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野球場史

1.明治・大正期 年表

 わが国における最も古い野球場は、新橋アスレチック倶楽部が造った保健場だといわれている。
 明治時代は学生野球が盛んで、大学によって設けられた野球場が多かった。すなわち、早稲田大学の
戸塚球場、慶應義塾大学の三田綱野球場明治大学球場などである。
 また電鉄会社による沿線開発の一環として野球場が設けられた例も多い。京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)の
羽田球場、阪神電気鉄道の香櫨園グラウンドおよび鳴尾球場、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の豊中球場、その後身である京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)の宝塚球場などである。
 明治時代には野球場経営を目的とした組織もみられる。先の
羽田球場を運営する日本運動倶楽部がそれである。また大正時代にはプロ野球チームの組織を念頭においた日本運動協会が設立された。東京・芝浦を本拠地としたため芝浦協会ともよばれ、芝浦球場を設けた。
 芝浦協会は関東大震災がもとで二年足らずで解散したが、阪急の小林一三が
宝塚運動協会として再起させた。そこで本拠地として用いられたのが宝塚球場である。
 1915年より
豊中球場ではじまった中等学校優勝野球大会は年をおうごとに盛んになってきた。1917年からは会場が2球場を擁する鳴尾球場へ移ったが、それでも人気のあまりスタンドに入りきらなくなってしまうほどであった。そこで阪神電気鉄道は1924年に甲子園球場を新設した。7万人も収容できるこの大球場に当時はこんなに入るのかと懸念されたが、いざ大会が始まるとスタンドを埋め尽くすような大観衆が押し寄せた。1924年に名古屋の山本球場で始まった選抜中等学校野球大会も1925年から甲子園球場に移った。
 ちなみに年号の覚え方はこうである。
「一球に 勝利をかけて 甲子園」。1924年ですね。ちなみにこういったのもある。「一球に 賜杯をかけて 甲子園」。これだと1924年8月1日完成までわかる。ただし、いただくのは賜杯ではなく真紅の優勝旗みたいなので、ちょっと不適当か。ならば「一球に 真紅をかけて 甲子園」でもいいのだが、ここはひたむきに一勝を目指す高校球児を思うと一番最初のがいいのかな。
 阪神電気鉄道の甲子園球場の大成功は、他の電鉄会社に大きな影響を及ぼした。特に関西では反応が大きく、大阪鉄道(現在の近畿日本鉄道)が
藤井寺球場、南海鉄道(現在の南海電鉄)が中モズ球場を沿線に新設した。これら以外に電鉄会社が設けた野球場として、京成電鉄の谷津遊園野球場、愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)の鳴海球場、美濃電気鉄道(現在の名古屋鉄道)各務原球場、九州鉄道(現在の西日本鉄道)の春日原球場、博多湾鉄道汽船(現在の西日本鉄道)の香椎球場などがある。
 野球場の設置者は学校と電鉄会社が多く、公営の野球場がみられるようになったのは大正時代からである。
 特に長野県では1926年から1928年の間に
長野市営城山野球場長野県営松本野球場上田市営野球場と、県下3都市に相次いで野球場が完成した。
 1926年には東京に
明治神宮球場が竣工した。明治神宮球場は主として大学野球などのアマチュア野球が行われ、日米野球の際にも用いられている。

2.昭和戦前期 年表

 1936年に現在のプロ野球の起源である日本職業野球連盟が発足し、プロ野球チームの対戦がはじまるわけであるが、当時はまだ野球場があまり整備されていなかった。特に東京では早稲田大学の戸塚球場を借りて行われた。明治神宮球場はアマチュア野球専用の野球場で、プロ野球に貸し出されることはなかった。1936年のプロ野球は東京、大阪、名古屋の3都市で行われた。大阪では甲子園球場と宝塚球場、名古屋では山本球場と鳴海球場が用いられた。東京では戸塚球場の他に、連盟チームであるセネタースが西武沿線に上井草球場を、大東京軍が洲崎球場を造ったのでそこが用いられた。
 翌1937年には東西に2つの野球場が建設された。すなわち
西宮球場後楽園球場である。1リーグ時代はこの両球場と甲子園球場の3球場でほとんどプロ野球が行われた。1937年は2・26事件がおこった年でもあり、日本は戦時体制に突入していく。戦前に建てられた公営の野球場には軍事訓練の場や空襲の避難場所など、軍事目的で設けられた。
 1942年からは戦局が悪化し、終戦の1945年までに設けられた野球場は、確認できるだけで
宇部市営恩田野球場のみである。なお1941年12月8日は日本軍が真珠湾を奇襲した日であるが、のちの広島カープの本拠地球場になる広島県総合野球場がこの日に竣工している。

