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国鉄・中津川線の軌跡長野県は、主に3つの経済圏に分かれています。 北部の長野盆地、中部の諏訪盆地、そして飯田線が南北に縦断する南部の伊那盆地です。 伊那谷の中心都市として発展してきた飯田市は、南アルプスと中央アルプスに 挟まれた河岸段丘上に位置して天竜川沿いに南北を結ぶ飯田線、そして三州街道に 交通手段を依存してきました。 しかし、谷は深く、断崖絶壁に線路や道路が敷設されているため、 毎年のように土砂崩れで不通になっていました。 脆弱な物流網は、伊那谷経済が伸び悩む最大の原因となっていたのです。 こうした悪条件を克服すべく、地元が要望したのが東京と飯田、名古屋を結ぶ中央道。 そして飯田と岐阜県中津川市を短絡して結ぶ国鉄中津川線だったのです。 中津川線の原型となる鉄道構想が浮上するのは1920年(大正9)の事でした。 当時、辰野〜駒ヶ根〜高遠原間で営業していた伊那電気軌道は、飯田までの長工事に 取り掛かっていましたが、飯田より先は断崖絶壁で、それ以上の延長は難しいと考えられていました。 そこで飯田と中央本線三留野(現・南木曽)を結ぶ鉄道計画が民間の手で進められます。 結局、免許獲得には至りませんでしたが、22年に鉄道敷設法が改正された時に、 辰野〜飯田〜浜松間の第60項線(現在の飯田線、佐久間線)の支線として 「飯田ヨリ分岐シテ三留野二至ル鉄道」が予定線になります。 しかし、その後は鉄道構想は中央線誘致の失敗などにより失速します。 この鉄道建設運動が再燃するのは、51年8月でした。 飯田中津川線開発期成同盟会が結成されましたが、まだまだ運動は低調でした。 それが変わったには55年、長野3区選出の宮沢胤代議士が地元飯田に凱旋した時です。 その際、地元関係者は飯田と中津川を結ぶ国鉄バスの運行を陳情するのですが 宮沢は「バスよりも鉄道の方がいいのでは・・・」と助言します。 そして実現に最大限努力するとと明言までするのです。 宮沢は56年12月に運輸大臣に就任し、夢物語であった中津川線構想が現実味を帯びてきます。 宮沢運輸大臣の他にも、中津川を地盤とする楯兼次郎代議士や、運輸政務次官の金丸信代議士なども建設運動に参加。 その甲斐があってか、57年4月に鉄道建設審議会は飯田〜中津川〜下呂を結ぶ飯下線を調査線に採択します。 56年6月の大嵐水害で飯田線大嵐付近や国道153号が長期間不通になり 伊那谷経済が動脈硬化に陥る事態が起きると、安定した鉄道輸送を期待する声が高まります。 一方、長野県読書村(現・南木曽町)などの木曽郡では三溜野から飯田間の 「飯三線」の敷設を強く要望していました。 大正9年からの構想で、予定線にもなっているルートであり地元は期待する声が強かったのです。 長野県議会でも「飯田三留野間鉄道敷設実現ついて」なる意見書も可決されています。 突然のライバル出現に中津川線関係者は驚きます。 中津川線推進グループは運輸大臣や大蔵大臣、国鉄総裁に陳情をしますが 地元がふらついているようでは実現すらおぼつかない状態になります。 この対立には神坂村問題があり、木曽の人々は「中津川憎し」の感情があり 中津川を経由する事がどうしても許せなかったというものでした。 当然、11月から始まった鉄道建設審議会でも飯呂線(中津川線)と飯三線が 分裂している事が問題視され、建設候補地46線のうち飯呂線は上位ランクに いながら次年度の工事線昇格は見送られます。 落胆したのた地元、特に飯田市など伊那地区関係者は、とにかく中津川市と木曽郡の対立解消のため奔走し、 60年9月に伊那地区の仲裁で両派とも和解します。 61年6月に鉄道敷設法が改正され、飯田〜中津川も予定線に採用されます。 丙線規格で単線ながら電化される事も決まり、地元は大いに喜びました。 この後も三留野分岐を求める声がありましたが、何とか退け 62年3月、鉄道建設審議会の総会で中津川線の建設線昇格が認められます。 1963年(昭和38)8月から国鉄本社の技師たちが現地を訪れ 飯田から園原、富士見台、中津川を調査します。 その後、新線工事は64年3月かた鉄建公団に引き継がれ、 4月に運輸大臣から鉄建公団総裁に対して基本計画が示されます。 その際、中津川線の重要度から中津川線の規格を亜幹線を示す乙線(B線)に変更されます。 そして66年12月、ついに工事実施計画が認められます。 翌年1月には鉄建公団名古屋支社長が現地入りして説明会を行い、ルートと駅位置が発表されました。 飯田〜中津川36,7キロ単線電化で、12,7キロの神坂トンネルを始め 20,5キロがトンネル区間のなる大規模な工事でした。 伊那中村、伊那山本、阿智、昼神、神坂、美濃落合の4駅と、 神坂トンネル内に2つの信号場が設けられることになり、 完成の暁には、名古屋〜飯田間202キロに急行で4時間かかっていた 116キロに短縮され、1時間30分〜2時間で結ばれる鉄道計画でした。 完成目標は74年。 ところが、用地買収の交渉は難航します。 当時、中津川線のルートと平行して中央自動車道の用地買収も行われており 貴重な耕作地を奪われる事になる農民が猛反対したからです。 また鉄建公団と道路公団の買収を見込んで地価は高騰していました。 用地買収の委託を受けた長野県は7月に価格発表し、地権者と調整に入り、 10月末までに何とか飯田市内の中村地区だけは妥結に漕げ付けます。 1967年(昭和42)11月、ようやく二ツ山トンネルの掘削工事が着工され 順調に進み71年までに路盤工事とトンネルはほとんどの部分が完成します。 毎年4億円の予算が付き工事は順調に進んでいきます。 しかし石油危機で物価が高騰し、予算が据え置かれた事で大幅な事業縮小になり、 そして地元の中津川線に対する期待も次第にしぼんでいきます。 この背景には中央新幹線構想の存在が大きかったと言われています。 中津川線と中央新幹線とのルートがかぶり、 鉄建公団内でも「二重投資ではないか」との疑問の声があがります。 そんな73年4月、神坂トンネル阿智側から1348m地点まで 掘り進んだ所で掘削機械が故障して、工事は事実上中断してしまいます。 そのため76年までに計上された予算額22億5000万円は全額執行されず、 相当分が他線区に流用されてしまいます。 この間、中津川線に先行して進んでいた中央自動車道の恵那山トンネルが貫通し、 75年8月に駒ヶ根〜飯田〜中津川が開通します。 こうして伊那谷住民の悲願は遂に達成されました。 名鉄バスと信南交通は特急バスを走らせ、予想の年間14万人を大幅に越える 年間23万人を輸送する黒字区間となります。 とうとう79年には中津川線建設に1億7000万円しか予算が付かず、 80年8月に工事はストップしてしまいます。 高速バスが年々充実していく中、第三セクター化の声も盛り上がらず、 89年(平成元)に清算事業団に引き継がれ、事実上中津川線の夢は消ました。 伊那谷住民の長年の悲願は中央道によって叶えられ、 中央道の開通によって伊那谷経済は飛躍的に発展しました。 しかし、中央道開通によって中津川線の役割はなくなり、 飯田線の利用者も激減、伊那谷の交通形態は大きく変る事になりました。
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