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「名は体を表さない」チョット不思議な路線とは?

− J R 横 須 賀 線 −



TAKA  2007年07月30日





横須賀線で一番有名なシーン? 円覚寺門前の踏切を疾走する横須賀線電車



 「横須賀線」と聞くと皆さんどんなイメージが湧くでしょうか?「青とクリームの(スカ色)電車」「東京の地下から鎌倉・逗子方面に出ている電車」等々色々なイメージが湧くでしょう。私とて「横須賀線=東京〜横浜・大船・鎌倉・逗子を結ぶ電車」と言うイメージを持って利用しています。まして近年湘南新宿ラインが乗り入れたことで池袋・新宿・渋谷から神奈川県横浜・三浦・湘南方面への重要ルートになり、私の利用頻度も格段に上がっています。
 しかしチョット良く考えるとこのイメージは横須賀線の真の姿を示しているとは言えません。実際問題JR東日本の運転系統としての横須賀線は「東京〜新川崎〜大船〜逗子〜久里浜 73.3km」と言う我々が「横須賀線」と認識している物と同一ですが、実際戸籍上の横須賀線は「大船〜逗子〜久里浜 23.9km」にすぎず、東京〜品川間・鶴見駅付近〜大船間は「東海道線(の線増)」であり品川〜鶴見駅付近間は「東海道線の支線(品鶴線)」と成っており、我々の抱いている「運転系統」としての横須賀線と、実際の「戸籍上」の横須賀線は姿が異なると言う事になって居ます。
 今回は「 TAKAの交通論の部屋 関東鉄道めぐり」で、鶴見線に続くJR路線の第二段として横須賀線を取り上げることにします。横須賀線自体は1889年開業の歴史の古い路線ですが、今の横須賀線の状況は昔の状況から成長・衰退を繰り返して「名は体を表さない」路線と言う状況となってしまっています。その様な路線の姿は如何なる物か?今回は路線の名前に忠実に「大船〜久里浜間」の横須賀線をメインに取り上げたいと思います。

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 ☆ 路線を訪問する前に 「何故横須賀線は作られたのか?」

  横須賀線 は1889年(明治22年)と言う東京〜横浜間に日本最初の鉄道が出来てからわずか17年後に、東海道線の大船から分岐して大船〜横須賀間15.9kmが開業して出来た路線で、その後1944年(昭和19年)に横須賀〜久里浜間が開業して今の路線の形を形成した路線です。
 この1889年は「 東海道本線が(一応)全線開通 」した年であり、横須賀線が接続する東海道線の横浜〜国府津間が開業したのは1887年・大船駅が開業したのが1888年と言うことから考えても、横須賀線は日本の鉄道のごく初期に開業した路線であり、それだけ重要性のある路線であるとも言えます。
 この日本のごく初期の鉄道は、基本的に「都市とその外港である港湾を結ぶ鉄道」が優先的に作られています。「東京の外港・開港地である横浜」「大阪や京都の外港・開港地である神戸」「中部地方の有力港湾の武豊と東海道筋」を結ぶ鉄道である東京〜横浜間(1872年)・神戸〜大阪〜京都間(1877年)・武豊〜熱田間(1886年)が早い時期に開業しているように、都市と港湾を結ぶ鉄道は「最重要の鉄道」として早期に開業しています。
 横須賀線もその例に漏れず、大都市と港湾を結ぶ鉄道として早期に建設されました。横須賀自体は幕末に 小栗上野介造船所建設 をはじめそれが維新後の明治2年完成・4年操業開始をして以来、関東地域最大の軍港として又首都東京の防衛の為の東京湾要塞地帯の要として、重要な役割を果たしていました。横須賀線はその東京防衛の重要拠点にして東京湾唯一最大の軍港である横須賀港と東京を結ぶ路線として、1889年と言う比較的早い時期に建設されたのです。
 その為横須賀線は戦前の昔から東海道線を経由して東京〜横須賀間で直通運転がされていますし、大正13年には横須賀まで複線化・大正14年には電化・昭和5年に電車運転が行われる等、戦前には「本線級の取り扱い」行われて居ましたし、戦争中には軍事施設の多い三浦半島久里浜への路線延伸が軍の要望で行われると言う様に正しく「第一級の軍事路線」と言う扱いでした。

