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越後街道 3 (西会津町)



撮影日  ・H14.10.12(曇):(緑の)銚子の口
      ・H14.11.03(雨):野沢、(紅葉)


 束松峠を下りて、一時、49号線と合流するが、下流の岩場(↓)は、
 とても険しい。(文献的に確認できないが) 少なくとも初期には、
 
 すぐまた、南の山に入り、青坂峠
 を経て、西会津町・野沢に至った
 のではないか?と私は思う。
 (青坂峠は、峠近くに集落が
 あり、そこまでは舗装道路だ。)
 

 西会津町・野沢は、東の若松、西の津川から、一日の行程で、宿場町
 として栄えた。
 代官所や本陣も置かれた。代官所跡は 、現在、
 (←)野沢小学校になっている。ここは、鎌倉時代、
 地頭の館でもあった。

 南東の角に、代官清水(→)が
 ある。綺麗に整備されて、
 少し、興ざめだ。

 西会津町街は小さいが、クランク多く、解りづらい。
 西会津駅を降り、線路沿いの道を東に戻る。程なく、Y字路がある。
 右に曲がると、町役場がある。そのまま進むと野沢小学校だ。(歩程10分位?)


 本陣跡は、野沢原町の町営駐車場になっている。
 戊辰会津戦争当初、容保が指揮をとり、佐川官兵衛が家老に任命され
 た所だ。


  西会津町・野沢には、名刹が多い。
 会津ころり三観音の一つ鳥追観音
(807年、
 徳一が坂上田村麻呂の祈願により創立した)
も、
 その一つだ。(←)仁王門の紅葉は丁度良い
 〜数日早い位だった。

 敷地内には、徳一が
 植えた(=樹齢1200年)
 弘法槙(→、写真左。
 手前が暗く、観音堂の
 屋根が白く飛んでしまった

 がある。
 観音堂 周囲の紅葉には、1週以上早かった。
 大山祇神社(おおやまつみ神社)
 (寺伝では778年勧精)
古代から山岳信仰が
 盛んであった。会津を始め、新潟からも
 信者を集め、小さな門前町もある。
 (麓の遥拝殿→、なかなか立派だ)

 本社(奥宮)までの4km(1.5時間?)の
 参道は、一部急だが、滝等もあり、手頃な
 遊歩道だ。
西会津町は、また、古代遺跡もある(あった?)。少しまとめておく。

 ★塩喰岩陰遺跡(しおばみいわかげ遺跡)
  磐越自動車道、長坂トンネルと龍ヶ嶽トンネルの間にあった。自動車道
  工事に先立ち発掘調査された。現在は自動車道に埋もれている。

  岩壁を、幅 13m、奥行き 3.9m、高さ 4.4m に、くり抜いた住居跡だ。
  縄文草創期(1万4千年前)〜縄文前期の石器・土器を中心に平安時代
  までの遺物が出土した。埋葬人骨、骨角器、腕輪、首輪も出土した
  
  遺物の一部は白河市の「まほろん」で展示されている。

 ★上野尻遺跡(かみのじり遺跡)
  上野尻集落の北西部・旧群岡(むらおか)中学校付近である。現在は、
  畑や住宅地になってるが、一部の畑で土器や石器などを表採できる。

  土器の底に籾痕(もみこん、籾の痕)土器が出土した。つまり、
  弥生時代の生活の跡である。


 野沢から、上野尻に向かう.。(49号線はバイパスしている。上野尻駅への
 曲がり角を曲がる)
。曲がってすぐの左手に
 西光寺(→)がある。


 国指定重要文化財”紙本蒲生氏郷像”を
 所蔵している。
 (察するに、今は県立博物館管理?)。

  上野尻には、群役所(上野尻の北縁、群岡(むらおか)中学校・跡)が置かれ、
 野沢から津川まで支配していた。

  上野尻を過ぎると、街道は、阿賀川沿いを離れ、下野尻集落、車峠と、
 山に向かう。  なぜなら、その阿賀川下流には、”銚子ノ口”と言う、
 岩場があるからだ。
 
.
  銚子の口  (ここのみ、H14.10.12)
 両岸が急な岩場で、川幅も1/2〜1/3だ。
 越後街道が阿賀川を離れた原因の場
 所だ。(前前日の雨で、川の色に茶色っぽい。)

 川岸を、SLが走る。 こちら
 紅葉もGood! こちら
.

