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越後街道 2 (坂下町)



撮影日  ・H14.09.29(曇):舟渡〜束松峠
       ・H14.11.03(雨):塔寺 / 気多宮

 大川(阿賀川)を渡ると、坂下町だ。
 坂下町は、奥会津を初めとする周辺の物資の
 集散地として栄えた。

 坂下の次は、塔寺だ。
恵隆寺(→)(立木観音堂)
 や心清水八幡宮の門前町として栄えた。立木
 観音(木像千手観音立像)は、像高が7.42mある。

 塔寺と街続きの気多宮(けたのみや)
 右 越後街道(県道43号線)と、左 沼田
 街道(坂本までは49号線、後は252号線)に
 分かれる。

 (←)分岐点に追分道標がある。

 右の越後街道(県道43号線)を進む。

 少し登ると鐘撞堂峠だ。峠を下り、幹線っぽい県道43号線・340号線に
 曲がらず、真っ直ぐ行くと、舟渡(ふなと)集落銀と青の屋根のある所)
 更に、只見川の橋を渡り、片門(かたかど)集落(写真を撮影した側)に至る。
 舟渡ー片門 間は、当初は、渡しであった。

 戊辰戦争勃発直後の 1968年9月、藤蔓で舟を繋いで、舟橋にした。
 写真左端の小さな白い四角(物置 or
 移動トイレ)
の河原側に茶色の鉄棒が
 立ち、そこから、対岸の堤防まで
 鋼線が張ってある。
 舟橋の位置を示しているのか?

 写真右2/5 河原の灰色の物は、大正末からの吊り橋の基礎の名残の様だ。

  片門から、道なりに本名・天屋集落に進む。集落の途中で、 左に(西羽賀・
 山都方面)
入る道があるが、真っ直ぐ進む。集落の終わりから、幅はあるが
 前日の天候によっては酷い悪路になる。歩いて数分の所に、三本松と、
 駐車スペースがある。少なくとも、そこからは、歩こう!
 やがて(20〜30分?)、束松峠(たばねまつ峠:49号線より2km北)に至る。

 c.f. 束松峠ルートの一番下(三本松の少し上)へは、集落左手より迂回路が
    あるようだ。しかし、間違えて入ると、方向転換も厳しい道になるので
    充分確認要!(そこには、10数台分の駐車スペースあり)


束松峠奇怪な形の束松、峠で見る磐梯山、 道路地図(マピオン)
1/2.5万 地図:柳津
赤線は my ルート(低精度)。上図の縮尺は、1/2.5万(4cm:1km)程度。

上図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の
数値地図 50000(地図画像)及び数値地図 50mメッシュ(標高)を使用し
(承認番号 平17総使、第588号)、カシミール3Dで作成し、
若干、加筆したものである。


 束松峠 (たばねまつ峠)
  束松:樹幹の下部で、幹が、多数に分岐したアカマツ。
  峠頂上に大きな束松(江戸時代に枯死)があった。

  只見川を渡ると、道は片門集落と別れ、右へ大きく
  カーブする。道なりに進むと天屋(てんや)集落だ。
  集落の中も、真っ直ぐ西に進む。集落の終と伴に、
  舗装道路も終わる。(直後の轍が乗用車には辛い!)
  
  車を置いて歩き始めると、2〜3分で、三本松(→)が
  ある。付近は公園風に整備してあり、十台位は
  駐車できそうだ。(乗用車は、集落手前に路上駐車した方が無難)

  この松も、下の方、葉が少なく、右の葉は少し赤い。やがて・・・・
  枯れるか? これは、大きな写真も残しておかねば! こちら

 /*束松について: (文責:会津坂下町・ふるさと文化振興班 舟木健治)
 /* 会津坂下町役場HPの文化財照会ページに掲示してある松は、
   通称「三本松」と「曽孫(ひこ)束松」と呼んでいるものです。
  『天屋の束松』は、昭和42年に福島県指定天然記念物に指定さ
  れました。特に束松峠の頂上にあったという松は大変みごとだっ
  たといわれますが、江戸時代には枯死したといわれます。

  県の天然記念物に指定された束松は、通称「子束松」「孫束松」
  「三本松」「曽孫束松」の4本でした。本当の親子かは不明。
 
  宮崎氏の著書に掲載されている松(↓7欄後)は、「子束松」と
  思います。平成6年の強風で幹が裂けてしまい、ウレタン樹脂等
  で保全工事を行いましたが、平成10年に枯死してしまい、
  やむなく伐採されました。孫束松は、松くい虫防除は行っていま
  したが、平成13年に枯死してしまいました。
 
  三本松も松くい虫防除や樹木医の指導による土壌改良作業等を
  進めてきましたが、現在半分程度松枯れをおこしています。*/

c.f. 曾孫束松は、(帰りに寄ったタバコ屋の御主人の話だと)峠と隋道のY字路、
   峠方向に少し行った谷に有るらしい。(登る前に聞いときゃ良かった!)