 
左:横須賀の歴史の象徴 三笠公園の「戦艦三笠」と東郷元帥像 右:西太平洋最大級の横須賀軍港に有る日米艦艇

 
左:今でも残る帝国海軍の伝統?横須賀海軍カレー本舗 右:横須賀海軍カレー本舗の「海軍カレー」

 その様な横須賀線ですが、昔は「首都と軍港を結ぶ鉄道」と言う軍事的様相が強い路線して作られた鉄道ですが、今や横須賀線は逗子以遠での貨物輸送も廃止されており、その役割は「軍港を結ぶ鉄道」から「東京の郊外の通勤路線」へと変化してきています。
 しかし横須賀の「関東圏最大の軍港」と言う地位は些かも揺るぎが有りません。実際太平洋戦争後横須賀軍港は米国海軍・日本海上自衛隊の共用軍港となっていますが、横須賀には米国内以外で唯一の「米軍管轄下で空母の改修が可能な6号ドック」と「原子力空母も停泊可能な12号バース」が存在し米海軍に鳥「西太平洋の制海権の要」と成っています。( 6号ドック(中には第七艦隊旗艦ブルーリッジが停泊)・12号バース・空母キティホーク(12号バースの南側に停泊)の衛星写真 :googleマップより)。又海上自衛隊にとっても横須賀は自衛艦隊・護衛艦隊・潜水艦隊・第一護衛隊群・掃海隊群・横須賀地方隊等の司令部が置かれると同時に多くの艦艇の母港と成っており、呉・佐世保・舞鶴と並んで日本の海上防衛の重要拠点となっています。
 又横須賀は大日本帝国海軍時代から軍港の町として栄えた町で、今でも日露戦争を勝利に導いた日本海海戦の殊勲艦三笠が保管されていたり、昔帝国海軍が食べ初めて日本全国に広がったカレーが「 横須賀海軍カレー 」として横須賀の名産になっている等、横須賀の街には「帝国海軍から続く海軍の歴史」が街に根付いており良きにしろ悪しきにしろ、「海軍と共に歩んできた街」であると言う事が出来ます。
 その様な「海軍の街」へのアクセスとして横須賀線は作られたのです。歴史を考えれば横須賀の街と海軍と横須賀線は切っても切れない歴史の繋がりが有ると言えます。


 ☆ 「横須賀線ぶらり旅」(7月22日 横須賀→久里浜→大船)

 今回横須賀線を訪問したのは、7月22日の日曜日でした。前日長野を訪問していたのでその代わりに日曜日仕事で午前中横浜まで出る用事があり、その後「日曜日だし家に帰っても仕方ないな〜」と思い「チョット海でも見に行くか!」と言う気分で横須賀を訪ねる事にしました。
 横浜から横須賀へは普通の道のりとして京急を選択して、横浜駅から京急の快速急行に乗り横須賀に着いたのは12時チョットでした。その後「横須賀海軍カレー本舗」で昼食をとり、海沿いを三笠公園からヴェルニー公園へ歩きながら京急の横須賀中央駅から京急の汐入駅前の再開発地域を過ぎJRの横須賀駅に辿り着いたのは15時頃でした。横須賀の市街と駅の関係を見ると、市役所・合同庁舎などの官庁街やさいか屋・モアーズ等の大型ショッピングセンターが有る横須賀の現在の市街へは京急横須賀中央駅が近く、横須賀芸術劇場・ホテルトリニティ横須賀・ショッパーズプラザ等の再開発地域には京急汐入駅が近く、普通に横須賀へアクセスするのなら京急を利用した方が便利と言うパターンが多くなっています。それに対しJR横須賀線は横須賀軍港の北側の自衛隊地域にアクセスするには便利な場所に立地しています。
 元々「横須賀軍港へのアクセスが主体」で最初に作られたJR横須賀線と、昭和5年に湘南電鉄として開業で横須賀が都市として形成された後に都市へのアクセス鉄道と言う意識で作られた鉄道との差が、今の横須賀駅立地の差として現れているのでしょう。JR横須賀駅は駅の目の前に小さなバスロータリーとヴェルニー公園が見えますが、その先には一面の軍港が広がる「日本ではなかなか見れない風景」です。実際ホームや車窓からも自衛隊の艦艇や施設が見えて、一種独特の感じを抱かせます。