3.昭和終戦直後期 年表

 終戦直後はGHQの後押しなどにより野球ブームが訪れた。そのためかどうか詳しいことはわからないが、終戦後10年間の間に多くの野球場が建設されている。野球場に限らず陸上競技場などのスポーツ施設も多く建設された時期でもある。
 プロ野球関連では1948年に
中日球場が完成した。
 プロ野球ブームのさなか、1949年に
太平洋野球連盟(パ・リーグ)セントラル野球連盟(セ・リーグ)が分立し、それに伴いプロ野球チームもそれまでの8チームから15チームにほぼ倍増した。しかし本拠地球場を持つチームは少なく、特に東京では5チームがいずれも後楽園球場を本拠地とするありさまであった。
 一方、関西のプロ野球チームは電鉄会社を親会社とするのが多く、新球団である近鉄パールスでさえも藤井寺球場を所持していた。また1950年は大阪に
日生球場大阪球場が建てられた。関西は関東よりも野球場の環境がよかったといえよう。
 後楽園球場を本拠地とするチームは、後楽園球場を使用できないときには関東の野球場を利用していた。
栃木県総合運動公園野球場敷島公園野球場大宮公園野球場千葉公園野球場平和野球場などがそれにあたり、1952年に完成した川崎球場も同様であった。
 終戦直後10年間に多くの野球場が設けられた。これは野球場だけでなく陸上競技場などのスポーツ施設も同様である。野球場の立地としては、戦時中の軍事関連施設や工場の跡地に設けられたものが多くみられる。

4.昭和後期 年表

 1955年以降は野球場の建設ラッシュも衰えた。国や地方自治体のスポーツ政策により、新設される野球場はほとんどが公営のものであった。
 そのなかでプロ野球チームの本拠地として建てられたのが
東京スタジアムである。1962年に東京の下町に設けられ、大毎オリオンズの本拠地となった。なお1962年は球団数の関係上、後楽園球場を追い出されて駒沢球場へ移っていた東映フライヤーズが、東京オリンピック用の競技場建設のため移らされた明治神宮球場を経て、後楽園球場に復帰した年であり、国鉄スワローズがその入れ替わりに明治神宮球場に進出した年でもある。
 しかしこの東京スタジアムもわずか10年あまりしか用いられなかった。1973年には中日球場を運営する中日スタヂアム(株)、東京スタジアムを運営する(株)東京スタジアムが相次いで破綻をきたし、野球場の民間経営の難しさが浮き彫りになった。中日球場は1975年に
ナゴヤ球場として再スタートした。公営野球場の増加により、野球場の民間経営が逼迫してきたのである。
 1978年には
横浜公園平和野球場の跡地に横浜スタジアムが、1979年には所沢に西武ライオンズ球場が完成した。
 立地でいえば、大都市の市街地に野球場用地を求めるのは難しくなり、郊外に建設する傾向がみられるようになった。特に1968年の都市計画法の施行は、公営野球場の郊外立地の傾向をより強めた。

5.平成期 年表 平成期の使用球場

 平成の年号は1989年から始まるが、野球場史としてはその前年の1988年が一つの転機であろう。すなわち東京ドームの完成とその後のドーム時代の到来である。以降、1993年に福岡ドーム、1997年に大阪ドームナゴヤドーム、1999年に西武ライオンズ球場に屋根がかぶせられ西武ドームとなった。そして2001年6月には札幌ドームが完成した。現在の12球団のうち、半数の6球団がドーム球場を本拠地とする。
 1988年からドーム時代が到来したと書いたが、同年に
グリーンスタジアム神戸、1990年に千葉マリンスタジアムが完成した。現12球団で1988年以降完成の野球場を本拠地とするのは7球団である。
 また最近は国際規格を満たしている野球場が増えてきている。国際規格の基準は両翼325ft(99.1m)、中堅400ft(122m)であるが、現在プロ野球チームの本拠地球場として用いられている11球場のうち7球場、特にパ・リーグの全球場がこの基準を満たしている。
 東京ドームの開場以来、わが国にはドーム時代が到来したが、本場アメリカでは「自然のなかで野球を楽しむ」といった考えのもと、逆に1990年代からはクラシックな野球場造りが主流になってきている。わが国でも、グリーンスタジアム神戸は内野にも天然芝を張りつめ、またフェンスの高さを下げるなどしてメジャーリーグを志向している。近頃発表された広島の新野球場案も甲子園球場の改築案も、ドーム化にするのではなく、天然芝のグラウンドが基調となっている。わが国もこれからはレトロ調な野球専用のスタジアム「ボールパーク」が増えていくのであろうか。

