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伊藤大八☆中央本線辰野経由を実現、伊那電建設の布石をうつ明治27年、帝国議会において中央本線が木曽谷経由と決定されたが、 この路線決定までには、伊那谷経由線の実現を願う伊那谷住民の熾烈な運動があった。 伊那谷の住民が待望していた汽車が、辰野駅に初めて停車したのは 明治39年6月11日であった。 この日、伊那富村では開通祝賀会が盛大に行われたが、鉄道開通に合わせて 現在の下辰野本町通りが駅路として開かれ、伊那富橋も平出大橋も、 6月10日までには落成を見たため、その開通祝賀会も兼ねて行われた。 駅前の箕輪屋と松葉屋の旅館も大勢の客を招いて開業披露が行われ駅前は大変な賑わいであった。 一般の人や近郷の人は羽織袴、紋付きという服装で汽車見物に押しかけ、 伊那富村はじまって以来の人出を見たという。 この日は、小野と岡谷まで無賃で乗車が許され、物好きな人は、日に2、3回も乗ったそうである。 辰野駅開設に至る経過については、伊藤大八の功績によるところが大きい。 いや、辰野町は勿論、伊那谷に今日の発展をもたらしたのは、彼が中央本線を 辰野へ迂回させた結果によるからである。 中央本線の伊那谷経由が実現しなかったので、伊藤はせめて辰野経由だけでも実現させたいと考えた。 この時伊藤は帝国議会議員であり、鉄道局長という要職にもあった。 当時、鉄道敷設の権限をもっていたのが『鉄道会議』であったが、 ここでは、中央本線は下諏訪から塩尻峠をトンネルで塩尻へつなぐ案が強力で 辰野経由など全く考えられていなかった。 何とかしてこの案の撤回を図り、辰野回りを実現しようと奔走した。 鉄道会議では、この2案を検討するため現地調査を実施し、伊藤も調査に立ち合った。 そして議案書に独断で『辰野経由』の文字を書き込んだといわれている。 議会は、議案書をあまり検討せず、多数で議決し、中央本線の辰野回りが実現したのである。 こうした伊藤大八の功績をたたえて、 この路線を『大八線』とか『大八回り』と呼ぶようになった。(辰野町誌)
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