 
左:小さなバスターミナルを併設しているJR横須賀駅 右:昔の名残?頭端式ホームと通過式ホームが並存している横須賀駅

 
左:横須賀駅ホームから見える海上自衛隊横須賀基地 右:横須賀線田浦〜横須賀間から見える海上自衛隊艦艇

 駅の周りを一周した後、横須賀線に乗り込んで「横須賀線ぶらり旅」をスタートさせる事にします。取りあえずは全線乗らない訳には行かないので久里浜を目指し其処から折り返して大船を目指す事にします。全線乗るのに無駄に往復しなければならないのは「行き止まり線」の難点とも言えます(本来は京急汐入に戻り久里浜に行く手も有ったが、歩くのは最低限にしたかったので単純往復を選択しました・・・)
 横須賀駅は開業は1889年の開業時ですが、その当時は終点であり1944年の横須賀〜久里浜間開業までは終着駅であり、太平洋戦争の選曲に暗雲の漂う1944年に久里浜への延伸に伴い通過駅になった歴史を持つ駅なので、当時の厳しい状況を反映し駅の改造を最低限に留めようと言う意思が明白に見えて、駅側線と一番西側のホーム発着線だけが久里浜に延長出来る様になっていて、東側の発着線は行き止まりの頭端式で残っています。けれども駅の造り自体は世界第三位の大日本帝国海軍の有数の根拠地の玄関口だっただけ有り、駅舎等は大きくは無い物のそれなりに立派に作られています。
 今の横須賀駅は横須賀の「裏の玄関口」状態であり、横須賀線は逗子以南は横須賀止まりが毎時1本程度混じりながら久里浜まで行く電車が逗子〜久里浜間の区間運転を含めて毎時3本程度と、東京〜逗子間で見える賑わいとはちょっと違う風景が展開されています。今回は本数の少ない「久里浜行き」に乗って取りあえず終点である久里浜を目指すことにします。
 横須賀市街の背後にある丘陵をトンネルで抜けて衣笠で上り列車と交換した後、久里浜に到着します。衣笠〜久里浜間の地域は山が迫っていた横須賀市街と異なり比較的なだらかな土地が広がっていて風景がガラリと変わり今では工場等も多く立地しています。その様な場所をしばらく走ると終点の久里浜です。久里浜も市街地のメインは京急久里浜駅の周りに有る為に、駅から京急久里浜駅が見えるほどの近い距離にありながら駅が市街地の裏側になってしまい、駅舎は立派で駅前にバスターミナルが有れども商店は殆ど無く路線バスすら殆ど寄らない閑散とした駅になってしまっています。
 久里浜への鉄道、JR横須賀線も京急久里浜線も戦時中に緊急工事で延伸された路線で、生まれは一緒の路線です。しかし現実としては「東海道線から分岐して横須賀への最短ルート」を明治の時代に作った横須賀線と「対東京・横浜で最短距離をたどり電車での運転を最初から想定していて」昭和の時代に作られた京浜急行との「根本的な差」が此処では現れていると言えます。

 
左:閑散としているJR久里浜駅 右:「幹線並みの広さ」のJR久里浜駅ホームと留置線

 
左:明治時代の煉瓦積みトンネルに阻まれ11両編成でもドア締切が必要な田浦駅 右:田浦駅の横須賀寄りの「煉瓦積み」「石積み」「コンクリート」の3つのトンネル

 久里浜駅周辺をチョット見た後「特に見る所も無い」と感じたので、取りあえず横須賀線を逆戻りすることにします。次の途中下車駅は「田浦」です。田浦は丁度丘陵の谷間にある駅で駅自体もトンネルに挟まれた場所にある小さなローカル駅です。
 田浦駅は丘陵を貫くトンネルの間にある駅で、駅ホーム両端にはトンネルが迫っています。その為只ですら東京方面から来た15両編成の電車は逗子で付属編成4両を切り離す物のそれでも田浦駅ではホーム長が足りず上下とも前2両をトンネルの中にはみ出して停車させている状況です。又そのトンネルも歴史を感じさせる物であり、明治時代に作られたトンネルは赤いレンガ積みで出来ていてSLの黒煙を思わせる汚れも付いていて年季を感じさせます。
 又田浦には今では廃止されている物の「 米軍田浦専用線 」と言う貨物線がありました。この貨物線は googleマップ でも明確に貨物線跡が残っていますが、駅からも貨物線のトンネルが良く見えます。丁度田浦駅の横須賀寄りに貨物線のトンネルが残っています。このトンネルは左から「横須賀線開業当時の明治時代レンガ積みトンネル」「横須賀線複線化時の大正時代の石積みトンネル」「軍港の貨物線の昭和時代のコンクリートトンネル」と言う様に、正しく横須賀線の歴史を感じさせる場所であると言えます。

