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トップページ不定期刊・きょうのトピックス不定期刊・きょうのトピックス2016年(平成28年)分1991

1991(2016年〔平成28年〕10月15日公開)

 皆様ご承知の通り中国地方唯一のプロ野球球団である広島東洋カープは今年、25年ぶりにセントラルリーグを制した。そしてクライマックスシリーズも勝ち抜き、25年ぶりの日本選手権シリーズ(以降は日本シリーズと記載するものとする)出場も決めた。この文を書いている2016年(平成28年)10月15日時点でパシフィックリーグ側の日本シリーズ出場球団はまだ決まっていない(北海道日本ハムファイターズがアドバンテージの1勝を加えて3勝2敗となっている。まあ北海道日本ハムファイターズが優位なことに変わりはないのだが…)のだが、北海道日本ハムファイターズにせよ、福岡ソフトバンクホークスにせよ広島東洋カープにとっては今まで一度も日本シリーズで対戦したことのない球団(注1)であり、注目の日本シリーズになることは間違いない。
 まあまだリーグ優勝から遠ざかっていた年数が長い球団はある(注2)のだが、25年という歳月はあまりにも長かった。そして広島東洋カープ及びそのファンにとっては辛い時期でもあった。その数々はここではあえて記さないでおくが、そのことを思うとリーグ制覇を成し遂げたことに対する関係者及びファンの喜びは相当なものがあることはお分かり頂けることであろう。
 そこで今回の「不定期刊・きょうのトピックス」では広島東洋カープが前回リーグ優勝を果たし、日本シリーズに出場した1991年(平成3年)を振り返ることにする。但し、振り返る内容は1991年(平成3年)の広島東洋カープの戦いぶりと本サイトの内容に即したもの、すなわち中国地方の道路分野とラジオ分野、地理分野に限るものとする。その他の事柄についてはこちら(中国地方の道路・市区郡町村・ラジオ関連)とこちら(世相)で紹介することにするので併せてご覧頂きたい(現在製作中。ある程度できたところでリンクを貼る予定である)。

1991年(平成3年)の広島東洋カープの戦いぶりを振り返る

※ここで使用したデータは 日本野球機構公式サイト や「 Wikipedia 」などを参考に記したものです。

 1991年(平成3年)の広島東洋カープの公式戦は132試合あった。当時は引き分け再試合制度があり、対ヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)戦で2試合引き分けがあったため132試合となったものである。最終順位は下表の通りである。

順位球団名勝利数敗戦数引分数勝率備考
広島東洋カープ745620.569
中日ドラゴンズ715910.546
ヤクルトスワローズ676320.515現在の名称は東京ヤクルトスワローズ。
読売ジャイアンツ666400.508
横浜大洋ホエールズ646610.492現在の名称は横浜DeNAベイスターズ。
阪神タイガース488200.369

 次にセントラルリーグ各球団の打撃成績と投手成績をご覧頂きたい(青太字はリーグ最高であることを示す)。

球団名打撃部門投手部門備考
打率安打本塁打打点盗塁防御率セーヴ奪三振失点
広島東洋カープ0.2541,09688491923.2334992466
中日ドラゴンズ0.2621,143178598503.5922848521
ヤクルトスワローズ0.2591,137140526753.9316795551
読売ジャイアンツ0.2531,090128515423.7211881529
横浜大洋ホエールズ0.2691,184665181303.7426819535
阪神タイガース0.2371,011111433474.3713808616
(参考)
今年度の
広島東洋カープ
0.2721,3381536491183.2037966497セーヴ数が最も多かったのはリーグ2位の読売ジャイアンツ(41個)。広島東洋カープは2位。
奪三振数が最も多かったのはリーグ4位の阪神タイガース(1,166個)。広島東洋カープは5位。

 上表から1991年(平成3年)の広島東洋カープは投手力が高かった半面、打撃成績はそんなに良かったわけではないことがうかがえる。それはタイトルの獲得状況からも明らかである。投手部門は最多勝利と最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振、最優秀救援投手…と広島東洋カープの選手が独占したのに対し打撃部門のタイトルで獲得できたものといえば盗塁王と(当時は表彰対象ではなかったのだが)最多安打だけであった。
 いわゆる投高打低状態にあったこともあってか順位は安定せず、6月30日の時点では4位になったこともあったのだが、後半戦で追い上げを見せ、9月になると調子の落ちてきた中日ドラゴンズを抜いて首位に返り咲き、10月13日夜に旧広島市民球場(広島市中区基町。1957〜2010)で行われた阪神タイガース戦で1対0で勝ち、優勝を決めた。優勝決定後旧広島市民球場のグラウンドで恒例のビールかけをやったことを覚えている方も多いことであろう。
 さて、日本シリーズは2年連続してリーグ制覇を果たし、前年度も日本シリーズを制している西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)が相手となった。5年前先に王手をかけながら苦杯をなめさせられた球団が相手とあって、今度こそは…という思いがあったことであろう。その思いが通じたのかどうか、旧広島市民球場で開催された第5戦(10月24日開催)で先に王手をかけるのだが、西武ライオンズ球場(現:西武ドーム〔愛称:西武プリンスドーム。所沢市上山口〕)での第6戦(10月26日開催)と第7戦(10月28日開催)で連敗し(注3)、5年前の雪辱を晴らすことはできなかった。当時の西武ライオンズの監督は5年前と同じ森祇晶(まさあき)(注4)。西武ライオンズを率いた9年間Bクラス転落は一度もなく、8度のリーグ優勝、6度の日本シリーズ優勝を成し遂げた名監督である。やはり名将の前には歯が立たなかったと考えるべきなのだろうか(注5)
 なお、この当時の広島東洋カープの監督は地元出身の山本浩二だったが、実は広島東洋カープを率いてリーグ優勝を成し遂げた唯一の中国地方出身監督であったことを付記しておきたい(他のリーグ優勝経験監督は全て九州地方出身(注6))。

道路分野〜注目の開通が相次いだ高速道路〜

 この年、すなわち1991年(平成3年)の中国地方の高速道路の新規開通は下表の通りであった。

月日路線名称開通区間備考
3月12日山陰自動車道松江中央インターチェンジ〜松江西インターチェンジ間国道9号線松江バイパスの一部として開通。山陰自動車道の一部に取り込まれたのは1995年(平成7年)のことである。
3月16日山陽自動車道岡山ジャンクション〜倉敷ジャンクション間
岡山自動車道岡山ジャンクション〜岡山総社インターチェンジ間中国横断自動車道岡山・米子線の岡山県内区間では初めての開通となった。
3月20日山陽自動車道福山東インターチェンジ〜福山西インターチェンジ間
尾道・福山自動車道今津ジャンクション〜福山西インターチェンジ間開通区間は山陽自動車道福山西インターチェンジのランプウェイ部分であるが途中に中央分離帯のある上下4車線の部分があることから尾道・福山自動車道の一部と見なしている。
福山西インターチェンジのランプウェイと国道2号線松永道路との接続点については名称は特に付けられていないが、自動車専用道路同士の接続点であることから本サイトでは便宜上今津ジャンクションという名称を付けることにした。
12月7日浜田自動車道千代田ジャンクション〜旭インターチェンジ間この開通により中国横断自動車道広島・浜田線は全線開通となった。
12月8日西瀬戸自動車道因島南インターチェンジ〜生口島北インターチェンジ間因島南インターチェンジの当時の名称は田熊出入口。
生口島北インターチェンジの当時の名称は洲江出入口。

 島根県と岡山県、広島県で高速道路の開通があったということになるが、(賛否両論はあるのだが)この中で私として注目したい点がある高速道路の開通は三つある。山陽自動車道岡山ジャンクション(岡山市北区津寺)〜倉敷ジャンクション(倉敷市三田)間及び岡山自動車道岡山ジャンクション〜岡山総社インターチェンジ(岡山市北区高松田中)間と浜田自動車道千代田ジャンクション(広島県山県郡北広島町有田)〜旭インターチェンジ(浜田市旭町丸原)間、そして尾道・福山自動車道今津ジャンクション(福山市今津町)〜福山西インターチェンジ(福山市東村町)間である。ここからはそれぞれについて紹介していくことにしたい。
 まず、山陽自動車道岡山ジャンクション〜倉敷ジャンクション間と岡山自動車道岡山ジャンクション〜岡山総社インターチェンジ間であるが、この開通の注目点は次の通りである。
・中国地方第二の都市・岡山市に初めて高速道路が通ったこと。
・中国横断自動車道岡山・米子線の岡山県内区間(中国自動車道との重用区間〔北房ジャンクション〈真庭市山田〉〜落合ジャンクション〈真庭市中河内〉間〕を除く)が初めて開通したこと。
・中国地方で初めて複数の市町村名の名称を付けたインターチェンジが登場したこと。
 中国地方第二の都市である岡山市に高速道路が通ったのが意外に遅かったんだなと思った方がいたかもしれないのだが、そのようになったのは次に挙げる事情があったからだと思われる。
・岡山市は中国自動車道からかなり離れたところにあること。
・岡山市以東の山陽自動車道の建設は並行して自動車専用道路が通っていることもあり、一部を除いて着手するのが遅かったこと。
・中国横断自動車道岡山・米子線は費用対効果の高い中国自動車道以北の部分を先に着手し、交通量が少なくなることが十分予測できた中国縦貫自動車道以南の部分を後回しにしたこと。
 岡山市は記すまでもなく中国・四国地方随一の交通の要衝であるが、それにしては政令指定都市に移行したのも遅かったし、人口も70万人程度である。中国地方随一の広さを持つ平野の中に町があり、中国・四国地方随一の交通の要衝になっているのになぜなのかと思いたくなるのだが、交通網の整備の遅れが一因だと思うのは私だけだろうか。まあ交通網の整備が必ずしも町の発展に繋がるわけではなく、場合によっては京阪神地方や広島市へのストロー効果に苛(さいな)まれる恐れもあったわけであるが、果たしてどうなのだろうか。
 また、「中国地方で初めて複数の市町村名の名称を付けたインターチェンジが登場したこと」であるが、これは岡山総社インターチェンジの敷地が岡山市北区高松田中と総社市長良に跨っていることに由来する。岡山市の西部にあるから岡山西インターチェンジ(実はこれが仮称だった)としたら総社市側が黙っていないだろうし、反対に総社市の東部にあるから総社東インターチェンジとしたら今度は岡山市側が黙っていないだろう。また、「備中高松」とか「吉備路」というのも候補にはなりそうだがこの開通により初めて高速道路が通ることになる岡山市や総社市にとっては許容できるものではなかったのだろう。そういうことから「岡山総社」で落ち着いたものと思われる。
 ところが、岡山自動車道本線にあるインターチェンジの名称表記は長らく「総社岡山西」となっていた。恐らく「道路地図では岡山総社インターチェンジになっているのに現地の案内標識は総社岡山西となっている。どうなっているのか」と思った方が多数いたのではないかと思うのだが、これは岡山総社インターチェンジは岡山市中心部よりも総社市中心部の最寄りインターチェンジとしての性格が強かったこと(岡山総社インターチェンジ〜岡山市役所〔岡山市北区大供〈だいく〉一丁目。現在は同じ場所に岡山市北区役所もある〕間の直線距離は約12kmだが岡山総社インターチェンジ〜総社市役所〔総社市中央一丁目〕間の直線距離は約5kmであり、明らかに総社市中心部の最寄りインターチェンジとなる)や「岡山総社」という名称では岡山県にある総社であることを強調すべく付けられたという印象を与えかねないこと(注7)、そして知名度が高いとは言い難い総社市の存在を宣伝したかったことが考えられる。岡山市中心部の最寄りインターチェンジはその後別にできたのだから総社岡山西インターチェンジに改称したほうが良いのではないかという声が上がっても良いように思うのだが、結局はその意見は通らず、何年か前に案内標識は元々の「岡山総社」に修正されている。
 「岡山総社」「岡山西」「総社岡山西」「吉備路」「備中高松」…といくつも挙がる案のどれが最適なのか、私には決めかねる。いずれの案も賛否入り乱れる結果になることは火を見るより明らかだからである。しかし、この問題は地域の発展の起爆剤になると信じられている高速道路の施設の名称を決めるに当たっては微妙な問題が起きることを示した事例になったことは最早疑いようもないことであろう。
 次に、浜田自動車道千代田ジャンクション〜旭インターチェンジ間であるが、この開通の注目点は次の通りである。
・中国横断自動車道広島・浜田線が4路線ある中国横断自動車道で初めて全線開通を果たしたこと。
・本州を横断する高速道路としては関越自動車道に次いで二番目に全線開通を果たしたこと。
 費用対効果や交通量を考えればなぜ中国横断自動車道広島・浜田線が本州を横断する高速道路としては関越自動車道に次いで二番目に全線開通を果たしたのか疑問に思う方が多いかもしれないのだが、距離が短いこと(広島ジャンクション〔広島市安佐南区大塚西一丁目〕〜浜田インターチェンジ〔浜田市長沢町〕間の距離は85.9km。記すまでもないが各地で計画されている「横断自動車道」と名の付く路線で最短の路線である)や中国自動車道が地形的な事情などから広島市安佐北区を通過するように経路が決められたこと、中国自動車道と山陽自動車道や広島市中心部を結ぶ中国自動車道以南の部分、すなわち広島自動車道の建設が早く進み、千代田ジャンクション以南の部分は1980年代中期までに開通していたこと、長いトンネルがあまりなかったことが大きいように思われる。また、広島市との繋がりが深い浜田市にとってみれば広島市に通じる国道路線がなくなったことや広島市に通じる鉄道路線の計画が頓挫したこと、広島市に通じる主要地方道路線はあるが改良が進んでいないことといった事情(注8)があり、中国横断自動車道広島・浜田線が待望の交通路になっていたことは想像に難くないところであろう。「閑古鳥の鳴いている路線」とテレビの報道番組で揶揄(やゆ)されたり広島市へのストロー効果が著しくなったりするなどの不利益も少なくないのだが、浜田市や江津市、邑智郡邑南町に住んでいる方々にとってみれば重要な生活道路になっていることや広島市との往来がしやすくなったこと、広島市などから観光客を呼べるようになったことなどもたらされた利益も少なくない。
 一方で中国横断自動車道広島・浜田線の全線開通は高速道路の整備が日本列島を縦貫する道路から日本列島を横断する道路に、人口の多い地域から人口の少ない地域に移ることを示した出来事でもあった。つまり、今後の高速道路の整備は交通量が少ない、言い換えれば採算のとれない路線が増えてくることを示した出来事でもあった。「道路は鉄道ほど悲惨なことにはならない」とか「ほとんどの高速道路は降りないで大都市に行けるのだから交通量が低迷することなどなかろう」と楽観視する方も当時は少なくなかったが、高速道路の整備が日本列島を縦貫する道路から日本列島を横断する道路に、人口の多い地域から人口の少ない地域に移ることや少子・高齢化で日本の人口が減少に転じること、東京一極集中が著しくなったこと、そしてバブル景気が終わり、不景気の時代が長く続いたことなどを考えればそれは未来永劫通用するものにはなり得なかった。その結果がどうなったのか。最早記すまでもないであろう。
 最後に、尾道・福山自動車道今津ジャンクション〜福山西インターチェンジ間であるが、この開通の注目点は次の通りである。
・1987年(昭和62年)に策定された第四次全国総合開発で制定された国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)として初めて全線開通を果たした路線になったこと。
・中国地方で初めて一部を除いて通行料金がかからない高速道路が開通したこと。
 中国地方には国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)は昨年全線開通を果たした東広島・呉自動車道とこの尾道・福山自動車道しかないのだが、全くの新線で建設される東広島・呉自動車道と異なって尾道・福山自動車道は国道2号線松永道路と山陽自動車道福山西インターチェンジのランプウェイで構成される路線であり、制定時点で数年内の全線開通は確実な状況にあった。
更に国道2号線松永道路は記すまでもないが通行料金はかからない。よって前記のような状況が生じることになったわけである。
 ところが、「尾道・福山自動車道」の知名度は皆無に近い。制定の目的は山陽自動車道と本州・四国連絡橋尾道・今治ルート(西瀬戸自動車道〔愛称:瀬戸内しまなみ海道〕)を繋ぐことだったのだが、「尾道・福山自動車道」という路線名称が記された標識は本線には全くなく、尾道市内の本線と接続する道路(西藤インターチェンジ〔尾道市西藤町〕…県道54号福山・尾道線、高須インターチェンジ〔尾道市高須町〕…尾道市道)にしかないのである。