6.近年の動向 関連表

 文部省体育局の調査によると、1996年10月における全国の野球場(ソフトボール場を含む)の総数は12,319である。これはスポーツ施設別にいえば、体育館、多目的運動広場、水泳プール(屋外)、庭球場(屋外)についで5番目に多い数字である。
 この調査は1969年からはじまり、1975年、1980年、1985年、1990年、そして1996年と、およそ5年ごとに行われている。
 野球場・ソフトボール場の総数は1985年こそ前回の数字を下回ったが、全体的には増加の傾向にある。
 先に述べたとおり、1996年の野球場・ソフトボール場の総数はスポーツ施設別にいえば5番目の多さである。しかし、体育館、多目的運動広場、水泳プール(屋外)の約8割、庭球場(屋外)の約半数が小学校や中学校などの学校体育スポーツ施設であるのに対し、野球場・ソフトボール場は学校体育スポーツ施設の割合がわずか16%しかない。
 最も高い構成比を示すのは公共スポーツ施設で7,943箇所である。これはスポーツ施設別では体育館に次いで2番目に多い数である。職場スポーツ施設は1,607箇所で、これもスポーツ施設別では庭球場(屋外)に次いで2番目に多い。
 1969年に構成比として最も多かったのは職場スポーツ施設で約43%であった。職場スポーツ施設は1980年には4,000箇所を超えてピークに達したが、それ以降は減少し、1996年には1969年よりも少ない1,607箇所になり、構成比もわずか13%になった。職場スポーツ施設は会社が社員の福利厚生を目的として設置され、主に社会人野球チームが使用していたが、職場スポーツ施設の減少は近年の社会人野球の衰退に大きく関係しているものと思われる。
 逆に構成比が増えたのが公共スポーツ施設である。公共スポーツ施設とは都道府県および市区町村により設置された施設である。1969年には全国でわずか853箇所だったのが、年をおうごとに急激に伸びてきて、1985年には構成比で最も大きくなった。その後も増え続け、1996年には約8,000箇所に達し、構成比でも約65%を占めるようになった。
 学校体育スポーツ施設は箇所数の増減が激しいが、1980年以降は構成比は10%台でおちついている。大学・高専体育施設は構成比こそ減少しているが、箇所数自体は増加傾向にある。民間スポーツ施設は1980年に急激に伸びたが、その後は減少している。

 最近の野球場の特徴としては、国際規格への適応があげられる。わが国のプロ野球では1958年以降、プロ野球球団が建設または改造する野球場の大きさについては、アメリカと同じく、両翼は最短325ft(約99.1m)、中堅は最短400ft(約121.9m)を必要とすると定められた。しかしながら、プロ野球チームは久しくこの規定以下の狭い野球場を本拠地としていた。初めて国際規格を満たしたプロ野球チームの本拠地球場は1988年に完成した東京ドームである。これ以降,プロ野球チームの本拠地球場は、ラッキーゾーンの撤去や国際規格を満たす野球場の新設および移転により、グラウンドが広くなってきている。2001年現在、プロ野球の本拠地球場となっている11球場のうち、7球場が国際規格を満たしており、また地方球場でも大きな野球場が建設されてきている。
 このようなグラウンドの拡大は野球場の規模に大きく関わっている。2001年現在の本拠地球場のなかで敷地面積が最も狭い広島市民球場で23,730m2、平均でも約4haを要している。これは野球場の敷地面積だけなので、建蔽率などを考慮するとさらに広大な面積を必要とする。民間経営のプロ野球チームの本拠地球場は観客動員の都合上、都心近くに設けられる場合が多い。2001年現在、プロ野球チームの本拠地で民間経営の7球場のうち,5球場が東京、横浜、名古屋、大阪、福岡といった大都市の都心近くに設けられている。ただし、地方公共団体が設置する野球場は、プロ野球チームの本拠地球場であっても郊外に設けられる傾向にある。

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