 
左:横須賀線の実質的中心駅の逗子駅 右:逗子駅での後4両増結風景

 
左:観光客+バスで賑わう鎌倉駅東口 右:江ノ電からの乗換客+観光客で賑わう鎌倉駅西口

 続いて横須賀線の中でも中核と言える逗子・鎌倉の2駅に降りてみる事にします。逗子は三浦半島西側の玄関口と言える立地で三浦半島の2大鉄道交通機関であるJR・京急両方とも乗り入れていますが、此処では横須賀とは異なりJRが有利で京急はサブの立場に追い込まれています。実際逗子駅前では京急が葉山等の三浦半島西側の地域から京急バスが集めてきたお客がJR横須賀線の逗子駅に流れ込むと言う横須賀とは別のJR有利の構図が出来上がっています。
 又横須賀線の運転系統的にも逗子は中核駅となっています。逗子は戸籍上の横須賀線の真ん中にある駅ですが、規模の大きい引き上げ線が有り(運転上の)横須賀線列車の一部の列車+乗り入れて来る湘南新宿ラインの列車が逗子で折り返すと同時に、此処から先へ進む列車も4両の付属編成を逗子で分割併合をするなど、正しく横須賀線の運転上の中核駅となっています。これは旅客流動的にも運転系統的にも横須賀線の実情を示していると言えます。
 逗子の次の鎌倉は、関東有数の観光地で日帰り観光を中心に多くの観光客を集める「横須賀線の核」の一つの駅であると言えます。日常利用でも周辺の高級住宅地からバス・江ノ電で集まった客が多く利用する駅ですが、シーズン・休日になると鶴岡八幡宮を中心とする数多の観光スポットに加えて、江ノ電との接続駅であり江ノ電沿線の観光スポットからの観光客が流れ込んで、大きな賑わいが有る駅であり「観光路線」としての横須賀線のもう一つの側面を示している駅だと言えます。その状況は訪問した日も変わらず鎌倉駅には多くの観光客が集まり、横須賀線に「賑わい」を加えていると言えます。

 
左:賑やかな逗子・鎌倉から一転「山中の小駅」と言う風情の北鎌倉駅 右:首都圏とは思えない森の中の北鎌倉駅

 
左:東海道線との合流駅で中核駅の大船駅構内 右:「横須賀線・東海道線・湘南新宿ライン」と東京への複数経路を示す「電光掲示板」が目立つ大船駅コンコース

 鎌倉を出ると今度は鎌倉の「切通し」で有名な周辺の丘陵地帯を抜けて東海道線との合流駅である大船を目指すことになります。その途中にある北鎌倉は山中の小駅ですがこの周辺には鎌倉五山の一つ円覚寺を始めあじさいで有名な名月院・銭洗弁天・建長寺等の観光スポットがあり北鎌倉⇔鎌倉で名刹を回りながらハイキングをすると言う観光コースが一般的になっています。同時に北鎌倉には「鎌倉学園高校」「北鎌倉女子学園高校」の2つの高校もあり周りの静かな雰囲気も合わせて観光客と中・高校生主体の幹線鉄道にしては非常に落ち着いた駅となっています。
 北鎌倉では円覚寺の門前を横須賀線が横切っていて横須賀線でも有名な撮影ポイントになっているので、今回はチョット寄り道をして撮影をしてみました(その結果がトップの写真)。やはり森の中の名刹の脇を走る横須賀線というのは写真になります。
 北鎌倉を出れば次は横須賀線の「戸籍上の起点」である大船に到着します。大船は東海道線・横須賀線・根岸線のJR各線と湘南モノレールが集まる一大拠点駅となっています。その為駅には駅ビルのルミネと駅ナカに Dila大船 が出来て駅もショッピングセンターとなっています。「駅がショッピングセンター」になる必須の条件は「駅の乗り換え客や乗降客が多い」と言う点ですから、その点でも大船駅の拠点駅としての規模の大きさが分かります。
 大船からは横須賀線は運転系統上だけの存在となります。列車は直通し表示は「横須賀線」のままなので「実態は横須賀線ではない」と言う事に気が付く人は少ないですが、実際は東海道線の線増バイパス路線ですが大船駅の電光掲示板を見ても「東海道線・横須賀線・湘南新宿ライン」と分けられている以上仕方ないと言えます。これが横須賀線の一面を示していると言えるでしょう。


 ☆ 「名は体を表さない」路線でも実際の所は一体如何なのか?