国道2号線松永道路西藤インターチェンジにある標識(写真は西行きのもの)

国道2号線松永道路高須インターチェンジにある標識(写真は南行きのもの)

 なぜ尾道・福山自動車道は知名度がほぼ皆無の道路になってしまったのか。私は広島県南東部の中心都市を巡る尾道市と福山市の確執が背景にあるのではないかと考えている。本来なら山陽自動車道と本州・四国連絡橋尾道・今治ルートを結ぶ道路の名称は北側を起点、南側を終点とする流れ(注9)から福山・尾道自動車道となるのが妥当だったのだが、本州・四国連絡橋尾道・今治ルートの起点であり、福山市より歴史が古く(注10)、更に1960年代までは広島県南東部の中心都市として確固たる地位を築いていた尾道市にとってみればそれは面白くない話である。そこで流れとは逆の名称にすべきだと主張し、「尾道・福山自動車道」となったのではないのだろうか。恐らく本州・四国連絡橋尾道・今治ルートの事実上の本州側の起点となる山陽自動車道福山西インターチェンジの名称が福山西ジャンクションにならなかったのも同じ理由からではないかと思う(注11)のだが、尾道市の意向に振り回された福山市がこれらの話を面白く感じるはずはなく、それ故に福山市内では「尾道・福山自動車道」は存在しないことにされているのではないのだろうか。本当に微妙な立場に置かれている道路なんだなと感じたのだが、この件は本来ならもう少し注目されるべきことだったと言えるかもしれない。

 さて、これらの注目点のある高速道路の開通から見えてくることは次に挙げることではないのだろうか。
・次々と高速道路が通るところが増えたこと。
・高速道路の整備が列島縦貫路から列島横断路に移ってきたこと。
・交通量が見込めないようなところにも高速道路が通るようになったこと。
・路線や施設の名称を巡って微妙な問題が生じるようになったこと。
 これらの事柄は各地に高速道路網が広がっていったけれどその中でいろいろな問題が生じていることを示しているのだが、私はこの頃高速道路の整備は曲がり角に差しかかったのではないかと感じたくなった。地域エゴと採算性という鉄道も直面した問題に高速道路も直面するようになったからである。しかもその数年前には高速道路計画は第四次全国総合開発で更に増やされたのである。東京一極集中や過疎・過密、少子・高齢化が社会問題化し、バブル景気が終焉を迎えた時代に高速道路を増やしたらどうなるか。それが今我々の眼前に示されていることなのである。「過去は現在の結果・原因」とよく言うが、今当時のことを考えるとそのことはよく分かると思う方は少なくないのではないのだろうか。他の地方にも同じような問題があったのかどうかは分からないが、少なくとも1991年(平成3年)の中国地方の注目の高速道路の開通には当時は全く考慮されなかった問題が潜んでいたことだけは事実である。

ラジオ分野〜地域別放送は何をもたらしたか〜

 現在中国放送ラジオ(RCC、広島市中区基町)の中波中継局は7箇所(広島・庄原・東城・福山・府中・三原・三次)ある(注12)。現在は月曜日午前5時(注13)の放送開始から翌週月曜日午前1時の放送終了まで164時間にわたって全中継局で同じ番組を流しているのだが、平成時代の初頭、広島本局及び庄原・東城・三次各中波中継局と福山・府中・三原各中波中継局で別々の自社制作のワイド番組を流していた時間帯があった。つまり、広島本局及び庄原・東城・三次各中波中継局では本社制作のワイド番組を、福山・府中・三原各中波中継局では福山支社制作のワイド番組をそれぞれ流していたというわけであるが、そうなったのは1991年(平成3年)秋の番組改編からであった。
 なぜ広島本局及び庄原・東城・三次各中波中継局と福山・府中・三原各中波中継局で別々のワイド番組を流すようになったのか。主な理由は次の通りである。
・広島県南東部はある程度の人口集積を持っており、なおかつ確固たる中心都市があったのに情報発信の場がなかったこと。
・広島市及びその周辺の情報を多く取り上げる現状に不満を持つ方が少なくなかったこと。
・昭和時代末期から平成時代初頭にかけての中国放送ラジオの平日午前中(午前9〜10時台)の自社制作のワイド番組は短命に終わるものが多く、その点で広島県南東部在住の方から不満が出ていたこと(注14)
・中国放送は広島県南東部の中心都市である福山市にスタジオを持つ支社を設置しており、福山・府中・三原各中波中継局だけで流される短時間番組をいくつか制作・放送していたこと。
・中国放送ラジオ福山中波中継局(福山市北美台)には放送局機能を有することを示すコールサイン(JOEO)が付与されていたこと(注15)
 それだけのものがあるから勝算はあると考えて設定に踏み切ったわけであるが、平日午前中に設定された番組、すなわち「こっちのラジオはびんご色 BINGO LIVE STATION 小川久志のきょうもいい朝!」(1991〜2001年〔平成3〜13年〕放送。正式の題名があまりにも長いので以降は「小川久志のきょうもいい朝!」と記すものとする)は見事に広く支持される番組になった。それに気を良くしたのか1995年(平成7年)には土曜日午後についても福山支社制作の福山・府中・三原各中波中継局だけで流れるワイド番組が設定され、最盛期には日曜日以外福山支社制作のワイド番組が福山・府中・三原各中波中継局だけで流れる格好になっていた。その頃福山支社(福山市北美台)が制作した、中国放送ラジオの全中波中継局で流れる番組もいくつもあったというから1990年代は中国放送福山支社の最盛期といっても間違いではなかった。
 さて、9年半にわたる地域別放送は何を広島県南東部にもたらしたのだろうか。福山・府中・三原各中波中継局の周波数統一(注16)などいろいろあるのだが私はコミュニティ放送局の開局を促したことではないかと考えている。「小川久志のきょうもいい朝!」が始まって間もない頃、放送法施行規則の一部改正が行われ、エフエム放送による市区町村を放送区域とするラジオ放送局、すなわちコミュニティ放送局が開局できるようになったのである。早速1992年(平成4年)暮れには函館市に第一号となる放送局が開局し、その後各地で開局が相次いだのだが、慎重姿勢をとっていたのか中国地方における開局への動きは鈍かった(注17)。そんな中で福山市はコミュニティ放送局の開局に向けていち早く動いたわけであるが、その背景を挙げると次の通りになる。
・一日2時間程度の地域別放送では十分とは言えなかったが、増枠は不可能だったこと。
・もし地域別放送が増枠された場合、中国放送本社制作の人気番組が福山・府中・三原各中波中継局で流れなくなる恐れが生じるためかえって不利益になること。
・広島県に都道府県域民間エフエム放送局の開局への動きが起きた時、広島県南東部に本社を置くことを求める声が上がったが、結局実現しなかったこと(注18)
・福山市は中国地方の県庁所在地以外の中枢性の高い都市で最も人口が多いこと(注19)
・福山市は中枢性だけでなく経済力も高いこと。
・兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災。1995年〔平成7年〕1月17日)では福山市でもかなり強い揺れが起きたが、もし広島県南東部で甚大な被害をもたらす災害が起きた時、NHK広島放送局(広島市中区大手町二丁目)や広島市に本社を置き、広島県を放送区域とする都道府県域民間ラジオ放送局が交通情報や生活に関する情報などきめ細かな情報を流せるかどうか疑問が生じること。
 そして1996年(平成8年)8月8日、中国地方初のコミュニティ放送局・エフエムふくやま(愛称:レディオBINGO。福山市西町二丁目)が開局したわけであるが、福山市を中心とした地域を放送区域としていること(注20)や自社制作番組が多数設定されたことですぐに福山市及びその周辺地域に住む方々にとって親しまれる存在になった。無論「小川久志のきょうもいい朝!」が放送されている時間帯にも自社制作のワイド番組を設定しているし、中国放送福山支社制作のラジオ番組に出演していた方がエフエムふくやまの番組に出演することも少なくなかった。その頃から「小川久志のきょうもいい朝!」はテコ入れ策とも解せるような施策、すなわち女性アシスタントを日替わりにしたり出張公開生放送を何度も設定したりするなどの施策が見られるようになったのだが、それだけエフエムふくやまの存在は大きな脅威になっていたのだろうか。
 更に1999年(平成11年)6月1日には尾道市でもコミュニティ放送局、すなわち尾道エフエム放送(愛称:エフエムおのみちまたはエフエムおのみち79.4。尾道市土堂二丁目)が開局した。尾道市は昭和時代中期まで広島県南東部の中心都市の座にあったし、本州・四国連絡橋尾道・今治ルートや中国横断自動車道尾道・松江線の整備で広島県南東部における交通の要衝としての地位を確固たるものにさせようという思いもあった。手短に記せば福山市には負けられないという思いが強かったのだろう。開局当初は中心部の近くにある千光寺山(標高:136.6m)に本局を設置していたこと(注21)もあって受信可能地域は狭く、また公式サイトも長らく未整備の状態が続いていたが、開局当初から平日に三つの自社制作のワイド番組を設定しており、安定した支持を得ている。
 尾道市と福山市という広島県南東部を代表する都市にコミュニティ放送局が相次いで開局し、どちらも「小川久志のきょうもいい朝!」の放送されている時間帯に自社制作のワイド番組を設定したことは言い換えれば「小川久志のきょうもいい朝!」の存在意義を希薄化させる出来事であったと言える。中国放送ラジオの福山・府中・三原各中波中継局の電波は受信できても尾道エフエム放送やエフエムふくやまが受信できない地域は少なくなかったのだが、中国放送としては「小川久志のきょうもいい朝!」、言い換えれば地域別放送はもう役目は終えたのではないかという考えに傾くことは想像に難くない。しかもその頃中国放送も同じく長く続く不況やインターネットの急激な普及、テレビ局が属しているTBS系列の視聴率不振などが原因で経営環境が厳しくなっていった。そして2001年(平成13年)春、「小川久志のきょうもいい朝!」、言い換えれば中国放送ラジオの地域別放送は9年半の歴史に終止符を打ったのである。
 結局コミュニティ放送局の存在が地域別放送の終焉をもたらしたということにはなるのだろうが、私は地域別放送があったから尾道市や福山市におけるコミュニティ放送局の開局が促され、地域のきめ細かな情報を伝えることを使命とするコミュニティ放送局が充実したから地域別放送は終わったのではないかと考えたい。つまり、地域別放送の終了は悲観すべきことではなく、コミュニティ放送局に発展的解消を遂げたのではないかと私は思うわけである。もし地域別放送がなければエフエムふくやまは中国地方初のコミュニティ放送局になっていなかったかもしれないし、尾道エフエム放送やエフエムふくやまに人材を供給することもできなかったかもしれない。確かに「和歌山放送(WBS、和歌山市湊本町三丁目)や長崎放送ラジオ(NBC、長崎市上町)など現在でも地域別放送を続けているところもある(注22)のだから中国放送ももう少し経営努力をすれば地域別放送は維持できたのではないか」という声もあるのだが、広島県全体を見据えた放送を展開したい中国放送としてはいくら人口の多い地域でもそこだけ特別ということはしたくなかったのだろう(真偽は定かではないのだが中国放送は尾道エフエム放送やエフエムふくやまの開局に当たり支援をしたという話もあるという)。その住み分けが実証されたのが今年6月22日深夜から6月23日早朝にかけての大雨で福山市内各地で浸水被害が起き、交通網が寸断されたという災害であるが、もし今広島県南東部において地域の情報を得るためのラジオ局がNHKラジオ第一や中国放送ラジオ、広島エフエム放送(HFM、広島市南区皆実町一丁目)しかなかったとしたらどうだったのだろう。「いつになったら山陽本線は動くようになるのか」とか「国道2号線を西に向かって進んでいるが本庄(福山市街地と芦田川の間にある地域)付近から全く動かない。どうなっているのか」とか「どの道路が通れてどの道路が通行できないのか」とか「迂回路として通っている道路が渋滞しているのに何の情報も流さないのか」とか「広島中心のお喋りはどうでも良い。福山市内の情報について時間を割けないのか。甚大な被害を出した広島市北部の集中豪雨(2014年〔平成26年〕8月20日)は大きく取り上げているのに被害が小さかったり犠牲者がいなかったり広島市より遠い土地のことだったりしたら軽んじるのか」という声が多数出たことであろう。そのことを考えると私は中国放送の選択は正しかったと思うのである。ただ、コミュニティ放送局は経営が厳しいところが多いこと(注23)や人口が多くても開局に至らないところが少なくないこと(注24)、そして地域を襲った災害の際には全く役に立たなかったところがあったこと(注25)を考えるといかに経営を安定させ、有事の際に有用な存在になるかが問われてくることは間違いないであろう。
 最後になったが、私の友人で「 下関市立大学学園祭情報局〜中国地方最古参の市立四年制大学の学園祭のきのう・きょう・あす〜 」というサイトを運営している中島孝祐(なかしま・こうすけ)さんの大学時代の先輩(一級上の男性。以降はAさんと記すものとする)に中国放送に勤務していた方がおり、1994年(平成6年)夏から3年間福山支社に勤務し、福山支社制作の番組に関わっていたという(そのことは こちらの注釈28 でも書いている)。福山支社制作の番組で何度かAさんの名前が出てきたこともあるとのことであるが、今中島さんはこのように思っているという。
「3年間の福山支社勤務でAさんが頑張っている姿はAさんが制作にかかわった番組だけでなく中国放送テレビの番組、地元紙の中国新聞などでよく見聞しておりました。1994年(平成6年)を最後にAさんは仕事に専念したいからということで自らが設立した大学祭実行委員会事務局のOB会(以降はOB会と記すものとする)には参加しなくなりましたが、活躍ぶりを知っていた私は致し方ないことだなと思っていたものでした(注26)。あんな不祥事を起こして警察に逮捕され、十数年間勤務していた中国放送から追放されたことは今でも腹が立ちますが、私が広島県在住の下関市立大学(下関市大学町二丁目)の同窓生を対象とした同窓会への参加を断ったことや記者として度々出ていた平日夕方のニュース番組の視聴率低迷の責を問われたこと(同窓会への参加を断った件と視聴率低迷の責を問われた件は こちら でも触れている)に加えて福山支社の合理化が推進され、淋しさを抱くようになったこと(注27)が不祥事の引き金になったのでは…と今も思っているところです。確かにこのように見れば身から出た錆(注28)と言って良いことだし、逆境に打ち勝てなかったということになるのでしょう。けれどこれだけは分かって欲しかった。Aさんが制作に関わった番組で多くの方々が楽しんだこと、Aさんが制作に関わった番組の出演者が現在も多数活躍していること(中には数年前福山市長選挙に出馬した方も…)、Aさんが頑張っていることが自分にとって励みになったこと、そしてAさんの不祥事は多くの関係者を悲しませたこと…。そんなことはどうでも良いと思っているのかもしれませんが、そういうことを念頭に置いていたら逆境に打ち勝てたし、もう少し中国放送でも出世でき、現在でも活躍できていただろうし、不祥事を起こさずに済んだだろうし、私などの学生時代の仲間の前に再び立派な姿を見せられたのではないかと思うと本当に残念になりません。今どこでどうしているかは分かりませんが、そのことを反省して生きていって欲しいと思っています。そしていろいろ思いはありますが、広島県南東部に住む一人の人間として多くの番組で楽しませて頂いてありがとうございましたと言いたいと思っています」

