このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

瀋陽と大連

往路は瀋陽へは国内線で移動しました。40人くらい乗れる プロペラ機 です。搭乗後、スチュワーデスがすぐに機内サービス。中国も最近はサービスがよくなったんだと思ったのも、束の間のことでした。 搭乗記念と書いてある扇子 をくれたのです。嫌な予感はあたり、機内は大変暑かった。瀋陽までは、約2時間。瀋陽のレストランで昼食の時のことです。足のあるものは、人間とテーブル、椅子以外は、羽のあるものは飛行機以外はなんでも食べるといわれている中国。このレストランには、 食用の?孔雀ヘビ 、カエルなどが生きたまま飾られて?いました。瀋陽は米はおいしいのですが、孔雀の味はためしてみませんでした。午後は、北陵、瀋陽故宮、瀋陽博物館を見学後、瀋陽駅へ。旧満州時代は「奉天駅」。交通の要衝 「奉天駅」 は「満州」で生活をしていた4人にとっては、何度も乗降した駅です。駅前には、ソ連軍が建てた 戦勝記念碑 。駅前から人民広場へ。ここには、中国でも最近は数が少なくなったといわれる毛沢東像が建っています。広場に向かって、「ヤマトホテル」。この近くには「奉天医科大学」や「奉天神社」などがかつてありました。

ここで、今回中国で聞いた冗談を一つ。毛沢東像は右手を上げて、掌をひらいています。これは、いわゆる「下放政策-青年は農村へ」で5年間、農村へ行くように指示をしているのを表わしています。しかし、青年には5年経ってもで都市へ戻ってこいという指示は出されませんでした。8年経って、都市へ戻ってこいという指示がきました。なぜか?その答えは毛沢東像の左手にあります。毛沢東像は左手をお尻のところまわしていますが、その左手で指を3本出している。というものです。実際の像では、親指で人民帽を持っていて、その帽子の下で指を3本出しているのでしょう。

福岡 - 大連の中国国際航空を利用しました。大連は今年、市政100年のお祝いをしています。大連はロシアが港を開いた街です。ロシアが港を開いてから100年が経ったのです。日露戦争の結果、南満州鉄道の経営権を日本が譲り受けます。1945年当時の大連の人口は約50万人。内訳は日本人40万人、中国人10万人と言われています。大連では、大連港、旧満鉄本社、中山広場などを見学し、100年の歴史のある「群陽楼」で海鮮料理を食べました。 旧満鉄本社 の前のマンホールにはレールにMの 「満鉄」マーク が残っていました。中山広場のまわりには「ヤマトホテル」「朝鮮銀行」などの建物が残っています。 大連駅は上野駅を模して造られた ものです。そういえば、韓国の大邱駅も上野駅を、ソウル駅は東京駅(赤レンガ)を模して造られたものだったと記憶しています。設計者の意図はどこにあったのでしょうか?

今回の旅の日程1999年7月31日-8月7日

福岡 - 大連(飛行機) 大連で1泊

大連 - 瀋陽(飛行機) 瀋陽で1泊

瀋陽 - 錦州(列車)  錦州で2泊(錦州-葫芦島までの日帰りの旅を含む)

錦州 - 阜新(車)   阜新で2泊(途中、義県に立ち寄り、古塔を見る)

阜新 - 瀋陽(車)

瀋陽 - 大連(列車)  大連で1泊

大連 - 福岡(飛行機)


 ホームへ   このページのTOPへ  錦州の旅へ  阜新の旅へ  準備編へ

 連絡先   kihei-koba@geocities.co.jp(小林 喜平)

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください