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戦後民主主義は世界に誇り得るか
〜入江 昭ハーバード大教授の所論を批判する〜

中島 健

■1、はじめに
 著名な政治家による「失言」が相次いでいる中で、『朝日新聞』2000年6月18日(日)付け朝刊4面に、「『神の国』『三国人』発言 日本の『資産』を損なう」と題したインタビュー記事が掲載された。これは、先の石原慎太郎東京都知事の「三国人」発言や森義朗首相の「神の国」発言といった相次ぐ「内向きな言葉」に対するアメリカの反応を紹介するもので、入江 昭ハーバード大学歴史学部教授が答えている。入江教授は『日本の外交』『続・日本の外交』(ともに中公新書に収録)をはじめとする各種の著名な献の著者であり、日本人としてはじめてアメリカ外交史学会会長、アメリカ歴史学会会長等を歴任された、我が国を代表する国際政治学者である。
 記事の中で入江教授は、「冷戦後の一つの流れとして、より開かれた、グローバルな世界ができている。」「各国が国際的なつながりを強めていくことは、好ましい方向」なので、日本も「グローバル化した世界がより平和的に、より健全な方向に進むように努力すべき」とした上で、「一連の(神の国、三国人)発言の根本には」「日本の特殊性、ユニークさへの思い」ばかりがあって「まったく普遍性が見られ」ず、「日本がますます国を開いて、協調していかなければならない時に」「ユニークさを示そうという発想法は、日本のためにもならないし世界のためにもならない」、と述べている。そして、これらの発言は「知日派と言われる米国人たちも」「擁護できない」とショックを示しており、米国国内においてその立場を弱めてしまった感があり、「日本全体が保守的な方向に振れている」ことを懸念する人が増えている。更に入江教授は、今日本は「『では何を信じて、何をするのか』と」いうことが問われている現在、「日本がよるべき価値観は神道や天皇制ではなく、戦後民主主義」なのであって、「根本的に誇りうる」「戦後の日本が築いてきたもの」、例えば「核武装もしないで、経済で市民生活を豊かにしてきたこと」を踏まえて、「積極的に世界に貢献していくべきだ」と主張されている。
 だが、以上のような入江教授の批判は、現代の我が国が抱えている本質的・歴史的な問題をあまりにも皮相的に捉えているという他ない。

■2、戦後日本社会が抱える病理とその克服
 そもそも、森首相の「神の国」発言は、「続発する少年事件に対して規範意識を植え付けるような教育をすべきである」という文脈の中で出てきたものであって(無論、その他に、「公明党との連立政権樹立で離れそうになった宗教票を確保したい」といった選挙上の理由もあることは否定できないが)、その背景には、正に入江教授の称賛する「戦後民主主義」と「自由」がもたらした社会の無規範状態が存在する(最近では公務員不祥事もまた社会問題となっているが、これも又、制度論的問題点とは別に、こうした広い視点から「戦後民主主義のもたらした弊害」の一つと分析することが出来よう)。既に、1941年には、フロムErich Frommがその著書『自由からの逃走(Escape from Freedom)』の中で、孤独と不安という「自由の重荷」に苛まれた現代人は新しい従属の道を選ぶか積極的自由への道を選ぶかの二者択一を迫られることを喝破しているが、今日の我が国が抱える諸問題も又、戦後民主主義が、「自由のもたらす恵沢」(『日本国憲法』前文)とともに「産業社会のもたらす慢性的アノミー(無規範状態)」(デュルケム、デ・グレージア)を伴っていたがために発生したものばかりである。なるほど、これはたしかに「戦後の日本が築いてきたもの」には違い無いが、それが「根本的に誇りうる」とまでは到底言えまい。いわんや、不法入国した外国人が多いというのは、出入国管理行政の問題に過ぎない。
 無論、こうした状況に対して、過去の制度や価値観をそのままのかたちで移植することは有効な解決策ではなく、例えば「『教育勅語』を復活させれば心の教育が出来る」といった主張は単純な復古主義に過ぎないというべきであろう。しかし、今、我々が真剣に悩まなければならないのは、「グローバル化、国際化」なる標語の下政治的リバタリアニズムにも等しい「自由化」でも、単純な復古主義でもなく、過去の歴史から学ぶべき規範や道徳を探し出し、更に、現代社会に見合った新たな理念を加えて作り出す「第三の道」による新しい社会規範である。これは、ペレルマンやハーバーマスが説くような、価値観の主体性・相対性を直視しながら、しかも諸主観(主体)間の対話やコミュニケーションの中に間主観的(その意味で客観的)な価値・規範原理の形成を求めて行こうとする「価値の相互主観主義」「対話的合理性」であり、更に、それが「共同化された主観性」に陥ることの危険性を最小限に食い止めるために、歴史的視点を導入したものになるであろう。私はこれを「健全なる保守主義」と呼びたいが、考えてみれば、「時間的・空間的視野を出来るだけ拡大して新しい理念の妥当性を検証する」というのは至極当然のことであり、その帰結として、社会のある程度の保守化(無論、その実は、復古と100%イコールではない)は当然発生する現象なのである。