地域分野〜タウン情報誌が消えた街を盛り上げるべく頑張った方々〜

 いきなりではあるがここでこのページをご覧になっている方に対してクイズを出す。次に挙げる雑誌の名称に共通することは何なのかを当てて頂きたいのである。
・月刊タウン情報ふくやま
・月刊レジャー広島
・広島美人
・Hiroshima Freak
・ぴーぷる
 正解は「この十数年間に廃刊に追い込まれた、広島県内で発行されていた主たるタウン情報誌の名称」である。中には「月刊レジャー広島」のようにきっぱりと閉刊しますと宣言して発行を取りやめたところもあるのだが、そのほとんどは突然「今号をもって休刊致します」という挨拶を最終号に掲載し、そのまま廃刊しているのである。これらのタウン情報誌の廃刊の一因は1995年(平成7年)以降インターネットが急激に普及したことで情報の新鮮性に太刀打ちできなくなったことであるのだが、インターネットが急激に普及する前に廃刊に追い込まれたタウン情報誌が中国地方には存在する。そのタウン情報誌が発行されていたところは山口県最大の都市・下関市であった。
 下関市を中心とした山口県西部を販売区域とする「月刊しものせきウェーブ」が創刊されたのは1983年(昭和58年)のことである。その前後には岡山市(「月刊タウン情報おかやま」)や広島市(「月刊タウン情報ひろしま」)、福山市(「Wink」)などの地方都市でタウン情報誌がそれぞれ創刊されており、その波に乗ろうという思いがあったのだろう。以後発行を続けてきたのだが、1991年(平成3年)8月下旬に発売された1991年(平成3年)9月号をもって休刊(=廃刊)してしまったのである。あと数号で100号の大台に乗るところでの廃刊は当時ある全国紙の地方版でも報じられたほどだったという。「『月刊タウン情報おかやま』や『月刊タウン情報ひろしま』、『Wink』(注29)は現在でも発行され続けているのになぜ『月刊しものせきウェーブ』はいち早く脱落してしまったのか」と思う方がいるかもしれないのだが、現在も自宅に「月刊しものせきウェーブ」を十数冊保存している中島さん(実は「月刊タウン情報おかやま」・「月刊タウン情報ひろしま」・「月刊レジャー広島」・「Wink」備後版・「月刊タウン情報ふくやま」・「月刊しものせきウェーブ」の購読経験者でもある。現在は廃刊になったものを含めてどのタウン情報誌も購読していないし、一部を残して処分することを考えているとのこと)はその理由を次の通り挙げている。
・使っている紙が他のタウン情報誌より劣っていること(多くのタウン情報誌はスベスベした紙を使っているが「月刊しものせきウェーブ」はザラザラした紙を使っていた)。
・下関市は中国地方では福山市と並ぶ電波銀座(注30)なのに山口・福岡・大分地区のテレビ番組やラジオ番組に関する情報を掲載したページがないこと(山口・福岡地区のテレビ局で放送される予定の映画一覧表は掲載されていたが…)。
・九州自動車道の北九州市内区間(注31)の全線開通(1988年〔昭和63年〕3月31日)やTVQ九州放送(TVQ、福岡市博多区住吉二丁目)の開局(注32)による福岡県の民間テレビ放送局5局化(1991年〔平成3年〕4月1日)などで福岡市・北九州市へのストロー効果(ストロー現象とも言う)が著しくなったこと。
・下関市の主力産業である水産業や造船業が斜陽化したことなどにより人口増加が鈍化し、1985年(昭和60年)を頂点として人口減少に転じたこと(下関市の人口の変遷は 中島さんのサイトのこのページ で紹介している)。
・町の景気が悪くなったことで町のあちらこちらに廃業したが後継者がなかなか入らない店舗が見られるようになったこと(JR山陽本線下関駅〔下関市竹崎町四丁目〕の東口にあったサンロード〔下関市竹崎町四丁目にあった大型商業ビルだがすぐそばにほぼ同じ時期に開業した大規模商業施設・シーモール下関〈下関市竹崎町四丁目〉があったことやシーモール下関との協調関係がなかったこともあって経営は振るわず、昭和時代末期に1階のごく一部を除いて使用されなくなった。現在は解体され、跡地には結婚式場が建っている〕はその代表的存在だった)。
・下関市は山口県最大の都市ではあるがその中枢性は広島市や岡山市、福山市などに劣ること。
・「月刊しものせきウェーブ」は下関市内のある印刷会社が発行していたタウン情報誌だったのだが、その印刷会社の経営がバブル景気の終焉などで傾き、その際不採算部門を切り捨てることになって売れ行き不振に陥っていた「月刊しものせきウェーブ」を廃刊することを決めたこと(ちなみにこの印刷会社は今も盛業中だが公式サイトでは一切『月刊しものせきウェーブ』を発行していたことは触れていない。よほどなかったことにしたいことだったのか…(注33))。
・「月刊しものせきウェーブ」の投稿欄にある方々の逆鱗(げきりん)に触れるような投稿を掲載したことで発行の取りやめを要求され、泣く泣くその要求を呑んだこと(その疑いがあることは こちらの注釈9 でも触れた通り。あくまでも噂の域を出ないが、最近山陽放送ラジオ〔RSK、岡山市北区丸の内二丁目〕の自社制作のワイド番組で出演者がある自動車学校を名指しで批判するような発言をしたことで降板させられた上、その番組が番組改編期でもない時期〔今年8月26日〕に打ち切られたことを考えればあり得ない話ではない)。
 中島さんは「『月刊しものせきウェーブ』は山口県に伝わる昔話をマンガ化したものを連載するなど他のタウン情報誌にはない路線をとっていただけにもう少し発行元が意欲的だったら良かったのに…と思う。むしろ『衰退している』とか『福岡県へのストロー効果が著しくなっている』とか『町に活気がない』といった現状を逆手にとり、それを反映させていたら面白い存在になり、『月刊タウン情報おかやま』や『月刊タウン情報ひろしま』、『Wink』に比肩するようなタウン情報誌になることも可能だったのではないか。結局は発行元のやる気のなさがこういうことになったのではないかと今も思っている」と話している。まあ冒頭で記した通り、下関市より人口の多い広島市や福山市でもタウン情報誌が相次いで廃刊に追い込まれている現状(注34)を考えれば広島市や岡山市、福山市、福岡市と違って人口が減少に転じている下関市のタウン情報誌がどこまでやれたかは分からないのだが…。

 主力産業の不振、駅前の大型商業ビルの完全閉店、人口減少、山口朝日放送(YAB、山口市中央三丁目)の本社誘致失敗、タウン情報誌の廃刊…と昭和時代末期からの下関市は芳しくない話が続いた。「昔は良かったのに…」とか「もう何をしても昔の賑わいは戻らない」というような悲観的な声も少なくなかった。地理的事情や山口県最大の都市であることから生じた安心感などがそういう悲観的な声、言い換えれば後ろ向きな考えに繋がったとも言えるのだが、記すまでもなくそういう後ろ向きな考えを持つ人ばかりではない。現状は厳しいけどこの町を盛り上げようと思う方も多数いる。そこでここでは1991年(平成3年)頃から下関市を盛り上げようと努めている団体を取り上げてみたい。
 その団体とは下関市立大学・大学祭実行委員会事務局である。「その団体って大学の学園祭の実行委員会かよ。大学の学園祭の成功だけ考えていれば良いだろう。それがなぜ下関市を盛り上げようと努めているんだい?」と思う方がいるかもしれないのだが、団体の名称を見て何かに気付かなかったであろうか。実は下関市立大学は記すまでもなく下関市が運営する大学である。下関市立大学は中国地方最古参の市立四年制大学であり、(1991年〔平成3年〕時点で)中国地方唯一の市立四年制大学(注35)でもあるわけであるが、下関市の税金で運営されている以上大学構内を一般市民に開放する機会を設けることは当然の帰結であった(注36)。故に前身の下関商業短期大学(下関市貴船町三丁目。1956〜1966)が開学した1956年(昭和31年)から毎年欠かさず学園祭は開催されており、今年も第55回馬関祭という名称で既に先週の土曜日・日曜日・月曜日(今月8〜10日)に開催されている。しかし、その学園祭の歴史は波乱に満ちていた。まあ学生運動盛んなりし頃には既に存在したのだからそうなるのは必然と言えたわけであるが、ならばどういう歴史を経てきたのか。1990年(平成2年)までではあるがその主たる出来事(下表参照)をご覧頂きたい(下関市立大学及びその前身の下関商業短期大学の学園祭の名称やテーマは 中島さんのサイトのこのページ で紹介しているので併せてご覧頂きたい)。