 広場に続く幅広い道を進む。気の早い木は、黄色く
 色づき初めていた(→)。(H14.09.29撮影)

 広葉樹が多い。紅葉の頃は、かなり良いだろう。
 
 少し行くと、林道兼用と、遊歩道(街道)が分かれる。
 街道は、深い木立に囲まれ、(夕方だったので)暗い。
 会津の街道らしい石畳の部分もあったが、苔むして
 いた。(暗くてフラッシュ撮影になってしまった。)
 Y字路は、隋道に進まず、峠(左)に向かう。
 行程も半分くらいになると、少し見晴らし良くなる。
 (←)丸い大きな葉、修飾語無し のガマズミ
 
 (→)コバノガマズミよりは、大きい葉、

    ガマズミの様に真ん丸でない。
   ミヤマガマズミ
 

 (←)同じあたりに、一里塚があった。

  峠の稜線も見えてきた。頑張るぞ。

 (←)少し登ると、子束松の切り株(写真上半分の灰色の部分。
 切り株上縁は写真上縁(すぎました))
跡がある。

 平成になって養成功なく 枯れ、已む無く伐採した様だ。

 詳しくは、 坂下町HP 等を参照。

程なく、束松峠に着く(↓)。道の左(写真左外)に、茶屋跡がある。



茶屋跡からの展望は とても良い(↓)。写真下半が、舟渡・片門集落。
中央の濃い青緑の帯の、右1/3が鐘撞堂峠だ。
さらに、その向こうには、若松盆地や磐梯山(左1/3)が見える。




*束松峠の歴史*
  ーーこの欄の記述・写真の大部分は、宮崎十三八 著「会津の史的風景」
         歴史春秋社、平成5年8月10日発行 を参照しましたーー

 名前の由来:鎌倉時代、執権北条時頼が、諸国巡見で
  天屋村(旧・満田村)を通った際に、
 「みちのくの満田の山の束松千代の齢を家づつにせむ」
  という詠じた事によると言う。

 戊辰戦争敗北直後の10月(新暦12月・既に冬)
 猪苗代で謹慎していた秋月悌次郎は、僧形で脱出し、
 新潟に居る知己の長州藩参謀・奥平謙輔に合い
 "藩主父子の助命、藩士遺体の埋葬、藩士子弟の教育"
 を、頼みに行った。

  帰り道の束松峠で、束松が、枝には重い雪を積もらせながらも
  寒風に耐えて立っているのを見て、
  「行無輿兮帰無家 ・・・ 何地置君又置親」なる七言絶句を詠んだ。

   (この絶句は、会津の三絶(三つの代表的七言絶句)の一つとして、今も愛吟
     されている。全文は、上記 参考図書に載っている。この「北越潜行の詩」の
     碑が、平成三年秋、鶴ヶ城三の丸・博物館前に建立された。)


  漢文不得手な私ですが・・・、簡単に要約すると、
  「天皇を信頼し、国難回避に尽力したが、内戦に破れ、全て、無く
    なってしまった。微臣(秋月自身)にも至らぬ点があったので、
    誰(何)も恨む気はない。しかし、これから、主君(容保)や親に、
    何をしてあげたら良いのだろうか?」
  といった所だろう。

  言外に、捨て切れぬ”中央への思い”や、絶望的な敗北の状況下で、
  尚、自分達に出来る事は何かを 模索する 意志が 感じられる。


 また、この峠は、明治二年、「束松事件(束松の復讐)の起きた所だ。
 (新政府が会津に置いた)民生局の軍政は非道を極めた。耐えかねた
 会津藩士・伴百悦は、高津仲三郎、井深元治、武田源三と計り、
 この峠で、民生局筆頭・越前藩士 久保村文四郎を、待ち伏せ、
 斬り殺した。この4人は、後に、自決 or 獄死した or 処刑された。


 束松峠を下りる所から、西会津町(の東縁)である。
 軽沢(磐越自動車道、束松トンネルと、鳥屋山トンネルの間の沢)を南に下り、
 別茶屋集落で、49号線と合流する。

 


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