■3、入江教授の所論の誤り
 この点、入江教授の所論は、少なくとも2つの点で誤りを犯している。
 第1に、入江教授は、森首相らの発言の背景にある我が国社会の問題に目を向けることなく、日本社会の問題と日本外交の軌跡とを混同している。「核武装もしないで、経済で市民生活を豊かにしてきたこと」は戦後民主主義の帰結ではなく吉田ドクトリンの帰結であって、しかも「日米安保条約」によって米軍の世界的な戦力展開に依存するこの政策の当為性は、1990年の湾岸戦争ショック以降、いや、1970年代のニクソンショック以降ずっと問われてきているのである。国内政治体制一つとってみても、入江教授が主張するように我が国の戦後民主制(「国内冷戦」体制に陥った国会には議会政党は自民党1党しか存在せず、政権交代が起こり得なかった)が「モデルとして世界に誇り得るものである」と主張するためには、まずはそれが無規範的な衆愚政治ではなかったこと、我々がそれを克服し得たことを証明する必要がある。入江教授の議論は「木を見て森を見ず」、あるいは「森を見ているようで森(首相)を見ている」議論と言うべきであろう(余談だが、こうした我が国戦後社会の抱える問題点についての認識を欠くアメリカ人を「知日派」などと呼べたものではあるまい)。
 第2に、入江教授は、普遍主義やグローバリズムをアプリオリに肯定しており、これを「より健全な方向」として、我が国の「ユニークさ」はあくまでこうした普遍主義に回収され得る範囲内においてしか認めない点である。入江教授としては「一連の(神の国、三国人)発言の根本には」「日本の特殊性、ユニークさへの思い」ばかりがあること、即ち「まったく普遍性が見られ」ないことを指摘することで森発言を批判したつもりであろうが、ここにこそ、入江教授の普遍主義に対する無批判な肯定が顕わになっている。無論、例えば最も基本的な経済システムや政治システムについては、ある程度の「普遍性」が肯定される局面も存在するだろう。例えば、商業証券や手形・小切手、通信放送、航空運送に関して世界的な標準を定めることは、功利主義的な立場からして容易に肯定され得るし、現に、そうした枠組は、第1次世界大戦以前から、「国際行政連合」というかたちで誕生していた。しかし、ここで入江教授が槍玉に挙げている「内向きの発言」は、多様性が認められるべき「一国の社会のあり方」に関する発言であって、「ユニークさを示そうという発想法は、日本のためにもならないし世界のためにもならない」等と断言できるようなものではない(冷戦後民族紛争・地域紛争が多発しているのも、それまで「自由主義」と「社会主義」という2つの普遍主義に回収されていた各地の「特殊性」が吹き出してきたからであった)。特殊性に言及することの弊害を「リーダーとしての素質論」として語るにしても、森首相が国連総会で民族主義を説いているというようなことならばともかく、国内の、極めて限定された主体に対して語っている場合にまで同等の水準が要求されるかどうかは疑問である(ましてや、石原都知事は地方公共団体の首長であり、発言の真意も別のところにあった)(無論、その主張内容を最も説得的に語るためには、細かい点で表現方法を改めるべきだったことは確かだが)。

■4、おわりに
 なるほど、確かに森首相や石原都知事の発言には、表現方法として何がしかの問題があったことは否定できないことである。それについては、拙稿「 『神の国』発言問題を考える 」及び「健論時報」 2000年5月分2000年6月分 で既に述べてきた通りである。しかし、だからといって、これらの発言を「保守・反動」であるとして批判し、「国際化の流れ」に逆行する等と主張するのは、これらの発言をマスコミ報道の表層的なレベルでしか理解出来ていないことを意味している。私が入江教授の所論を「あまりにも皮相的に捉えている」と批判する所以である。

中島 健(なかじま・たけし) 大学生


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