※下表にはもしかしたら事実ではないことを書いている箇所があります。その点を踏まえた上でご覧頂きますようお願い申し上げます。

記事備考
1956年
(昭和31年)
下関商業短期大学が現在の下関市貴船町三丁目に開学。その年の秋に開学記念大学祭と銘打った、初の学園祭が開催される。下関商業短期大学は勤労青年(但し年齢は不問。60代の男性が入学し、勉学に励んだという話もあったという)を対象にした夜学として開学。
1962年
(昭和37年)
下関市立大学が現在の下関市大学町二丁目に開学。その年の秋に下関市立大学初の学園祭となる第1回大学祭が開催される。
下関商業短期大学はこの年が2学年揃う最後の年になったため、下関商業短期大学の学園祭はこの年の秋に開催された第7回大学祭をもって終了となる。短期大学を発展的解消させて発足した尾道市立大学(尾道市久山田町)や福山市立大学(福山市港町二丁目)は開学する前の年をもって前身の短期大学の学生募集を打ち切っているが、なぜ下関商業短期大学は1962年度(昭和37年度)も学生を募集したのかは不明。また、存続させておけばその後の私学移管騒動などは回避できたのではないかとする声もあるが、なぜ並存を考えなかったのかも不明(注37)
下関市立大学の学園祭と下関商業短期大学の学園祭のパンフレットは一つにまとめられているが、表紙には第1回大学祭と記されているなど下関市立大学の学園祭を前面に押し出している感が強い。
1963年
(昭和38年)
下関商業短期大学は名目上は2年生しか学生がいなくなったため下関市立大学と下関商業短期大学合同の大学祭実行委員会事務局を結成し、学園祭(第2回大学祭)を開催する。
1964年
(昭和39年)
初めて下関市立大学単独の学園祭(第3回大学祭)を開催する。この時点で下関商業短期大学にはまだ学生はいくらか在籍していたが、その人数は少なかったことや本来なら卒業していなければならないはずの学生が残っていただけであることから下関商業短期大学については考慮しなかったものと思われる。
1965〜1968年
(昭和40〜43年)
「空白の4年間」が発生する。「空白の4年間」とは第4〜7回大学祭(1965〜1968年〔昭和40〜43年〕)のパンフレットに大学祭実行委員会事務局のスタッフの名前が2〜6人しか記されておらず、大学祭実行委員会事務局の全容が解明できないことを指す。原因としては大学祭実行委員会事務局を取り仕切っていた中央委員会内部の問題で大学祭実行委員会事務局の結成や学園祭の準備に支障が生じたことが考えられる(更に1965年〔昭和40年〕については私学移管反対運動(注38)が起きたことも加わった)。それでも何とか学園祭は開催されていることからある程度の学生が大学祭実行委員会事務局の活動に参加し、学園祭の成功に貢献したのだろうが、この当時の学生は既に60〜70代になっていることや半世紀も前の話であることから実態解明は困難になっている。
1969年
(昭和44年)
大学祭実行委員会事務局が原則15人体制で運営されるようになり、部署が設定されるようになる。当時設定された部署は事務局・財務部・企画部・編集部・広報部・渉外部。年により改廃はあったが、つい数年前までこれらの部署を基本として部署は設定されていた。
学園祭のパンフレットにその年のテーマまたはスローガンが記されるようになる。
1972年
(昭和47年)
下関市立大学の学園祭の名称が大学祭から馬関祭に変更される。名称変更の理由については詳らかではないが、下関市立大学が開学10周年を迎えたことや大学祭という名称では印象に残らないという声が高まったこと、そして連合赤軍事件(1971〜1972年〔昭和46〜47年〕)の影響で学生運動に対する世間の目が一層冷たくなったことがあったものと思われる。無論全学的同意を得ての改称だったものと思われるが、この事実が持つ重みを知っていれば後に記す名称変更にまつわるトラブルは起きなかったのではないのだろうか。
1973年
(昭和48年)
下関市立大学・大学祭実行委員会史上初めて女子学生が委員長に就く。
1974年
(昭和49年)
第13回馬関祭で谷村新司・堀内孝雄が在籍していたことで知られるフォークグループ・アリスのコンサートが開催される。
1975年
(昭和50年)
第14回馬関祭で歌手コンサートの前座に有力高校生アマチュアバンドを出演させようとしたことについて下関地区高校教護連盟が待ったをかけ、企画内容を変更する事件が起きる(下関地区教護連盟企画干渉事件)。中島さんによるとこの第14回馬関祭のパンフレットは下関市立大学・大学祭実行委員会事務局には残っていなかったという。なぜ全く残されていなかったのかは不明(中島さんはどのような企画があったかとか委員長が誰だったかとかは当時の新聞記事から把握しているとのこと)。
また、この第14回馬関祭では下関市立大学の関係者(大学祭事項委員会事務局のスタッフだったかどうかは不明)が差別発言をしたという事件も起きている。
1977年
(昭和52年)
この頃から学園祭のパンフレットの「編集後記」に学園祭が盛り上がらないとかスタッフが集まらないとかいった、下関市立大学の学園祭が低迷傾向にあることを示すようなことが書かれるようになる。
1980年
(昭和55年)
大学祭実行委員会事務局のスタッフの人数がわずか9人と史上最少になる。1年生と女子学生は全くいなかったという。
第19回馬関祭の企画の一つとして下関市民会館(下関市竹崎町四丁目)で開催したダウンタウンファイティングブギウギバンドコンサートが興行的に失敗する。ダウンタウンファイティングブギウギバンドはダウンタウンブギウギバンドがこの年の正月に改称して発足したバンドで、ダウンタウンブギウギバンド時代の楽曲・衣装などを完全に封印して2年間活動した。NHK大河ドラマ「獅子の時代」(1980年〔昭和55年〕放送)の劇中歌も担当しているが、中島さん(当時8歳)は「家族で『獅子の時代』は見ていたのは覚えているがそういう曲が流れていたかどうかまでは覚えていない」と話している。そのように考えれば失敗するのは当然の帰結だったと言えるのではないのだろうか。
中島さんは「この件は先輩方から何度も聞かされていたが、体制が何度か変遷しても10年以上経っても伝えられていることを思うと相当な衝撃を持って受け止められた事件だったのだろう」と話している。
1981年
(昭和56年)
前年のダウンタウンファイティングブギウギバンドコンサートの失敗を受けて大学祭実行委員会事務局が大幅な組織再編を実施する。再編の主たる内容は次の通りである。
・活動できるのは3年生までとする。
・委員長はそれまで活動してきた人の中から選ぶ。
・次代を担う人材の育成や幹部の補佐を目的として部員を置く。
また、この頃から大学祭実行委員会事務局を体育会が取り仕切るようになったが、中央委員会の影も見え隠れしており
(注39)、これが後に大学祭実行委員会事務局の学友会脱退強行の遠因になった。大学祭実行委員会事務局は自治組織であり、中立的立場になければならないはずなのだが、それがならなかったのはある意味悲劇と言えるのではないのだろうか。
ただ、このような改革を行っても下関市立大学の学生の学園祭に対する関心は高まらず、盛大な学園祭を行えるところまで持っていくことはできなかった。また、慢性的な人手不足により複数の業務を担うスタッフも少なくなかった。
1983年
(昭和58年)
国際商学科が設置され、下関市立大学は一学部二学科体制に移行する。その後2000年(平成12年)には大学院が、2011年(平成23年)には公共マネジメント学科がそれぞれ設置されている。一方で1990年代中期には学部新設構想もあったが残念ながら実現しなかった。
1年次からずっと活動してきた地元出身の男子学生が三役(委員長・副委員長・事務局局長)に就かず、この年だけ存在した庶務部の部長に就くという不可解な幹部人事が行われる。この男子学生の言行が体育会や中央委員会の逆鱗に触れ、三役に就かせるのは不都合だと考えて庶務部に押し込めたとする考えと、この男子学生が何らかの理由により自ら三役就任を辞退して庶務部の部長に就いたとする考えがある。この男子学生は実は卒業したことが確認できないのだが、なぜ学業が全うできなかったのかが分かればもしかしたらこの不可解な幹部人事の謎は解明できるかもしれない。
第22回馬関祭で当時の主要企画・ワッショイフェスティバルのゲストに下関市出身で芸能界デビューを控えていた女性アイドル歌手・岡村有希子が登場する。この件は こちらの注8 でも書いている。
1984年
(昭和59年)
11年ぶりに女子学生(しかも地元出身)が委員長に就く。下関市立大学・大学祭実行委員会事務局で女子学生が委員長に就いたのはこれが最後であり、以後ずっと男子学生の委員長が続いている(つまり60年間の歴史の中で2人しか女子学生が委員長に就かなかったということになる。下関商業短期大学時代の委員長は1962年度〔昭和37年度〕以外は一切不明だが男子学生が多かったことを思うと女子学生の委員長は恐らく誕生していなかったものと思われる)。女子学生が委員長に擁立された背景には当時の大学祭実行委員会事務局の慢性的な人材難があったことが考えられる。
第23回馬関祭で沢田聖子(さわだ・しょうこ)コンサートが開催されたが興行的に失敗し、1・2年生の大半に去られる結果を招く。前記のダウンタウンファイティングブギウギバンドコンサートは語り継がれているのに対してこの件は全く語り継がれていないのが不可解に感じるところであるが、知名度の差が大きいように思われる。ただ、沢田聖子コンサートの興行的な失敗がその後の大学祭実行委員会事務局の学友会脱退に繋がったことは明らかであり、そのことを軽んじるのはいかがなものかと感じたくなる。
1985年
(昭和60年)
初めて国際商学科所属の学生が委員長に就く。ちなみに初めて公共マネジメント学科所属の学生が委員長に就いたのは2014年度(平成26年度)のことである。
学園祭のパンフレットに初めて人手不足であることが記される。スタッフのなり手がなく、仮に入会してもやりがいのなさなどから続かず、学園祭も盛り上がらずに終わるという当時の窮状を感じさせる。
1986年
(昭和61年)
大学祭実行委員会事務局が学友会脱退を強行する。中島さんによると理由も脱退強行時期も全く聞いていないが、脱退を強行したのならこの頃ではないかと考えているという。体育会や中央委員会の傀儡(かいらい)でしかない現状を打破し、新機軸の学園祭を作り上げて体育会や中央委員会を見返してやりたかったことが背景にあったものと思われるが、これが悲劇と苦しみの始まりになろうとは当時誰も考えなかったのではないのだろうか。ちなみに大学祭実行委員会事務局が学友会に復帰したのは1992年(平成4年)のことである。
この年の学園祭、すなわち第25回馬関祭から学園祭のパンフレットの判型がB5判からA4判に変更される。
第25回馬関祭のパンフレットのスタッフ一覧のページにおいて当時の大学祭実行委員会事務局のスタッフ18人全員の肩書が一切記されないという奇妙な問題が起きる。スタッフ18人は全員男子学生で3年生4人・2年生13人・1年生1人。肩書を記さない代わりに当時の人気ヴァラエティ番組「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系、1981〜1989年〔昭和56年〜平成元年〕放送)の番組終了時のスタッフロールを模して「○○“××”△△(○○は姓名、××は面白おかしいことを書いたミドルネーム、△△は名前。例えば山田“ドカベン”太郎というようになる)」とスタッフの名前を表記し、学年順→50音順で並べていた。なぜこのようなことをしたのか、中島さんは当時のスタッフ18人全員に対して真相を尋ねようとしたこともあったが、最高責任者たる委員長すら何の反応も示さず、結局完全に解明するには至らなかったという。中島さんはその結果から恐らく当時の委員長は企画中心の学園祭の実現を目指して学友会脱退を強行したが最重要人物と位置付けていた企画部部長(恐らく副委員長を兼任していたものと思われる)が何らかの事情(退学ではないかと中島さんは考えている)で退会してしまい、企画部が空中分解(注40)を起こしたからではないかと考えている。中島さんは当時の委員長の気持ちは一切応じないことでよく分かったとしながらもせめて私にはこっそり真相を教えて頂きたかったし責任から逃げ続けるのはどうなのかと今でも思っているそうである。
1987年
(昭和62年)
幹部内部で何らかの問題が起き、年度末で1・2年生の大半が退会する事態に陥る。これも真相ははっきりしていない。ただ、中島さんは次に挙げる事実を挙げてその根拠としている。
・この年の学園祭、すなわち第26回馬関祭にはテーマがないこと(余談だが前年開催の第25回馬関祭にもテーマはない。やはり組織内部のゴタゴタが影を落としているのだろう)。
・後にAさんが設立した下関市立大学・大学祭実行委員会事務局のOB会に参加していない、言い換えればOBとして存在しないことにされている幹部が2人いること(そのうちの1人が こちらの注27 でも触れたのだが中島さんの母親と同郷の男子学生。またもう一人は当時2年生であり、その後一切活動していないことからOBとしては認められなかった可能性がある)。
結局1986年(昭和61年)に学友会脱退を強行してまで発足させた新体制はわずか2年で破綻したと考えるべきであろう(中島さんは大変申し訳ないことを言うことになるが1986〜1987年〔昭和61〜62年〕当時の在籍者はOB会の対象にしなくても良かったのではないかと考えたことがあるという)。ただ、そこから今日の隆盛は始まったのも事実であり、「失敗は成功の基」であることを感じさせている。
1990年
(平成2年)
大学祭実行委員会事務局が大所帯路線に舵を切る。当時は入学式の次の土曜日に開催していたクラスオリエンテーションで入会者を選び、半ば強制的に入会させるという方法をとっていた(中島さんもこの方法で入会した一人)。ただ、この方法はいろいろ問題が起きたためわずか2年で取りやめになり、 こちらの注29 で書いているような新入生歓迎企画(新入生勧誘企画でもある)をやるようになった。
大学祭実行委員会事務局とそれが運営する学園祭の新生を期して学園祭の名称を源平祭と改め、第29回源平祭として開催する。大学祭から馬関祭への改称は下関市立大学が開学10周年を迎えたことや学生運動が連合赤軍事件の影響で一層白眼視されるようになったことなど差し迫った事情があり、それで全学的同意の元改称に踏み切ったのに対し、この馬関祭から源平祭への改称は大学祭実行委員会事務局の都合によるものであり、全学的同意を得ていない点に注意する必要がある(歴史認識が薄いのでは…と思ったのだがどうだろうか)。学園祭自体は成功したが、学園祭を訪れた卒業生が大学祭実行委員会事務局の都合による学園祭の名称変更に憤慨したことや学友会を脱退していることを快く思わない学内諸団体が大学祭実行委員会事務局は自分勝手をやっていると見なしたことによりこの源平祭なる名称はこの年限りでお蔵入りになる結果となった。また、学友会再加盟問題も浮上することになった。

 なぜ下関市立大学の学園祭や大学祭実行委員会事務局は波乱の歴史をたどってきたのか。中島さんはその理由を次のように挙げている。
・下関市の財政事情が厳しくなったこと。
・下関市に住む高校生で下関市立大学に進学する方がそんなに多くはなかったこと。
・下関市立大学を第一志望とする方はほとんどいなかったこと。
・一学部一学科(1983年〔昭和58年〕以降は一学部二学科)しかないために学生数が少なかったこと。
・下関市の経済力が年々低下していったこと。
・下関商業短期大学及びその後身の下関市立大学の学園祭は一般市民に大学構内を開放することを目的の一つとして開催しているわけであるが、それが学生の思想を表現する場として利用される結果になったこと。
・私学移管反対闘争や中央委員会内部の問題に端を発すると考えられる「空白の4年間」があったこと。
・大学祭実行委員会事務局の政治的独立が長らく果たされないでいたこと。
・学生運動が衰退したこと。
・学生運動が衰退した後も下関市立大学に一般市民が近寄り難い雰囲気があったこと。
・学生運動の衰退やそれと時を同じくして出てきた三無主義(三無とは無気力・無関心・無責任を指す)または四無主義(四無とは無気力・無関心・無責任・無感動を指す)をとる若者の増加、下関市立大学と一般市民の間に生じた埋め難い溝、大学の規模の小ささなどからスタッフの人手不足が生じ、学園祭の内容充実も困難になったこと。
・いわゆるタニマチが中央委員会から体育会に移った後も中央委員会が大学祭実行委員会事務局に干渉してきた疑いがあること。
・企画が貧弱だったことや大金をはたいて打った企画が失敗したことなどから学生や一般市民の関心を低めてしまったこと。
・卓越した考えを持つスタッフがいなかったかいたとしても干されてしまったこと。
・1980年代前半の大学祭実行委員会事務局は体育会と中央委員会の確執の場になっていた感があること。
・国際商学科設置で学生が増えることが予想されたため、組織体系が確立されていないのに急いで学園祭の充実を図ろうとした感があること。
・まだ十分に環境が整っていなかったにもかかわらず、後先も考えずに学友会脱退を強行したこと。
・組織内のゴタゴタが頻発したこと。
・(致し方ない面はあるのだが)歴史や伝統に対する関心が低いこと。
・短期的視野で考えれば良いというような風潮があったこと。
・資金調達に問題があり、それが学園祭の充実の大きな障害になっていたこと。
・成功させればそれで許してもらえるというような甘えがあったこと。
・学園祭をやればそれで良いというような考えが根強かったこと。
・スタッフの育成に対して温度差が著しかったこと。
・下関市立大学の学生が市民に近寄ろうとせず、どこか上から目線で臨んでいた感が否めないこと。
 「1956年(昭和31年)から一度も欠かさず学園祭をやっているならどこかで気付けよ〜!!」とツッコミを入れたくなる方もいるかもしれないのだが、それは難しいことであった。スタッフの入れ替わりは激しいし、中央委員会の視線を気にしなければいけないし、金銭的にも人材的にも制約があったし、一般市民に大学構内を開放する場として学園祭をただ開催すれば良いという雰囲気が蔓延していたし…。そのことにやっと目覚めたのが学友会離脱を強行した1986年度(昭和61年度)の委員長ではなかったのだろうか。彼は1年生だった1984年(昭和59年)からずっと大学祭実行委員会事務局で活動していたのだが、そのひどい有様を目の当たりにしてきたからこそ自分が上に立った時は改革してやる!! という思いを抱いたのではないのだろうか。結果としてそれは失敗し、彼が樹立した体制は2年で破綻してしまったわけであるが、実はそのことが平成時代への躍進に繋がったと言えるのではないのだろうか。まさに失敗は成功の基といったところであるが、中島さんはこの委員長はいろいろあるけれどもう少し評価されても良いのではないかと思っているそうである。
 さて、なぜ下関市立大学・大学祭実行委員会事務局の平成時代の躍進は実現したのか。意欲的な学生がスタッフとして参加したことや1986〜1987年(昭和61〜62年)頃の組織内部のゴタゴタを他山の石としたこと、スタッフの大量入会策を採ったことなどもあったのだろうが、重要なのは幹部に他地域から下関市立大学に進学した方が多くいたことではないのだろうか。まあどの大学でも学生団体(学生自治組織)の幹部が地元出身者で占められるということはまずないことなのだが、実はこのことが下関市立大学の大学祭実行委員会事務局にとっては好都合になったのである。町は活気がないかもしれないけれど、いろいろ魅力的なものや場所はあるじゃないか、それを生かさないでどうするのかという思いを抱いていたのだろう。
 そしてもう一つ重要なことは一般市民に近寄る姿勢をとったことであろう。学園祭は普段立ち入ることのできない大学構内を開放する数少ない機会であるが、それまではいわゆる上から目線な態度で臨んでいた感が否めず、それが学園祭の来場者数低迷を招いていた。いくら市民開放路線をとると決めても学園祭を運営する側が歩み寄らないと話にならないわけであるが、ようやく状況が整ったのである。
 こうして下関市立大学・大学祭実行委員会事務局が展開していったことはどういうものだったのか。それをまとめたものが下表で示したものとなる。

状況事柄
学園祭当日行ったこと・ステージ企画で一般市民に門戸を開放した(注41)
・歌手コンサートにチャリティー目的を付加した。
学園祭以外の時期に行ったこと・大学の卒業式にふく鍋(注42)を振る舞う企画を行った(注43)
・下関市内で開催される主たる年中行事
(注44)に手伝いで参加した。

