このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 room 4 - sec. 3 白虎隊の歩いた道(秋):戦場の検討 


  
11月3日、平地の紅葉を待って、取材(?)して来ました
                    (磐梯山は10月20日、赤井川と戸ノ口堰北部は11月11日)

 白虎隊が出陣した旧暦8月22日は、新暦で10月初旬、まだ、紅葉は、一部の葉が
 黄色くなる程度ですが、秋Ver.と言う事で、この日(11/03 会津落城の頃)にしました。
 あいにくの曇天・薄霧であったので、風景に繊細な鮮やかさはありませんが、
 白虎隊が 出陣したのも、霧〜暴風雨であったから、それも良いでしょうか?

 今回は、主たる焦点を、大野ヶ原・戸ノ口原での白虎隊の足跡に、あてました。
 大野ヶ原と戸ノ口原、地図を見ても、歩いてみても、その境界が良くわかりません。

 猪苗代湖の北西に広がる平原の内、北西の、小山の多い、広い部分を大野ヶ原、
 南東の比較的平らな、狭い部分(レクリエーション公園付近)を戸ノ口原と呼んで
 いる様です。

 大野ヶ原(〜戸ノ口原)は、太古の昔、猪苗代湖の湖底でした。
 戊辰時、大半は湿地で、葦・ススキ等が群生し、沼等もあり→、
 一部、丘陵地帯の水はけの良い所が、農地として利用され、
 小山の部分は、松林であったと推測されます。
 (途中径路を少しだけ)
金堀集落  街道に放置された会津藩士の亡骸を葬ってくれた
 のは、この集落の御先祖でしょうか? 右の、鉄塔のある低い
 山が、滝沢峠です。
(”峠を越えると猪苗代湖が眼に入った”
 等と書いてある本もありますが、滝沢峠から、猪苗代湖は見えません。)

 それでは、大野ヶ原(〜戸ノ口原)での、白虎隊の足跡を、少し辿ってみましょう。
  *文中の引用文は、「白虎隊」中村彰彦 著、文芸春秋社、2001.5.20発行を、参照しました*

 下図、中央を、横に真っ直ぐ走っている道は、国道49号線です。
 その下の曲がりくねった黒褐色の道が、白虎が進軍した道、二本松街道です。
 (上〜裏街道、宿場のある下街道は、磐梯町を通り猪苗代に至る。)
 白河街道(左下、暗赤の道)は、沓掛峠(くつかけ峠))(現在は切り通し)を降りた
 所で、二本松街道と別れ、南に下ります。

 下図は、国土地理院1/25000地図を読み込みました。細かい字を読みたい方、 こちら等
 Mac I.E.5等で、画像転送が途中終了した方、画像を右クリックし、画像ロードをクリック!

 :強清水、:白虎隊奮戦の地碑、:赤井川:戸ノ口堰5:十六橋
 :第1胸壁、 :第2胸壁、 :野営地、 :石田 射撃位置

 cf:地図を見ながら説明読みたい方、 ここをクリック し、両・画面の大きさ等を調整して見て!

 (8月22日 午後)第1、第2の胸壁

 酒井峰治の”実歴談”には、
 「(滝沢峠、沓掛峠を越え)強清水の先、一丁半(162m)の左方の小山に、まず胸壁
  (身を隠し射撃するための盛土)を作った。」とあります。

 しかし、強清水の先160m付近左手には、杉林はあれど、小山は見当たりません。
 300m位行くと、視界が開け、真っ赤に紅葉した磐梯山が
 見えます(→)。
  
 :振り返って杉林の方をみると、高さ2〜3Mの
 小山?(←)(不自然な小山だ!円墳か?)があります。
 位置的には、これしか考えられません。
   (→)磐梯山の手前、まだ緑色の低い山は
 (10/20撮影なので緑、11/03は紅葉真っ盛り!)、街道まで続いています。

 これが、「これより、戸ノ口原に達するに・・・幕兵・・敵軍に向かうあり・・その側の
 山に登り、身を隠し・・胸壁を築き・・一戦せり・・我が敢死隊進み来たり・・」とある
 ()第2胸壁と推定されます。「山続きでも戦っていた」という記述にも合ってます。

 (8月22日 夜) 野営地

 白虎隊は、敢死隊から、握り飯を1個ずつ分けてもらい、更に前進し野営しました。

 (飯沼貞吉の回想=「平石会戊」には)「我らは、敢死隊と別れ、道路南側の、松林に蔽わ
 れた小高き丘に停止した。」   (また、実歴談には、)「白虎隊は、ここ(第2胸壁)
 敢死隊に譲り、赤井谷地に転じ、敵を挟み撃たんとす」と表現されてる所に、です。

 :って、(春・夏に)赤井谷地を撮影した、昭和天皇の句碑の
 ある、この()小山ではないでしょうか?”道路の南側”
 ”赤井谷地付近”!、該当するのは、これしかありません。
 広葉樹が多いが、松もある。
 (頂上の松は、公園化の為、伐採したのではないだろうか?)

 C2も道路の南の小山(土の採取で削られている)ですが、敵陣に近すぎます。

 :(→)振り返って、推定第2胸壁(紅葉してる部分)
 見ると、(敵が小人数なら)挟み撃ちに最適です!