 今回横須賀線を訪問しましたが、「横須賀線を訪問しました」と言っても実際は前述の様に「戸籍上の横須賀線」である大船〜久里浜間だけであり、これが実際の所「横須賀線の実情」を示しているとは思えません。「戸籍上は大船で分かれている」と言うのは事実ですが同時に「運転系統上は東京〜逗子・横須賀・久里浜間一体で運転されている」と言うのも又横須賀線の実体であるといえます。
 此処では今JR東日本が首都圏でネットワーク化を進めその結果として湘南新宿ラインの乗り入れなどで大幅な変化が見られている「世間的に見られている横須賀線」と言える東京〜大船間の東海道線線増区間・品鶴線を含めての「運転系統上の横須賀線」の今有る姿について述べたいと思います。

 
今の横須賀線は多数の路線の混合状態? 左:横須賀線と湘南新宿ライン 右:横須賀線と観光用に臨時乗り入れの横浜線八王子行

 
名だけの横須賀線では混雑緩和工事が進行中 左:品川駅ではホーム増設で折返しが可能に? 右:横浜駅では東横線跡地にホーム増設の噂?

 横須賀線に関して言えば今は運転的には「戸籍上の横須賀線」と言う大船〜久里浜間だけで見てもその実情はなかなか見れないと思います。実態としては昭和55年の東海道線・横須賀線分離以降は東京〜逗子・横須賀・久里浜間が一体として運転がなされています。実態的には「東海道線の輸送力増強」の為に行われた「東海道線・横須賀線系統分離」は分離され別の東京直通ルートを確保した横須賀線にとっても大きな意味を持ったと言えます。
 元々三浦半島という限られた土地を後背地として持った横須賀線であり、しかも東海道線との分離で手に入れた品鶴線経由のルートが遠回りであった事も有り長らくの間「サブルート」と言う位置付けしか有りませんでした。しかしこの「サブルートとしての余力」が今の段階で長い雌伏の時代を経て「新しいルートである湘南新宿ラインの受け入れ先」として生きてくる事になります。
 今の横須賀線は、波動輸送的にも鎌倉・逗子という首都圏有数の観光地を抱えて居る為に、土曜・休日になれば各種の「 ホリデー快速 」を始めとした色々な観光対応の列車が乗り入れていますし、日常輸送でも横須賀線電車の大部分は東京駅をスルーして東京湾の対岸の千葉に向かう総武快速線に直通しているのに加え湘南新宿ラインが逗子まで乗り入れて来ている為に、今や横須賀線は東京・埼玉・千葉とも密接に結びついている路線となっています。
 その様な「横須賀線の運転の多様化」により一部では「輸送力の不足」を感じる点が出てきています。実際私が良く利用する湘南新宿ラインは休日だとグリーン車の利用率が高く横浜では座るのに競争をする必要が有るほどですし、湘南新宿ラインでは横浜では段々確実に座れない状況になってきており、湘南新宿ラインの余波を受けて路線としての横須賀線では輸送力が一部逼迫してきております。その為キー駅でありホーム上の混雑が激しい横浜ではホーム増設の動きが有りますし、品川では 東京都内での流れの変化 も有り総武快速線方面への折り返し設備が作られています。
 これらにより「運転系統上の横須賀線」では新たな変化が起きる可能性も有ります。将来的には今の横須賀線⇔総武快速線の直通が品川の折り返しで分断されてその分の横須賀線の輸送力が湘南新宿ライン経由で渋谷・新宿・池袋方面に振り向けられる可能性がありますし、将来的に 品鶴線には相鉄直通列車が乗り入れてくる 事になり、大幅な変化が起きることは容易に予想できます。その様なことから考えれば「運転系統上の横須賀線」と言える東京〜大船間では、横須賀線ルートの存在感が段々薄くなり「横須賀線」と言う名前が似つかわしくなくなる可能性もあるといえます。その点でも横須賀線は「大きな変化」が起きてきていると言えるでしょう。