 また、私が面白いと感じたのは第30回馬関祭(1991年〔平成3年〕)で地元下関市出身の有名演歌歌手・山本譲二のコンサートを実現させたことと、下関市立大学の近くには大きな川も海もないのだが第30回馬関祭から花火を打ち上げる企画を行うようになったことである。もし上から目線で臨んでいたらこういうことは実現できたであろうか。Aさんを始めとした当時の幹部の熱意は今考えてもすごいと思わせるものがある(だからAさんは中国放送に入社できたのだろうが…)。そして中島さんの代が幹部になった1992年(平成4年)、下関市立大学・大学祭実行委員会事務局は史上最多(当時)の119人を擁する大組織になり、学友会復帰も果たした。下関市立大学が開学してから30年、ようやく下関市立大学・大学祭実行委員会事務局は中立な、そして盛大な学園祭を開催し得る組織になったのである。

 それから四半世紀が経った今日、下関市立大学・大学祭実行委員会事務局とそれが運営する学園祭はどうなっているのか。学園祭の開催期間は4日間から3日間に短縮され、時期も10月下旬〜11月上旬から10月第二月曜日とその直前の土曜日・日曜日に早められている。しかし、大学祭実行委員会事務局のスタッフが下関市内の年中行事に手伝いで参加することは続いているし、下関市立大学のFacebookページによると2015年(平成27年)9月上旬時点の話であるが何と160人ものスタッフを擁する組織になっていたという(注45)。下関市の人口減少は今なお止まっていないが、下関市立大学・大学祭実行委員会事務局とそれが運営する学園祭は平成時代初頭の勢いを今なお維持している。
 最後になったが、中島さんは現在下関市立大学及びその前身の下関商業短期大学の学園祭の歴史を調査し、公開することを考えているという。どれだけ先達が苦労してきたか、当時先達は何を考えていたかを多くの人々に知って頂くことが目的であるという。中島さんの都合などもありなかなか進んでいないというのだが、下関市立大学及びその前身の下関商業短期大学の学園祭に関する資料をお持ちの方は 中島さんのサイト まで連絡して頂きたいとのことである。

最後に

 よく「歴史というものは過去の積み重ねである。どこかで違ったものを重ねればまた違った歴史になる」とか「過去は現在の結果・原因。現在は将来の結果・原因」と言う。これまで書いてきた三つの事柄は全てそれが当てはまる。1991年(平成3年)頃何があったかを覚えている方は少なくとも30代以上になるのだが、文章力こそ十分とは言えないもののここで書いたことを見て「だからああなったんだな…」と思う方は少なくないはずである。
 実は本企画である年の本サイトの関連分野を振り返ったのは二度目のことである(一度目は こちら )。もし広島東洋カープが日本シリーズも勝ち抜き、32年ぶりに日本シリーズを制したら今度は1984年(昭和59年)の本サイトの関連分野を振り返る企画を打つことになるわけであるが、1989年(平成元年)、1991年(平成3年)、1984年(昭和59年)…と見てももうかなり昔のことだなと感じたくなる。1984年(昭和59年)に本サイトの関連分野に関することで何があったかな…と今思っているところであるが、果たしてどうなるのだろうか。

 さて、私は確かに こちらの追記 で「私は選手一人一人が力を発揮できれば、ケガがなければ広島東洋カープは低迷期を脱せると思っているし、それは近いとも思っている」と書いた。3年半ほど前のことであるが、まさか現実のものになろうとは全く当時は考えなかった。 こちらの追記 を書いた年、すなわち2013年(平成25年)に広島東洋カープはシーズン成績こそ負け越したものの16年ぶりのAクラス入りを果たす(注46)のだが、早くも低迷期脱出が実現したことに驚きを隠せなかったものである。
 それから3年。恐らく開幕前の予想で広島東洋カープが優勝すると挙げた人はほとんどいなかったことであろう。もし私が予想したとしても広島東洋カープはさすがに挙げなかっただろう(ただ今年の場合予想は付けられなかった。どの球団も決め手がなかったからである)が、開幕二カード目のナゴヤドーム(名古屋市東区大幸南一丁目)での中日ドラゴンズ戦で1勝2敗で負け越し、某スポーツ紙で「今年もナゴヤドームは鬼門なのか」という見出しとともに両眼から滝のような涙を流して大泣きするカープ坊や(通称:大泣き坊や)が登場した時は去年(シーズン序盤の横浜DeNAベイスターズ戦と中日ドラゴンズ戦でいずれも同一カード3連敗を喫し、それがAクラス入りを逃す一因になったこと)と同じことになるだろうなと思ったものである。しかし、シーズンが進んできて気になってきたことが一つあった。それは「毎年広島東洋カープは大連敗(5以上の連敗)を一度はするのに今季は3連敗以上していない。2連敗した後の試合は必ず勝っている」ということであった(結局優勝するまでにあった最大連敗は4〔8月3〜6日〕)。つまり、安定していたからこそ大連敗はしなかったのであり、更に上位に食い込め、優勝できたということになる。また、逆転勝ち(89勝中45勝)や同一カード3連勝(いわゆる3タテ)が多かったことも優勝の一因になったと言える。
 ならば確実に優勝すると思い始めたのはどの時点だったのか。今年8月24日に東京ドーム(東京都文京区後楽一丁目)での読売ジャイアンツ戦に7対3で勝ち、読売ジャイアンツを対象とした優勝マジック20が点灯した時であった。ただ、マジック点灯後の状況は拍子抜けしたものがあった。さすがに尻に火が付いた読売ジャイアンツも目の色を変えて抵抗し、広島東洋カープの優勝を一日でも遅らせようとしてくるだろうとか広島東洋カープの選手にとっては未体験の状況であるために苦しい思いをするだろうと思ったのだが、広島東洋カープの試合がある日は必ずマジックが減るという、考えたこともない状況が起きたからである(下表参照)。

※凡例は次の通りである。
・○…勝ち
・●…負け
・(G)…対読売ジャイアンツ戦
・(S)…対東京ヤクルトスワローズ戦
・(B)…対横浜DeNAベイスターズ戦
・(D)…対中日ドラゴンズ戦
・(T)…対阪神タイガース戦
・(C)…対広島東洋カープ戦
・—…試合なし

月日曜日勝敗マジック備考
広島東洋カープ読売ジャイアンツ
8月24日○(7−3G)●(3−7C)20
8月25日○(6−4G)●(4−6C)18
8月26日○(3−2D)●(6−11B)16
8月27日○(11−4D)●(3−7B)14
8月28日●(5−7D)●(5−6B)13
8月30日○(8−2B)○(5−2S)12
8月31日○(3−0B)●(0−4S)10
9月1日○(6−5B)
9月2日○(5−2S)●(7−8D)
9月3日●(1−3S)●(1−5D)
9月4日○(4−3S)●(3−5D)
9月6日○(4−1D)○(4−2T)
9月7日○(5−0D)○(3−2T)
9月8日○(7−4D)○(3−1T)
9月9日○(5−2S)
9月10日○(6−4G)●(4−6C)(優勝)

 上表をご覧になって広島東洋カープ・読売ジャイアンツ双方が勝った日、広島東洋カープは勝ったが読売ジャイアンツは負けた日、広島東洋カープ・読売ジャイアンツ双方が負けた日はあっても読売ジャイアンツは勝ったが広島東洋カープが負けた日、言い換えればマジックが減らない日はなかったことに気付くのではないのだろうか。確かに15試合中9試合が今季負け越した球団、言い換えれば苦手としていた球団(注47)との試合だったこともある(しかも全敗…)のだが、こんなマジックの減り方は私には記憶がない(過去にあったというのなら申し訳ないことを書いたことになるのだが…)。マジック点灯後失速し、広島東洋カープの優勝を眼前で見る羽目になった読売ジャイアンツは、シーズン成績こそ負け越したが11年ぶりにAクラス入りを果たした横浜DeNAベイスターズの勢いに押されたのかクライマックスシリーズは第一ステージで敗退してしまうわけであるが、世間を騒がせた残念な不祥事が明るみになった後のシーズンだっただけに(私は読売ジャイアンツは好きではないのだが)もう少し意地を見せてくれよとか今年求められていたことは何だったのか分かっているのかと思いたくなったものである。

 それにしても時代は変わったなと思う。 こんなこと を書いていた6年前、そこでも触れたように広島県を放送区域とする民間テレビ放送局では「カープ」という単語の入った番組はなく、スポーツ情報番組を設定しないところすらあった。その状況が変わったのはやはり16年ぶりにAクラス入りを果たし、クライマックスシリーズ第一ステージを突破した2013年(平成25年)頃からであろう(実は今年の横浜DeNAベイスターズも似た状況にあるのだが…。これでもし数年のうちにリーグ優勝すればまさに歴史は繰り返すとなるわけだがどうだろうか)。広島市民球場(愛称:Mazda Zoom-Zoom スタジアム広島。広島市南区南蟹屋二丁目)での試合のチケット入手は困難になったし、「カープ女子」とか「カピバラリレー」とか「神ってる」といった単語が生まれたし、広島県を放送区域とする民間テレビ放送局では「カープ」という単語の入った番組が見られるようになり、長らくスポーツ情報番組の制作をやめていた中国放送テレビやテレビ新広島(TSS、広島市南区出汐二丁目)が再びスポーツ情報番組を設定するようになった(注48)
 「やはり強くなければな。強くないと見向きもしないんだろうな」と私は思う。広島県を放送区域とする民間テレビ放送局はどこか視聴率にシビアな面があり(注49)、それ故1990年代末期〜2010年代初頭の低迷期には「カープ」という単語の入った番組の制作を見合わせたのだろう(注50)。「確かに広島東洋カープは広島の象徴であり、誇りである。更に親会社を持たない、市民球団である。けれどそれに安住しないで欲しい。そのことでみんなが認めていると思わないで欲しい。市民球団だから何をしても許されるとは思わないで欲しい。我々は特別視しないし甘やかさない」という厳しい態度もそこには垣間見えるのだが、今にして思えばそれで良かったのではないのだろうか。無論Aクラス入りやリーグ制覇はゴールではない。そこに安住すれば何が起きるか、もう記すまでもないであろう。
 冒頭でも記した通り、まだ広島東洋カープと日本シリーズで対戦する球団は決まっていない。残念ながら書くのはここまでとなる。けれど今後どんな展開があるのだろう。そして今後はどうなっていくのだろう。それを楽しみにしていきたいところである。

(注釈コーナー)

注1:広島東洋カープが日本シリーズで対戦したことがあるのは阪急ブレーブス(1975年〔昭和50年〕・1984年〔昭和59年〕)と近鉄バファローズ(1979年〔昭和54年〕・1980年〔昭和55年〕)、西武ライオンズ(1986年〔昭和61年〕・1991年〔平成3年〕)の3球団である。2004年(平成16年)に阪急ブレーブスの後身球団であるオリックスブルーウェーブと近鉄バファローズの後身球団である大阪近鉄バファローズが統合してオリックスバファローズが発足しているので結局現在広島東洋カープが日本シリーズで対戦したことがある球団はオリックスバファローズと西武ライオンズ改め埼玉西武ライオンズの2球団しかないということになる。

注2:有名な例は横浜DeNAベイスターズである。横浜DeNAベイスターズの前身球団である大洋ホエールズは1960年(昭和35年)にセントラルリーグを制した(日本シリーズも制している)のだが、次にリーグ優勝したのは38年後の1998年(平成10年)のことであった(当時の球団名称は横浜ベイスターズ。日本シリーズも制している)。今年横浜DeNAベイスターズは11年ぶりにAクラス入りを果たしたし、若手選手も多いので今後に期待したいところである。

注3:第6戦と第7戦の間が1日空いているのは本来第7戦は10月27日に行われる予定だったが雨天中止になり、10月28日に延期されたからである。
※1991年(平成3年)当時西武ライオンズ球場にはまだ屋根は取り付けられていなかった。屋根付き球場になったのは1999年(平成11年)からである。

注4:本名は森昌彦。読売ジャイアンツのいわゆるV9時代(1965〜1973)の正捕手であった。

注5:森祇晶は西武ライオンズを率いた9年間で二度も日本シリーズ3連覇を成し遂げている(1986〜1988年〔昭和61〜63年〕及び1990〜1992年〔平成2〜4年〕)。3連覇を目の前で見る屈辱を味わったのは第一期3連覇は広島東洋カープ・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ、第二期3連覇は読売ジャイアンツ・広島東洋カープ・ヤクルトスワローズの順となる。その後ヤクルトスワローズは1993年(平成5年)に、読売ジャイアンツは1994年(平成6年)にそれぞれ西武ライオンズを破って雪辱を果たしたのだが、中日ドラゴンズと広島東洋カープは未だに雪辱を果たしていない(中日ドラゴンズは2004年〔平成16年〕に西武ライオンズと対戦しているが3勝4敗で敗退している)。

注6:広島東洋カープを率いてリーグ優勝を成し遂げた監督はこれまでに4人いるが、1975年(昭和50年)・1979〜1980年(昭和54〜55年)・1984年(昭和59年)にリーグ優勝を成し遂げ、更に1979〜1980年(昭和54〜55年)と1984年(昭和59年)に日本シリーズ制覇を成し遂げた古葉竹識(こば・たけし)監督は熊本県出身、1986年(昭和61年)にリーグ優勝を成し遂げた阿南準郎監督は大分県出身、そして今回リーグ優勝を成し遂げた緒方孝市監督は佐賀県出身である。よって、広島東洋カープを率い、リーグ優勝を成し遂げた中国地方出身の監督は山本浩二だけになる。

注7:混同回避を目的に都道府県名を付けたインターチェンジの例としては山形自動車道宮城川崎インターチェンジ(宮城県柴田郡川崎町前川)がある。宮城川崎インターチェンジの場合「川崎」という地名は各地にあること(最も有名なのは神奈川県にある都市であろう。政令指定都市にもなっているし…)や宮城県の県庁所在地は仙台市であり、県名と県庁所在地名が合致しないことからそのようになったものと思われる。
なお、岡山県には津山市にも総社というところがあるが、津山市の中心部に近いところにはあるのだが津山市の大字の一つであるために知名度は低い(但し こちら で取り上げている、2004年〔平成16年〕9月3日に女子小学生が自宅で被害に遭った殺人事件〔未解決。情報提供を呼びかけるページは こちら だがそこにはきちんと津山市総社で起きたことが触れられている〕が起きたところとして知っている方もいるかもしれない。ちなみに昨晩放送された「金曜プレミアム」〔フジテレビ系〕ではこの事件が取り上げられていた)。

