ける使者として藤村幾之進と大谷撲助を起用し、このふたりが
淀藩主・稲葉正邦に面会を求め、朝廷への取次ぎを願い出ました。

稲葉は快諾し、禁裏守衛総督を勤める一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)に、この哀願書を
届けます。

慶喜は早速、中川宮ならびに議奏、武家伝奏の公卿を集め、朝議が開かれることになりました。

この報告を受けた京都守護職・松平容保は、6月24日、新選組に竹田街道を固めるよう、
九条河原へ出陣要請をおこないました。

勧進橋(かんじんばし)

勧進橋
勧進橋

伏見区と南区の境の鴨川に架かり、国道24号線が通る橋です。

平安時代に僧侶が勧進して集めた浄財でつくられた橋ということで「勧進橋」といいますが、
この橋以外にも、同じ名の橋があったそうです。

現在では「勧進橋」は、この橋の固有名称となっていますが、その経緯は不詳だそうです。

ちなみに現在の 松原橋 も、架橋当時は、別名として勧進橋と呼んでいたそうです。

勧進橋は伏見稲荷大社の参道に続く道で、伏見稲荷大社に寄進するための通行料を取った
ところから、幕末当時は「銭取橋」とも呼ばれていました。

元治元(1864)年6月24日、新選組は会津・桑名藩兵とともに、長州藩が挙兵上京するのを
竹田街道で阻止するため、勧進橋西側の河原に布陣しました。

ここに陣を張るのは、7月19日の禁門の変までの約1ヶ月間に及びました。

朝議では、一橋慶喜は、「大軍を擁して入洛するだけでも大逆行為」と憤慨し、孝明天皇も、
「今さら長州の入京は不可」と仰せられて、長州討伐が決定されます。

松平容保は、この頃、病が重く、直ちに御所に参内しようとしますが、思うように歩くことも
できず、侍従らに命じて病床で裃に着替えたといわれています。

7月14日、幕府側は長州藩の福原越後を伏見奉行所へ呼び、「これまで何度も引き取るように
申し聞かせてきたが、今日になっても引き取らないでいる以上は、18日を期限に引き取ること、
もし、引き取らない場合は、早々に兵を差し向ける」と警告します。

それでも、長州藩は引き上げようとはせず、新選組が18日の明け方に、伏見長州藩邸へ
焼き討ちをかける準備をしていたところ、午前5時頃、伏見の方で大砲の音が聞こえました。

伏見の警備地区では、大垣藩が会津軍事方を頼って、伏見が手薄で心もとないと言い、
速やかに会津兵と新選組は伏見へ向かいます。

彦根藩が伏見関門を守っていましたが、長州藩の勢いに押され、この関門を通してしまいます。

長州藩は次に、大垣藩が守る関門へ向かいますが、大垣藩は長州勢に大砲を撃ち込み、
ついに戦端が開かれました。

世にいう「禁門の変」の始まりです。

しばらく激しい戦闘が繰り広げられますが、長州藩の伏見方面のリーダーである福原越後が
砲弾にあたり落馬します。

そのため、長州勢は大混乱となり、散り散りになって退却を始めました。

新選組は伏見稲荷から墨染まで追い討ちをかけましたが、福原越後は負傷したものの
大坂から船で下ったため捕らえることはできず、その後、新選組は九条河原へ帰陣しました。

しかし、夜が明けると御所の方で大砲の音が聞こえました。
新選組が屋根に上がって確認すると、御所付近に黒煙が上がっているのが見えます。

近藤は、すぐさま九条河原から御所へ向かうと指揮をしました。

この時、天王山、嵯峨・天龍寺にそれぞれ布陣していた長州勢は、市中に敷かれた厳しい
警戒線をかいくぐって御所に到達していたのです。

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