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ギャラリー room4-sec.4 曲解と妄想による退路の大胆推測 |
*文中の引用文は、「白虎隊」中村彰彦 著、文芸春秋社、2001.5.20発行を、参照しました*
退路!、こりゃ〜解ら〜ん! けど、曲解と妄想を重ね、私なりに、推測してみました。 (クイズを解くみたいで面白いですね!) 飯沼・篠田らは、「野営地に集合した後、"白河街道"の南側を後退して、 ある地点で、南に折れ、赤井谷地の山間渓谷に入った。」 この白河街道というのは(誤解で)、強清水から戸ノ口に至る二本松街道 (上〜裏街道)を意味していると考える。なぜなら、白河街道は、沓掛峠 (くつかけ峠・現在は切り通し)を過ぎた所で、二本松街道と別れ南下しており、 "この南側を後退"では、話が変(直交する!、南の江戸にむかった?)だからだ。 "南に折れた" 所からが、本当の白河街道で、これを南下したのだろう。 下図、青矢印(↓)の様な、ルートだったと推測する。 この後"赤井谷地の山間渓谷に入る"。が、赤井谷地は、低湿地の大平原 である。山間渓谷と言うのは当たらない。(赤井谷地から西へ小山を越えた) 強清水の南に続く平地も、(地図を見ると沼もあり)原野・谷地だったのだろう。 飯沼は、ここも、赤井谷地と見なしたと思われる。 飯沼らは、石山らと同じ頃(時刻)、同じ飯盛山に出た事を考えると、 山間渓谷は、石山らと同じルート(↓)を、たどったと推測して良いだろう。 下図は、国土地理院1/25千地図を読み込みました。細字を読みたい方、 こちら等 (右下角)。 Mac I.E.5等で、画像転送が途中終了した方、画像を右クリックし、画像再ロードをクリック! | ||||||
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cf:地図を見ながら説明読みたい方、
ここをクリック
し、 両方画面の大きさ・位置等を調整して見て下さい。 さて、問題は、酒井・石山らのルートである。 実談歴には、「赤井谷地を引き揚げ、江戸街道(白河街道)を経て、 穴切坂を下り、西に向かう。その左に山路あり」とある。 さらに、「(沓掛で決戦するため)その山路に入った所で、山内小隊長に いさめられ、”いったん敵を避け、後図をなすべく” (やっぱり)その山路 に入った。」様だ。 ?酒井・石山らが、飯沼らと同じく、北から白河街道を下ったとすると、 左に行く道は、戦場に戻ってしまう。沓掛にも、若松にも行き得ない。 なので、酒井・石山らは、(本当の)白河街道を北上したと考える。 つまり、敵を、街道南側から側面攻撃し、敵の追撃を受けたため、 一旦南に撤退してから、赤井谷地や第2胸壁の山続きの南端を 西に向かい小坂付近(右端の赤ピンク色の矢印の先端)に出た。 小坂付近の白河街道は、北西に向かっている。途中に、左(西〜 若松方向)に行く山路がある。実歴談にピッタリ一致している! さらに、「沓掛で決戦するため、山路に入った」とあるが、これは、記載 の誤りで、白河街道を北上し沓掛に向かおうとしたが、追いついた山内 小隊長に、いさめられ、左の山路に入ったと、考えた方が話が通る。
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私が、酒井・石山らのルートとして、ここを選んだのには、もう一つ理由が あります。それは、その後の酒井の退路です。 | ||||||||
「酒井・石山らが入った左の山路は、途中で三方に分れ、酒井は中の 道を進んだ。・・沢にぶつかり、そこを下ると、仮小屋の傍で農耕馬と 農婦親子に遭遇した。・・子供に道案内を頼み、猫山という高地を越え 不動滝の上方に出た」と実談歴にある。 (頁前半の地図をいちいち見るのが面倒な方は、地図をダウンロード・印刷〜 別ウィンドウで見るべし。) 馬を連れて避難?していた農婦親子!途轍もない山奥ではあるまい。 里近くの山際だろう。里近くの沢!このあたりでは、金堀の平地に繋がる 沢しかない! 「高地を越え不動滝(●青丸印)の上方に出る」のも、ここ以外は考え難い。 で、酒井が独り戻った道は、←(赤茶色の矢印)の如くてあったと、 私は、考える。 地図上、私の"山路"は、U字型に山腹を巻いてるだけだが、他に、 まっすく沢に下る道、少し南の旧旧白河街道(背あぶり山を通る道)に 繋がる道と、三本あったと、私は推測する。 これは、かなりな仮定だが、そう仮定すると、以後の話のつじつまが、 とても良く、合っている。