注8:それらの事情を詳細に記すと下表の通りになる。

項目概要
国道路線1953年(昭和28年)5月18日政令第96号により二級国道186号広島・浜田線が即日発足し、1965年(昭和40年)3月29日政令第58号に基づいて一級国道と二級国道を統合して一般国道が発足した後も国道186号線として存続したが1969年(昭和44年)12月4日政令第280号により1970年(昭和45年)4月1日に国道186号線は江津市と大竹市を結ぶ路線に再編されたため広島市と浜田市を結ぶ国道路線はなくなってしまった。但し経路変更の起点となった広島県山県郡安芸太田町加計ではその後国道186号線浜田方面と国道191号線広島方面が右左折を経ずに進めるように改良されている。
鉄道路線広島市と浜田市を結ぶ鉄道路線の計画は広島側はJR可部線として1969年(昭和44年)までに三段峡駅(広島県山県郡安芸太田町柴木〔しわぎ〕。1969〜2003)まで開業したが浜田側は第二次世界大戦前に着工したものの結局開業せずじまいになった。
※浜田側の鉄道が開業せずじまいになったのはJR山陰本線下府(しもこう)駅(浜田市下府町)から浜田市金城町今福まで建設された当初計画線(第二次世界大戦前に建設したもの)を再利用しなかったことが大きいと言える。もし再利用していれば残りの未開業区間は三段峡〜石見今福間だけになり、広島市と浜田市を結ぶ鉄道路線は実現していた可能性が高くなるのだが、加計駅(広島県山県郡安芸太田町加計。1954〜2003)以北で露骨な我田引鉄ぶりが見られたこと(加計駅から国道186号線・滝山川に沿って北上させれば良かったのに山県郡戸河内町〔1933〜2004〕や山県郡筒賀村〔1889〜2004〕の中心部や三段峡の入口を通るように計画されたことを指す)や浜田側の当初計画線の規格が低いこと、浜田側の当初計画線は下府川に沿って敷設されており、浜田市中心部と浜田市金城町今福を結ぶには遠回りになることなどを考えれば期待通りの結果になったかどうかは疑問符を付けざるを得ない。なお、JR可部線のうちの可部〜三段峡間は2003年(平成15年)12月1日に廃止されている(但し可部駅〔広島市安佐北区可部二丁目〕から1.6kmの区間は2017年〔平成29年〕春に復活する予定である)。
主要地方道路線1954年(昭和29年)1月20日建設省告示第16号で浜田・八重・可部線という主要地方道路線が指定され、現在も島根県道/広島県道5号浜田・八重・可部線として存続しているのだが、未改良箇所が多いことや通ると遠回りになる箇所があることから広島市と浜田市を結ぶ道路として有用な路線にはなり得ていない。

注9:反対に四国側の本州・四国連絡橋尾道・今治ルートと松山自動車道を結ぶ道路の名称は今治・小松自動車道となっており、北側を起点、南側を終点とする流れを守っている。都市規模は記すまでもなく今治市のほうが周桑郡小松町(1898〜2004。現:西条市小松町)より大きかったので異論は出なかったものと思われる。
※余談だが愛媛県では本州・四国連絡橋尾道・今治ルートを今尾ルートと呼称することがある。

注10:尾道市中心部が形成されたのは12世紀後半であるのに対して福山市中心部が形成されたのは17世紀前半であり、明らかに尾道市のほうが中心部の形成が早かった。また、市制施行も尾道市が1898年(明治31年)4月1日だったのに対して福山市は1916年(大正5年)7月1日であり、こちらも尾道市のほうが早かった。

注11:福山西インターチェンジは福山市松永地区にあることから松永インターチェンジにすれば良かったのではないかとする意見もあったのだが、それが通らなかったのは次に挙げる事柄が原因だったものと思われる。
・既に福山東インターチェンジ(福山市蔵王町五丁目)があるので福山市西部に設置されるインターチェンジの名称を福山西インターチェンジにしないと整合がとれないこと。
・福山西インターチェンジは本州・四国連絡橋尾道・今治ルートの事実上の本州側の起点になるため供用開始当時存在する地方自治体の名称を付けた名称でないと不都合が生じる恐れがあること。
・福山市は1966年(昭和41年)5月1日に福山西インターチェンジがある地域を行政区域としていた松永市(1954〜1966)と統合しているが、一体感の醸成に苦慮していること。
・管轄区域の変更により1971年(昭和46年)に松永警察署を福山西警察署(福山市神村〔かむら〕町)に改称した前例があること。
・旧松永市中心部、すなわち現在の福山市松永地区中心部は福山市西部の中心でもあり、それを強調したかったこと。

注12:この他エフエム中継局が2箇所(広島・福山)ある。

注13:中国放送ラジオは月に一度ニッポン放送(LF、東京都千代田区有楽町一丁目)制作の「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」を放送する時だけ月曜日の放送開始は午前3時に繰り上がる。

注14:1991年(平成3年)10月時点の中国放送ラジオの自社制作番組で長く続いていたものとしては平日朝の「おはようラジオ」(1973年〔昭和48年〕放送開始。現在も放送中)と平日午後の「なんでもジョッキー」(1975〜2003年〔昭和50年〜平成15年〕放送)があった。

注15:中国放送ラジオでコールサインを持っている中波中継局は広島本局(江田島市沖美町美能。JOER)と福山中波中継局だけである。かつては三次中波中継局(三次市南畑敷町)にもコールサイン(JOEW)が付与されていたが現在は廃止されている。

注16:中国放送ラジオの福山・府中・三原各中波中継局の周波数統一は二段階に分けて実施された。それは次の通りである。
・第一段階…1994年(平成6年)11月14日の放送開始から福山中波中継局の周波数を1062kHzから1530kHzに変更。
・第二段階…1995年(平成7年)2月13日の放送開始から三原中波中継局(三原市明神三丁目)の周波数を720kHzから1530kHzに変更。
中国放送ラジオは1984年(昭和59年)12月10日の放送開始から広島県北東部にある中波中継局、すなわち庄原・東城・三次各中波中継局の周波数を1458kHzに統一しているのだが、なぜ広島県南東部にある中波中継局の周波数統一は二度に分けたのかは分からない(恐らく中波ステレオ放送を導入したからではないかと思われる)。
※中国放送ラジオの広島県北東部及び広島県南東部における中波中継局の周波数統一はある方式に則ってやっている。それは地域で最後に開局した中波中継局の周波数にそれ以前に開局した中継局の周波数を統一するというものである(下表参照)。

地域名中継局名所在地開局年月日統一前に使用していた
周波数(単位:kHz)
備考
北東部三次三次市南畑敷町1960年(昭和35年)12月20日1485
庄原庄原市西本町二丁目1981年(昭和56年)7月18日720
東城庄原市東城町川西1982年(昭和57年)3月27日1458
南東部福山福山市北美台1959年(昭和34年)2月1日1062
三原三原市明神三丁目1968年(昭和43年)12月20日720
府中府中市土生町1980年(昭和55年)9月26日1530NHKラジオ第一(1026kHz)と共同で設置。府中市内にある唯一の「府中中継局」でもある(他の放送局の府中中継局は全て福山市新市町にある)。
なお、「土生」は「はぶ」と読む。

注17:各地方(北海道・東北・関東・甲信越・北陸・東海・近畿〔関西〕・中国・四国・九州・沖縄)のコミュニティ放送局第一号は下表の通りである。

※本社所在地は現在のものを記している。

地方名所属
都道府県名
第一号になった
放送局の名称
開局年月日備考
北海道北海道函館山ロープウェイ
(函館市元町)
1992年(平成4年)12月24日愛称:FMいるか。
日本初のコミュニティ放送局。
東北青森県
岩手県
宮城県
秋田県
山形県
福島県
山形コミュニティ放送
(山形市本町二丁目)
1995年(平成7年)4月1日愛称:Radio Monsterまたはラジオモンスター。
日本の都道府県庁所在地で初めて開局したコミュニティ放送局でもある。
関東茨城県
栃木県
群馬県
埼玉県
千葉県
東京都
神奈川県
逗子・葉山コミュニティ放送
(逗子市池子二丁目)
1993年(平成5年)12月3日愛称:湘南ビーチFM。
甲信越新潟県
山梨県
長野県
エフエム新津
(新潟市秋葉区新津東町二丁目)
1994年(平成6年)7月15日愛称:RADIO CHAT。
北陸富山県
石川県
福井県
エフエム・エヌ・ワン
(野々市市高橋町)
1995年(平成7年)12月27日
東海岐阜県
静岡県
愛知県
三重県
エフエム豊橋
(豊橋市小畷町)
1993年(平成5年)11月27日愛称:やしの実。
近畿(関西)滋賀県
京都府
大阪府
兵庫県
奈良県
和歌山県
エフエムもりぐち
(守口市河原町)
1993年(平成5年)7月20日愛称:FM-HANAKO。
中国鳥取県
島根県
岡山県
広島県
山口県
エフエムふくやま
(福山市西町二丁目)
1996年(平成8年)8月8日愛称:レディオBINGO。
エフエムふくやまが開局した1996年(平成8年)8月8日にはエフエム萩(愛称:FM NANAKO。萩市江向)も開局しているが本放送を開始したのはエフエムふくやまが先である。
四国徳島県
香川県
愛媛県
高知県
エフエムサン
(坂出市京町一丁目)
1994年(平成6年)3月31日
九州福岡県
佐賀県
長崎県
熊本県
大分県
宮崎県
鹿児島県
熊本シティエフエム
(熊本市中央区辛島町)
1996年(平成8年)4月1日愛称:FM791。
沖縄沖縄県沖縄市エフエムコミュニティ放送
(沖縄市中央三丁目)
1997年(平成9年)3月1日愛称:FM Champla!。
経営難により2004年(平成16年)4月1日にFMコザ(沖縄市中央三丁目)に事業を譲渡した(このため沖縄市FMコミュニティ放送は廃業したとしているものがあるが、放送を継続しながら事業譲渡を行っているため本サイトでは沖縄市エフエムコミュニティ放送はFMコザに移行して存続しているものと見なしている)。

上表から中国地方におけるコミュニティ放送局の開局は遅いほうだったことがうかがえる。

注18:「広島県大百科事典」(1982年〔昭和57年〕中国新聞社〔広島市中区土橋町〕刊)による。広島県を放送区域とする都道府県域民間エフエム放送局、すなわち広島エフエム放送は福山市西町二丁目の福山商工会議所ビル(エフエムふくやまの本社があるビルでもある)の中に福山支社を設置していたこともあるが、経営合理化により現在は廃止されている。

注19:倉敷市のほうが人口が多いのでは…と思った方もいるかもしれないのだが、倉敷市の中枢性が低いのは東隣に岡山市があることが大きい。1960年代初頭にはいわゆる県南百万都市構想(岡山平野及びその周辺にあった7市20町6村が統合して中国地方初の政令指定都市発足を目指した構想。実現寸前で空中分解を起こし、実現しなかった)により倉敷市が「岡山市」の一部になりかけたこともあった。
※いわゆる県南百万都市構想に参加した市町村と現状は下表の通りである。もし県南百万都市構想が成就した場合、発足した「岡山市」は(1972年〔昭和47年〕4月22日に総社市に編入された吉備郡昭和町〔1952〜1972〕を含んだ数値になるのだが)面積1,566.89平方キロメートル(2015年〔平成27年〕全国都道府県市区町村別面積調に基づく。但し玉野市と香川県香川郡直島町の境が一部で確定していないため参考値を記している)、人口140万2,008人(2010年〔平成22年〕10月1日実施の国勢調査に基づく)という広島市を大幅に上回る大都市になっていたことになる。

市町村名現状
岡山市現存。
倉敷市現存。但し1967年(昭和42年)2月1日に児島・玉島両市と統合した際に新生を期している。
児島市1967年(昭和42年)2月1日に倉敷・玉島両市と統合し、改めて発足した倉敷市に移行したため消滅。
西大寺市1969年(昭和44年)2月18日に岡山市に編入されたため消滅。
総社市現存。但し2005年(平成17年)3月22日に都窪郡清音・山手両村と統合した際に新生を期している。
玉島市1967年(昭和42年)2月1日に倉敷・児島両市と統合し、改めて発足した倉敷市に移行したため消滅。
玉野市現存。
赤磐郡山陽町2005年(平成17年)3月7日に赤磐郡赤坂・熊山・吉井各町と統合して赤磐市に移行したため消滅。
赤磐郡瀬戸町2007年(平成19年)1月22日に岡山市に編入されたため消滅。
浅口郡鴨方町2006年(平成18年)3月21日に浅口郡金光・寄島両町と統合して浅口市に移行したため消滅。
浅口郡金光町2006年(平成18年)3月21日に浅口郡鴨方・寄島両町と統合して浅口市に移行したため消滅。
浅口郡船穂町2005年(平成17年)8月1日に倉敷市に編入されたため消滅。
邑久郡牛窓町2004年(平成16年)11月1日に邑久郡邑久・長船両町と統合して瀬戸内市に移行したため消滅。
邑久郡邑久町2004年(平成16年)11月1日に邑久郡邑久・長船両町と統合して瀬戸内市に移行したため消滅。
吉備郡足守町1971年(昭和46年)5月1日に岡山市に編入されたため消滅。
吉備郡高松町1971年(昭和46年)1月8日に岡山市に編入されたため消滅。
吉備郡真備町2005年(平成17年)8月1日に倉敷市に編入されたため消滅。
児島郡東児町1974年(昭和49年)3月20日に玉野市に編入されたため消滅。
児島郡灘崎町2005年(平成17年)3月22日に岡山市に編入されたため消滅。
児島郡興除村1971年(昭和46年)5月1日に岡山市に編入されたため消滅。
児島郡藤田村1975年(昭和50年)5月1日に岡山市に編入されたため消滅。
上道郡上道町1971年(昭和46年)5月1日に岡山市に編入されたため消滅。
都窪郡吉備町1971年(昭和46年)3月8日に岡山市に編入されたため消滅。
都窪郡妹尾町1971年(昭和46年)3月8日に岡山市に編入されたため消滅。
都窪郡茶屋町1972年(昭和47年)5月1日に倉敷市に編入されたため消滅。
都窪郡早島町現存。県南百万都市構想の空中分解後市町村合併を一切経験していない唯一の市町村である。
都窪郡清音村2005年(平成17年)3月22日に総社市及び都窪郡山手村と統合して改めて発足した総社市に移行したため消滅。
都窪郡庄村1971年(昭和46年)3月8日に倉敷市に編入されたため消滅。
都窪郡福田村1971年(昭和46年)3月8日に岡山市に編入されたため消滅。
都窪郡山手村2005年(平成17年)3月22日に総社市及び都窪郡清音村と統合して改めて発足した総社市に移行したため消滅。
御津郡一宮町1971年(昭和46年)1月8日に岡山市に編入されたため消滅。
御津郡津高町1971年(昭和46年)1月8日に岡山市に編入されたため消滅。
御津郡御津町2005年(平成17年)3月22日に岡山市に編入されたため消滅。

注20:その姿勢は次に挙げる点に表れている。
・本局を福山市中心部の南西に聳える彦山(標高:429.7m)の山頂に置いたこと。彦山の山頂に本局を置いた場合、芦田川河口付近や鞆の浦でエフエムふくやまが受信しにくくなるという不利益は生じるのだが、福山市だけでなく周辺にある浅口市・井原市・笠岡市・浅口郡里庄町・尾道市・府中市・神石郡神石高原町でエフエムふくやまが受信可能になるという利点がある。よって、福山市だけでなく周辺地域を念頭に置いた放送が可能になる。
・愛称に福山市が属していた令制国の名称(備後〔びんご〕)を入れていること。備後国は現在の広島県東部を占めていた令制国であり、福山市だけを対象とした放送局ではないことを宣言したものと言える。もっとも、同じ備後国だった地域でもいわゆる備北地方となる庄原市や三次市は福山市との繋がりは強いとは言えないし、エフエムふくやまとしても考慮してはいないと思うのだが…。

注21:現在は尾道市中心部の対岸にある向島の最高峰・高見山(標高:283.3m)に移転している。これにより福山市中心部や世羅郡世羅町でも尾道エフエム放送は十分受信できるようになった。

