このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

錦州の旅

大連や瀋陽ではほとんどみかけなかったロバが錦州で出迎えてくれました。錦州ではロバの馬車が輸送手段の現役として活躍しています。ホテルで昼食をとった後、まずは「東洋綿花紡績工場」を車内から見学。いまも、紡績工場として使われていました。続いて、「 鉄路局 」。ガイドさんが建物の裏の方に案内したので、これはちょっと違うの声。車を表に回すと、やっと納得。現在は携帯電話の会社が使っています。次ぎに訪れたのが矢野(別府)緑さんが通っていた「 錦州女学校跡 」。現在は錦州市の実験中学校です。昔の建物は3ヵ月前に取り壊されたばかりでした。隣の 富士小学校 には戦前の建物が残っていました。辻向かいの 「錦州女学校の寮」 のあったところは公園になっていて、美しい花が咲いていました。あと、5年早く来ていたら、昔の建物ももっと残っていたのですが…。

中国はどこも工事中。改革開放の中、至るところでビルの新築工事が行われています。しかし、中には工事途中で中断したものもあります。提携外国資本などが不況で資金が続かないのです。今の中国は変化が激しく、5年前の情報はほとんどあてになりません。1年前の情報なら、なんとか役にたちます。中国に行かれる方には、最新の情報を得ることと、新しい地図を準備されることをお勧めします。

続いて、 「大馬路」 へ。かつての錦州の繁華街です。「大馬路」には、小宮孝喜さんが通っていた 「錦州中学校」の寮 がありました。「錦州中学校」は小宮孝喜さんが在学中3回移転しています。「錦州女学校」もそのうちの一つ。 寮の跡 は商店になっていました。「大馬路」の一角は失業者が開いている 露天 がありました。次ぎに訪れたのが錦州のシンボル 「ラマ塔」 です。八角十三層の塔で、「ラマ塔」と呼ばれていたのですが、仏教の塔です。戦前の「ラマ塔」はもっと荒れ果てていたそうですが、今は改修されてきれいになっています。日本からも、錦州ゆかりの人たちが 募金を寄せています 。戦前は錦州のどこからも「ラマ塔」が見えたそうですが、高層の建物が増えた今は、そうもいきません。「ラマ塔」のあるこの仏教寺院「広済寺」には、「日清戦争の記念館」があります。

夕暮れ近く、 「錦州中学校跡」 へ。現在は錦州市十三中学校。卒業生の小宮孝喜さんが同窓生から聞いた話では、まだ煙突が残っているとのことでしたが、取り壊されてなくなっていました。 夕日の沈む方角に見えた鉄橋校庭 からはみることができませんでした。錦州からこの鉄橋を渡って、 山海関-天津-北京へと鉄路は続いて います。

葫廬島 へ

翌日は、母、松熊(小林)つや子と矢野(別府)緑さんが日本への帰還船に乗った港、葫廬島へ。錦州から車で約1時間30分。葫廬島は渤海湾の中程に突き出た半島です。張学良が開いた港と敷設した鉄道があります。この鉄道が作られる以前は、満州の産物はすべて南満州鉄道で大連まで運んで、船で輸送していたのですが、「それでは満州の富はすべて日本人の手に委ねられる」と考えた張学良は、まず葫廬島に港を開き、満鉄と平行した鉄道で葫廬島まで運ぶ計画を立てたのです。当時の大きな政治問題「満鉄平行線問題」です。張学良の計画は成就しなかったのですが、港までの短い区間の鉄道は完成しました。何度も途中で道を確認しながら、葫廬島の港が見える小高い丘の上にある公園に着きました。この公園には張学良の顕彰碑があります。残念ながら、 埠頭には造船所などがあり 入ることができませんでした。母、松熊(小林)つや子と矢野(別府)緑さんは阜新から、2度野宿をし、無蓋貨車に乗って葫廬島に着きました。ぼろぼろの服で、坊主頭、それはみじめなものだったそうです。葫廬島までたどり着きながら、亡くなられた方もありました。港から見える島に埋めたそうですが、その島がどの島なのかわかりません。母と矢野(別府)緑さんはこの公園に咲いていた 小さな花 を押し花にするために 摘んで 帰りました。

蒋介石の国民政府の立てた計画で、1946年6月に母は引き揚げてきました。今回の旅に同行した小宮孝喜さんは、敗戦の3日前の8月13日、大連で招集をうけ、任地に着いたのが8月15日。「ソ連兵にやるくらいなら、おまえたちにやる」と軍隊の倉庫にあった食料や靴などをもらって、大連に戻ってきました。しかし、いいことばかりは続きません。大連を占領したのが、ソ連と毛沢東の共産軍。引き揚げは1947年2月でした。寒い大連で2度の冬を越すことになったのです。小宮孝喜さんの話では、2度目の冬が特に辛かったそうです。2度目の冬を越すことができずに亡くなったかたもありました。母、松熊(小林)つや子と矢野(別府)緑さんは張学良が葫廬島に港と鉄道を作ってくれたおかげで、ひと冬を越すだけで日本へ帰れたわけです。

葫廬島からの帰りの車の中は、みんな無言でした。旅の疲れだけでは、なかったと思います。

午後は「錦州神社跡」へ。現在は「遼瀋戦争記念館」のある公園になっています。遼瀋戦争とは、蒋介石軍と毛沢東軍の国共戦争のことです。社があったと思われるところには、 解放記念碑 がたっています。昔の参道と思われるところには、沖縄の「平和の礎」のように遼瀋戦争でなくなった 兵士の名前が刻んである碑 が壁のように連なっています。「錦州神社」をあとにして、神社の裏手にあったという「錦州中学校跡」へ。小宮孝喜さんにとっては2番目の「錦州中学校」ですが、ここだと思う学校を見つけたのですが、どうも確信が持てません。この学校の先生に聞いても、昔のことはわからないということで、心を残しながら、市内を見渡せる展望室のある駅前のビルへ行きました。 「錦州神社跡」が遊園地の観覧車越し に見えます。眼下には、小宮孝喜さんが錦州中学校の入学試験の時に泊まったという 「奉山ホテル跡」 が見えます。今は、一階は商店、二階より上はアパートとして、使われているようです。


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 連絡先   kihei-koba@geocities.co.jp(小林 喜平)

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