 
三浦半島の輸送は京急が主流? 左:横須賀市の玄関口は京急横須賀中央駅 右:駅は隣接だが賑わいの差は歴然?JR久里浜駅と京急久里浜駅

 
横須賀線は「名は体を表さず」大船〜逗子間輸送が主流? 左:サブ区間の横須賀〜衣笠間の乗車率 右:メイン区間の鎌倉駅での乗降風景

 その様に横須賀線の「根本」でも大きな変化が起きていますが、横須賀線自体は実を言えばその「名は体を表さない」状態になってきています。「戸籍上の横須賀線」の中でも実際競争力を持ち地域の輸送の根幹として機能しているのは大船〜鎌倉・逗子間だけであり、路線名にもなった横須賀や終点の久里浜への輸送の主体は京浜急行に奪われてしまい、今はローカル線的な輸送しかしない「盲腸線」状態になっています。
 前にも述べたように三浦半島東側の輸送では、軍港輸送をメインに明治時代に作られた横須賀線より、市街地が形成された後に市街地輸送・地域輸送を狙って建設された湘南電鉄→京浜急行の方が立地的に有利であり、しかも横浜・東京方面に近道で時間も短いと言うのが大きな魅力であると言えます。その為横須賀線末端区間は存在感を長い間失っており、「横須賀線」と名乗るより「鎌倉・逗子線」と名乗る方が好ましい状況に有ると言えます。
 実際にその状況は輸送状況にも反映されていて、今回の訪問でも横須賀〜久里浜〜逗子間で乗った列車は東京からの直通列車でありながら、写真にある様に「空気輸送」と言う状況でとても首都圏の幹線と言える状況ではありません。それに対し同じ列車が逗子・鎌倉と進むたびに大量にお客さんが乗って来て逗子で4両増結したにもかかわらず、乗客の多い車両では鎌倉で多くの立ち客が出る状況になります。又どの列車でも大差はありませんが逗子・鎌倉で乗車した乗客が大船で一度多く降車して座席が埋まるほどになり、その後東戸塚・保土ヶ谷・新川崎などの「横須賀線しかない駅」の乗客で徐々に増えていくと言うのが、今の横須賀線の輸送形態です。
 その点でも色々な点で今の「運転系統上の横須賀線」の輸送状況を、横須賀線と言う名前では実態を表すことが出来ない状況になっていると思います。その点ではやはり「名は体を表さない」路線であると言えます。

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 今回初めて「戸籍上の横須賀線」に全線乗ることが出来ました。今まで「横須賀線」と言う名前に違和感無く使用をしてきましたが、確かに鎌倉・逗子まではよく利用しましたし、横浜駅でJRに乗る時には多くの場合横須賀線のホームに立ち湘南新宿ラインに乗る場合が多く、「横須賀線」と言う路線にはよく利用する物の実際は「どこの路線を利用しているのか」深く意識しないで利用していたと言うことが出来ます。
 しかし現実的には名前は「横須賀線」だが実態は「多国籍線」であると言うのが今の横須賀線の実態であると言えます。特に逗子以遠の末端区間は「地方ローカル線」並みに利用されて居ないとは言いませんが、東京から1時間程度の範囲でしかも東京へ直通列車が走っている路線と言う点から考えると、明らかに「利用されていない」と言う事が出来るでしょう。幾ら京浜急行が早く利便性が高く強いと言えどもこの利用されない姿は寂しい物が有ると言えます。
 ですからこの運行系統上は一つの「横須賀線」と言う路線を本当に一つで考えては実態を見誤ってしまうのかも知れません。これからは輸送の実態に即して「東京〜神奈川間の多様な輸送を担当する東京・品川〜大船間」「三浦半島の西部の輸送を担当する大船〜逗子間」「三浦半島ローカル輸送の逗子〜横須賀〜久里浜間」の3つに分けて、各々の路線毎に好ましい輸送形態を考えなければならないと今回改めて思いました。
 「名は体を表さない」と言うのは今の横須賀線の状況である事は間違い有りません。只その状況に関してJR東日本が湘南新宿ライン等で進めてきた「輸送形態の多様化」が生み出した物であり、「名は体を表さない」状況はその進化の過程で発生した物ですから、その「現実を受け止め」てよく真実を分析しなければ実情は見えてこないと改めて思わされました。





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