注22:和歌山放送には和歌山地区(和歌山本局・高野山中波中継局・橋本中波中継局・和歌山エフエム中継局)・田辺地区(田辺中波中継局・すさみ中波中継局・御坊中波中継局・御坊エフエム中継局・田辺エフエム中継局)・新宮地区(新宮中波中継局・串本中波中継局)で別々の自社制作のワイド番組を放送する時間帯(月曜日〜金曜日の午後1時〜午後3時)がある。また、長崎放送ラジオは佐賀県内の中継局(佐賀・有田・伊万里・唐津各中波中継局)で独自の番組を多数放送している(つまり長崎放送ラジオは佐賀県内の中継局と長崎県内の中継局では流す番組が異なる時間帯が多数あるということである)。

注23:既に廃業に追い込まれた放送局も出ている他、自社制作番組が少なく、空き時間をJ-WAVE(東京都港区六本木六丁目)やミュージックバード(東京都千代田区麹町一丁目)の再送信で埋めているところも少なくない。

注24:中国地方の人口10万人以上の都市(2010年〔平成22年〕10月1日実施の国勢調査に基づく)で未だにコミュニティ放送局がないところは次の通りである。
・鳥取県…なし(鳥取市・米子市とも既に存在する)
・島根県…松江市
・岡山県…なし(岡山市・倉敷市・津山市とも既に存在する)
・広島県…呉市・三原市(三原市については開局への動きはある)
・山口県…山口市・岩国市
なお、中国地方では2012年(平成24年)2月3日にFM山陽小野田(愛称:FMサンサンきらら。山陽小野田市小野田)が開局したのを最後に5年近くコミュニティ放送局の開局はない。

注25:かにかも放送(愛称:FMでんでん。可児市広見七丁目。2004〜2010)を指す。2010年(平成22年)7月15日にかにかも放送の放送区域では集中豪雨により甚大な被害を出したのだが、2010年(平成22年)1月1日から一切の番組制作を取りやめ、音楽を流すだけになっていたかにかも放送は何もしなかったばかりかこの日をもって突然無音状態になったという(本サイトからリンクを貼っている「 TOPPY.NET-INSIDE NAGOYA- 」の一コーナー「 TOPPYのくびったけブログ 」の2010年〔平成22年〕8月22日の記事「 電波も停まったFMでんでん—かにかも放送 」による)。結局かにかも放送は放送免許を更新しなかったため2010年(平成22年)10月31日をもって廃業したのだが、未だにその公式サイト(それは こちら )は残ったままになっている。

注26:中島さんは今でもAさんに対してあまり良い感情を抱いていない下関市立大学・大学祭実行委員会事務局の関係者がいたのではないかと考えているという。そのように思う事実は次の通りである。
・Aさんの同級生で一人だけAさん達の代の卒業式(1993年〔平成5年〕3月25日)を最後に全く姿を見せていない方(以降はBさんと記すものとする)がいること。Bさんは中島さんが1年次に属した部署の部長で、卒業後数年間は大学の近くに住んでいたにもかかわらず全く学園祭の期間中に姿を見せなかったのだという。中島さんは「Bさんは卒業後下関市内の住宅販売会社に就職したと聞いている。実は自分の姪(中島さんの姉の次女。5年ほど前に大学時代の同級生と結婚し、現在は二児の母親になっている。 こちらの注釈5 では『一児の母親になっている』と書いているが、今年4月下旬に第二子が生まれたのだという)の夫も住宅販売会社に勤めていて、日曜日や祝日に休めないのは分かっているのだが、都合を付ければ短時間でも顔を見せることはできたはず。それなのになぜ一切姿を見せなかったのか。何かあったのではないかと考えざるを得ない」と話している。
・1995年(平成7年)秋頃、一部の関係者からAさんが仕事の進め方を巡って上司と対立し、中国放送を退職したというような噂を聞いたこと。そういう噂をしていたのは2級上の男性(以降はCさんと記すものとする)と同級の女性(以降はDさんと記すものとする。中島さんとは3年次に同じ部署になっている)だったというのだが、二人とも当時中国放送を日常的に視聴または聴取することのない場所に住んでいたことやAさんが1994年(平成6年)夏に本社から福山支社に異動した際に福山市内に移住したはずなのに福山市のどこに住んでいるのかOB会に報告していなかったこと、仕事への専念を理由(口実?)にAさんが1994年(平成6年)を最後にOB会に姿を見せなくなったことなどを考えればそういう噂は立っても致し方はない。だが、私としておかしく感じたのはそんなにAさんの消息が気になるのならなぜCさんやDさんは中国放送の番組を日常的に視聴または聴取している中島さんにAさんの消息を尋ねようとしなかったのかということと、なぜ仕事の進め方を巡る上司との対立というあまりにもくだらない理由で退職したというような最悪の事態を考えたのかということ、そしてなぜ中国放送で頑張っているからOB会への参加は取りやめたと前向きに考えなかったのかということである。中島さんは「実はCさん・DさんともAさんと同じ大学祭実行委員会事務局の三役経験者(委員長・副委員長・事務局局長〔〜1991〕→総務部部長〔1992〜〕の経験者。AさんによってOB会の会務を担わされることになった方々でもある)でAさんとCさんは同じ時期(1990年度〔平成2年度〕)に幹部の一員だったこともある。だから私よりもAさんの人となりを知っていた可能性がある。そこで私は感じたのだが、これは単なる噂と一蹴すべきものではなく、Aさんはいずれ何かをしでかしてしまうのではないかと思うから気を付けろという警告だったのではないか。当時は真剣に受け取らず、むしろ『Aさんのことを全く認めていないのか』とか『あれだけ頑張った人がそんなくだらない理由で退職するなんてあり得ない。なぜそう思ったのか』などと思ったものだったが、Aさんが不祥事を起こして警察に逮捕され、中国放送を追い出されてからはそのように感じるようになった。まあそういう噂を聞かなかったとしてもAさんに関しておかしなところはまだあったのだが…」と話している。
いずれの件も真相は分からないのだが、もしそれらの件がAさんへの反発の表れだったとしたらどうだったのだろうか。ただ残念なことはそれらの行動がAさんには全く響かなかったことと、Aさんが秘密裡に設立を強行したOB会についてその在り方など全く論議せず、続くだけ続けて自然消滅という形で終わらせたことではないのだろうか。「確かにAさんを諫められる人が誰もいなかったのは事実。むしろ自分と同じく功労者として見ており、Aさんに楯突くことは許されない雰囲気があったのかもしれない。しかし、今考えれば明らかに間違っていることが多くあった。その間違いを正しいと思い続けた私達は何だったのだろうか。そしてなぜそれをおかしいと指摘せず、何の行動も起こさず、流されることしか選択しなかったのだろうか。何だかんだ言われても疎まれても嫌われても良いから勇気を持って状況を変える人が出てきていたらAさんの不祥事もOB会のあえない自然消滅もなく、学生時代のかけがえのない思い出は台無しにされることはなかったのだが…。本当に残念だし自分を含めてそれができなかったことが本当に悔しい」と中島さんは話している。

注27:中国放送福山支社の合理化の一環として行われたことは地域別放送の打ち切り以外に次に挙げることもあった。
・中波ステレオ放送の取りやめ。福山・府中・三原各中波中継局では周波数の変更時から中波ステレオ放送を実施していたが2001年(平成13年)10月15日をもって取りやめた。なお、その後も広島本局(江田島市沖美町美能)の中波ステレオ放送は継続されたがこれも2011年(平成23年)3月14日に終了している。
・福山支社の福山市延広町から福山市北美台への移転。中国放送福山支社は長らく福山市延広町の駅前大通りに面したビル(現存せず)の中に設置されていたが2001年(平成13年)11月に中国放送ラジオ福山中波中継局がある場所に移転した。ちなみに中国放送福山支社は広島エフエム放送を除く広島県を放送区域とする放送局では唯一独自の社屋を持つ福山支社または福山支局になっている(最近NHK広島放送局の福山支局〔福山市東桜町〕と広島テレビ放送〔HTV、広島市中区中町〕の福山支社〔福山市東桜町〕が施設の老朽化により独自の社屋を放棄し、福山市中心部のビルの中に移転したため。一方で広島ホームテレビ〔HOME、広島市中区白島北町〕の福山支社〔福山市霞町一丁目〕とテレビ新広島の福山支社〔福山市西町二丁目〕は設置当初から福山市中心部のビルの中に設置されている)。
なお、現在も中国放送福山支社では日曜日朝に放送される、全中継局向けの30分番組を制作している他、平日午後の自社制作のワイド番組「バリシャキNOW」では福山支社から広島県南東部の話題を紹介するコーナー(毎週火曜日放送)が設定されており、完全に番組制作などをやめたわけではないことを付記しておく。

注28:中島さんはAさんの不祥事の遠因は自身の言行により下関市立大学・大学祭実行委員会事務局の関係者や中国放送の職員から疎まれたことにあったと考えており、それで「身から出た錆」と表現している。原因になった言行は下表の通りである。

関係先原因になった言行
下関市立大学・
大学祭実行委員会事務局
・OB会の設立を企図したまでは良いが、関係者に一切情報を公開せず、更に意見を聴く場や議論する場を設けず、結果秘密裡に設立を強行したという印象を関係者に残したこと。
・中島さんのOB会の会務に携わりたいという声を就職活動が控えていることを理由に一蹴したのに就職活動が控えている点では中島さんと何ら変わりのない4年生の三役経験者に会務を押し付けたこと。
・OB会の設立を企図したまでは良いが、OB会の方針を考えることやOB会を運営することは一切せず、OB会の方針を決めることは学園祭の時期に開催する総会に参加した方々に、OB会を運営することは4年生の三役経験者にそれぞれ任せたこと。
・(関心のある方だけを相手にしたほうが会務をやりやすいのではないかという考えがあったことは理解するのだが)会費と寄付金を所定の口座に振り込んだ関係者だけ一年間を期限とする会員にする制度を導入したり入退会の自由を導入したりするなど関心至上主義をとったこと。
・大切にすべきである先輩方に対して上から目線な態度で臨んだ疑いがあること。
・自分に非難の火の粉が降りかかることを避けたかったのか、一度もOB会をどのようにしたいのか、具体的な意見を総会などで発言したことがないこと。
・自分に非難の火の粉が降りかかることを避けたかったのか、会務を担当させた4年生の三役経験者を一切支えなかったこと。
・自分に非難の火の粉が降りかかることを避けたかったのか、会務を担当させた4年生の三役経験者に対して感謝の言葉もねぎらいの言葉も申し訳ないことをさせたことに対するお詫びの言葉もかけなかったこと。
・仕事への専念を理由に1995年(平成7年)以降OB会への参加を取りやめたが、それは担当者内部の問題によりOB会がうまく機能しなくなることを計算した上での行動だった疑いがあること(中島さんは1995年〔平成7年〕に4年生になる世代、すなわち1992年度〔平成4年度〕入学者の価値観が自分達の世代とは大きく違っているように感じていたと話しているのだが、Aさんも同じ見解だったのだろう。それを悪用するとはどういうことなのか…)。
・OB会は様々な問題が噴出した末に1998年(平成10年)に当時の担当者が就職活動での苦戦により会務を執れなくなり、自然消滅したが、そのことに対して一度も謝罪していないこと。
・上記のような自分勝手をし、なおかつ一切謝罪も反省もしなかったのにそのことに憤慨していた中島さんに対して同窓会への誘いをかけたこと。
・後輩を育てるのが下手という印象があったこと(部署の部長を務めていた2年間で抱えた1年生部員は14人〔男女7人ずつ〕いるが幹部になったのはわずか3人〔男2人・女1人〕。しかも誰一人三役にも部長にもなっていない。自身の業務で多忙であり、付いてこない者など関知しないという態度をとっていたことが一因ではあるのだが…)。
・Aさんが大学祭実行委員会事務局に入会したのは1年次末のことらしい(但し当時の学園祭のパンフレットには載っていない)が、そういう状況で三役の一員になっていることから1年次から活動していたのに三役になれなかったBさんの妬みを買った可能性があること(Aさんなど1989年度〔平成元年度〕入学の幹部は5人〔男4人・女1人〕いたが、三役になれなかったのはBさんだけ)。
中国放送・アナウンサーになりたいという願望を持っていたこと(中島さんがAさんから聞いた話による。採用の抑制や異動などで相当減員したとはいえ中国放送は現在でもアナウンサーの人数が多いのでまず無理な話ではあるのだが…。まあ広島エフエム放送だったらその可能性はあったかもしれない)。
・1995年(平成7年)以降の「活躍」ぶりが必ずしも高評価を得られたとは言い難いこと。
・ラジオ番組のディレクターだったにもかかわらず目立ちたがりという印象を中国放送の視聴者または聴取者に与えたこと。
・生活が不規則だったこともあってか学生時代より太った印象があった頃に報道記者になったこと。
・中国放送では1990年代後半に働き盛りの男性アナウンサーが急逝したり、Aさんと同世代の男性アナウンサーが大病を患ったりするなどしたため職員の健康問題が社内で問題化していた可能性があること(無論健康診断は毎年行っていたのだろうが…)。
・ラジオ番組のディレクターになったのならそれでずっと頑張ろうという考えを持てば良かったのにそれがなかったこと(Aさんと同期入社で、現在も活躍している某女性アナウンサー〔名前はあえて出さないでおく〕と比べればそれは明らかである)。

中島さんは「Aさんは確かに下関市立大学・大学祭実行委員会事務局及びそれが運営する学園祭における最大の功労者ではあった。しかし、それで有頂天になってしまい、その後のことを全く考えなかったのがいけなかったのではないか。更にAさんは大柄な体格で頑固な性格だったことも災いした。Aさんは誰の忠告も聞くような感じがなく、それで自分がやったことがみんなに支持されていると勘違いしていたことも否めない」と話している。そして「もしAさんが大学祭実行委員会事務局のOB会を作ろうという妙な考えを起こしていなければAさんが警察に逮捕され、中国放送から追い出されることになった不祥事は起きずに済んでいたし、現在はラジオ放送になくてはならない存在になっていたはずだ」と断言しているのである。
中島さんは「Aさんには勝者の驕(おご)りがあったのではないかと考えている。 私のサイトのこのページ でも触れているのだが、本当に独り善がりな考えが露骨に表れた代物でしかなかった。しかし、自分も含めて関係者は誰も何もしなかった。Aさんを不機嫌にも有頂天にもさせたくなかったからだと思うのだが、果たしてそれで良かったのだろうか。Bさんが理由は定かではないが卒業をもって下関市立大学・大学祭実行委員会事務局との関係を絶ったのは賢明な選択だったと私は思うのだが、私もBさんと同じ選択をとるか(相手にはされなかっただろうが)何らかの警告を発して去っていくかすべきだったと今思っているところである。いずれにせよ自分を含めて気の弱い方が多かったことが残念だ」と当時を振り返っている。一時期進めていたOB会の再興をについて再考することを決断したのも最近になってようやくAさんの勝者の驕りの具現形であり、その設立に賛成だった方はほとんどいなかったことに気付いたからだというのだが、中島さんのこの思いをAさんは今どのように受け止めるのだろうか。