  赤井谷地は、一面ススキの原で、他の原野と
 同じ位の赤さでした。乾燥化(+富栄養化?)で、
 植生が変わり、特徴的なコケ類等は激減しました。
  (8月23日)
 大野ヶ原(〜戸ノ口原)の、視界の良い所では、
 紅葉の磐梯山が良く見えます。(10/20撮影)
 (白虎隊出陣の日は、まだ紅葉してないし、霧等の
  ため、あまり良くは、見えなかったでしょう。)
 (8月23日) 戸ノ口堰
 ところで、飯沼の回想には「田圃の中を流るる彎曲せる
 川に身を潜め・・・撃てっ・・・」、実歴談には「新堀
  (戸ノ口堰)
の所に至り・・・土堤の高さ五、六尺(1.8M)
 その上に攀じ登り敵の来るのを狙い、立ち打ちを
 なせしは独り石田和助なり。」等とあります。
 戸ノ口堰のどの辺でしょう? 取水口(→)
 (十六橋水門の左端)(写真の左半、右半は日橋川
)は、
 敵陣のど真ん中過ぎます。

 ←戸ノ口堰は、(十六橋の写真のバックの)小山の後を、
 日橋川に接して流れます。
 (広い水面は、日橋川貯水池。中央のコンクリートは、
 東京電力が、猪苗代湖から取水した出口。)



 戸ノ口堰 本流は、その後、北上し、磐梯C.C.の北〜西を回り
 沓掛峠〜滝沢峠に流れます。街道からは離れ過ぎです。

 石田が立ち打ちしたのは、(あるとしたら、)北上しかけた、
 この辺(→、南に向かって撮影)でしょう。土手の高さも、1.8M位だし。

 敵陣、街道からの距離や方向を考えると、石田や飯沼らが利用した堰は、
 戸ノ口堰本流は考えにくく、その支流か、赤井川 だったのではないでしょうか?

 戸ノ口堰は、地元の開発、東京電力の電源開発等の結果、かなり修正されました。
 支流は、言うに及ばず、本流でも、原形を留めているのは、この取水口近くと、
 金堀の滝、飯盛山裏の水道橋、洞門の出口、位ではないか? と思います。
 (8月23日) 赤井川
 石田は「右先方に進出」しています。地図を見ると解るとおり、
 街道右には、戸ノ口堰は無く、赤井川があります。
 
 赤井川は、赤井谷地の東側を北上、街道に急接近し(地図上
 50m、支流は目測10数mの所あり)、東に向きを変え、現在の
 会津レクリエーション公園の中央付近を流れます。

 右の写真は、造成中のレクリエーション公園西端から撮影しま
 した。左上の紅葉の小山は、野鳥観察ハイドのある所、
 つまり街道沿いです。西軍はこの辺まで
 進軍していたらしい。

 やっぱり、石田が立ち打ちしたのは、
 ここしか有りませんね!

 この付近も低湿地で、ススキの他
 (←)蒲(の穂綿)等も、見かけました。

 HPいかがでしたか?O.K.だったら、ここ、1回クリックしてあげて下さい! 

 (おまけ)          **某書に関する感想**

新人物往来社の「会津白虎隊のすべて」で、前田宣裕氏(会津史学会理事)が、
白虎士中二番隊の戦場・退路について検討しています。さすがに、プロで、”西軍が、
上記赤井川の写真の紅葉の小山付近まで進出していた”事や、my HP次頁で検討し
ている退路に関して、”(赤井谷地の南西角の)廻戸部落に、ここを白虎隊が撤退した
という言い伝えが残っている”等、私の検討を支持する事柄の記載もありました。
私の知らなかった、たくさんの事が記載されていて、大変勉強になりました

しかし
 1.強清水から一丁半の小山を見つけられなかったので、第一胸壁を上強清水
  部落から一丁半の所にした。隊士達は、部落の名前を知っていただろうか?
  その場合、強清水から6丁とか書くのではないだろうか?

 2.原田隊は、22日最前線まで斥候に行って、最後尾に戻り、翌日、また最前線
  まで斥候に行く。今度は、原田隊の一部の酒井グループは、原田と別れて、
  最後尾のまま新堀(前田氏は第2胸壁付近にある鵜ノ浦用水路と考えている)?にいる。
  しかも朝1番に?退却命令が出て、最後尾の新堀で待ち構えたと考えている。
   ????何かと不自然だ!

 3.野営地は、飯沼らは、(前頁の冬の部に載せた)奮戦の碑()の斜向かいの杉林
   (杉は、事件後植林したとしても、胸壁とするにはなだらかすぎ、敵の声や動きが見える
    位置だが、手記にその記載がない、敗走して集合する場所としては、敵に近すぎる)、

  酒井らは、Cだったとしている。

  さしたる戦い・命令のない段階で、バラバラに野営したと言うのは理解困難。
  敢死隊より進んで野営したのに、敢死隊の後方に野営した事になってしまった。

→資料に押し潰され、第一胸壁、新堀、敢死隊の位置・・等、全て間違っているため、
 つじつま合わせに苦しみ、理解困難な複雑な動き の説明になった様に思える。



ギャラリー room4-sec.曲解と妄想による退路の大胆推測 へ進む
お帰りはこちら
ギャラリー room4-sec.2 白虎隊の歩いた道(夏・冬) に戻る?
ギャラリー room4 (白虎隊の歩いた道)トップ に戻る?
ギャラリー・トップ に戻る?
キー・ステーション に戻る?

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください