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飯田線vs高速バス国鉄時代の飯田線には、「急行全盛期」があった。 長野方面へ3往復、東京方面へ3往復、名古屋方面へ4往復あり、 現在の飯田線のように短距離輸送に徹するローカル線ではなかった。 しかし、長距離利用も大きかった飯田線の一大転機となったのが 中央自動車道の開通である。 中央道の開通により長距離高速バスが運転を開始し、 線形の悪い飯田線を尻目に「速い安い便利」を売り物に飯田線の利用客を奪っていった。 高速バスの運転開始は国鉄・飯田線に大きな衝撃があった。 飯田線は急勾配・急カーブや軌道が私鉄建設線のため貧弱で、 スピードアップがままならず、高速バスに対抗する手段はなかった。 飯田線と高速バスの比較(昭和58年当時)
開通前まで4両編成の列車一杯に乗客が乗っていたが開通後は利用者が激減。 1本あたり300〜400人程度の利用が10〜20人程度に激減した。 51年6月の飯田駅の遠距離乗車券の売上を中央道開通直前の50年6月と比べてみると、 名古屋行は1097枚から76枚と93%の大幅な落ち込みようであった。 名鉄線接続95%減、名古屋以西76%減、本来は中央道と関係のない豊橋も57%減と、 飯田線長距離列車は、壊滅的な状況に陥った。 また飯田線の1日平均乗降車客も40年の10万7千人をピークに 50年には、6万1千人とほぼ半減。 まさに中央道の開通により長距離客の激減と飯田線の利用客は 減少に一途をたどる飯田線にとっては試練の連続となった。 当時の長野県の地元紙・信濃毎日新聞に国鉄の石田鉄局がインタビューに答えている。 そこで、石田鉄局は悲観的な見通しを示唆し、 「ここまでの運賃・所要時間の差では如何ともしがたく、将来的には廃止、 運行区間の見直しが必要である。沿線住民のマイレール意識がないと厳しい」としている。 高速バスの対決に負けた飯田線は61年までに急行列車全廃、 とうとうローカル線と成り下がったのである。 飯田線急行列車の敗因のすべてはスピード不足という致命的な欠点にあったことは、 隠しようのない事実ではあるが、「いずれは特急化」といわれた急行列車もあり、 それが普通・快速列車に格下げされた事は、 あまりにも飯田線の敗北を象徴づける結果になってしまった。
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