注29:「Wink」は現在は福山市を中心とした地域で発行されている備後版と広島市を中心とした地域で発行されている広島版の二誌体制になっている。かつては山陰版や岡山版もあったのだが、岡山版は既に廃刊になっている(山陰版の現状は不明。 「Wink」公式サイト には一切記述がない)。

注30:中国地方随一の電波銀座は実は下関市周辺ではなく福山市周辺である。というのも、岡山・広島・香川・愛媛各県のテレビ放送(各県のNHKテレビ放送を合わせると視聴可能なテレビ局の数は何と21局になる)が視聴できる地域があるからである(下関市はどうあがいても山口・福岡・大分各県だけであり、各県のNHKテレビ放送を合わせても17局にとどまる)。しかし、福山市民が岡山・香川・愛媛各県のテレビ放送を見ることはほとんどない(もしそういうことをしている人がいたらその方は確実にマニア視される)。

注31:北九州市内の九州自動車道は小倉南インターチェンジ(北九州市小倉南区山本)〜八幡インターチェンジ(北九州市八幡西区野面〔のぶ〕)間に長大トンネルがいくつもあることから工事が難航し、全線開通が昭和時代末期までずれ込んだ。その代替を果たしたのが北九州道路及び北九州・直方(のおがた)道路、すなわち現在の北九州高速4号線である(1991年〔平成3年〕3月31日に日本道路公団から福岡北九州高速道路公社に譲渡された際に改称)。

注32:TVQ九州放送の開局当時の社名はTXN九州だった(2001年〔平成13年〕1月1日に現在の社名に改称)。
※テレビ九州にならなかったのはその社名を使っていたところ(佐賀県内のケーブルテレビ業者)があったからである。しかし、それならテレビ福岡でも良かったのではないかと思うのは私だけだろうか。

注33:実は「Wink」も福山市内にある印刷会社・アスコン(福山市港町一丁目)が発行しているタウン情報誌である。

注34:本文では触れなかったが、岡山市や福岡市でもタウン情報誌の休刊や廃刊は起きている。

注35:中国地方には下関市立大学以外に市立四年制大学が五つ(新見公立大学〔新見市西方〕・広島市立大学〔広島市安佐南区大塚東三丁目〕・尾道市立大学・福山市立大学・山陽小野田市立山口東京理科大学〔山陽小野田市大学通一丁目〕)あるが、いずれも市立四年制大学として開学したのは1991年(平成3年)以降である(広島市立大学…1994年〔平成6年〕、尾道市立大学…2001年〔平成13年〕、新見公立大学…2010年〔平成22年〕、福山市立大学…2011年〔平成23年〕、山陽小野田市立山口東京理科大学…2016年〔平成28年〕)。

注36:中島さんによると現在下関市立大学構内への部外者(卒業生を含む)の立ち入りは厳しく制限されているという(下関市立大学の西方を通る山口県道248号下関港・安岡線からも見える正門にいつも門番がいて目を光らせている)。部外者が構内に侵入して問題を起こされては困るというのが大学側の言い分なのだろうが、福山市内の大学では学生食堂や図書館を一般市民に開放しているところがあるし、更に福山市立大学には敷地の境に柵などがなく、一般市民は自由に大学構内に入ることができることを考えるとこれはどうなのかなと考えたくなる。

注37:下関商業短期大学を下関市立大学夜間短期大学部というような名称で残すことは考えられても良かったのだろうが、それをしなかったのは次に挙げる事情があったからではないかと思われる。
・下関市立大学は下関商業短期大学の発展的解消形であり、下関市立大学の開学をもってその役目は終えることにしていたから。
・下関商業短期大学は勤労青年のための夜学ということもあり、途中で仕事と学業の両立ができないということで挫折する学生が少なくなく、このまま存続させるのはどうかという意見があったから。
・下関市の財政力では大学町キャンパス(下関市立大学)と貴船町キャンパス(下関商業短期大学)の二つを維持し続けることは難しかったから。
・下関商業短期大学を下関市立大学に移転させることも考えられないわけではなかったが、もしそうすると通学距離が延びる学生が多く出ることになり、かえって不利益になるから。
・下関商業短期大学は下関市中心部に近く、更に交通の便も良かったのに下関市立大学は下関市中心部からいくらか離れており、交通の便も良くなかったため下関商業短期大学改め下関市立大学夜間短期大学部の学生に多大な負担をかける結果になるから。
なお、前身の短期大学とは別の場所に四年制大学を開学させた福山市の場合、前身の短期大学は現在も福山市立大学のキャンパスとして使用している(福山市中心部から離れたところにあることも使用し続けられる一因と言える)。

注38:下関市が財政難を理由にまだ一人も卒業生を出していない下関市立大学を手放そうとしたことに対して学生が反対した運動を指す。結局下関市は下関市立大学を手放すことを取り下げたのだが、下関市立大学の充実が進まなかったのは記すまでもない。

注39:1980年代前半の下関市立大学・大学祭実行委員会事務局のスタッフの一覧を見ると「中央委員会」とか「中央委員会企画」という役職があるのが見えるし、更に「書記」という、中央委員会に関係することを想起させる役職もあった(「書記」といえば共産主義国の最高指導者の肩書でよく使われていたから)。第19回馬関祭におけるダウンタウンファイティングブギウギバンドコンサートの失敗を契機に大学祭実行委員会事務局のいわゆるタニマチは中央委員会から体育会に移ったのだが、中央委員会も何らかの形で関与していたことはこのことでも明らかである。

注40:最高責任者たる部長がいなくなったことで部署をまとめる人がいなくなり、部下となる部員が年度末までに全員退会したことを指す。

注41:第30回馬関祭のステージ企画では当時高校生で、現在テレビなどで活躍しているロンドンブーツ1号2号の田村淳が出演している(当時の相方の男性は現在は別の道を歩んでおり、昨年だったと思うがある民間テレビ局の番組で取り上げられていた)。

注42:山口県ではふぐのことを縁起を担いでふくと読んでいる。

注43:残念ながら現在は卒業式にふく鍋を振る舞う企画は行われていない。中島さん曰く「最初の年(1991年〔平成3年〕)とその次の年(1992年〔平成4年〕)は多くのスタッフが顔を出していた。しかし、1993年(平成5年)以降は集まりが悪くなってしまった。アルバイトがあるとか都合が付かないとかいう理由はあったのだろうが先輩方の晴れの門出の場でもあるのだから都合を付けて出てきて欲しかったなという思いはある。無論自分が卒業した時も同じ状況だった。大学卒業から20年以上経つがあれはないのではないかと今も思っているところである」とのことであるが、行わなくなった理由がスタッフの集まりが悪くなったことにあるのかどうかは定かではない。

注44:中島さんによると次の行事に手伝いに出たという。
・維新・海峡ウォーク(4月上旬の日曜日)
・しものせき海峡まつり(5月3〜4日)
・馬関まつり(8月下旬の土曜日・日曜日)
・下関さかな祭(11月23日)
なお、現在下関市立大学・大学祭実行委員会事務局では上記行事に加えて中島さんが知らなかったような年中行事にも手伝いで参加しているという。

注45:中島さんは幹部だった当時を振り返り、あんなに多くのスタッフを抱えることはどうなのかなと思っていたという。特に今でもどうなのかなと思っているのは部署間格差があまりにも著しかったことであるという。「まだ組織の基礎が固まっていなかった時期のこととはいえ後輩達には辛い思いをさせてしまった。入学後すぐに部署を決め、当てはめたことで運命が決まってしまったことや入学してから1ヶ月も経たないうちに迎える下関市の主たる年中行事の一つである馬関まつりで(部署名は伏せるが)ある部署とその他の部署に大きな差がついてしまったことは否めない事実だろう」と述懐しているのだが、記すまでもなく中島さんの次の代以降の幹部は格差是正に腐心することになった。最近では馬関まつりが終わった後の5月後半に入会希望者に対して配属先の希望を聞くなどの面接を行い、6月に配属先を決めるようにしているという(それだったら学園祭まで4ヶ月ほどしかないので窮屈になると思うのだが、中島さんの代のやり方だったら半年間の長丁場になるので意欲維持の面〔 こちらの注29 でも記しているように途中で脱落し、学園祭のパンフレットに名前や写真が載らないで終わる学生もいくらかいたという〕からすれば今のやり方が最善なのだろう)。これもまた過去は現在の原因・結果の一例と言えることである。

注46:2013年度(平成25年度)の最終順位は下表の通りである。

順位球団名勝利数敗戦数引分数勝率備考
読売ジャイアンツ845370.613
阪神タイガース736740.521
広島東洋カープ697230.489
中日ドラゴンズ647730.454
横浜DeNAベイスターズ647910.448
東京ヤクルトスワローズ578340.407

注47:今年度の読売ジャイアンツのセントラルリーグに属する球団との対戦成績は広島東洋カープ戦が12勝13敗、横浜DeNAベイスターズ戦が10勝14敗1引き分け、阪神タイガース戦が15勝9敗1引き分け、東京ヤクルトスワローズ戦が14勝11敗、中日ドラゴンズ戦が11勝13敗1引き分けとなっている。ちなみに負け越した球団には全て同一カード3連敗(いわゆる3タテ)を喫している。

注48:中国放送テレビの場合は経済情報番組との合同番組になっている。また、広島東洋カープ戦中継重視策により長年土曜日の夕方に放送されていた人気アニメ「ポケットモンスター」シリーズ(テレビ東京系)を2015年(平成27年)3月末で打ち切っている(その後は広島ホームテレビが継承して土曜日の朝に放送している)。

注49:そのように感じる理由を挙げると次の通りになる。
・一クール(3ヶ月間。放送回数に直すと13回)未満での打ち切りが見られること。中国放送テレビにおける「王様のブランチ」(TBS系)のうちの午後の部やテレビ神奈川(TVK、横浜市中区二丁目)制作のヴァラエティ番組「saku saku」、広島ホームテレビにおける「乃木坂って、どこ?」(テレビ東京系、2011〜2015年〔平成23〜27年〕放送)が主たる事例である。
・放送日時を変更して継続しても良いように思える番組が打ち切りの憂き目に遭う例が多いこと。「放送日時を変更して継続すれば良いのに…」と思うこともあるのだが、放送局側にしてみれば放送日時を変えても無駄という考えがあるのだろうか(確かに放送日時を変えた番組の多くは打ち切りの憂き目に遭っているのだが…。その一方で「所さんの目がテン!」〔日本テレビ系〕は27年間で何十回も放送日時が変わったのに一度も打ち切られていない。一体何が違うのか)。
・周辺各県では放送されている番組が広島県を放送区域とする民間テレビ放送局では打ち切りまたは放送未了の憂き目に遭う例が多いこと。「そんなに広島県ではウケが悪いのだろうか」と感じたくなるのだが、本当のところはどうなのだろうか。
・今秋からフジテレビ系列では「新報道2001」の放送時間を30分短縮して日曜日午前8時30分からアニメ「モンスターハンター ストーリーズ RIDE ON」を放送しているが、テレビ新広島は一切見向きもしていないこと。広島県は七大都市(札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・福岡)を擁する都道府県で唯一「モンスターハンター ストーリーズ RIDE ON」が放送されない地域になってしまったのだが、裏番組に「サンデーモーニング」(TBS系)やアニメ「プリキュア」シリーズ(テレビ朝日系)といった強力な番組があることや近年フジテレビ系列の番組の視聴率不振が深刻化していることを考えればそんなものなど放送してもどうにもならないというのがテレビ新広島の見解なのだろう(視聴者から岡山放送〔OHK、岡山市北区学南町三丁目〕でも放送しているのだからテレビ新広島でも放送しろという声は出るとは思うのだが…。高い視聴率を記録できるかどうかや時差ネットが認められるかどうかがテレビ新広島でも放送されるようになるかどうかのカギになるだろう)。 こちら で私はテレビ新広島は孤高を貫く放送局だと書いているが、この件でも見事立証されたと言えよう(ちなみにテレビ新広島ではその時間帯は人気アニメ「ワンピース」〔フジテレビ系〕を放送している)。
・番組に対して長期的視野で臨む姿勢が見られないこと。例えば中国放送テレビが広島テレビ放送の「柏村(かしむら)武昭のテレビ宣言」(1993〜2001年〔平成5〜13年〕放送)に対抗すべく設定した「なんでもワイド」(1994〜1996年〔平成6〜8年〕放送)は一度も「柏村武昭のテレビ宣言」に視聴率で勝つこともなく、あっさり白旗を上げてしまった。もし「視聴率が悪くても良いから視聴者に支持されるような番組を作ろう」というような気概を持っていたらどうだったのか。更に住み分けを考えていたらどうだったのか。それもせずに強力な番組に対抗しようとするのは防具を付けず、武器を持たずに敵に向かっていくのと同じだ。
・本来なら深夜帯などに流すべき低俗な番組を昼間に流すことがあること。 こちら で記した広島ホームテレビにおける「スキヤキ!! ロンドンブーツ大作戦」(テレビ東京系、1998〜2001年〔平成10〜13年〕放送)はその代表的な例であるが、視聴者から放送日時を変えろという要望があっても平然と放送し続ける姿勢には呆れ果てた。
・新たな自社制作番組を始めるに当たって凋落傾向にあるか視聴率が芳しくない自社制作番組を打ち切る傾向があること。かつて広島ホームテレビが生活情報番組「西田篤史のテレビランド」(1996〜2000年〔平成8〜12年〕放送)を設定するに当たって平日朝の情報番組「HOMEフレッシュモーニング」(1987〜1995年〔昭和62年〜平成7年〕放送)と週末の若年者向け深夜番組「たわわのTARZAN」(1991〜1995年〔平成3〜7年〕放送)を打ち切ったが、どちらも支持は得ていたけれど番組としては…という状況下での打ち切りであった。広島ホームテレビとしては視聴率が落ちてきたこれらの番組をやめて新たな番組に賭けようとしたのだろう。
広島県を放送区域とする民間テレビ放送局はどこも広島県の複雑な地形を念頭に置いて放送を展開せざるを得ない状況がある。テレビ放送がアナログだった時代、広島県を放送区域とする民間テレビ放送局ではどこも放送開始時・放送終了時に各中継局のチャンネル紹介を入れていなかった(開局間もない頃のテレビ新広島ではやっていた覚えはあるが…)のだが、これは地形が複雑なために中継局を多数作らざるを得なかったことが一因ではないかと考えている(ラジオ局でも広島エフエム放送が都道府県域民間エフエム放送局で最も多くの中継局〔13局〕を擁していることがそのことを示している。もっとも、広島エフエム放送は放送開始時・放送終了時にはきちんと全中継局の周波数を紹介している)。それ故利益にならない番組に対しては厳しい態度で臨まざるを得なくなったのではないのだろうか。
しかし、視聴者から「視聴者を蔑ろにしている」とか「きちんと説明して欲しい」というような声が上がっているのも事実である。視聴者の声を全て聞き、実践することは当然のことながら不可能であるが、どのように視聴者と向き合っていくかが今後求められていくのではないのだろうか。

注50:その一方でずっと「カープ」という単語の入った番組を作り続けてきたのが広島エフエム放送である。広島エフエム放送は広島東洋カープが筆頭株主だからカープ絡みの番組を全く放送しないわけにはいかなかったのだろう。

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