 (上野尻集落から見た)
 
車峠 (、左1/4稜線の一番低い所

 会津諸街道と奥州道中によれば、
 イザベラ・バードがそこからの眺望を
 称えたと言う。
 ( 車峠付近の地図はこちら
 この峠の紅葉ベストを待って取材した
 が、あいにくの雨で、霧も湧いていた!

 車峠を下り、白坂集落と宝川集落を過ぎると、もう、県境の鳥井峠だ。

 イザベラ・バード著 「日本奥地紀行」(訳本)を読んでみると、
  車峠のみ を褒めたというより、束松峠〜野沢〜車峠の行程
  褒めているようだ。

 (ちなみに、会津で褒められてる所は、ここと、田島だけだ。山間の集落など、
  ”汚い、薄汚れた・・”と、けなされっ放しだ。そりゃ〜、先進国・英国の、弁護士
  〜牧師の御嬢様が見れば、明治維新直後の未開の日本の、田舎は、そうかも
  知れないけど・・・・)


  該当部の要約を記す。

  会津盆地を(馬で)歩いている時(6月30日〜7月1日)は、
  蒸し暑い盆地気候に、辟易していたし、 片門では、馬(当時の
  タクシー?)に乗っている時、他の気性の激しい馬に、ぶつかられ、
  不愉快な思いをしていた。

  その後、以下の様な文が続いている。

  今度は山岳地帯にぶつかった(束松峠から山岳っぽい)。その連山は
  果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。

  ・・・二つの峰を持つ磐梯山(彼女が馬に乗って歩いた会津盆地の西側、
  高田〜坂下のルートからも、二峰の磐梯山が見える。しかし、暑気で、風景を楽しむ
  余裕が無かったのだろう。束松峠から、磐梯山は良く見える。一峰に見えるが、南に
  伸びる緩やかな山腹の線が良い。峠に登り、少し涼しくなり、余裕が出たのだろう。)


  ・・・広大な雪原と雪の積もっている峡谷をもつ姿を、一望のうちに見せ
  ている。(初夏に残雪があるのは飯豊山しか有り得ない。)

 * 会津盆地東側からも、飯豊山は見える。しかし、野沢の前後から見た大きさが、
 * 壮麗な印象で良い。でも、車峠の麓・上野尻まで下りると、手前の山が邪魔だ。
 * 会津坂下町北部・勝負沢の東(=束松峠の東)で、4/29(2ヶ月早いが、当時は
 * 地球温暖化もしてないし・・)撮影した飯豊山(↓)。




 * 新潟県に入ると、飯豊山の印象が変ります。鳥井峠で(2ヶ月強早い)4/25撮影した
 * 写真をUPしておきます。福島県側と違って、荒々しい岩場風の雰囲気です。



  ・・・野沢と言う町に着くと・・・山腹に沿って歩いたが、たいそう愉快
  であった。下を流れる急流の向かい側には、すばらしい灰色の断崖
  銚子の口?)がそそり立ち、  金色の夕日に紫色に染まっている
  会津の巨峰の眺めは雄大であった。

  ・・・夕方ではあったが、私は(今まで泊まった 谷間の宿の奥座敷の様な)
  穴の中のような宿で日曜日を過ごしたくなかった。・・・山の端に、
  一軒家が見えたので、聞いてみると茶屋である・・・そこまで行くこと
  にした。・・・

  この宿屋は、車峠の刃のように鋭い山の端にほとんど突き出るばかり
  という、すばらしい場所に立っている。わたしが今まで泊まった宿屋の
  中で、宿屋から眺めらしいものができたのは、この宿屋だけである。
  ・・・・



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