酒井は、3方向の分岐の中の道を、右の長い←(赤茶矢印)の如く進み 沢に出て、沢を下り、●(赤茶丸)のあたりで、農婦親子に会った。
子供の道案内で、中央の長い←(赤茶矢印)の如く、山を登り、短い 赤茶矢印で示した道を通り、山を下った。 このルートは、不動滝(●青丸印)の少し下に出る。滝の上に出るには、 点線の赤茶矢印のように、尾根筋を降りれば出れる。 しかし、私が、短い赤茶矢印のルートだと考える理由は2つある。 一つは、”道”を尋ね、多分”道”を通っただろう、という事だ。 もう一つは、酒井は、「不動滝の上に出た後、子供と別れ、南に下って、 顔見知りの村人に会い、"街道は敵に塞がれ通れない"事を知らされ、 藪の中の小道に進路を変えた。」と、記している事だ。 地図を見ると分る通り、不動滝の沢つながりの上流に出たならば、南に 行くと、渓谷を作る山を登られねばならない。"南に下って"と言うのは、 当たらない(北上、南下の言葉も有るが・・)。また、滝の上流から南に行った のなら、既に、街道(酒井のルートのすぐ上の点線)から、遠ざかる方向で、 敢えて進路を変更する必要はない! 後半の話をまとめると、 酒井は、短い赤茶矢印のルート(滝沢街道のすぐ南の山腹)を進み、不動滝の 上(滝に繋がる道で、滝より海抜が高い)で、子供と別れた。そのまま、 その道を南に下り、滝のやや下に出た。 そのまま西に下れば、滝沢街道に合流できるが、「街道は敵に塞がれて いる」と出合った農夫に知らされ、進路を変えた。 と言うのが、私の推測する、酒井のルートです。
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酒井のルートが確定すると、石山ら&飯沼らのルートが、見えて来ます。 ルートの途中で、お互いを全く視認できず、農婦との交渉中にも追いつけ なかった事、不動滝・飯盛山への到着時間が大きく異なっている事 (中村氏は、酒井が飯盛山付近に着いたのは、午前7〜10時(p143)、 飯沼らが着いたのは、午後2〜4時(p155)と推論している。)から、 別なルートである事は、明らかです。 私は、石山らは、山路に入って、酒井と はぐれた後、左(南)の道、↓↓ (下向き・平行な赤ピンクと青の矢印) (少し南の旧旧白河街道に繋がる道) に入ったと考えます。 そして、旧旧白河街道に繋がる道を、しばらく南下した後、 直角に曲がった赤ピンク矢印の如く、少し西に行き、 短い赤ピンク矢印の如く、不動滝に繋がる沢を、下った。 酒井に比べ、大きく遠回りしています。不動滝・滝沢街道、飯盛山への 到着も遅れるはずです。
![]() それから、街道沿いの敵を避け、戸の口堰 洞穴(←)をくぐり、(最後の場となる)飯盛山 西山麓に進む。 (通常は、水が流れていて、通れません。 大きなイベントの時のみ、水が止められ (他に放水され)通れます。上半身を丸めないと通れない高さです。 両側の壁が赤くなっている所が、水位でしょうか?膝上はありそう。) (写真提供 MUU さん) | ||||
藩士・隊員達の中には、不動滝に繋がる沢を下らず、 点線の赤ピンク矢印の如く、更に南下し、旧旧白河街道 (・・・現在の背あぶり山ドライブ・ウェイ(”東山サンライン”と言うらしい。 私は知らなかった)は、多分、車用に傾斜の緩いルートに、引き直して いると思いますが、その近く・・・・) を経由して、左下の、点線赤ピンク矢印の如く、慶山・天寧に出た人も 居たでしょう。
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